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なぜ、人はあれこれ口出ししたがるのか?=反トランプの人たちの深層心理。 [ムラ社会ルール]

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なぜ、人はあれこれ口出ししたがるのか?=反トランプの人たちの深層心理。

高校はそれなりに有名な進学校。校則が厳しいところだった。「髪が耳にかかってはいけない」「後髪は学生服の襟、前髪は眉にかかってはいけない」とされた。床屋でそう頼むと「お客さん。変な髪型になりますよ。人はそれぞれ顔が違うんだから、個々に合わせた髪型にしないと」と言われた。その通りだ。が、学校側はそんな個性を認めることはなかった。

当時、尾崎豊のレコードを聴いたなら(まだデビューしていない)僕はバイクを盗んで家出していたかもしれない。でも、ほとんどのクラスメートは逆らうこともなく、いろいろ理不尽な校則に従っていた。僕が「間違っている!」と言うと「だったら退学しろよ!」と言われた。もっと問題ある連中もいた。

「お前、髪が耳にかかってるぞ!」

と注意してくる。風紀委員ではない。単なるクラスメートだ。あれこれ言われる覚えはない。もし、彼らが言うとおりに髪が伸びるたびに切ったら、月に何度も床屋に行かねばならない。教師も分かっていて、そこまでは言わない。

なのに、同級生。親しくもない連中がそう言って来ることがあった。何の得があるのか? 校則信者か? 今、思い返すと分かる。Facebookで異論を書くと、あれこれ行ってくる人がいる。迷惑をかけた訳ではない。わざわざ「友達申請」ー承認すると批判コメントを始める。あったことも無い人だ。

現在で言えば反トランプの人たち。「陰謀論者」「頭おかしい」「DSなんて信じてるんですか?」とか言ってくる。その種の人たちと高校時代の同級生が重なる。「校則」と言う絶対的なものを掲げて、何ら自分に責任も義務もないのに「お前、髪長いぞ。床屋行け」と言って来る。

マスコミが「バイデン 勝利」「不正はなかった」と報じる。「いや、不正はあった。DSが背後にいる」と言うと、彼らが絶対的に信じる「マスコミ報道」を掲げて、何ら彼らに責任も義務もないのに「陰謀論者だ。DSなんて信じているのか?」と言ってくる。似ている。では、なぜ、誰かに言われた訳でもないのに、そんなお節介を始めるのか?

彼らは「考える力」が弱い。これは彼らの責任ではない。日本の教育のせいだ。そのため自分独自の意見を持たない。自己主張しない。その上自身も校則やルール。社則。法律。常識に縛られストレスを感じている。が、それらを覆して自身の意見を主張したり、人と違う行動が取れない。我慢しストレスを抱えてしまう。なのに逆らっている奴がいる。

「俺がこんなに我慢しているのに、勝手なこと言いやがってムカつく」

と言うのが本音だが、それを深層心理に沈めて「あいつは(絶対である)校則を(マスコミ報道)を蔑ろにしている。困った奴だ。注意してやらねば」と言う正義感に置き換えてしまう。実は自身のストレス解消。正義や校則、マスコミ報道と言う絶対的なものを後ろ盾にして強気になり、行動に移してしまう。だから上から目線。嘲笑的な批判ができる。反トランプの人、全てではない。頼みもしないのに、あれこれ批判してくる人たちのことだ。

芸能人の不祥事を多くの国民が叩くのも同じ。誰も反論しない。ルールを破った芸能人は許されない。だから安心して叩ける。その裏には日頃のストレス解消。本人に罪の意識はなく正義だと感じ、高揚感を覚えエスカレート。今流行の「正義中毒」と同じ。


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スーツにネクタイで騙される人たち。ある後輩の経験から。 [ムラ社会ルール]

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スーツにネクタイで騙される人たち。ある後輩の経験から。

もう、かなり昔の話だが、後輩が地方で映画を撮るとき。支援者のAさんに挨拶に行った。そのあとに実行委員の方から連絡がありこう言われた。Aさんが言うには

「監督の服装が酷い。あれでは普通の兄ちゃんだ。せめてスーツにネクタイを締めてないと、信用されないぞ!」

んーー笑ってしまう。映画監督でスーツにネクタイの人なんていない。そんな服装で「映画監督です」と挨拶に来られたら「怪しい」と思った方がいい。でも、Aさんは監督と言う人に会ったことなんてない。なので勝手に想像してネクタイにスーツでちゃんとした格好をしているはずだ!と思い込んだ。

数時間後。後輩が実行委員のお宅で打ち合わせをしていると、Aさんから再び電話があった。「テレビで今、映画監督が出ている。監督さんもあのくらいの服装した方がいいと言ってやってくれ」と言う。急いでテレビをつけると、出ていたのは監督ではなく、俳優だった。映画監督はカンヌ映画祭とか、その手のタキシード着用が決められている場以外でスーツにネクタイなんて服装はまずしない。

それを知らないAさんは親切のつもりで「スーツにネクタイで訪ねるべき!」と言ってきたのだ。ただ、それは彼の思い込みであり、監督はビジネスマンでも、商社マンでもない。むしろ芸術家の分野。その手の人は既成概念に縛られない。そのことを知らずに思い込みをAさんは主張するのだ。が、その町の人たちの多くはAさんに近い発想だったようだ。後輩が映画を撮ったことで町の知名度が上がり、それを聞いた中堅企業が「映画撮りませんか?」とやって来た。

誰もが知る中堅企業。社員はスーツにネクタイ。「1億円で映画を撮ります。大手テレビ局**も参加します。町から4000万円出してください。宣伝になりますよ」その言葉に町の人たちは大喜び。市の予算。さらに県も巻き込み出資(正確には寄付に近い)した。が、その会社は1億円と言いながら地元が出したその費用だけで映画を作り、儲けは全て自社のものとした。完全に利用され、騙されたのだ。

その後、町のイベントで使うので映画のスチール写真を貸して欲しいと頼んだが「肖像権があるので...」と断られた。一部の人たちは「何のために金出したんだ?町の名前も映画では出てないし。利用されたんじゃないのか?」と話したと言う。後輩は語る。

「あの町は、いい人ばかりです。ただ、映画界のことは何も知らない。当然なんだけど、知らないことを勝手に想像して思い込むことが多い。大手企業やテレビに弱い。Aさんの言葉を思い出します。彼の言葉を裏返せばスーツにネクタイで訪ねれば、田舎の人はコロッと騙される。と言うことです。そこを利用した企業。許せないです...」

その町だけの話だけではないだろう。大手企業、テレビ局、スーツにネクタイ。それで騙される日本人は多いはずだ。



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人はなぜ、「仲良くしろ」というのか? それは本当に大切なことなのか? [ムラ社会ルール]

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人はなぜ、「仲良くしろ」というのか? でも、映画の世界では通用しない理由。

子供の頃。大人たちはこう言った。「誰とでも仲良くするんですよ」喧嘩したり、揉めたりするのはいけないことだと教えられた。誰かと揉めると親でも教師でも、あるいは友人でも「そんなこと言わずに仲よくしなさい」と諭した。その教えは日本社会に浸透しているようだ。

が、大人になり、映画の仕事を始めると、信じられないバカと出会うことがある。そんな連中とも仲良くせねばならないのか? 会社なら必要かもしれない。同じ部署。同じ部屋。同じプロジェクトなら、嫌でも、我慢して、揉めないように付き合って行かねばならないだろう。少し前に放送していたJTのCMのように、付き合ってみるといい奴だったりすることもあるだろう。

だが、映画製作の場合。困った奴がいると、時間が失われる。費用が無駄になる。作品クオリティが下がる。と大変なことになる。会社とは違い、もともと同じ部署ということはない。スタッフは全てゼロから集める。できる奴。問題を起こさない奴。方針を理解できる奴。つまり、戦力となる者を選ぶ。そのためか、映画の世界では***組と呼ばれるチームが多い。

黒澤組ならば、黒澤明監督の元に、同じカメラマン。同じ脚本家。同じ照明。(もちろん毎回ではない)俳優もほぼ同じ。実力あり、気が合い。監督の意図を理解する仲間が集まる。これはとても大事で、費用、時間が節約されるし、作品クオリティも上がる。そんな風に映画の世界では「誰とでも仲良くする」というより「気の合う出来る人と仕事をする」ということが大事。

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では、なぜ、大人たちは「誰とでも仲良くしないさい」と教えたのか? 昔は終身雇用。入社した会社で定年まで働くから、その種の教えが役に立つということなのか? あれこれ考えた。一つには日本という国。各地のムラ社会。その中で生きて行くには、平穏に過ごすには「誰とでも仲良くすること」が大事だからではないか? 

以前に書いたが、田舎では諍いが起こっても見て見ぬふりをすることがある。加害者とも被害者ともこの先も付き合って行かねばならないからだ。それゆえ、被害者が加害者を糾弾しようとすると、皆で被害者を叩くと聞く。「お前さえ黙っていれば揉め事にならない。我慢していれば何もなかったことになる」ということらしい。すなわちこれが「誰ともでも仲良くする」ということなのかもしれない。

誰ともでも仲良くできるように、同じ服装、同じ趣味、同じ素行。目立ったことはしない。人と同じことをする。新しいことをすると調和が乱れる。そんな時はみんなで叩く。昔からの伝統と習慣に沿って生活する。狭い世界で波風起こさずに生きるための知恵であり、風習。それが「誰とでも仲良くしろ」という言葉で象徴されているのでは?と考えたりする。


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アカデミー賞を受賞したカズヒロさん。その言葉に強く共感。日本人の問題点「村社会ルール」を浮き彫りにする。 [ムラ社会ルール]

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アカデミー賞を受賞したカズヒロさん。その言葉に強く共感。日本人の問題点「村社会ルール」を浮き彫りにする。

本年度のアカデミー賞を受賞。カズヒロさんはインタビューに答えた。

「日本の教育と社会が、古い考えをなくならせないようになっているんですよね。それに、日本人は集団意識が強いじゃないですか。その中で当てはまるように生きていっているので、古い考えにコントロールされていて、それを取り外せないんですよ。

歳を取った人の頑固な考えとか、全部引き継いでいて、そこを完全に変えないと、どんどんダメになってしまう。人に対する優しさや労りとかは、もちろん、あるんですけど、周囲の目を気にして、その理由で行動する人が多いことが問題。

自分が大事だと思うことのために、自分でどんどん進んでいく人がいないと。そこを変えないと、100%ころっと変わるのは、難しいと思います」

本当にその通りだ。僕がここしばらく何度も書いた記事とほとんど同じことを話している。つまり「村社会ルール」だ。それが日本と日本人をダメにしている。特に地方は強く縛られている。大人たちの言葉にうんざり、若者が都会へ出て行く。戻って来た若者をバカにする。よそ者を排除する。反原発活動でも若手を否定。潰しにかかる。「勉強不足」と批判する。全て「村社会ルール」であり、日本人体質。

映画の世界も同じ。新しい方法論を持ち込むとベテランが否定。潰しにかかる。僕も経験がある。付き合いの長い、信頼するベテランがあれこれ批判を始め、古い方法論を押し付けてくる。さらに高校時代に「映画監督になりたい」と言った時も、親、教師、親戚、同級生。ほとんど全ての人が反対し、批判。止めようとした。カズさんのいう通りだ。

「日本人は集団意識が強い。その中で当てはまるように生きているので、歳を取った人の頑固な考えとか、全部引き継いでいて、そこを完全に変えないと、どんどんダメになってしまう」

そして大きな問題はあれこれ言う人たちに悪意はない。「それじゃダメだ。止めないといけない」という親切心で、頼まれもしないのに言ってくること。そうやって若者を潰す。夢を壊してしまう。新しいことをさせないようにする。結果、金がもらえるわけでもないのに、時間や労力を使い、愛情を持って、夢や新しいことを潰して回るのだ。

その日本人体質が日本をダメにしている。実際、メイドインジャパンを誇っていた電化製品も韓国に抜かれ、映画もアカデミー賞を取るのは韓国映画ということになったのだろう。だが、そういうと、あるいはカズさんの言葉を聞いた人は言う

「でも、日本にはいいところもあります!」

そんなことは分かっている。今は自画自賛して現実から目を逸らしていている時期ではない。村社会ルールやその体質が日本を崩壊させようとしていることを考えてほしい。戦時中の軍国主義は大きな村社会だった。今、日本はそんな村社会に再び縛られ、アジアの後進国に落ちぶれている。どうすればいいのか? そのヒントがカズさんの言葉に隠されている。

村社会ルール過去の記事=>https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/archive/c2306188817-1

https://nobiciro.com/person/12431/

カズヒロさんの言葉「日本の教育と社会が、古い考えをなくならせないようになっているんですよね。それに、日本人は集団意識が強いじゃないですか。その中で当てはまるように生きていっているので、古い考えにコントロールされていて、それを取り外せないんですよ。

歳を取った人の頑固な考えとか、全部引き継いでいて、そこを完全に変えないと、どんどんダメになってしまう。人に対する優しさや労りとかは、もちろん、あるんですけど、周囲の目を気にして、その理由で行動する人が多いことが問題。自分が大事だと思うことのために、自分でどんどん進んでいく人がいないと。そこを変えないと、100%ころっと変わるのは、難しいと思います」。

「自分が何をやりたいのか、何をやるべきなのかを自覚して、誰に何を言われようと突き進むこと。日本は、威圧されているじゃないですか。社会でどう受け入れられているか、どう見られているか、全部周りの目なんですよね。

そこから動けなくて、葛藤が起こって、精神疾患になってしまうんです。結局のところ、自分の人生なのであって、周りの人のために生きているんではないので。当てはまろう、じゃなくて、どう生きるかが大事なんですよ」。


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大きなお世話のおばちゃん。そこからも想像できる戦時中の強制と洗脳活動? [ムラ社会ルール]

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大きなお世話のおばちゃん。そこからも想像できる戦時中の強制と洗脳活動?

高校時代、「映画の仕事をしたい」というと大変なことになった。親、教師、親戚、クラスメート、近所の人が口を揃えてこう言った。

「お前は才能あるのか?」「世の中は甘くないぞ!」「子供みたいなことを言うな!」「勉強が嫌でそんなことを言っているんだ!」「逃げているだけだ!」

その後、1人暮らしで、会社員にはならず、近所付き合いも、親戚付き合いもしないで十数年。今度はFacebookで似たようなことを言う人たちがいる。

「そうとは限りませんよ」「私はその人が嫌いです」「あなたの意見は間違っています」

訊いてもいないのにあれこれ言ってくる人がいる。いずれも、その人たちの価値観に基づいたもの。学生時代で言えば「真面目に勉強して大学に行き、有名企業に就職する」という価値観に沿った提言。

ただ、思い出すと、近所の人でも、親戚でも、僕が何を考え、何がしたくて、どんなことに興味を持っているか?全く知らない。「映画の仕事をしたい」と言うと「勉強が嫌でそう言っているんだ」と決めつけ説教を始める。

              *

つまり、彼らは一般的な日本人の生き方を押し付けているだけ。それが幸せのコースと信じ、強要しているだけだ。その背景に「この子はま分かっていない。厳しく言って分からせてあげなきゃ」と言うおかしな使命感がある。だが、それは親切ではなく思想の押し付け。「我々の価値観を受け入れて従え」と言うのと同じ。

戦時中はそれが「大人になったら兵隊さんになり、国のために戦う」だった。逆らうと「非国民」と呼ばれる。今は「落ちこぼれ」と言われ、皆がこぞって説教する。単なる顔見知りの近所の人まであれこれいう。戦時中も同じだっただろう。だから「戦争反対」と言えなくなる。

そんな人たちから逃れて都会暮らしを始めたのに、今度はFacebookで似たようなことを言ってくる人たちがいる。多くは戦時中と同様に「こうあらねばならない!」と考える種の人たちだろう。

戦時中に憲兵が捕まえにくる前に、近所の人たちが国の方針に従わない人を「非国民!」と攻撃した。庶民が庶民を粛清し、別の思想を持たせないようにする。戦時中に戦争反対と言えなくなった背景。現代も同じ構図なのだ。

「ドキュメンタリー沖縄戦」でも戦争を推進するための教育を紹介。いかにして日本は国民を洗脳し、戦争に突き進んだか?12月に沖縄で完成披露上映会。

太田隆文監督作品

予告編=> https://youtu.be/81I-BLROlxY

12月9日(月)〜10日(火) 沖縄、那覇市、
パレットくもじ(県庁前)市民劇場
9日 ①午後3時〜 ②6時30分〜
10日 午前9時40分〜

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「ムラ社会ルール」に縛られる日本人=崩壊までに気づくだろうか? [ムラ社会ルール]

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「ムラ社会ルール」に縛られる日本人=崩壊までに気づくだろうか?

ここ数ヶ月の収穫は「ムラ社会ルール」を把握したことだ。この歳まで本当に気づかなかった。誰も教えてくれなかった。まあでも、多くの人が

「私はムラ社会ルールを遵守しています!」

とは思っていない。知らない内に縛られているのだ。子供の頃から親の行動や発言の影響を受け、近所の人たちの対応を見て

「あーこんなことしちゃいけないんだ...」

「こうすれば揉めないんだ...」

と感じ、学んで行くのだろう。元々は江戸時代あたりからの、狭い村で穏便に生きていくための知恵だったのだろう。それが無意識のルールとなり、今もしっかりと生きている。特に地方社会ではそのルールが現代もしっかりと根付いている。

僕よりずっと若い友人。田舎町で頑張っている。故郷のために努力している。そんな彼なのにトラブルがあると沈黙。「俺が何とかする」というのだが、何ヶ月経っても報告がない。なぜ、説明責任を果たさないのか? 問題解決をしないのか?と苛立つ。

問題の主と裏取引しているのか? その相手は村の黒幕なのか?と思っていたが、これもムラ社会ルール。トラブルは見て見ぬ振り。彼の場合は「自分が何とかする」と関係者にいい、何もせず、皆が忘れるのを待つという手法を使うのだ。僕よりずっと若く、故郷愛もある彼が何で?と思ったが、ムラ社会ルールを実践していたのだ。

ただ、彼の村ではそれも通用するだろう。

政府も原発問題を同じ方法で忘れさせる努力をしている。が、映画制作では通用しない。問題が起こっているのに、知らないふりをしていたら大変なことになる。僕の場合でも、以前は監督業より、そちらに多くの時間と労力を必要としたほどだ。最近はあれこれ考えて、トラブルはほとんどなくなったが、他の組ではどうなのだろう?

会社はどうか? やはり「ムラ社会ルール」が機能する。製作会社でも可能だ。ロクに仕事もせずに肩書きを利用して利益を得るプロデュサーは多い。それを同僚は知っていても何もしない。気づかない振りをする。問題が起きているのに誰も指摘しない。そんな会社で何度も仕事をした。

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部外者の僕が気づいているのに、社員連中が知らない訳がない。意見しても「まあまあ」と言われてしまい、不正や癒着、誤魔化しが続く。そのことで作品のクオリティが落ち、スタッフがやる気をなくす。でも、誰も問題解決をしようとしない。バブル時はそれでも良かったが、不況になりその製作会社は潰れた。

社長は借金を抱え、行方不明になった。小さな会社なので、数年で結果が出たが、大企業や役所だとすぐに倒産、崩壊ということはない。大いなる無駄、癒着、誤魔化しをしながらも継続していく。だが、それも近い内に崩壊しそうな気もしている。

少し事情は違うがアメリカ合衆国も同じだ。

10年に1度戦争をすることで大儲けしてきた。が、ベトナム戦争以降、金持ちは豊かになるが、貧しい国民がどんどん増えた。一時は属国である日本にさえ経済的に脅かされた。(その日本に莫大な国債を買わせて凌いで来たのだけど)金持ちと政治家が組んで、やり放題をしてきたせいで、国が腐っている。

でも、そこが「ムラ社会ルール」の国ではない。負の連鎖を断ち切ろうとする勢力が台頭。「世界の警察」という名の元に侵略を繰り返した方針を転換し、アメリカ・ファーストを打ち出している。「他の国はどうでもいい!」ということ。逆にいうと「他の国をかまっている内に自国が崩壊寸前。それを立て直す」ということだ。

今の日本は少し前のアメリカに似ている。

自国で様々な問題を抱えているのに、首相が海外で金をばらまいている。金持ち優遇で、貧乏人がどんどん増える。そんな政権を支持するのは有権者の20%少々。その人たちが投票するから継続してしまう。後の70%と言わない、40%がある野党に投票すれば簡単に現政権を倒すことができる。

それをせずにいるのは「ムラ社会ルール」に縛られているからだ。政治家たちがどれだけ悪行を続けても見て見ぬ振り、知らん顔。解決しようとしない。先の製作会社の社員と同じ。この先にあるのは日本国の崩壊。それに気づき声を上げる人たちもいる。が、多くが今も目を閉じて、プロパガンダのテレビ番組を見て

「日本は今も経済大国。世界に愛される国なのね〜」

と思い込んでいる。あるいは思い込もうとしている。「ムラ社会ルール」からの脱却が今の日本の最大のテーマではないか?と思えている。また、あれこれ考えて書かせてもらう。


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ムラ社会ルールで、問題に気づかない振りをするのではなく、原因を究明し解決することの大事さ。考えてみる。 [ムラ社会ルール]

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ムラ社会ルールで、問題に気づかない振りをするのではなく、原因を究明し解決することの大事さ。考えてみる。

同じ地方に長い年月住んでいたことがないので、この歳まで実感がなかったが、地方には「ムラ社会ルール」が存在すること。記事にした。その後、あれこれ考えて原発問題もムラ社会ルールでなかったことにしようとしていることに気づいた。地方だけではない、政府も企業も同じルール。つまり、日本人全体がムラ社会ルールに縛れているのだ。

その原因は以前に書いた。狭き地域社会で揉め事を起こすと、その人と何十年も顔突き合わせて行かねばならない。だから、トラブルがあっても知らないふりをする。関わらない。さらに責任者を被害者が追求したら被害者を叩き、泣き寝入りを強要する。その被害者さえ黙っていればトラブルにはならないからだ。それがムラ社会ルール。

そのルールは役所や大企業でも通用する。ことなかれ主義にも近い。市民や消費者にプラスになることをするより、何もしないことが一番大事。トラブルが起これば同じ対応。見ない振りして、なかったことにしてしまう。だから、腐敗して行く。汚職がはびこる。

映画の世界で生きる僕にとっては、見て見ぬ振りをすることはできない。正義感が強いてなことでもない。トラブルを解決しないとプロジェクトを前に進めることができないからだ。役所や企業ならプロジェクトが潰れても大きな問題ではない。それどころか新しいこと、面倒なことを潰して回る役所も多い。

だが、映画製作は1本1本が勝負。時間も、お金も、労力もかけて準備する。それが潰れれば多くの人が傷つき、落胆する。全てが無駄になる。だから、トラブルが起これば見て見ぬふりをするのではなく、原因を究明して解決せねばならない。そのためには人集めの段階からトラブルを起こしそうな人材を見抜きブロックすることも大切だ。

とは言え、監督デビューした初期の頃はそんな輩が必ず入り込んで来て、製作費を抜いたり、作品を歪めたりした。ノミ、シラミのような連中が映画界には多い。また、協調性がない。批判ばかりしている。主導権を奪いたがるという困ったちゃんもいた。

しかし、作品を作るごとに素晴らしいスタッフと出会い、問題ある者はブロック! 二度とチームにはいれない。あと、様々な対策をして今では邪魔をするだけの者はおらず、素晴らしい作品を作ろう!という思いのある素敵なメンバーばかりだ。

ただ、以前はトラブルの連続。何度も崩壊の危機があった。実際、そんなことで映画のレベルが低くなってしまった友人が何人もいる。トラブルを起こす人間がいると、その人自体ではなく、巻き込まれ、利用され、トラブルに加担する者も出てくる。

隠れて危険なことをする輩。トラブルの原因が見えなこともある。その原因を探り、誰に問題があるか? なぜ、問題が起きたか? その動機は何か?を考えることが大事。単にみんな仲良く仕事するだけではダメだ。トラブルに気づかない振りをするのは一番ダメ。問題を解決し、皆が作品作りに専念できる環境作りは絶対だ。

以前は映画を作る以上に、そちらに時間と労力を取られることが多かった。本来はPの仕事だが、そのP自身がトラブルの張本人ということも多かった。「ムラ社会ルール」で対応するのではなく、問題を解決するとはどういうことか?を考えるには過去の映画製作を思い返すことも有効ではないか?と思えている。


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日本人をダメにしている習慣、思い。これではないか? [ムラ社会ルール]

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日本人をダメにしている習慣、思い。これではないか?

①ムラ社会ルール

②「嫌われたくない」「みんなと仲良くしなければならない」

③みんなと一緒が安心!

この3つが大きいんじゃないかな? 

3つとも多くの日本人が抱えていて、心に染み付いている。これらが日本人を時代遅れにして、新しい時代に乗り遅れ、いろんなことを阻害しているように思える。

これらダメ発想を植え付けているのが地域社会、政治、そして教育ではないか? 

詳しくはいずれ記事で掲載。



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ムラ社会ルールに縛られ続ける地方の人たち。なぜ、未だに江戸時代からの習慣を? [ムラ社会ルール]

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ムラ社会ルールに縛られ続ける地方の人たち。なぜ、未だに江戸時代からの習慣を?

ムラ社会ルール5か条は以下の通り

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」

②「問題を起こした責任者を追求しない」

③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルには触れず、無かったことにする」

④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」

⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」

これらは全て江戸時代あたりからの地域社会でいかに平穏に暮らして行くか?揉め事を避けられるか?という思いから生まれて来た習慣だと思える。それが明治、大正、昭和、平成。そして令和時代にも引き継がれて行こうとしている。

不思議なのは、昔々なら田舎町から出ることは難しかった。交通も通信も不便。その村の中で交流するしかない。だが、今は交通の便も良くなり、通信手段も多様化。ネット時代でもある。隣町には車やバスで簡単に行ける。関所なんてないし。都会にも電車やバスで出られる。地元との交流がないからと生きて行けない訳ではない。

ただ、仕事が地元なら同僚。得意先としがらみができる。商売なら街の人たちが顧客だ。狭い世界で生きて行かねばならない。だが、そんなしがらみがなければ、トラブルを見て見ぬ振りをしなくても済むのではないか?と思える。なのに小さな田舎町ならいざ知らず。政令指定都市でも同じようなことを経験した。

時代が変わっているのに、江戸時代から(もっと前?)習慣から逃れられないでいるのはなぜか? 一つには長年に渡り、代々引き継がれたものはなかなか止めることができないということがあるだろう。ただ、都会では、その衛星都市では、その種の習慣はないとは言わないが、あまり見聞きしない。つまり、長年に渡って顔を合わせて生活している地区でその習慣が続いているということだ。

地方が活性化されないという問題がよく言われるが、その背後にムラ社会ルールが今も根付いていることで、新しい試みができない。あれこれ否定する人が出ても、誰も説得しないということがあるのではないか? それを多くの人は「ムラ社会ルール」に縛れているのではなく、「みんなと仲良くやらないといけない」「嫌われたくない」という思いにすり替えてはいないか?

役所も会社でもそうだが、狭い世界に長くいると、そんなルールに縛られてしまい、何もできなくなる。中から腐って行く。令和時代はその結末が見られるのではないか?と思える。では、どう考えればいいか? 別の機会に書かせてもらう。


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原発事故を取り巻く状態も、ムラ社会ルールそのもの!=日本人はトラブルを見て見ぬ振りをし、そして無かったことにする [ムラ社会ルール]

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原発事故を取り巻く状態も、ムラ社会ルールそのもの!=日本人はトラブルを見て見ぬ振りをし、そして無かったことにする。

映画製作ではよくトラブルが起こる。これを「ムラ社会ルール」(以前に何度も記事にしたあれー島国根性とも言えるもの)で対応すると、大変なことになり、多くの関係者が困り、傷つき、落胆する。そして製作中止なることが多い。

ただ、これが役所や企業だと、それでも成り立ったしまうことがある(一つのプロジェクトが潰れても大きな問題にはならない)が、僕が参加するような独立プロ系の、あるいは実行委員会方式だと、「中止」は全てを失うことであり、関係者の努力が全て無になってしまう。

基本、地元の方々は「町の魅力をアピールしたい!」という熱い思いで参加するが、中には「金儲けで利用できそうだ」「有名俳優と仲良くなれる」という別の目的で近づいてくる人たちもいる。魂胆を隠して「何か協力したくて」とか「共感しました!」とか言って入り込もうとする。

その種の人が参加すると必ず揉める。つまり「素晴らしい映画を作ろう。町の魅力が詰まった作品にしよう!」という目標なのに、その人たちは「金儲けに繋げよう」「有名女優に近づこう」が目的なので、他は二の次、三の次になる。時には嘘をついたり、筋の通らぬことを無理やり進め自分の利益に繋げる。

それがトラブルの始まり。だが、その種の人々はなかなか尻尾を出さない。隠れていけないことをしたり、裏で根回しして真面目なメンバーを引き込んだり、脅したり、透かしたり、自分の目的が達成できる方向に持って行こうとする。「素敵な映画を作ること」「町の魅力を伝えること」なんて考えていない。

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そんなことをしていると必ず、歪みが起き、トラブルとなる。が、地方では先の「ムラ社会ルール」が発動され(?)真面目に頑張っている地元の人たちが黙ってしまう、トラブルを見て見ぬ振りをする。犯人が誰だか分かっていないも触れない指摘しない。

「同じ町でこの先何十年も生活するので、注意して揉めたくない」

そんな思いがあるからだ。そのことは「町の魅力を発信しよう」という思いを超えることが多く、トラブルを解決できない。映画製作が崩壊する可能性があっても黙り込む人たちもいる。非常に日本人的な対応をする。

多分、同じことは地方社会だけでなく、役所や企業の中でも起こっているだろう。地元や自治体、会社のために大きなプラスになることでも、一部の人間がトラブルを起こすと止めようとせず、黙り込み、皆で無かったことにする。そのいい例が原発事故だ。未だに収束できず。放射能を出し続けているのに、それをしっかりと伝えないマスコミや政府。被害はなかったかのように振る舞う。

「平成の出来事」という番組でも事故に触れず、原発事故はなかったかのように思わせようとする組織と人々もいる。事故は現在進行形なのにこう思う人たちが増える。

「結局、大した被害はなかったよね」「無事に収束してよかったね」「原発事故はもう過去のことだしさ」「福島の人はみんな故郷に帰れたし」

まさに「ムラ社会ルール」の見本である。地方映画でも同じように進行形のトラブルを見て見ない振りをする人たちが出る。タイタニック号のようにこのままでは沈むというのに、多くが知らない振りをしていることがある。それでも近作でいうと「明日にかける橋」の時の地元メンバーは本当に頑張った。いろんなことがあったはずだが、様々なトラブルを超えて完成させた。

が、それは特殊な例かもしれず、多くはトラブルを解決しようとせず、プロジェクトが崩壊。地元の有志の努力が無駄になる。にも関わらず、トラブルの主はこういう。

「残念だったなあ。僕も応援したんだけどね〜」

なのに誰も責める事はせず、問題に触れることもしない。原発事故と同じ構図だ。「ムラ社会ルール」は地方だけでなく、企業や国にも蔓延しているのである。まだまだ書かねばならないことあるが、長くなったので今回はここまで。別の形で続きを書かせてもらう。

ムラ社会ルール記事=>https://okinawa2017.blog.so-net.ne.jp/2019-03-08-2



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戦争ができる国になっても、平然としている日本人の背景にあるもの?=え、あれに縛られているの!愚かー [ムラ社会ルール]

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戦争ができる国になっても、平然としている日本人の背景にあるもの?=え、あれに縛られているの!愚かー

戦争法案が可決されても多くの人は平気。他人事。と言って「戦争賛成!」ではない。ほとんどが「戦争はいけない!」と思っている。にも関わらず反対するのは一部の人たちだけ。その背景には何があるのか? ずっと考えていた。いろんな記事を書いていて、あーこれか!ということが分かってきたので整理してみる。

①LAに来た友人たち。危険なLAの現実を事前に説明しても、犯罪者に狙われる行動をする。注意すると「うるさいなあ〜」と不満そう。犯罪に巻き込まれるという想像が全くできない。日本と同じ気分でいる。

②ムラ社会ルール。誰かがトラブルを起こしても知らない振りをする。狭い村で相手の責任を追及するとあとあとまで揉める。だから知らん顔。それを批判する人がいると、その人を叩く。黙って知らん振りして、皆で無かったことにする。

この2点が大きな影響を及ぼしているだろう。①で言えること。想像力のなさ。情報があっても、自分が被害に遭わないと実感できない。危険があることを伝える人がいても、うるさいとしか思わない。「戦争法案」である「集団的自衛権」「特定秘密保護法」をリアルに感じることができないのも同じ背景。

「昨日までいた日本は安全だ。だから、今いるLAも安全だろう」という根拠にならないことを感じている。「日本は70年戦争をしていない。だから今後も戦争はしない」同じ発想だ。そんな根拠にならないことで安心。戦争法案が通っても平気でいられる。

②から言えること。政権が「戦争法案」を可決した。ある種の人たちは「かなりヤバイ!」と思っている。が、「ムラ社会ルール」ではトラブルを起こす人たちがいても、知らない振りをする。それを批判「首相、辞めろ」という人たちを叩く。何も気づいていない振りをして、皆が忘れるのを待つ。

まとめると、①は想像力のない能天気なグループ。②は事態に気付いているが、知らない振りをするグループ。多くの日本人がこのどちらかのグループ内に属するということだろう。だから、何もしない。行動しない。反対しない。内輪で不満を言うだけ。そしていずれのグループも、何事もなかった顔で、これまでと同じ生活を続ける。それが多くの日本人のあり方なのだ。

つまり、背景にあるのは「ムラ社会ルール」国際化社会になっても島国根性が抜けないこと。そして、想像力の欠如。これは「考える力」とも言える。それが育ってないからである。バカではない。日本人は優秀なところがある。では、なぜ、想像力、推察する力が育ってないのか? 次回、それを説明する。


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日本とアメリカ。歴史と背景の違い。そして今の時代に通用すること? [ムラ社会ルール]

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日本とアメリカ。歴史と背景の違い。そして今の時代に通用すること?

このところ書いている「ムラ社会ルール」=そもそもは閉ざされた小さな村で、争わず、仲良く暮らすための知恵だったのだろう。交通機関も発達していない江戸時代以前。農業を主として生活していくにはそんな対応が必要だったのだ。問題が起こった時に、それを追求すると必ずトラブルになる。あとあとまで祟る。そんな経験から根付いたものだろう。

対してアメリカ人は自分の国が気に入らず、あるいはいられなくなって、自由の国を目指しやって来た人たちが作ったところ。「邪魔者はぶち殺せ!」と言うような感じで発展して来た。その後は訴訟社会になり、トラブルになれば即、裁判。日本と違い、貧しくても訴訟ができる社会制度がある。

その部分だけ比較してみると、アメリカは理屈なのだ。自分の正しさを主張し、相手の問題を指摘する。裁判にならなくても、議論や論争をする。大学では議論のクラスもあり、2手に分かれて、ある課題について議論したりする。ペーパーと呼ばれる論文は理路整然と物事を考え、自分の意見が正しいことを証明するための訓練である。

対して、日本で「理屈」ではなく「和」が大切にされる。争わず「皆と仲良く」だ。そのせいか?議論するクラスはない。学級会で討論することはあるが、授業では教えない。どうも、日本は争うことを避ける社会であるようだ。そして目立たぬように、あまり個性的にならないように、派手なことをしない風潮。学校は皆と同じ制服。そしてクラスで目立つと、いじめられたりする。人と違うことをする者は皆で粛清してしまう。

夢を語ると「現実は厳しい」と相談してもいないのに、多くの人が説得にやってくる。新しいこと。個性的なことを嫌い、皆で止めるところが社会にある。ここも昔ながらムラ社会ルールが生きている。ただ、そのルールが必要のない場所が、どんどん広がって来た。都会だ。田舎のように周りを気にする必要のない地域。

むしろ誰も気にしてくれない。どんな派手な服を着ようと、どんな生活をしていようと、誰も注意しないし、口出しをしない。衛星都市でも、農耕を仕事とせず、都会の会社に通うための住居に過ぎず。近隣と地方のような密接な繋がりはない。ご近所付き合いはあるが、それをしなくても村八分にはならない。いや、村八分という方法論が都会では機能しない。

映画界で考えてみる。過去にアメリカ作品のスタッフを経験したが、日本とは違うものがあった。非常に機能的。日本の場合は、誰が責任者であるか? 見え辛いものがあり、トラブルが起こっても、多くが責任回避をして逃げ回るが、アメリカのシステムは合理的かつ機能的だ。

何か必要なものを要求しても、対応が早い。対して日本だと、責任の所在が曖昧で、あれこれタライ回しに遭い、結局、話が通らないことがある。日本の場合は正しいかどうか?より、ある人たちの顔を立てるとか、顔を潰さないということが大きい。どうでもいい人のプライドで話が通らないこともある。そこにもムラ社会が残る。

日米の会社については詳しくないが、古い日本の会社と外資系ではいろんなシステムやしきたりが違うのではないか? 映画自体でも、日本映画は曖昧さ。理屈では説明しづらいが、情緒とか、風情というものを大切にする。対するハリウッド映画は勧善懲悪、明快で、分かりやすい、どの国でも楽しめる作品が多い。
もちろん、それぞれに良いところはあるだろう。ただ、考え方として、トラブルを見て見ぬ振りをして平穏を守るーなどなどの日本人が昔から囚われる村ルールは、今の時代もう意味を成していないと思える。

問題が起こる=>原因は何か?=>責任は誰にあるか?=>なぜ、そんなことになったのか?=>これからはどうすればいいか?

という、論理的な考え方でないと、新しい時代を生き延びることができないだろう。

実際、映画業界を目指した友人。俳優を夢見た友達。ミュージシャンを志した同級生。劇団で頑張った後輩。見ていてると、自分が抱える問題に気づかず、実力を磨くより、仲間を大切にする。飛躍するより友達を同じ場所にいることを選ぶ。そのことでチャンスを失い、展開の機会を逃し、実力が伴わず、結局、消えて行った連中が多い。

そこが昔から疑問だった。皆「プロになりたい!」という、「夢を実現したい」という、そのくせ、チャンスより「友達」を大切にしたり、大切な機会を「平穏」を優先して逃したりしている。

これって、もしかしたら、古来から続く村社会ルールに囚われていることでの悲劇ではないか? 僕の時代だけでなく、今の若い連中も同じことで失敗している。それは同時にアジアの国国に抜かれて行く日本の姿でもあるのかもしれない。


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都会で夢を追う若者たち。彼らもまた村ルールに縛られていた?=教えられなくても実践してしまう日本人の特性? [ムラ社会ルール]

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都会で夢を追う若者たち。彼らもまた村ルールに縛られていた?=教えられなくても実践してしまう日本人の特性?

ムラ社会ルールを考えると、いろんな疑問が解ける。「今更、何言ってんの?」と言われそうだが、同じ地方に長年住み、地元の付き合いがなければなかなか気づかないことかもしれない。

僕がよく書く「思い出」として、学生映画時代に遅刻して来た友人の話がある。撮影の朝に遅れてくる。1時間経過。まだ来ない。「かわいそうだから待とう」という友人。それに同意する友人たち。そのために夕方までに予定を消化できず、取り残しが出るという話だ。

多くがプロを目指す若者たち。なのに遅刻を許し、その日の撮影予定を終えることができなかった。あれも背景にあるのは村ルールなのだと思える。当てはめてみよう。

遅刻してくる友人(問題を起こした責任者)。「待たずに現場に行こう」というと「可哀想だろう。待ってやろうよ!」という別の友人が止める。皆、それに同意。

=>③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩きく」

そう。遅刻した者ではなく、早く現場に行き撮影しようという正論を主張したものが批判される。そして
皆、それに同意。

=>①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」

実際、遅刻して来た友人を誰も責めない。友人は遅れた反省はなく、すぐに輪に溶け込んだ。トラブル=遅刻はなかったことに。

=>②「問題を起こした責任者を追求しない」

遅刻のために撮り残したが出たが、誰も遅刻した友人のせいとは言わない。「太陽が沈んだので仕方がない」とさえ言う。友人が約束の時間に来ていれば予定の撮影は全部できたのだから、彼に責任がある。が、それに触れない。そのために、皆が別の日に同じ場所に来て、取り残しを撮影することになる。交通費を払い、バイトを休み、時間を割く。

全員にとって大きなマイナス。=>⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」

メンバーの多くは将来プロを目指す映画学校の生徒。だが、彼らはそのためのステップである映画作りより、友達を大切にする。当時、僕はプロを目指すと言いながら、「仲良しごっこ」で「映画撮影は楽しいーなあ」と言う趣味レベルの者が多かったのが背景だと考えた。

が、それだけではなく、村社会ルール。つまり、多くの日本人の習慣に縛られているそれも、原因の1つだと思える。島国ニッポンでは、国のためになる、地域のためになる、自分たちのためになることより、平穏で、争わず、トラブルを起こさない(起これば見て見ぬふりをする)問題を起こしても責めないで、トラブルがなかったことにするーことが、最優先とされる。それを20歳前後の映画学校の学生も実践していたと言うことなのだ。

何度も書くが、福島の原発事故に対する国の対応も同じ。福島の重大な被害、危険性を指摘すると「危険を煽るな」「差別するな」「デマだ」と批判される。線量がまだまだ高く危険な地域を知りながらも、知らない振り、見て見ぬ振りする。また、同じ事故が起こるかもしれないのに、事故はなかったかのように振る舞い、触れない。そして東電のトップは何ら責任を取らず、法的な追求もなかった。

=>②「問題を起こした責任者を追求しない」

学生時代の「遅刻事件」での友人たちの対応と国のそれはとても似ている。いや、ほぼ同じ。根本的な解決をせず、トラブルをなかったことにし、触れない、知ろうとしない、知らない振りをする。そのことで映画撮影は時間も費用も無駄にし、完成が遅れるが、誰も触れない。そして彼らもまた責任者を追求しなかった。

単なる偶然とか、たまたま似ていると言うことではないだろう。日本人の習慣、習性、日本人ルールなのだ。「優しさ」「仲間を大切にする」行動と言えるかもしれない。が、多くのマイナスがある。そこに気づかない。あるいは触れない。実際、僕の周りでも遅刻事件はよく問題になったが、多くが同じ対応。ほとんどが、プロになることなく終わった。

「将来は映画の仕事をする!」と夢見て上京してして来た若者たち。彼らは村ルールを守ったつもりはないだろう。むしろ、友情を大切にしたい。友達思い、と言う意識だろう。友達に寂しい思いをさせたくない。みんなで一緒に頑張る。遅刻したくらいで批判しない。そう考えると優しい、いい子たちだ。

が、プロとして時間を守る。予定したスケジュールをこなす。現場で起きた問題が何なのか?を考える。原因を追求し、改善する。そんな姿勢が友人たちからは感じられなかった。分かりやすく言うと「仲良しごっこ」だから、プロにはなれなかった。その背景にあったのが村ルールだと思える。

同じことをあちこちの地方の大人たちもやっている。町のために何かしたい。PRしたい。魅力を伝えたい。でも、周りの顔色を伺い。トラブルを避ける。見て見ぬフリ。責任を追求しない。だから、地方は新しい展開ができないことが多いのだろう。

しかし、まさか、学生映画をやる、20歳前後の若者までが、学校で教えられた訳でもないのに、そんな村ルールに縛られていたこと。ショックだ。そこから抜け出すことが21世紀の課題なのではないか?

(ムラ社会ルール?)

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」
②「問題を起こした責任者を追求しない」
③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルに触れず、無かったことにする」
④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」
⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」


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日本人を縛るものー補足 そのルールを終わらせることが日本を救う? [ムラ社会ルール]

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日本人を縛るものー補足 そのルールを終わらせることが日本を救う?

久しぶりに長いシリーズを書いた。この10年ほど、ずっと気になっていたことだ。多分、記事を読んでくれた人の中には「???」という人もいただろう。都会育ちで田舎の習慣に縁のない人なら「監督は何を言っているのだろう?」と思っただろう。地方に長く住んでいる人なら「何言ってんだ。そうしないと田舎では暮らしていけないんだよ!」と感じた人もいるだろう。

ある海外体験のある人が「超いいね」[黒ハート]くれた。思い当たることがかなりあったのだろう。そう、ムラ社会ルールは海外から見たときの日本人イメージにかなり近い。

●日本人は何を考えているのか分からない。

●いつも集団行動。責任者が分からない。

●顔に感情が出ない。

よく言われるそんなイメージも、そのルールが背景にあるだろう。地方で映画製作をしていた初期の頃、とんでもないことを言い出す人がいたこと思い出す。映画のことを知らないのは分かる。そうではなく、常識を超えたことを言い出す。社会人の発想とは思えない。いい大人が子供みたいなワガママを言い出す。無責任なことをしてしまう。だが、町の人は誰も注意しない。咎めない。黙ってしまう。そんな光景を何度も見た。

それがムラ社会ルールなのだ。トラブルは見て見ぬ振りをする。関わらない。ただ、その人のためにプロジェクトが混乱することは見えている。理解してもらうか? 抜けてもらうか? しないといけないのに誰も何も言わない。その人に僕が説明する。説得する。が、本人は屁理屈ばかり。あるいは黙り込む。連絡しても返事がない。決められたことをやらない。そうすると他の人から

「仲良くやりなよ?」

と言われる。はあ? 彼を攻撃しているわけでも、批判しているわけでもない。説明し、やるべきことを連絡しているだけ。なぜ、できないか? 返答があれば、別の人にお願いする。が、その返事もない。だから、何度も連絡する。それがなぜ「仲良くやれ」になるのか? サークル活動ではない。仕事なのだ。責任を果たさない人には催促するのは当然。するとこう言われた。

「あれこれ、うるさい!と評判が悪いよ」

監督がうるさい存在であるのは当然だ。それが仕事。問題を見つけ解決し、作品をよりよくする仕事だ。だが、その人たちは町の生活ルールを当てはめてきたのだ。

⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」

映画製作を推進するより、仲良くすること。製作に支障が出るよりも仲良くすること=トラブルを起こさないことが大事なのだ。だから、最初は問題を起こす人がいても何も言わず黙り込んだ。ルール①だ。

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」

なのに僕はその人が責任を果たすように何度も連絡した。これは

②「問題を起こした責任者を追求しない」

これに当てはまる。僕はそれをしてしまったのだ。そして、「仲良くやれよ」「評判悪いよ」と言われたのは。

③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルに触れず、無かったことにする」

ということなのだ。理由や原因はとにかくトラブルを嫌う。巻き込まれるのを嫌がる。

「狭い街で今後も付き合って行かねばならないのに、揉めないでくれ!」

という思いなのだ。いや、無意識にそう考えて対応しているのだろう。「トラブル」=>「見ない振り」「責任追求」=>「叩いて潰さないと」そんな感じさえした。だが、それなら町おこし映画など作らなければいい。何もしなければトラブルは起きない。

でも、街をアピールしたい!このままじゃいけないという思いもある。長年の習慣にしばられているのだ。ただ、映画作りは違う。決められたことをせねばならない。責任あるものは責任を果たさなければならない。それをしない、放棄する人たちを庇うことだけでは前に進めない。

「やりたくない!」という人に何かを頼むべきではない。でも、「やる!」といったら、やらなければならない。もし、できないなら「できない。担当を変えてくれ」と言えばいいのに、何も言わずに引きこもったり、逃げ回ったり、筋の通らぬ言い訳をする。

要は「アイツは投げ出した」と思われたくない。それを周りは察して指摘せず、庇う。それなら内内で話して、担当を変えればいい。そうすれば前に進める。なのに触ろうとしない。コンタクトを取らず。解決しようとする人を批判する。

「仲良くしろ」

つまり「うるさくいうな」ということ。それを表向きの言葉で注意してくる。当時は意味が分からなかったが、古くからの田舎の風習とも言える防衛法。トラブル処理法だったのだ。すでに書いたが、昔はそれでも何とかなったのだろうが、今の時代はそれでは何も解決しない。大きな客船に乗り、それが沈没しかかっているのに、原因を究明せず、問題を解決しようとせず。トラブルを見ない振りして、知らない振りして、船に乗り続けるようなものだ。

今の政府がまさにそれ。問題はあの人だと誰もが気づきながら、責任を追求する議員やマスコミを潰しにかかり、目の前の問題を見て見ぬ振りをする。それどころか公文書や調書を改ざんしてまで問題がないと思わせようとしている。沈もうとしている日本丸を「問題はありません。以前より良くなりました」とアナウンスし続けている。

そして多くの国民もそれに気づきながら、見て見ぬ振りをする。トラブルを知らない振りをする。トラブル=国難は何なのか? 誰が国難なのか? もう、北朝鮮は脅威ではない。ムラ社会ルールから脱却して、本当のトラブルを見つめること大事。見ない振り、知らない振りはもう終わりにしよう。日本のムラ社会ルールを終わりにするのは今なのだと思えている。

(ムラ社会ルール?)

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」
②「問題を起こした責任者を追求しない」
③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルに触れず、無かったことにする」
④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」
⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」



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日本人を縛る過去の習慣ーそれから脱却してこそ、日本人は希望をつかむことができる! [ムラ社会ルール]

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日本人を縛る過去の習慣ーそれから脱却してこそ、日本人は希望をつかむことができる!

そもそも、なぜ「ムラ社会」ルールのことを考えたのか?というと、僕は本当にその種のことに関わることが少なかったからだ。一つの町で生まれ育っていない。10年以上同じ町で暮らしていない。例外は東京だけ。住んだ街も衛星都市が多く、新興住宅地。横に繋がりがあまりない。おまけに捻くれ者で変人と言われている。近所付き合い、親戚付き合いというのをしない。

引っ越しが多かったので、近所の人と20年の付き合いなんてない。友達関係は本当に気が合う奴とだけ。そんな身軽な?孤独な?境遇なので、周りの顔を立てるとか、協調とかする必要がなかった。さらに村ルールでは、

④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを避け、協調を大事にする」

というのがあるが、僕は全て逆をやっている。人がしないことばかりしている。田舎にいれば嫌われ者の村八分になっていただろう。映画界で仕事を始めてからはまさに「トラブルメーカー」と呼ばれていたし、常に問題を起こして来た。

と言って、人を利用したり、ハメたり、騙したりというのではない。製作会社が理不尽なことをする。Pが誤魔化しをする。そのためにプロジェクトが停滞する。約束のギャラが払われない。そんな時は抗議し、批判し、問題を解決しようとする。当然、相手は「すみませんでした」と非を認めて謝るはずもなく、さらに誤魔化す。嘘をつく。圧力をかける。開き直る。

ここでも同じ構図がある。

先輩にトラブルメーカーと言われていたが、僕がトラブルを起こすんじゃない。会社側やPがやってはいけないことをする。そこで雇われた僕たちが我慢し、泣き寝入りをすればトラブルにはならない。ここも村ルールと同じ。

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」

でも、僕は対決する。それがトラブルを起したと見えるようだ。多くの人は会社やPとはことを構えない。また次も仕事をもらうから。仲良くせねばならない。嫌われたくない。だから、泣き寝入り。我慢する。ただ、僕は我慢しない。交渉する。解決策を考える。仕事をもらえなくて結構。

当然、次の仕事はない。しかし、映画界は村社会とは違う。他にも会社はある。それに自分で仕事を立ち上げることもできる。決裂した会社のほとんどは、その後倒産している。誤魔化し嘘。それは経営が厳しいからだ。前向きに利益を上げることより、フリーの人間から搾取してピンハネしている会社だ。結局、潰れる。

もし、僕が地方の田舎町で生まれ育ち。ムラ社会ルールの中で育ち、それを体得していたら、そんな対応はしなかったかもしれない。その対応こそが上手な生き方で、トラブルを起こさず、平穏に生きられると判断したかもしれない。いや、そうではないかも? そもそも平穏な人生を送ろうとは全く思っていない。いくら安定していても毎日、会社に通い、好きでもない仕事をして、残業して、くたびれ果てて家に帰る。

そんな生き方は絶対に嫌だった。

小学生低学年の頃は報道記者になり、事件を追う仕事をしたい!と思ったことがある。刑事になりたいということもあった。もちろん、ドラマの影響。何か波乱万丈、戦いがある人生を望んでいたのだろう。戦国時代か幕末に生まれていれば!と思ったこともある。坂本龍馬の海援隊に参加したかもしれない。

それが映画と出会って、観客を感動させる映画を作りたいと思うようになった。毎回、遺作だと思って全力投球する。完成披露試写会で死んでもいい。それはそれで楽しい人生だ。退屈な仕事をしながら、平穏無事に何十年生きても面白くない。つまり、ムラ社会ルールの「通念」と真逆にいる。「平穏無事」=村社会が一番大切にすること。僕はそれを望んでいない。

望んでいないもののために、理不尽な人の面子を立てたり、被害を受けても我慢し泣き寝入りすることはできない。問題を解決することで、多くの人が喜び、街全体がハッピーになれるのなら、理不尽な者は罪を償い、反省するよう求めるべきだ。平穏より大事なものがある。それは町全体のメリットであり、多くの人がハッピーになること。一部の人たちの悪行を見逃して、その被害者を責めるのは間違っている。

原発問題がまさにそうだ。

エネルギーは足りている。既得権益を求める一部の人たちのために原発は推進されている。そいつらの立場を心配し、面子を考える必要はない。トラブルになっても止めるべきだ。何より原発自体がトラブルなのだ。沖縄問題も同じだ。本土の人間は見て見ぬ振りをしている。沖縄に泣き寝入りを求めている。それはいけない。必要のない基地を作る必要はない。トラブルになっても違うと伝えるべきだ。

そもそも問題を解決する途中経過を「トラブル」と呼ぶのだ。そこで原因を考え、責任者を追求し、改善する。結果、全体のプラスになる。見て見ぬ振りをしても解決しない。もはや日本人は小さな村。小さな日本だけでは暮らしていけない。世界との繋がりがある。そんな時代に過去の習慣に縛られていてはいけない。そんな悪習はかなぐり捨てて、本当に大切なことは何か?を考える時期なのだ。

(ムラ社会のルール?)

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」
②「問題を起こした責任者を追求しない」
③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルに触れず、無かったことにする」
④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」
⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」



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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている⑦=自分たちで自分の首を絞める地方の構図? [ムラ社会ルール]

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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている⑦
=自分たちで自分の首を絞める地方の構図?

「故郷をPRする映画を作りたい!」そう思っても、昔から地方の人たちを縛るムラ社会ルールが、それを邪魔することが多い。まず、

ルール④「人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」

地方映画は多くの町で作られるが、どこでもここでもということではない。まだまだ、新しい動きだ。「だから、よく分からない。だから、やめておこう!新しいものは危険だ」と考える。それを勉強して研究して、効果を考えるということをなかなかしない。

中には「観光協会や役所の観光課があるのだから、余計なことをして睨まれたくない」と考える人もいる。「協調が大事」なのだ。また、映画を作ってトラブルが起きたらどうしよう?と考える。これもルール④にある「トラブルを避け、問題を起こさないこと」だから、結局やらない。

もし、それらをクリアできて準備が始まったとする。しかし、映画製作は困難の連続。いや、映画だけでなく、何をするというのは壁を超えて進まなねばならない。問題やトラブルは当然出てくる。すると、

ルール①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」

そんなことでは問題は解決しない。そこから綻んでプロジェクトが中断。崩壊する。それに

ルール②「問題を起こした責任者を追求しない」

ルール③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルには触れず、無かったことにする」

そんな対応をしていては問題は解決せず、でも、最後にこれがある。

⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」

これでは映画製作だけでなく、町のプラスになることは何もできない。ということで地方は過疎化に悩まされ、安易に原発を誘致するkとことを考えたりしてきたのだ。国や県にすぐ何かを頼みこむのは同じ。地域の中で何かするとトラブルが起こり、協調が壊れるから何もできないが、お上が何かしてくれるのはOK。ということなのだ。

これは自治体や役所。大きな会社でも同じ構図が見られる。経済的に上手く行っていて、何かを犠牲にしたり、競争しなくても、安定した生活が送れる場合。例えば公務員は頑張っても手抜きをしても、給料は同じだ。大手の会社も似た構図。高度経済成長時代はそんな感じ。それより社内、部内で揉め事を起こしたり、仲間とトラブルにならないこと。平穏に仕事ができることを優先する。

毎日顔を合わす同僚への気遣い。上役のメンツを潰さない。新たな企画を立ち上げたりしない。前例に従い、目立たないようにする。ムラ社会そのもの。しかし、それでは行かなくなってきた。会社が倒産。アジアの国に技術でも売り上げも抜かれしまう。もう、今までと同じことをしていては日本は生き残れない。なのに、政治もビジネスも過去と同じ方法論で進めようとしている。

それはまさに町のPRのために故郷映画を作ろう!と言いながら、皆の顔色を見て、問題が起こっても見て見ぬ振りをして、プロジェクトを潰したり、完成しても活用ができない地方の人たちと同じ構図なのだ。公務員は大丈夫!という人もいるが、近い将来、公務員の大量リストラが噂されている。地方自治体だけでなく、多くの会社で一番大きのが人件費だ。それが今、AIに取って変わろうとしている。

スーパーのレジも機械化が進み。従業員がレジにいない店が増えた。その内、役所もそうなり、戸籍謄本や住民票は全て機械で発行。税務署なども、オートメーション化されていくだろう。そうなれば大量リストラ。その時に切られるのは、新しいことをしようとせず、周りの顔色ばかり見ていて、トラブルを見て見ぬ振りをする。役に立たない。ムラ社会ルールに縛れてている人たちではないか?

大胆に言えば、その種の人たちがいるから、新しいことができず、トラブルや問題が解決できず、全体のメリットになることができないのだ。つまり、今、日本が陥っている20年に及ぶ不況。経済問題。政治不信は、国民がそんな古い習慣に縛られているからではないか?
問題ある政党が与党を続けるなら、変えればいい。別の党に投票すればいい。なのに、文句を言いながらも投票には行かない。

特に地方ではルール⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」と、いつもお世話になる。あの先生に投票する。そのことで新しいことの出来ない。協調しかできない議員がまた生き延びてしまうのだ。どうすればいいのか? もう少し、ムラ社会ルールについて考えたい。

(ムラ社会のルール?)

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」

②「問題を起こした責任者を追求しない」

③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルには触れず、無かったことにする」

④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」

⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」





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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている⑥ 原発事故でもムラ社会ルールで対応? [ムラ社会ルール]

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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている⑥ 原発事故でもムラ社会ルールで対応?

そもそもは、狭い社会で平穏無事に暮らすための知恵だった。そのルール、習慣に従えば、争わず、仲良く?生きていける。だからこそ、条例で決めたり、書き出して毎日、復誦させなくても、各地に根付き。現代の日本人にも受け継がれたのだろう。

地方で長年暮らしていれば、自然と身に付き実践できるようになる。日本人が「空気を読む」というのと似たようなもので、教えられなくても多くが体得する。それができる人が、その地域でうまい世渡りが出来るようになるのだろう。

しかし、このムラ社会ルール。トラブルが表面化しないというだけのもので、根本的な解決にはならない。迷惑を我慢する。被害者を批判するというのは、本質から考えると歪んだ形の収拾法でしかない。思い出すのは原発事故。東京の電力を賄うために地方に原発を作り、その原発が事故った。困るのは地方だけ。東京は知らん顔で他人事という構図に近い。今、国がやっているのは

「原発事故は収束した。大きな被害はなかった。死者は出ていない。食べて応援」

=①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」

②「問題を起こした責任者を追求しない」

③「トラブルには触れず、無かったことにする」

全く同じ。やはり、ムラ社会ルールというのは非常に日本人的と思えてしまう。また、昔々ならその歪んだルールも機能した。が、日本が農業主体でなくなり、狭い地域でトラブれば都会に出て行き別の生活をスタートすることもできる時代になり、狭い村だけでなく、交通手段の発達で近隣の町との交流も可能になった現代。もはやムラ社会ルールに縛られなくても大丈夫な時代になっている。

それどころかルールが町をダメにする側面が増えているのに、今も縛られたままという町が多い。現在、多くの地方が直面しているのは税収の低下だ。そのために大手企業の工場を誘致する地方が多い。税金を安くして、工場に来てもらい、市民を雇用してもらい、税も払ってもらう。H市にはかつて大手企業の工場がいくつもあった。が、この数年で、大手自動車会社のHと、楽器メーカーのYが他の町に移設した。

より税金の安い近隣の市に移ったのだ。しかし、そんな誘致ができる自治体は少ない。税金が安くても交通の弁が悪いと企業は来てくれない。そこで目をつけたのが観光だ。元手が要らず、他県から来てくれれば宿泊、食事、お土産と多くのお金を落としてくれる。だが、これも奈良、京都のような古都なら放っておいても観光客が来るが、小さな無名な町に来てくれる人は少ない。

そこで20年ほど前から注目されているのが、町おこし映画。そのことは何度も記事で紹介した。地元の映画を作ることで、町をPRする。大林宣彦監督の「転校生」が大ヒット。その後の尾道シリーズによって尾道は有名ロケとなり多くの観光客が押し寄せた。にも関わらず、故郷映画を作る地方の多くは失敗している。理由は僕がいつも書く、不勉強である。別の業界の論理で映画製作するからだ。

そして、もう一つはムラ社会ルールに縛れられて、自らチャンスを潰してしまう。努力して作品をダメにすることが多いからだ。その件は詳しいので次回、書いてみる。

(ムラ社会のルール?)

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」
②「問題を起こした責任者を追求しない」
③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルに触れず、無かったことにする」
④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」
⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」


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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている⑤ なぜ、地方の原発反対デモは多くが参加しないのか? [ムラ社会ルール]

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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている⑤ なぜ、地方の原発反対デモは多くが参加しないのか?

あれこれ振り返ると、「あれ?」と思ったことの多くはムラ社会ルールに縛られた人たちの行動や反応であることに気づく。そもそもは農業主体の地方が多く。狭い村でトラブルを起こさずに平穏に暮らしていくための知恵でもある。では、都会でも同じルールや習慣があるのだろうか?

地方は同じメンツが何十年も顔を合わせて生きて行かねばならないので、見て見ぬ振りをしたり、責任を追及しないことでトラブルを沈静化させたりという習慣が出来てきた。対して都会では人口が多く、会社というところで仕事し、家は帰って寝るだけという形。隣近所に誰が住んでいるか?分からない。交流がない。

そんな環境だとムラ社会ルールが必要なくなる。会社で仕事すれば給料がもらえる。昔の農業のように村の人たちの力を借りたり、協力を得なくてもいい。近所の人たちと協力して村祭りをする必要もない。周りに配慮しなくても、気遣いしなくても困ることは基本ない。そんな都会で生まれ育った子供は地方と違い、トラブルを見て見ぬ振りをしたり、責任者を追及しないという習慣を学ぶ機会も少ない。

それが背景なのか? 原発反対デモ。東京では数万人が集まるが、地方ではかなり少ない。100人以下というところもある。僕が以前に取材させてもらったデモは20人だった。近くに大きな原発があり、そこが事故ると、その街は全滅と言われている。決して小さな町ではない。誰もが知る有名観光地。人口も多い。でも、デモ会場には20人。

「原発の危険性は市民はみんな分かっているんですけど、集まる人数はいつもこんなものです...」

と話していた。この背景にあるのもムラ社会ルールではないか? 

④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」

これに当てはまる気がする。デモをすれば電力会社や自治体と対立になり、トラブルになるかもしれない? だから避けたい。「人と違うことをしない。新しいことを毛嫌い」日頃しないデモに参加する。原発反対という311以降の動きを拒否。参加してもし、近所の人に何か言われたらどうしよう? トラブルに巻き込まれたら嫌だ。近くの原発が事故れば大変なことになる。観光地なので実害がなくても、風評被害だけで収入は激変。生活ができなくなる家庭も出る。それでも

⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合いを大切にする」

周りの目を気にしてしまう。そんな思いが参加者を増やさないのでは?対して都会のデモに参加したからと言って、隣の人に「デモに行ったのね?」と言われたり、会社でトラブルになったりはしない。次原発が事故れば東京は危ない!止めなければ!という思いが行動に結びつく。東京の人口が多いからデモ参加の人数が多いというだけではないと思える。

しかし、東京はそのルールに縛られていないか?というと、そうでもない。お役所や大手企業。そして国会でも、その習慣から抜け出せないでいることが多い。そして日本全体で見ると、その体質、習慣が世界から置き去りにされつつある現実を助長していると感じてしまう。それはまた次回に。

(ムラ社会のルール?)

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」
②「問題を起こした責任者を追求しない」
③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルに触れず、無かったことにする」
④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」
⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」

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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている④=映画監督B君の経験から、せっかくに故郷映画を無駄にした町 [ムラ社会ルール]

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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている④=映画監督B君の経験から、せっかくに故郷映画を無駄にした町

後輩の映画監督B君も「ムラ社会ルール」を痛感したという。彼も地方を舞台に町おこし映画を作ることがある。地元の自治体や委員会から依頼されて映画を撮る。でも、小さな町で作った故郷映画。せっかく完成したのに地元のリーダーが宣伝しようとしなくて困ったという。

「いよいよ、公開。映画館での上映も決まった。地元ならテレビCMとかなくても人海戦術で宣伝できる。必ずヒットできる」

と張り切っていた。が、そのリーダーがいつまで経っても動こうとせず、街にはポスターも貼られず、チラシも出回っていない。すでに配給会社はそれらを印刷。地元に送っているのにである。B監督は何度もリーダーに電話し、メールしたが、その内、返事さえ来なくなった。

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その映画。メンバーは皆、そのリーダーが集めた人たち。B君が彼を飛び越えて皆に声をかけるのは憚られた。そのことでリーダーが気を悪くすればさらに動かないという不安もあったという。そこで、お世話になったある会社の会長に会った時にお願いした。

「リーダーが動いてくれない。宣伝をしないとせっかくに映画を市民に知らせることはできない。彼に一言いってもらえませんか?」

会長はそれなりの年齢で、リーダーよりも年上、顔も広い。意見するにふさわしい人だ。が、彼はいう。

「僕より彼をよく知る人がいる。その人から意見させよう」

しかし、何週間経っても返事はない。そこで他にも映画に協力してくれた年長の方々にお願いした。が、ことごとく断られた。B君は次第に憤りを感じる。街をPRする映画を作った。自治体からも金が出ている。税金だ。宣伝しないと映画公開を伝えられない。なのにリーダーは何もしない。誰も彼に注意しない。おかしい!

「もしかしたら、リーダーは若いけど、影の実力者で、意見すると後が怖い!という人なのかも? 実はヤクザかも!」

でも、町のために市民活動を続ける40代のオジさん。悪辣な部分はなく、情熱的だ。そもそも、彼が企画して資金を集め、依頼してきた映画。やる気をなくすのも変だ。B君は町の人たちの対応が理解不能だった。


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あとで分かったこと。実際、リーダーは影の実力者でもヤクザでもなかった。しかし、多くがもし、彼に意見して揉めたら嫌だなと思ったという。年長の会長さえもそれで人を紹介し逃げた。決してリーダーは気が短いとかではない。でも、もし、揉めたら嫌だな。という不安があるので、皆、意見しなかったのである。

B君には理解不能。映画は町のため、市民のため、そのためにやる事をやらないリーダーに意見して何が悪い。そもそも彼は町のために頑張っている人。言われて怒るようなタイプでもない。B君に理解できなかった事。それこそが「ムラ社会」ルール。とにかく揉める可能性が少しでもあれば、恨まれるかもしれないと思ったら関わらないでおく。それが田舎の習慣なのだ。

町のためになる。市民が喜ぶ。それよりも地元同士が揉める事には関わらない。まさにルール①「トラブルが起こっても見て見ぬふりをする」それを町の実力者たちが守ったという事だ。それどころかルール②が始動する。リーダーが動かない事を批判していたB君を町の人たちが非難し始めたのだ。

「仲良くしなきゃダメだろう?」

「あんたが何かしたから彼はヘソを曲げたんじゃないの?」

「B君。評判悪いよ。余計な事を言うからだよ」

リーダーの差し金ではない。B君を応援していた人たちの言葉だという。まさにルール②だ。

「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルには触れず、無かったことにする」

こうして地域社会ではトラブルが起こると、被害者を押さえ込んで沈静化を測るのだろう。ここからルール③も見えてくる。

「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを毛嫌いし、協調を大事にする」

後日談だが、リーダーは決してB君に腹を立てて、宣伝をしなかったのではない。すでに市民は映画の事を知っているので宣伝はさほど必要ないと思ったようだ。が、その事をB君には告げず、連絡が来てもダンマリを続けた。正直、情熱あるB君が面倒になったとも言っていた。

「そこまでしなくても映画はヒットするよ〜」

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そんな事を言ってB君と揉めるのが嫌だったらしい。ムラ社会ルールの①「トラブルは見て見ぬ振り」の活用だろう。争わない。知らん顔をしてやり過ごす。沈静化を待つ。だが、リーダーの読みとは違い映画はあまりヒットしなかった。B君の不安は的中。市民で映画が上映されている事を知る人は少なく。数週間で上映は打ち切りとなった。

誰かがリーダーに意見していたら。リーダーがちゃんとB君に説明していたら、町おこし映画はヒットして町の魅力を伝えたはずだ。それを成し得なかったのは誰の悪意でもない。ムラ社会ルールに縛れた人たちの反応が多くの市民の努力を無駄にしてしまったのである。映画だけではない。日本の政治。同じような構図がかなりある。一部の人たちのメンツのため。利害のため。多くがバカを見る政策が溢れている。

(ムラ社会のルール?)

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」
②「問題を起こした責任者を追求しない」
③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルに触れず、無かったことにする」
④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」
⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」

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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている③=映画製作と比較してみる? [ムラ社会ルール]

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日本人を縛るもの。そのルールが日本をダメにしている③=映画製作と比較してみる?

「トラブルが起こっても見て見ぬ振りをする」

「被害者が責任者を問い詰めようとすると、周りが被害者を批判し抑え込む」

ムラ社会ルールのこの部分、僕は理解できない。いくつかのケースを当てはめてみる。トラブルの責任者が町の顔役とか、実力者であれば、まだ分かる。時代劇でよく描かれる構図だ。お代官様と農民。泣き寝入りするしかない。これが農民同士。市民同士ならどうか? 

僕個人はトラブルの原因を解明し、なぜ、その人がトラブルを起こしたのか? 悪意があったのか? 欲得なのか?をハッキリとさせ、被害を受けた人がいるなら賠償や謝罪をするべき。と考える。というのは映画製作も同じだからだ。一番大事なのは素晴らしい映画を完成させる事。そのためにスタッフ間の争いは避けねばならない。

でも、誰かが大失敗した。あるいは争いを起こした。その時は関係者から証言を聞き、先に書いたように原因、動機を探る。そして、うっかりミスなのか? 恋愛のもつれ? あるいは嫉妬? 環境の劣悪さに対する不満。背景が何であるか?を突き止めて。当人を注意する共に、トラブルとなった原因、金銭、環境、時間、労力等の改善をする。そうすれば同じ問題は起こらず、撮影を進めることができる。

最近は皆素晴らしいスタッフばかりで問題は起こらないが、初期の頃。共に現場を何度も踏んでいない人と仕事していた時は、その種のトラブルがいくつか起こった。先に挙げたように環境や金銭のことなら改善することでクリアできるが、価値観、性格が原因の場合は別の手段を取るしかなくなる。

酒乱である。女癖が悪い。暴力を振るう。すぐに喧嘩する。古い価値観を振り回す。注意して直ることもあるが、その人の根底にあるものである場合。本人も直すことができない。撮影現場は仕事の場であり、学校ではない。更生施設でもない。先のタイプの人たちは素晴らしい映画を作る上で、足を引っ張る存在となる。次回からは参加してもらわないという措置を取る。

仲良しクラブで映画を作っているのではない。現場では仲良く仕事をすること大事だが、トラブルを起こしたスタッフ、それも反省せず、同じ事を繰り返す可能性がある人を再度、チームに呼ぶことはできない。日頃はいい人でも酒を飲むと豹変する。女のこととなると性格が変わる。それはアウトなのだ。

撮影チームならそれが大事。会社や野球チームも同様だ。それが小さな村で大事なのは、平穏無事なのだ。映画製作や会社で大事なのはより良い商品を作り、売り上げを上げる事。皆が仲良くやることではない。仕事はサークル活動ではない。問題ある人には反省してもらい、それができなければ外れてもらう。そうしなければより良い製品を作ることはできないからだ。

しかし、小さな村。例えば江戸時代なら農業をしていれば、貧しくてもそれなりに食っていけた。だから、一番大切なのはその生活を守るための平穏無事となる。映画製作や会社では良い物を作らないと稼げないから、トラブルを起こし、仕事の邪魔となる存在は排除される。でも、役所とか、大企業とか、倒産する心配のない世界では、ムラ社会と同じような論理が根付いてくる。

良い仕事をするより、揉めないこと。新しい事をしない事。目立たない事。政治の世界でも同じではないか? しかし、それでは許されない時代が始まろうとしている。次回、それを考える。

(ムラ社会のルール?)

①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」
②「問題を起こした責任者を追求しない」
③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルに触れず、無かったことにする」
④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」
⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」


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