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映画監督の葛藤=地元の願いを無視? しかし、嘘で美化しないとこの映画は作れなかった? [「島守の塔」疑惑]

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映画監督の葛藤=地元の願いを無視? しかし、嘘で美化しないとこの映画は作れなかった?

「島守の塔」問題点をあれこれ書いたが、作り手の気持ちが分かる部分もある。監督のロングインタビュー本を読むと、僕も似たような経験がたくさんあり、共感の連続。歳も3つしか変わらない。毎回、社会性の濃い作品を監督。高く評価された映画も多い。だから、なぜ、そんな人が沖縄戦の歴史を歪めるような作品を作ったか?「F50」や「ゼロ」のような悪質な意図は全くない。だからこそ気になり、その背景を追ったのだ。

先にも書いたが、政府の指示を遂行しただけの知事らたち。「偉人」にした理由は知事たちの故郷で製作費集めをしたことだ。当然、偉人として描かざるを得ない。もう1人の主人公である新井警察部長の故郷でも「我が町に、こんな素晴らしい人がいた!」と言う声が上がり始めていた時だったらしい。そこで「歴史通りに描く!」とは言えない。

だが、一つの疑問。そもそも監督は「こんな素晴らしい知事がいたこと。知っているか?」と聞かれたことで島田知事に興味を持ち調べ始める。その段階で彼は単なる役人であり、10万人を超える命を救った存在でないことは分からなかったのか? 多くの映画監督は思い込みが強い。最初に「この人は素晴らしい!」と思うと、そこから離れられなくなる。調べていても、その視点で歴史を見つめ、マイナス分を切り捨てたのか?

製作が進み、沖縄から「島田知事を偉人にしないで」と言う声が上がる。そのことで悩む言葉が監督インタビューにも出てくる。と言うことは、島田が偉人でないことを理解していたのだ。偉人でない人を偉人にすることに躊躇があった。でなければ沖縄の関係者に「彼は素晴らしい人です。偉人として描くべきです!」と主張すればいい。それをしなかったのは、偉人でないことを把握していたからだ。

そこに監督としての葛藤がある。知事らの故郷から出資。偉人映画にせねばならない。「住民に鎌や包丁を持たせて米軍に突撃されるべきだ」と発言した知事として描く訳には行かない。一方で沖縄からは「偉人にしないで」の声「現実を歪めないいでほしい」との願い。しかし、インタビューに沖縄で支援が集まったと言う話は出て来ない。地元の2社が出資すると言う話は出てくるが、額は大きくないと思える。知事たちの故郷では支援の輪が広がるというエピソード。

つまり、知事たちの本当の姿を描くと、両者の故郷からの支援を失うだろうと感じていたはず。ただ、彼自身も最初は「こんな素晴らしい知事がいた」というところからスタート。その方向で描きたい思いがあったはず。そこで支援がさほど多くない沖縄の意向は反映させず「偉人」として描いたのではないか?

そして監督自身が悩んでいるが「ヤマトンチューである自分に沖縄戦が描けるか?だが、知事たちは自分と同じ本土出身。その視点で描くしかない」と決意している。これは同時に、沖縄の視点はなくてもいい。自分には描けない。だから「偉人にはしないで」の声も反映させる必要はない。と言う自分を説得していたようにも感じる。

映画を作ると、ある人たちは喜ぶが、ある人たちが怒る。映画「ロッキー」の1作目。黒人のチャンピオンを倒したロッキー。観客は総立ちで拍手。だが、立たずにいる不満そうな人たちがいたそうだ。黒人の観客。白人が黒人を倒す物語に思えたのだ。今回の映画でいえば「我が故郷に素晴らしい人物が」と言う故郷の人たちは喜ぶ。だが、沖縄の人たちは?

4人に1人が犠牲になった沖縄戦。その責任は軍や政府にある。島田知事は住民を守ろうとしたのは事実だ。が、映画のようなことして、政府に知れたら即、クビ。だからシンドラーのように隠れて逃したりはしていない。国の指示通りの形で避難を進めただけ。さらに少年兵を戦場に送る許可を出したのも知事だ。

戦争を推進した1人だ。それを「多くの命を救った!」「英雄だ」と描いた映画を沖縄の人たちはどう思うのか? 「嘘だ!」「出鱈目だ!」と言う事になる。だが、その沖縄からは多額の支援はなかっただろう。偉人として描けば映画は撮れる。沖縄の声を受け入れれば映画は潰れる。何より監督自身は「彼は素晴らしい知事」と言う思いからスタートしている。だから、沖縄の声を反映させなかったのだろう。

だが、彼にも後悔があったようだ。インタビューの最後で「沖縄の人たちの約束も果たした」と言っている。え?それはないでしょう。と思うが、詳しくは書かれていない。さらに「島田知事たちの慰霊碑を作ったのも沖縄の人たち。感謝と尊敬があるはずだ」という話になる。これも監督が自身を納得させようとした言葉だろう。地元から「知事は立派でした。この映画は素晴らしい」とは言われていない。そんな記述はインタビューにも出てこない。でも、慰霊碑を作ったのだから尊敬があるはず。だから、偉人として描いても正解だ。そう自身を納得させるための言葉だろう。

では「約束を果たした」はどうだ?約束を反故して「偉人」として知事を描いているのに? 想像した。「彼はいろんな葛藤をしながら知事職を続け死んだ。私はその葛藤を描いた。だから偉人ではない。約束は果たした」と言うことだろう。だが、どう見ても「偉人」。また、偉人だって葛藤する。その後、新聞イタンビューでこう答えている。

「偉人としてではなく、葛藤を描いた」ーやはり、葛藤があれば偉人でないということ。だが、それは詭弁。自分を納得させるレトリックでしかない。約束は果たしていない。そのようなおかしな技法で自身を正当化するのは、沖縄に対して申し訳ない思いが、強い後悔があるからだろう。強い罪悪感があるから、そんな言葉が出たのだ。

しかし、偉人として描けなければ映画自体が潰れた。監督は偉人として描き映画を成立させる方を選んだ。沖縄で製作費を集めて!と考える人もいるだろうが、それはかなり難しい。「政府の言う通りに職務を続けた知事」を映画にしよう!では盛り上がらない。「故郷の偉人を伝える!」と言うから2つの故郷で支援が集まったのだ。監督は誰しもスタートさせた映画は完成させたい。どんなことをしても作りたい。それを止めるのは、生まれ来る我が子を殺すようなもの。

だが、そのことで沖縄の観客がどんな思いをするか?を考えるのを止めている。自分を説得し「約束は果たした!偉人として描いていない!」と納得。インタビューでもそう答える。やはり、強い罪悪感があるのだ。同業者としてその葛藤は理解する。でも、同時に、作った映画が歴史を捻じ曲げ、沖縄の人の思いを踏みつける。沖縄戦を知らない人たちに嘘の歴史を伝える。それは罪。ただ、監督はそのことも分かっているはずだ。


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