体調回復したと思ったのに?=酒飲んでも美味くない!−12月5日 [「沖縄狂想曲」]
思い出の病院食。−12月5日 [闘病日記]
思い出の病院食。
塩分少なめ、栄養バランス考慮。
なんだけど、味気ない。
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神様がくれた時間ー考えることの大切さ? 12月5日 [「沖縄狂想曲」]
体調不良で自粛?−12月5日 [闘病日記]
映画監督を目指してから44年。残る人生は後20年ほど? 12月5日 [「沖縄狂想曲」]
映画学校時代。1980年。多くの同級生が「映画監督」を目指した。が、ほとんどが消えて行った。まあ、僕は一番に学校から消えたけど。その後は自主映画を続けた。
そこでは数人がプロの監督になった。が、また多くの仲間が挫折。夢を諦めた。アメリカから帰国。14年かかって監督デビュー。でも、同じ時期にデビューした仲間も、今は別の仕事をしていることが多い。
実力があっても、金が集まらないと映画は撮れない。実力がなくても、会社に気に入られれば監督業はできる。でも、自分が撮りたい企画は撮らせてもらえない。そう考えると僕は、ラッキーなのかもしれない。
デビューから8本の作品。全て自身がやりたい企画。ドラマは全て僕のオリジナル脚本。映画界は原作ものでないと、難しいのに全部オリジナルだ。低予算ではあるが、自身で企画。監督する。もちろん、毎回、必死。完成すると過労でダウン。
僕の環境を羨む後輩もいる。が、今回はとうとう体が壊れて、再起不能になりかけた。これは羨ましくないだろう?毎回、命を削るような戦い。「いつ死んでもいい」と思っていた。が、本当に死にかけた。死ぬならいいが、再起不能は辛い。
そんな作品を支えてくれるのが、素晴らしいスタッフの皆さん。撮影部、照明部、美術部、衣裳部、製作部、そして演出部。僕1人では何もできない。あと、20年ほどの人生。あれこれ考えている。
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高校を卒業後。映画監督を目指したー34年前のことだ。 12月5日 [「沖縄狂想曲」]
高校時代。「将来は映画を作る仕事をしたい!」と、大学は行かず、映画の専門学校に入学した。が、ひどいところで、半年で登校拒否。学校で出会った仲間と自主映画を作り出した。それが全ての始まり。
それから、あれこれあって、23歳でアメリカ留学。その後、「スターウォーズ」のジョージルーカス監督が学んだ大学を目指す。USC(南カリフォルニア大学)の映画科だ。見事?合格。
学ぶべきこともあったが、やはり疑問を感じ。帰国。日本はバブルの真っ最中!映画監督を目指す。が、帰国した途端にバブルが弾けた。それから5年。脚本家になる。帰国から14年かかり、映画監督デビューした。結婚もできず。子供も作らず。映画作りに賭けた。
その後、5本の劇映画と3本のドキュメンタリー映画を監督。8作目が来年2月公開。高校を卒業。「映画作るぞー」と走り出して、34年が経つ。そして働き過ぎで心臓が低下。脳梗塞。脳と目の一部が死んだ。この1年は闘病生活。
今年で62歳になった。人生は後18年くらいか? 残る月日をどう送るべきか?考える機会。神様が無理やり与えてくれたのだと思える。
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今回の病気。人生で最悪のもの=でも、そこにある意味を考える? 12月5日 [闘病日記]
「ジャニーズ事件。興味ないなあ」ーあれは芸能ニュースではない。時代の変革の1部だよ。−12月4日 [「沖縄狂想曲」]
この映画。観に行きたいが、JFKの姉妹編 =12月5日 [「沖縄狂想曲」]
「太田は殺されても、死なない奴!」と思う友人=だから、再起不能の危機も信じなかった?12月5日 [「沖縄狂想曲」]
「太田は殺されても、死なない奴!」と思う友人=だから、再起不能の危機も信じなかった?
今回の病気。本当に大変だった。一つ間違えば、再起不能。ギリギリのところで、仕事を続けられることになった。先の分からぬ病状で、何度も絶望しそうになった。
が、友人の中には本当に、無神経な発言をする者が何人もいた。その背景を何度か書いた。ただ、別の側面があることも感じる。昔から言われること。「太田は不死身!」「どんな困難でも、最後は乗り切る」と思ってくれる人たちもいる。
多くの同世代。高校時代あたりまでは、ささやかな夢があった。でも、大学受験。社会を見つめ、現実を思い知る。「将来は作家になる。漫画家になる。ミュージシャンになる」という夢が崩れて行く。でも、僕は映画監督にたどり着いた。
まあ、本人からすると、どれだけ大変だったか?と言いたい。が、「太田は凄い!夢を実現した」と評価してくれた友人も多い。その後も、僕は無茶な目標を掲げて、映画作り。テレビ、映画で活躍する有名俳優が出演。
昔から僕を知る友人。「あいつは不可能を可能にするなあ。あり得ないよ」と思う者もいた。そんな僕が脳梗塞。心臓病。喘息。入院手術。と聞いても、友人たちはこう思った。「きっと大丈夫だ。あいつは不可能を可能にする!」だから、「完治した」と思い込む者もいた?
ま、以前に書いた説。60代になり想像力をなくし、感じる力も失い無神経になったことも背景にあるだろう。が、若い頃から僕を知る友人には、「太田は殺されても、死なない!」「あいつは、しぶとい!」と思う奴もいる。だから心配されないというのも、あるかも?
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会社員を続けるのは=心を捨てて部品になること? 12月5日 [「沖縄狂想曲」]
ある種の友人たちからの見舞いコメント。非常に傷付けられることが何度もあったーと以前に書いた。同世代は60代。世間で言われる「無神経なオヤジ」の世代。何度か記事にしたが、会社員を長年続けると、多くが無神経な「おっさん」になる。
いや、あれこれ気が周り、感じる力が強いと、会社員は続けられない。だから、家庭で妻や子供に嫌われる。相手の気持ちを考えずに、無神経な発言をするからだ。相手が傷つくことを平気で言ってしまう。
だが、無神経にならないと、会社員は続けられない。客の都合を考えずに商品を売る。繊細でいたら無神経な上司の言葉に、いつも激怒することになる。敏感では多くの場合、会社員を続けると壊れてしまう。
しかし、そんな親父たちが会社の部品になり、自分を殺して給料をもらい。家庭を支えた。家族を養い。子供たちを育てた。その結果、家族に嫌われ、疎まれる。何とも悲しい話だ。
高校時代の友人。感受性が鋭く、時代の流れをいち早く察知する奴がいた。が、近年は時代に取り残されたズレたオヤジでしかない。年齢もあるが、鋭い感性を殺し、会社の部品になる選択をしたのだ。そうなるのが当然。あれこれ考えてしまう。
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友人たちへの連絡。難しい=大病や障害をギャグにして笑う? =12月5日 [「沖縄狂想曲」]
今回の病気がスタートしてから、「いいね」はくれるが、コメントのない友達。「お大事に」と線を引き、余計なことをコメントしない友達。どちらも良識ある人たちだ。有難い。
でも、中には無神経な友達もいる。信じられないコメントをして来る。その話は以前に書いた。残る友達。FBをしていない人たち。それらを含め、仕事関係でない友人。この数ヶ月、連絡してない。
病気発症の直後から数人には電話連絡していた。が、その多くが勘違い。無神経なことを言い出した。詳しく病状を話しているのに「完治。おめでとう!」などと言い出す。嫌がらせなら100点。でも、マジなのだ。
今回の病気。治る部分もあるが、一生治らない部分もある。両目ともに、半分しか見えない。脳の一部も死んだまま。文章が読めるようになるには数年かかる。それらを冗談にされては堪らない。が、重い病気をしてない人には説明しても理解できない。
特に60代を超えた同世代は、想像力が衰えているので危険。信じられないことを言い出す。僕が笑って病気のことを話せるようになるまで、カタギの友人たちとは、距離を置いた方がいいだろう。
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