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この映画について再び考える=沖縄住民の悲しみを理解するには? [「島守の塔」疑惑]

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この映画について再び考える=沖縄住民の悲しみを理解するには?

ある映画関係者はいう「ドキュメンタリー映画じゃないんだから、歴史通りに描くことなんて無理なんだよ。だから脚色ということが必要なんだ。どの映画の常識だよ!」沖縄在住の友人が言う。「これが信長とか秀吉の映画ならいい。でも、島田知事は77年前まで生きていた人。彼は知事としての職務もマットーしたが、戦争犯罪人でもある。映画では住民を守ると言っていたが、本当は死ななくてもいい人を数多く死に追いやっている。そんな人が偉人であったと言う映画を作る意味って何だろう?関係者もまだ多く生存しているのに」

そう。他の歴史物とは背景が違う。「坂本龍馬は女だった」と言う映画を作っても誰も困らないが、沖縄戦で多くの若者を死に追いやるきっかけを作った知事。その黒い部分をほとんど描かず、事実ではない美談を作り、実名で描くのはどうなのか? 多くの人たちは、それが史実だと思ってしまう。

実際こんな感想をいくつも見た「こんな素晴らしい知事が実在していたなんて知らなかった!」「感動した!」「いつの時代にも戦争に抵抗する人がいると思い嬉しかった」だが、島田知事は戦争を推進する役目であり、シンドラーや杉原千畝のように政府に隠れて住民を救ったりはしていない。それどころか軍に対して「住民に釜や包丁を持たせて米軍に突入させよう」と言う提案までしている。それが映画では「どんなことをしても住民を守る!」と誓うのだから困りもの。

そんな映画を見て当時、家族を失った人たちはどう思うのか?分かりやすく言い換えると、ナチスのアイヒマン。多くのユダヤ人をアウシュビッツで殺害した。それを「実はアイヒマンはユダヤ人を助けようとした」と言う映画を作るとどうだろう。世界中のユダヤ人から批判が起こり、制作は中止になるだろう。事実、日本の雑誌「マルコポーロ」は1990年代に「アウシュビッツはなかった!」と言う記事を掲載。世界中から批判を浴び、廃刊となった。

今もアウシュビッツで命を奪われたユダヤ人の家族は生きているのだ。そんな人たちに「アイヒマンは素晴らしい人だった!」と言う映画が受け入れられるはずがない。同じように沖縄には沖縄戦で家族を亡くした人たちが今も生きている。その人たちの気持ちを考えれば、この種の物語を作れる訳がないと思うのだ。だが、映画関係者はいう。

「でも、主人公たちを美化した訳ではないし、脚色のレベルだよ。目鯨立てるほどの話じゃない。よくある話さ」

確かに映画界ではよくある話。だが、彼の感覚は麻痺している。信長や龍馬と77年前の史実。関係者がまだ生きている歴史の1ページを一緒に語れない。ただ、僕の映画の仕事をしている。彼の言うことも、制作した人たちも立場も分かる。あれこれ制約はあるものだ。思った映画が撮れるとは限らない。シナハンで1度、沖縄に行っても何も分からない。でも、そんな状態で映画にせねばならない。日本映画界は貧しい。

しかし、考えてみよう。原発に興味ない人が「Fukushima50」を見ても感動大作にしか思わないが、原発に詳しい人が見れば、あんな大嘘映画はない。完全なプロパガンダ。事故を起こした一番の責任者(東電)が日本を救った!?と言う物語。事故被害者が許せるものではない。

また、沖縄は戦中のみならず、戦後はアメリカ。戦前は大日本帝国。その前は薩摩藩。琉球時代は中国と、長年に渡って押さえつけられてきた島だ。そんな統治者の一人である島田知事を美化し、偉人として描くこと。それも事実ではないものを美談として描いた映画。沖縄の人たちに取って屈辱以外の何ものでもない。

その辺の背景を先の映画関係者は知らない。分からない。沖縄の事情をほとんど知らない。だから「映画界ではよくあること!」で済ませられるのだ。よくあることでも、今回は許されないことが分からない。沖縄に住む友人の多くは「この映画を絶対に見ない!」と言う。大手新聞社のベテラン記者は若手に「あの映画を真に受けてはダメだぞ」と注意しているそうだ。

では、なぜ、そんな映画ができてしまったか?昨年に追求ルポを連載。そこにも書いたが制作サイドに悪意はない。歴史修正主義者でもない。詳しくはルポに書いてあるが、結論として言えば、こう言うことだ。沖縄のことをよく知らない。さほど興味がない。それでもお金が集まる感動的な企画をせねばならない。そいうことのようだ。

何度も書いているが、沖縄戦は学校では教えない。映画や漫画にもほとんどなってない(有名なのは「ひめゆり」だけ)だから、みんな知らない。政府も企業は知らずにいてほしい。青い海の観光地と言うイメージだけにしたい。その方が次の戦争を始めやすい。そんな背景があるからこそ、この種の映画が安易に作られてしまう。沖縄住民の気持ちを考えると絶対に作れない映画。ただ、映画界でも一般社会でも沖縄住民の気持ちを知る機会は少ない。

先日、「ドキュメンタリー沖縄戦」の第三弾の取材で沖縄を訪ねた。この映画の話になり、先のことを聞いた。ドキュメンタリーではダメ。「劇映画を作らないといけない!」と改めて痛感する。戦争犯罪人である知事の事実でない行動に涙する観客に伝えたい。「沖縄戦はそんなものんじゃない!」劇映画でないと伝わらないものがいっぱいある。ただ、企業も映画会社も本物の沖縄戦を描くと支援してくれない...。クソ。

追求ルポ=> https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-23-3


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映画が歴史を捻じ曲げ、間違った事実を観客に与える=そこにどんな意味が? [「島守の塔」疑惑]

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映画が歴史を捻じ曲げ、間違った事実を観客に与える=そこにどんな意味が?

このツイート者「戦争の犠牲になるのは軍人だけでないこと」を映画を見て感じたという。その通りだ。ただ、「どのような状況でも、それ(戦争)に抵抗しようとする人物がいること」ーこれは間違い。この映画の主人公である知事は戦争を推進するため、政府から言われたことをしただけであり、抵抗はしてない。抵抗すれば即左遷。むしろ「住民に釜や包丁を持たせて米軍に突入させる」ことを提唱した人物。

女子供を疎開させたのも戦争をする上で邪魔だから。同時にそれは政府からの指示。どの県の知事もやっている。住民を救いたいという思いではない。それどころか男性の疎開は禁止。14歳から70歳までの住民を徴用。軍人の補助をさせている。戦闘に参加させさる。「どのような状況でも、それ(戦争)に抵抗しようとする人物がいること」という物語ではない。戦争を推進した知事の物語だ。

それを歴史的事実を書き換え、嘘を盛り込み「住民を救うために命を賭けた知事」という180度違う物語にしたのが、この映画である。なぜ、この種の作品を作る必要があったのか?制作サイドは歴史修正主義者ではないのに、なぜ? 考えてしまう。



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改竄された歴史を「感動の実話」とツイートする映画ファン=だが、映画の宣伝も「実話」と思わせるもの。 [「島守の塔」疑惑]

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改竄された歴史を「感動の実話」とツイートする映画ファン=だが、映画の宣伝も「実話」と思わせるもの。

この映画は事実をもとにしながら「Fukushima 50 」と同様の手法で事実をねじ曲げて作っている。戦争犯罪が人道主義者に。多くの県民を犠牲にした人が、県民を救った英雄と描かれている。つまりフィクション。

そのことを劇中でも、宣伝で伝えず。観客はこれが実話と思い込む人、続出(写真はそんなお一人のツィート)と言って製作サイドは歴史改竄主義者ではない。それゆえに大きな問題を感じる。



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島守の塔ー研究。なぜ、歴史を忠実に再現せず、島田知事を美化し、偉人にしたのか? [「島守の塔」疑惑]

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島守の塔ー研究。


①あの映画はなぜ、実在の人物を美化して沖縄戦を描いたのか? 
https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-02


②「戦争推進の知事」を脚色して「住民を救った偉人」に?まさに沖縄戦を再現。
https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-14

③映画監督の葛藤=地元の願いを無視? しかし、嘘で美化しないとこの映画は作れなかった? 
https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-19-1


④島守の塔」やはり罪は重い。フィクションを事実の映画化と勘違いさせる宣伝。だが、監督は事実を描いてないことを認識?https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-20

⑤劇映画を実名で描く難しさ=「島守」「F50」「Minamata」自身への戒めも!https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-20-1


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「島守の塔」やはり罪は重い。フィクションを事実の映画化と勘違いさせる宣伝。だが、監督は事実を描いてないことを認識? [「島守の塔」疑惑]

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「島守の塔」やはり罪は重い。フィクションを事実の映画化と勘違いさせる宣伝。だが、監督は事実を描いてないことを認識?

知事を偉人にした理由は突き止めたので、一段落と思えていた。が、同じ監督業として「それはいかんぜよ!」と言う思いと、映画業界あるあるで苦しむ監督の気持ちも分かる気もし、あれこれ考えてしまう。Twitterで調べると、こんな感想があったので、茶々を入れてみる。

「私は島田知事も荒井本部長のことも知らなかったし、史実も知らない事ばかりでしたが、まだまだ戦争を知らない世代へ語り継がなければならないことがあるって改めて実感できました」<=映画の2人の行動は事実ではありませんよ。フィクションです。

「沖縄戦で玉砕主義が採られていく中、「命どぅ宝、生き抜け!」と最後まで叫び続けた沖縄県知事と警察部長の感動の実話」<=そんなこと叫んでいません。小声で言っただけです。あと「実話」でもない。

「これまで「島守の塔」の存在をまったく知りませんでした。こんな方がいたんですね。本土の人(やまとんちゅ)にとってこの映画は必見に値すると思います」<=これが歴史だと伝わるのなら必見にしない方が

「頭の良さだけでなく、人徳が高く、行動力のある島田知事のような方に是非戦後日本の復興の最前線で活躍していただきたかった」<=国の指示通りに戦争を推進した人です。

と、天邪鬼なことを書いたが、この映画が事実であると思っている人が多数がおり、島田知事たちが素晴らしい人!であると真に受けている人も多い。しかし、この映画のチラシ。HPの解説を読めばそう思う。

「鉄の暴風と言われた激しい空襲、艦砲射撃、上陸戦の絶望に追い込まれた沖縄戦。その中で「生きろ!」と後世に一筋の命を託した2人の官僚と沖縄の人々の物語を映画化」

「これフィクションです」という記述はない。ただ「事実の映画化」とも書いていない。「人々の物語を映画」とある。だから、嘘は言ってないけど「事実ですよ〜」と思わせる文章。HPにはこうある。

ー映画「島守の塔」は第2次世界大戦末期、長期の地上戦が決行された地沖縄を舞台に、県民の命を必死に守る戦場の知事と1人の警察部長の
それぞれの苦悩や葛藤などの生き様を通して「人間の命の尊さ」を描く映画を企画しました。「命(ぬち)どぅ宝」の言葉が、戦争の記憶をいつまでも風化させず「人間としての命の尊さ」を発信できるものと確信していますー

これも「事実を映画化」とは書いていないが、どう読んでもそう思えてしまう。フィクションとか、島田知事を脚色しと言う記述はない。そんな中、監督のインタビュー。中国新聞の記事を見つけた。

 「フィクションの劇映画として人間を描いた。さまざまな証言やエピソードを基に人物像や物語を作り上げ、何度も脚本を書き直した」と五十嵐監督。

 やはり監督はフィクションと認識している。つまり、このFB記事で何度も指摘した通りに、島田知事のキャラを脚色、偉人として描いたということ。だが、制作サイドは宣伝でそのことを一切説明せず、事実の映画化!と勘違いする解説をし、HPにそれを綴っている。新聞記事は続く。

ー新型コロナウイルス禍で撮影を1年8カ月中断し、昨年11月に再開。復帰50年の節目に間に合った。沖縄では「美化し過ぎている」「史実と違う」という声も受けた。ー

つまり、沖縄からは当然の批判が出た。これに対する監督の答えはなく、記事はこう続いている。

ー「基地のある沖縄は、まだ沖縄戦が終わっていない」と五十嵐監督。「日本人は忘れやすい。語り継ぐ映画を作り続けることに意義がある」と力を込めた。

これはおかしい。「語り継ぐ映画」?嘘を語り継ぐの? 監督は「フィクション」といい「事実ではない」ことを認めながら、この歴史的な事実を「語り継ぐ」と意味不明の発言。島田知事らの描写以外は事実だ。その歴史の部分だけを「語り継ぐ」ということか? でも、それはご都合主義。

いや、責めるのはやめよう。つまり、島田らの故郷からの支援で映画はできた。偉人にするしかない。だが、事実は違う。脚色し偉人にしたのだ。だから監督はフィクションと言う。

しかし、制作サイドは支援者たちのフィクションとはいえない。「同郷の素晴らしい偉人の映画」と説明し支援してもらった。宣伝でフィクションとは絶対に言えない。ただ、これでは「F50」と同じ。原発の事故の事実を改竄。嘘を交えて東電を称賛したあの映画と、

監督はそれを暴露できない。映画の否定になる。自分としては正直にフィクションだとインタビューに答えたのだ。そこに映画人の良心を感じる。ただ、許されないことがあるー沖縄はどうなるのか? 少年兵起用を承認した島田知事。そのために多くの男子が犠牲になった。会議で「住民に鎌や包丁を持たせて米軍に突撃させよう」とも言った人。

その人を偉人として描き、全国にそれをアピール。県民はどうなるのか? 偉人どころか戦争を推進した人。「美化する」どころではない。そのフォローも説明も一切なし。やはりこの映画。罪が重い。同じ沖縄戦を伝える映画作家として、戒めにしたい。

監督インタビュー記事=>https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=123742


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映画監督の葛藤=地元の願いを無視? しかし、嘘で美化しないとこの映画は作れなかった? [「島守の塔」疑惑]

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映画監督の葛藤=地元の願いを無視? しかし、嘘で美化しないとこの映画は作れなかった?

「島守の塔」問題点をあれこれ書いたが、作り手の気持ちが分かる部分もある。監督のロングインタビュー本を読むと、僕も似たような経験がたくさんあり、共感の連続。歳も3つしか変わらない。毎回、社会性の濃い作品を監督。高く評価された映画も多い。だから、なぜ、そんな人が沖縄戦の歴史を歪めるような作品を作ったか?「F50」や「ゼロ」のような悪質な意図は全くない。だからこそ気になり、その背景を追ったのだ。

先にも書いたが、政府の指示を遂行しただけの知事らたち。「偉人」にした理由は知事たちの故郷で製作費集めをしたことだ。当然、偉人として描かざるを得ない。もう1人の主人公である新井警察部長の故郷でも「我が町に、こんな素晴らしい人がいた!」と言う声が上がり始めていた時だったらしい。そこで「歴史通りに描く!」とは言えない。

だが、一つの疑問。そもそも監督は「こんな素晴らしい知事がいたこと。知っているか?」と聞かれたことで島田知事に興味を持ち調べ始める。その段階で彼は単なる役人であり、10万人を超える命を救った存在でないことは分からなかったのか? 多くの映画監督は思い込みが強い。最初に「この人は素晴らしい!」と思うと、そこから離れられなくなる。調べていても、その視点で歴史を見つめ、マイナス分を切り捨てたのか?

製作が進み、沖縄から「島田知事を偉人にしないで」と言う声が上がる。そのことで悩む言葉が監督インタビューにも出てくる。と言うことは、島田が偉人でないことを理解していたのだ。偉人でない人を偉人にすることに躊躇があった。でなければ沖縄の関係者に「彼は素晴らしい人です。偉人として描くべきです!」と主張すればいい。それをしなかったのは、偉人でないことを把握していたからだ。

そこに監督としての葛藤がある。知事らの故郷から出資。偉人映画にせねばならない。「住民に鎌や包丁を持たせて米軍に突撃されるべきだ」と発言した知事として描く訳には行かない。一方で沖縄からは「偉人にしないで」の声「現実を歪めないいでほしい」との願い。しかし、インタビューに沖縄で支援が集まったと言う話は出て来ない。地元の2社が出資すると言う話は出てくるが、額は大きくないと思える。知事たちの故郷では支援の輪が広がるというエピソード。

つまり、知事たちの本当の姿を描くと、両者の故郷からの支援を失うだろうと感じていたはず。ただ、彼自身も最初は「こんな素晴らしい知事がいた」というところからスタート。その方向で描きたい思いがあったはず。そこで支援がさほど多くない沖縄の意向は反映させず「偉人」として描いたのではないか?

そして監督自身が悩んでいるが「ヤマトンチューである自分に沖縄戦が描けるか?だが、知事たちは自分と同じ本土出身。その視点で描くしかない」と決意している。これは同時に、沖縄の視点はなくてもいい。自分には描けない。だから「偉人にはしないで」の声も反映させる必要はない。と言う自分を説得していたようにも感じる。

映画を作ると、ある人たちは喜ぶが、ある人たちが怒る。映画「ロッキー」の1作目。黒人のチャンピオンを倒したロッキー。観客は総立ちで拍手。だが、立たずにいる不満そうな人たちがいたそうだ。黒人の観客。白人が黒人を倒す物語に思えたのだ。今回の映画でいえば「我が故郷に素晴らしい人物が」と言う故郷の人たちは喜ぶ。だが、沖縄の人たちは?

4人に1人が犠牲になった沖縄戦。その責任は軍や政府にある。島田知事は住民を守ろうとしたのは事実だ。が、映画のようなことして、政府に知れたら即、クビ。だからシンドラーのように隠れて逃したりはしていない。国の指示通りの形で避難を進めただけ。さらに少年兵を戦場に送る許可を出したのも知事だ。

戦争を推進した1人だ。それを「多くの命を救った!」「英雄だ」と描いた映画を沖縄の人たちはどう思うのか? 「嘘だ!」「出鱈目だ!」と言う事になる。だが、その沖縄からは多額の支援はなかっただろう。偉人として描けば映画は撮れる。沖縄の声を受け入れれば映画は潰れる。何より監督自身は「彼は素晴らしい知事」と言う思いからスタートしている。だから、沖縄の声を反映させなかったのだろう。

だが、彼にも後悔があったようだ。インタビューの最後で「沖縄の人たちの約束も果たした」と言っている。え?それはないでしょう。と思うが、詳しくは書かれていない。さらに「島田知事たちの慰霊碑を作ったのも沖縄の人たち。感謝と尊敬があるはずだ」という話になる。これも監督が自身を納得させようとした言葉だろう。地元から「知事は立派でした。この映画は素晴らしい」とは言われていない。そんな記述はインタビューにも出てこない。でも、慰霊碑を作ったのだから尊敬があるはず。だから、偉人として描いても正解だ。そう自身を納得させるための言葉だろう。

では「約束を果たした」はどうだ?約束を反故して「偉人」として知事を描いているのに? 想像した。「彼はいろんな葛藤をしながら知事職を続け死んだ。私はその葛藤を描いた。だから偉人ではない。約束は果たした」と言うことだろう。だが、どう見ても「偉人」。また、偉人だって葛藤する。その後、新聞イタンビューでこう答えている。

「偉人としてではなく、葛藤を描いた」ーやはり、葛藤があれば偉人でないということ。だが、それは詭弁。自分を納得させるレトリックでしかない。約束は果たしていない。そのようなおかしな技法で自身を正当化するのは、沖縄に対して申し訳ない思いが、強い後悔があるからだろう。強い罪悪感があるから、そんな言葉が出たのだ。

しかし、偉人として描けなければ映画自体が潰れた。監督は偉人として描き映画を成立させる方を選んだ。沖縄で製作費を集めて!と考える人もいるだろうが、それはかなり難しい。「政府の言う通りに職務を続けた知事」を映画にしよう!では盛り上がらない。「故郷の偉人を伝える!」と言うから2つの故郷で支援が集まったのだ。監督は誰しもスタートさせた映画は完成させたい。どんなことをしても作りたい。それを止めるのは、生まれ来る我が子を殺すようなもの。

だが、そのことで沖縄の観客がどんな思いをするか?を考えるのを止めている。自分を説得し「約束は果たした!偉人として描いていない!」と納得。インタビューでもそう答える。やはり、強い罪悪感があるのだ。同業者としてその葛藤は理解する。でも、同時に、作った映画が歴史を捻じ曲げ、沖縄の人の思いを踏みつける。沖縄戦を知らない人たちに嘘の歴史を伝える。それは罪。ただ、監督はそのことも分かっているはずだ。


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「戦争推進の知事」を脚色して「住民を救った偉人」に?まさに沖縄戦を再現。 [「島守の塔」疑惑]

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10万人を超える命を住民を救った「偉人」ーと、この映画は描く。まるで日本のシンドラーのような作品だが、かなり現実とは違う。フィクションを加えて映画を作る。劇映画では特別なことではない。が、この作品の場合。沖縄側の立場を考えるべきではなかったか? 考えて行こう。主人公となる島田叡知事(演じるは萩原聖人)、荒井警察部長(演じるは村上淳)。本当はどんな人だったのか? 

沖縄戦研究の第一人者が地元紙で解説している。この映画のテーマとなる部分。核となるのは島田と荒井が「どんなことがあっても県民を守り抜くぞ!」と誓い合う場面。そこから彼らは住民を救うための努力と葛藤が続く。が、これは事実ではない。むしろ、反対の行動をしていることが分かるという。

実際はこう「島田と荒井の住民保護は老人、婦女子に限られており青少年らが疎開を行おうとすれば、戦線離脱であり厳重取り締まりを要するーと警告を発している。また、疎開地では避難民を米軍に投降させないために。塩谷警察署を新たに設置、避難民の戦意高揚と彼らの監視強化を計った」

これは明らかに国の指示に忠実に従っただけ。県民を守るというより。管理し、国に従わせるという行為。偉人の行為とは思えない。専門家はこう結論づける「2人の本質は国体を守ることを前提とした住民保護だった」

映画の中で島田と荒井が雨の中、自ら住民を誘導する場面がある。2人の熱い思いが伝わる。だが、その記録はない。映画の創作。そのことで彼らは体を張って県民を守ろうとしたという思いが観客に印象付けられる。実際にはしていない感動的な行動を創作、彼らを偉人にするための手法である。

また、32軍の沖縄を捨て石にするという作戦。島田たちは知らなかったという場面もあるが、専門家はそれも疑問視。立場的に知らない訳がない。だが、知らないということにしなければ「住民を守る!」という思い、映画のテーマが成り立たない。本当に島田たちが「県民を救う」という強い思いがあれば、国や軍と正面衝突。左遷されるだろう。

そうはなってない。彼らは国の指示に従い行動していたから。だが、それでは物語が成り立たない。そこで映画では知らなかったことにした。「偉人にするための巧妙な脚色がある」と専門家は指摘している。

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別の専門家から、これは直接聞いた話。島田は会議で「住民にも鎌、包丁を持たせて米軍に突撃させたらどうか?」という提案している。記録に残っている。「何があっても住民を守り抜く!」という誓いを立てる知事の言葉とは思えない。そして、その発言は映画では描かれていない。偉人の感動エピソードを創作。戦争推進者の側面は消し去っている。

そして何より、なぜ「生きろ」と知事は叫んだのか? あの軍国主義の時代に? その背景が描かれていない。理由は「現代の作家」が「現代の価値観」で「命の大切さ」を島田に言わせることで彼を偉人にしたかった。小声で職員に「生きろ」と言った現実のエピソードを拡大解釈して、「生きろ!」と叫び続けた人道主義者にした。その方が観客の共感を呼べる。

何より、島田たちの地元では「素晴らしい。我が県の誇りだ!」と喜び映画を応援してもらえる。それが理由。だから「住民を守り抜く」という思いの背景が描かれない。元々、国の指示で動いていた人。そんな背景は存在しないのだ。

架空の人物を作り出し、歴史を見つめるのはあり。だが、実際の人物を脚色し、やってもいないことを描き「偉人」にしてしまうのはどうか?それでも問題がないこともある。が、この映画の問題は制作サイドが島田や荒井の故郷側に立ってしまい、沖縄側に立ち、視点を持とうとしていないと感じる。

地元から「島田は偉人にしないで!」という願いが出ていたが、それにも答えていない。映画を見ていても、沖縄側の視点があまり感じられない。監督自身も「自分はヤマトンチューだ。その立場から描くしかない」という。が、沖縄側に立って考えてないことで、映画が沖縄を踏みつけるものになっていることに気づいていない。

乱暴にいうと「ナチドイツのアイヒマンは偉人だった。本当はユダヤ人を救おうとした!」ーという映画に近い。ユダヤ人の立場からは絶対にあり得ない設定。同じく当時の沖縄、日本軍に翻弄され踏みつけられ、県民の4人に1人が犠牲となった。それなのに実在の国側の人物を脚色、美化して「本当は政府側にも県民を守ろうとした素晴らしい人物がいた!」という映画にしてしまった。

これは沖縄にとって何の諌めにも癒しにもならない。「国側にもいい人がいたなんて、事実じゃないだろ!」「今更、政府の弁護をするな!嘘をアピールするな!」となる。感動よりも怒り。それらを意図した映画ではないが、そんな解釈されても仕方ない。結局、沖縄戦を歪めてヤマトンチューが楽しむ感動ドラマとして作られている。

「島田を偉人にしないで」と沖縄から声が上がっても、無視。なぜ? 島田叡知事を偉人にしたか?それは島田の出身地でも映画の製作費を集めなければならないからのようだ。地元で「戦争推進をした知事」という映画にはできない。「偉人」でなくては支援してもらえない。そんな背景があったと思えている。

もう一人の主人公・新井警察部長の出身地でも映画支援を受けている。地元では「新井は素晴らしい人だった」という声が出始めた頃。「映画にして我が県の偉人をアピールしよう!」という流れがあったようだ。製作サイドとしては「偉人」にするしかない。沖縄からは「島田知事は偉人として描かないで」という声が上がっていたが、それには応えられない。現実を描くと両県からの支援がなくなってしまうから?

だから島田たちの故郷の思い「我が県、出身の偉人物語」にした? 沖縄戦時。本土を守るために、沖縄を見捨てた軍のやり方がダブってしまう。沖縄を犠牲にして本土を守ろうとした日本。同じことを映画でやってしまっていいのか? それを沖縄戦の映画でやっていいのか? そこは大切なところだと思うのだが...。


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「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」この本。かなり問題ある!テレビは美談を捏造する? [「島守の塔」疑惑]

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「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」この本。かなり問題ある!テレビは美談を捏造する?

この本。「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」(TBS報道局「生きろ」取材班・著)を読むとノンフィクションのはずなのに、映画版と同じく事実ではないことを事実として話を進めている。「島田知事は素晴らしい人であった」とそれがスタート地点になっている。

「県民から神とも慕われる知事」とまで書いている。私は沖縄で数多くの専門家にあったが、そんな話は一度聞いたことはなく、むしろ彼も政府側の人間であり、戦争遂行を進めた1人であると言われた。美化するべきではないと何人からも聞いた。それが真逆のことを伝えている。では、「神とも慕われる」のであれば専門家や後輩知事から称賛されているはずだが、具体的な名前を挙げて「知事は素晴らしかった」と言う記述はない。

そして一番酷いのは、タイトルになっている「10万人を超す命を救った知事」という表現だ。これは既に沖縄戦の専門家にも聞いたが、事実ではない。この本の主張はこうだ。知事は疎開を推進した=>沖縄から本土に10万人疎開させた=>だから10万人を救った!と言うこと。それ仕事でしょう?「救った」ではなく「疎開させた」と言うべきもの。そこにシンドラーを重ね美談にしたい思惑を感じる。

シンドラーはナチスと付き合いながら、裏でユダヤ人を数多く国外に逃がしている。自費を投じて脱出させている。杉原千畝もドイツと同盟国である日本の外交官なのに、個人の判断でビザを出し、多くのユダヤ人を国外に出している。身の危険を顧みずの行動。これらこそが「救う」と言う表現なのだ。政府からの指示で疎開を進めたことを「救う」と言うのはおかしい。

例えば、昭和天皇は降伏を決意した。本土決戦にはならなかった。そのことで日本国民、数百万を救った!と称賛されているだろうか? これと同じ。島田知事は自分の任務である疎開を進めただけ。政府からの指示に従わずに、隠れて疎開をさせたのではない。島に残った人でも助かった人たちは数多くいる。なのに「県民を10万人救った」と賞するのはおかしい。美化していると言う言葉さえ違って、印象操作と言うレベルである。

なぜ、天下のTBSともあろう大テレビ局がこんな事実を歪めた本を発売するのか?ドキュメンタリー映画版では冷静に描いていたにも関わらず、捻じ曲げた美化をしたノンフィクション本を作ったのか? どうも、テレビが大好きな「美談」としてまとめたかったように思える。捏造してでも美談を作り上げるのがテレビが得意とするところ。

もう少し、読み進めてその辺を解明したい。とにかく、劇映画版はこの本をベースに作ったのだろうか? その辺を解明したい。


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あの映画はなぜ、実在の人物を美化して沖縄戦を描いたのか? [「島守の塔」疑惑]

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あの映画はなぜ、実在の人物を美化して沖縄戦を描いたのか?

TBSが制作したドキュメンタリー映画「生きろ 島田叡ー戦中最後の沖縄県知事」をどう思う?と大先輩から聞かれた。前作の「カメジロー」は良かった。その路線で島田知事に注目したと思えるが、テーマを追いきれないまま終わっている。なぜ、島田知事は「生きろ」と県民に伝えたのか?あの時代。「お国のために死ぬことが大事」と誰もが信じていた。だからこそ「生きろ」を告げた知事の背景を探って映画は九州まで取材に行っている。ただ、その答えは見つからずに終わる。それゆえ、スッキリしない終わりとなった。

現在公開中の「島守の塔」。TBS映画では背景を解明しきれなかった島田の「生きろ」という思いに注目した。「沖縄県民を守る!」と知事たちが誓い、活躍した物語にしてある。つまりフィクションとして描いている。ただ、それでは「永遠のゼロ」と同じ構図。本来「死んで来い!」と命じる特攻隊の教官役に「生きて帰れ」という創作された登場人物を配置して物語を作り上げた。そのことで「日本軍にも素晴らしい人がいた!」という美化を行なっていた。「島守の塔」も似た手法を感じる。

ただ「ゼロ」は物語を通じて日本軍を美化しようというのが動機であるが「島」はその種の政治的な思惑を感じない。単に「日本版シンドラーの物語を作ろう!」という発想ではないか? しかし、そこにいろんな問題が起こることを想像しただろうか? この映画を観た後、沖縄戦の専門家お二人に会い、意見を聞いた。両者ともに「あり得ない!島田知事は政府側の人間。戦争を推進するために派遣された。人間としての魅力ある側面はあったと思えるが、県民を救うことを誓い、声に出して叫ぶような創作はあり得ない」と断言。

僕は沖縄戦の専門家ではない。そして映画業界で仕事をする者。物語の全てを歴史の通りに描くことができないことは分かる。ただ、1つのフィクションを持ち込むことで全体を歪め、意味を180度変えてしまう危険性は考えねばならない。「Fukushima50」がまさにそれ。90%の事実を描きながら、10%のフィクション(菅直人総理のエピソードは事実ではない)を加えることで、東電職員が事故を止めた。日本を救った英雄である!という印象を観客に与える映画にしてしまった。

先の「ゼロ」と同じ手法。事実は東電こそが事故を起こした責任者であり、その収束に努力したのが菅直人。その邪魔をしデマを流したのが東電と安倍だったのだ。その印象操作を拡散することこそが、あの映画の使命だったと思える。そして、同じ意図を持ってないにも関わらず、歴史的な事実誤認を拡散してしまう可能性があるのが「島守の塔」なのだ。島田は小声で「生きろ」と言った証言はある。が、大きな声で「生きろ」と叫んだり「住民を守る」と誓ったりはしていない。

沖縄の友人が怒る「沖縄は捨て石にされた。それが歴史的な事実。それを映画によって、県民を救おうとした者もいた!とフィクションで作られた映画で印象操作しようとしている。日本政府側にも素晴らしい人がいた!とエクスキューズしようとしている。さらに言えば沖縄は捨て石ではなかったと言いたいのかもしれない。歴史捏造だ!プロパガンダとしか言えない!」

ただ、先の2本のような悪質な意図はこの映画にないと思える。本編を見るとよく分かるが、沖縄戦について勉強はしているが、沖縄で毒ガスは使われていない。米軍のガマ 攻略法があり得ない。皇民化教育が描かれていない(だから、ヒロインがなぜ、あれだけ軍国少女なのか?分からない)。

つまり、戦時中に「生きろ」と叫んだ知事がいた!ヒューマンドラマになるぞ! 沖縄戦の事実や現実を伝えたいという思いはなく、「日本版シンドラーのリストを作ろう!」ということだったのではないか? 映画業界は歴史的事実?かどうかより、感動できるか?泣けるか? 儲かるか?を優先しがち。対して専門家は「事実を伝える!」が使命。その意味でフィクションとしての映画ならありだが、実名を使っているのに創作を加えて描くのなら、もう少し考えて描かないと、やってることは「ゼロ」や「50」と同じになってしまう。

まして、島田知事という実在の人物を脚色し、実際は「住民にも釜や斧を持たせて米軍と戦わせろ」と会議で発言してたのに「生きろ」と叫び「住民を必ず救う!」と誓う。事実とは違う行動をさせる。作り手が安易に「感動ドラマになる!」と主人公を美化してしてはいないか? ただ、なぜ、そんな必要があったのか?そこを追求したい。また、書かせてもらう。


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