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横浜ー青春プレイバック 41年前。僕は毎日、何をしていたのか?映画学校を登校拒否?! [横浜青春プレイバック]

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横浜ー青春プレイバック 41年前。僕は毎日、何をしていたのか?映画学校を登校拒否?!

高校卒業後ー18歳の夏。秋までは映画学校に真面目に通っていたはずだ。実習にも数日、参加した記憶がある。クラスメートとも飲み会をしたし、部屋に遊びに行ったこともある。が、次第に授業が無意味に思えて、いや、完全に無意味だったので登校拒否。学校には行かなくなった。

先にも書いたように近所のM荘。同じような東京拒否組たちが住む下宿アパートに入り浸り、毎日のように宴会をした。が、1週間毎晩ではない。黄金町の大勝館や横浜名画座に行ったり、自由が丘の武蔵野推理劇場。蒲田のパレス座。池袋は文芸坐。高田馬場パール座等に昔の映画を見に行ったりもしていた。

では、それ以外は何をしていたのか? 僕は昔から日本大好きではなく、批判的な言動の方が多い。なのに極めて日本人的なところがあり、70年代のモーレツ社員のように、休むことを罪悪と思えていた。何もせずに1日ダラダラしているというのは、本当に許せなくて何か、しないでいられなかった。

映画を観に行くもあり。知らない街を訪ねるもあり(旅行ではなくね)、本を読むでもいい。何かプラスになることしたい。1日意味もなしにテレビを見ているは嫌だ。友達と会って酒を飲み、映画を語るもあり。なので、病気でもない限り、1日部屋にいて、何もせずということはほぼなかったはず。では、何をしていたのか?

実は秋からは学生映画をスタートさせる。当時はまだ存在した8ミリフィルムを使って映画を撮る。バンドで言えば、プロを目指してアマチュアバンドをするようなもの。「ぴあ」主催のフィルムコンテンストも会ったし、そこから本当の映画人生が始まるのだが、それは秋。そこまで何をしていたか? 思い出してみた。

特に今年のような夏の暑い日(今は雨で寒いくらいだが)当時、部屋は四畳半。エアコンも扇風機もない。サウナのようになる。学校に行かない日はどこかに出かけたと思う。M荘以外。映画館以外? なかなか、思い出さない。僕の住む下宿アパートの周りは何もなく、住宅街のみ。M荘のある隣街は駅前の商店街がある。先に紹介した「血まみれ事件」の舞台となる商店街だ。

そこに本屋とレコード屋がある。小さいものだが、そこは何かにつけ、よく行った。高校時代から本屋とレコード屋は情報源。ネットもない。新聞も取らない。テレビでニュースも見ない18歳。ま、政治や社会を知りたい訳ではなく、ストーンズの新譜はいつ出るか? スピルバーグの新作はいつ公開か?というような情報を得るためだった。

決して楽な生活ではなかったが、1ヶ月に1枚はレコードを買おうと決めていた。レンタルレコードもない時代。2500円。音楽業界はぼっていた。もっぱら輸入盤。歌詞カードが付いてないだけで、2000円になった。ただ、近所にはその手の店がなく、渋谷にオープンしたばかりのタワーレコード等で買うことにしていた。(昔はハンズの斜め前にあった)

金欠。渋谷行く交通費も厳しい。でも、レコードを1枚というときは、ローリングストーンズの、ロンドンレコード時代のもの。1500円で買えた。厳しい時はそれを1枚。スプリングスティーンの歌詞ではないが、学校の授業ではなく、一枚のレコードからいろんなことを学んだ。というのがあるが、まさにその通りだった。

大阪の高校を卒業した日に見た映画が「さらば青春の光」これは強烈だった。ストーンズと同じイギリスのバンド、ザ・フーの2枚組アルバム「四重人格」を映画化したもので、物凄いショックを受け、翌日、もう一度、映画館に見に行ったほどだ。さらに横浜に来てからも、銀座の名画座で3回目を見た。そのレコードを真夜中によく聴いた。全部聴くと2時間少々。気づくと夜が明けていたりした。

「Can you see the real me can'you cant'you 」と叫ぶ、オープニングの歌。歌詞に強く共感した。そう、高校時代の僕はまさにそうだった。「あんたに本当の俺が見えるかい?見えるのかい!」親にも、教師にも、同級生に対しても、そう思っていた。そんな連中の束縛を受けることなく、生活の全てが自由になった。それが横浜の街。最初は開放感でいっぱいだった。が、次第に自由に恐ろしさを感じていく。

おまけに学校まで拒否してしまった。というのも、その学校を卒業したからと映画監督にはなれない。映画界で働けるかどうかする分からない。ま、入学前から気づいていたが、授業を毎日受けていると、より明確になって行った。登校拒否組の生徒たちも皆、同じ気持ちだっただろう。逆にそれを知りながら毎日、通学する生徒たちの気持ちが分からなかった。どうやって監督を目指すのか?

最初は楽しかった落ちこぼれ組の宴会も、次第に見えない未来への不安を解消するためのものになった。だから、記憶がなくなるまで飲み、商店街で叫び、血を見る者まで出てくる。それから4年後にデビューする尾崎豊の歌みたいに「自由になれた気がした18の夜」だった。今から41年前。横浜二十歳前。



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横浜ー青春プレイバック バカにしていた邦楽を聴き始める?! [横浜青春プレイバック]

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横浜ー青春プレイバック バカにしていた邦楽を聴き始める?!

41年前。学校帰り(当初は真面目に通った)によく、横浜駅地下(正確には駅前下だね)ダイヤモンド地下街を1人でうろついた。横浜駅周辺は地上より地下の方が色々ある。その地下街には入らず、駅構内から相鉄方面に向かう途中にも色々店があった。そんな中に中古レコード屋がある。

当時、新品で買うとレコードは2500円。今考えても高い。シングル600円。これは本と同じで店の意思でセールをしたり、安売りしたりできない。その代わりに売れなければ、返品できるというシステム。そのリスクを消費者に押し付けるために、値段を高め一律にしているのだ。

のちにアメリカ留学をして知るが、LAではレコードがめちゃ安だった。ヒットしたものは安くなり、売れないものも売りさばこうと安くなる。当時はプレイヤーがなく、買うことがなかったので、正確な値段を覚えていないが、のちにCDが発売された時、日本は3200円。LAでは10〜20ドルだったはずだ。とにかく日本のレコード産業は努力せずにいた。そのツケが周り今、大変なのだ。

話は戻る。1980年はまだレンタルレコードもなく、(実際はYou&Iとかの1号店はオープンしていたはずだが、普及したのは数年後)僕は安いレコードを探して、その店をよく訪れた。中学時代はビートルズ。高校時代はストーンズ。あとは、クィーン。S&G。ビー・ジーズ。レッドツェッペリン、The Whoと、映画がらみで聴き始めたものが多い。

横浜に来て、洋楽ロック以外も聴こうと、その店を訪れた。最初に買ったのは渡辺貞夫の「モーニング・アイドランド」?当時彼はテレビCMにも出ていて有名。ジャズっぽいのも勉強しようと購入。多分、千円少々。あと、キャンディーズのLP「その気にさせないで」もう、解散したかどうか?の頃だが、歌謡曲はテレビでしか聴かなかった。が、「ザ・ベストテン」は毎週見ていた。

というのは、歌は世につれ世は歌につれというように、そこに時代の反映がある。映画監督業を目指す者が、映画だけ見ていてはダメだと見ていたのだが、その種の歌謡曲。レコードで聴いたことがない。テレビで歌われるのはシングルだけ。勉強しようと、馴染みのあるキャンディーズを選んだ。

洋楽ロック好きに多いのだが、日本の歌をバカにして聴こうとしない。評価しないのは勝手だが、それを知らずに批判し差別していていいのか? 洋画ファンは日本映画をバカにしてみない(僕もそんな1人だった)でも、見た上で批判し、反面教師にすることが大切。と、横浜時代は日本映画も見るようになるのだが、音楽も日本ものを聴き始めた。あと、ストーンズやツェペリンのようなメジャーだけでなく、マイナー。そして新しいバンドも聴かねばと思った。

大阪の高校時代にそれができなかったのは、関西には日本映画の名画座がほぼなかったこと。大毎地下劇場、戎橋劇場。皆、洋画の名画座。新世界に行けばヤクザ映画は見られたが、古い名画は上映しない。京都の名前忘れた3本立ての名画座では日本映画も上映。「用心棒」を見に行ったが、あまりに遠いので1度きり。ロードショーで見るのは値段が厳しい。それなら洋画を見る。中古レコードも日本ものを扱う店、キタにもミナミにもなかった。LPコーナーとか東通り商店街にあったが、輸入ものの洋楽専門。

対して横浜、東京には日本映画専門の名画座が何館もある。中古レコード屋もある。要は安く日本映画を観れて、安くレコードが買える。これだけでも横浜生活は素晴らしい。何だかんだ言っても文化は大阪より関東だと思えた。当時、オンタイムで人気だったのが、その年にデビューしたばかりの松田聖子。こちらも注目。これまでの山口百恵や桜田淳子らとは少々違った。翌年に発売されるのが、大瀧詠一の「A LONG VACATION」その辺から日本の歌(当時はまだj-popとは言わない。分類でいうとニューミュージック)を聴き始める。

洋楽ロック一辺倒だった高校時代。そこから1歩踏み出した。今から41年前、1980年の横浜。秋には19歳になろうとしていた。



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横浜=青春プレイバック・シリーズ 酒飲んで商店街で大暴れ?これも青春! [横浜青春プレイバック]

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横浜=青春プレイバック・シリーズ 酒飲んで商店街で大暴れ?これも青春!

1980年。横浜。下宿アパートのM荘にはクラスメートが何人も住んでいる。全員、映画学校の生徒。だが、授業が退屈で皆、サボって酒ばかり飲んでばいた。そんなM荘に近い商店街にもよく飲みに行った。

横浜と言っても、このあたりは地方の商店街と変わりなく、庶民的な感じ。夕方から居酒屋で盛り上がり、閉店まで飲み続け、深夜の商店街を4−5人の仲間とゾロゾロ歩く。当時、流行った映画「ウォーリャーズ」気分だ。

皆、高校時代は田舎で過ごし、映画を語り合う友達もいなかった。それが横浜に出て来て仲間ができた。うるさい親や教師もいない。学生時代の憂さ晴らしと、自由になった喜び。開放感で小さな商店街の帝王気分。

大声を出したり、電柱を蹴ったり。やりたい放題。幸い街の不良グループというのもおらず、喧嘩になったりもしない。そんな強い奴は仲間にはいないので幸いだったが、誰もいない商店街で強がっていた。

そんな1人Y君。1番の酒好き。酔っ払って壁や電柱を殴っていた。彼は酔うと極端になる。古いシャッターを殴ると、拳がスパッと切れ血が吹き出した。それに驚き、他の仲間は酔いが覚める。「椿三十郎」のラストシーンを思い出すほどだ。Y本人も驚いたようで唖然。仲間がいう「まずいよ、病院へ行こう」だが、正気をなくしたYは「嫌だーー」と叫んで、何を思ったのか?走り出した。

あとを追う仲間たち。通りがかりのサラリーマン数人、先にいる。「捕まえてください!」と叫ぶ。手から血が流れ落ちる若者が走ってくる。おまけに返り血が顔にかかり、人を殺して来たかのようだ。それに怯んだサラリーマンたちをYはすり抜ける。が、彼らはただならぬ様子に気づいたようで、すり抜けたYを追って商店街w走り出した。「待てーーー」

10人近い男たちが、商店街を全力で走る。血を垂らしながら逃げるY。刑事ドラマの一場面のようだ。ようやく追いついて、嫌がるYをみんなで取り押さえる。近くの公衆電話で救急車を呼ぶ。ピーポーピーポーと病院へ。サラリーマンを始め全員、シャツが血まみれ。通り魔に遭ったようだ。Yは数針縫ったという。ただ、残念なことに、僕はその日の飲み会には参加していなかった。

翌日、彼らが住むM荘へ。玄関で血塗れのスニーカーを発見。顔なじみの大家さんが心配そうな顔で出てくる。「Yさん。いつもああ、なんですか?」事情を知らない僕は「何があったのか?!」と彼らの部屋へ。そして前夜の事件を聞いた。

それが後々まで語られる「商店街血まみれ事件」。仲間の1人はいう。「血まみれのYを追いかけて、サラリーマンまで走り出して、もう、何だかおかしくて。心配もしたけど、笑えてなあ」確かに想像するとおかしい。なぜ、Yは逃げる必要があったのか? いつもはいい奴だが、酒を飲むと性格変わるとこある。

部屋に行くとしょげて寝ていたが、その夜もまたしっかり飲んでいた。昨夜のことを聞いたら、「全く覚えてないんだ〜。気付いたら病院で寝ていたし」ーアブナイ奴だ。でも、これも青春。今から41年前の物語。


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「映画監督になりたい!」皆が夢を語った時代。だが、現実は? [横浜青春プレイバック]

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横浜=青春プレイバック・シリーズ。「映画監督になりたい!」皆が夢を語った時代。だが、現実は?

横浜時代の思い出。続けてみる。もう41年前の話。だが、この16年。監督生活は毎日が戦いで昔を思う余裕はなかった。それが567でいくつかの仕事を失い、時間だけができた。いい方向で考えれば、昔を思い出す機会をもらったのだ。日本人は「振り返る」とか「思い出す」とかいうと、後ろ向きだと批判する傾向があるが、過去を見つめ直すからこそ、間違いのない未来に進めるのだ。41年前の思い出にも忘れている大切なものがあると思える。

僕は18歳だった。高校を卒業。横浜にある映画学校に通い始めた。が、本当に無意味なことしか教えないところで、夏が終わる頃には完全登校拒否。まあ、高校時代も同じで、尾崎豊の歌ではないが、校舎のガラス割って、辞めてやろうか?と思ったことが何度もあった。無意味なことを続けること。耐えられない。

ただ、アメリカの大学で映画を学びたいという夢があった。調べると日本の高校を卒業している必要があった。それでひたすら耐えた。にも関わらず、卒業後すぐに留学はしなかった。東京で生活してみたかったのだ。生まれてこの方、ずっと関西。それでは偏ってしまう。東京が首都だからではない。大阪より東京の方が名画座が多い!つまり、文化レベルも高いはず。とか、変な思いがあり、東京を知りたいという気持ちがあった。

なのに、東京ではなく一つ手前の横浜で暮らすことになった。その間の話はいろいろあるが、今回は横浜プレイバック。あれこれあって、横浜生活を始めた。先日、横浜市長選に出馬した田中康夫さん。街頭演説を応援撮影した後、久しぶりに昔住んだ街を訪ねてみた。写真がアパートがあった場所の近所。この坂道も何百回、上がったり下ったりした。学生映画の撮影もこの場所でしている。

その場所に立ち。41年前の自分は何を考えていたのか? 思い出してみた。それまでの18年間は親や学校に言われたことをしているだけだった。勉強しろ。行儀良くしろ。挨拶しろ。宿題しろ。早起きしろ。でも、高校あたりから「大人たちのいうことは本当に正しいのか?」と思えてきた。「大学に行け」「いい大学に行け」「そうしたらいい会社に入れる」「安定した生活を送れる」そんな人生は楽しいのだろうか?

高校は進学校で99%が大学に行く。が、僕のクラスは問題児ばかりを集めたところで、何と2人も大学進学を拒否。その1人が僕だ。高校時代に日本の教育の無意味さを思い知っていたので、この先、4年も大学で学び続けるのが馬鹿らしいと思えた。「映画監督になりたい!」という目標もあり、それなら映画学校へ行こうと思った。が、その学校も無意味なことしか教えてくれず、八方塞がりとなる。

ただ、高校時代から周りに映画ファンはおらず、映画の話をすることがなかった。それが全国から集まった映画好きと学校で出会う。毎日のように飲みに行き、映画の話をした。皆、目標は同じ。映画監督になること。「俺こそが第二の黒澤だ!」というような奴もたくさんいた。こんな映画を作りたい。100億の製作費が必要だ! 吉永小百合主演で撮りたい!皆、夢を語った。

外が明るくなるまで、毎晩のように、そんな話をした。ただ、夢を語るだけでは実現しないことも分かってくる。映画学校を出ても監督になれるわけではない。映画の世界で働ける保証もない。2年間、無意味な勉強をして終わり。学校側は商売と思っている。若き映画人の育成ーなんて思いは全くない。昔と違い、映画会社で助監督募集もない。黒澤明の時代は映画会社に就職。最初は助監督を10年。そして監督のチャンスがもらえた。

が、そんなシステムは崩壊。映画会社に監督という存在すらいなくなり、ほとんどの監督はフリーで映画作りをしていた。そんな時代にどうすれば監督になれるのか? 映画を見て語っているだけでは十分でないこと。僕らも次第に感じて行く。もちろん、最初は嬉しくて、同志と出会った気がして、夢中で話をしていたが、ある時期から誰も将来を語らなくなった。僕の周りはドロップアウトした者ばかりだが、真面目に学校に通う生徒たちもいた。どうすればいいのか? 今から41年前。横浜二十歳前。



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横浜青春プレイバック⑧番外編 懐かしいもの紹介 グリコのCM [横浜青春プレイバック]



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横浜青春プレイバック⑧番外編 懐かしいもの紹介 グリコのCM

これは1980年か81年か?当時、人気絶頂だったアイドル2人が共演したグリコのCM。トシちゃんファンからクレーム殺到。「聖子、許さんぜよ!」で、シリーズ化はされなかった。多分、この企画は百恵&友和でやって来たCM(演出は大林宣彦監督)のパターンをやりたかったのだろう。

流れるのはトシちゃんの「ハッとしてgood!」だった。このシリーズが中止になった後を継いだのが、キョンキョンと渡辺徹のグリコCM。どれも懐かしいなあ。この時代。僕は映画監督を目指して、映画学校に通っていた。18歳だった!41年前の物語。連載中。



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横浜=青春プレイバック⑦番外編 懐かしいもの紹介!ペンギングッズ [横浜青春プレイバック]

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横浜青春プレイバック⑦番外編 懐かしいもの紹介!ペンギングッズ

懐かしいもの発見! 若い人にはこれが何だか分からないかも? 今から38年前。1983年に人気だったペンギンキャラ。そのカセットテープのキャリングケース。聖子ちゃんの歌♫「Don`t kiss me baby~」が聴こえてきそう?

横浜時代。遠出する時は必ずこれとウォークマン持って出発。少し前はiPod。今はamazonミュージックで手軽だけど。昔はこんな感じ。ちなみにこのペンギンはサントリーの缶ビールのCMのキャラクター。聖子ちゃんの歌バックのアニメーション。

この時代。僕は映画監督を目指して映画学校に通っていた。だが、目標を達成するのは、そこから25年後のことだった。そんな時代の思い出。


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横浜=青春プレイバック⑥ ヤクザが経営するレストラン?!怖い噂。 [横浜青春プレイバック]


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横浜=青春プレイバック⑥ ヤクザが経営するレストラン?!怖い噂。

今から41年前。僕は横浜のある街に住んでいた。映画監督を目指して映画学校に通う。が、あまりにも退屈で、数ヶ月で登校拒否。同じ不良生徒?と毎日、宴会をしたり名画座通い。当時はまだシネコンがなく、映画館はロードショー館と、少し遅れて2本立て(3本立て)で上映する名画座があった。

特に名画座はロードショーされた映画を遅れて上映するだけでなく、古い名画の上映もした。まだ、レンタルビデオもない時代。昔の映画はテレビ洋画劇場で見るしかない。なのに都会では名画座でそれらを見ることができた。特に東京には多い。横浜には横浜日劇、大勝館、横浜名画座、紅座があり、よく行った。当時は学生500円の劇場もあり、それで2本立て3本立てだった。退屈な映画学校に通うよりよほど勉強になった。

そんな名画座で映画を見て戻ると、腹が減る。午後9時10時を超えると飲食店はほぼ閉まる。当時はセブンイレブンさえも11時で営業終了。ファミレスもなかった。20歳前だった僕は自分で料理するのも面倒で、外食ばかり。遅い時間の食事は困る。横浜は都会と思われがちだが、僕の住むあたりは観光地でも都会でもなく、普通の田舎街と変わりない。

そんな中で1軒だけ。午前2時まで営業している喫茶店があった。定食メニューもある。生姜焼き定食とか、ハンバーグ定食とか。深夜営業のせいか、少し値段が高く750円くらい。普通の食堂で食べれば600円くらいの時代。でも、深夜に食事できるのはありがたい。

ただ、その店。少し怪しい。店内に入ると何かヤバいものを感じる。ウエートレスのお姉さん。最初は笑顔で感じいいのだが、月日と共に表情が暗くなり、笑顔がなくなる。そしてお腹が大きくなり、やがて店からいなくなる。そしてまた別の若い愛想のいい子がウエートレスが来る。それの繰り返し。ウエイターは常時、愛想が悪い。目つきも悪い。

同級生の友人が近所に住んでいた。彼もよくその店に行っていたのだが、あるとき、こんな話をしてくれた。「どうも、あの店はヤクザが経営しているようなんだ。それで若い子を連れて来る。でも、ヤクザと付き合っているから荒れて来る。組員が妊娠させてしまったら、別の子を連れて来るそうだよ」筋の通る話。だが、妊娠した子はどうなったのだろう? 組員と結婚したのか? それとも故郷に送り返されたのか?

表情が暗くなるのは暴力を振るわれるから?稼いだ金を取り上げられる? 他に何かやばい仕事をさせられていた?その辺は分からないが、その話には非常にリアリティを感じた。もしかしたら、田舎から出て来た女の子を騙して働かせていた? ただ、店でトラブルがあったとか、ぼったくられたということはなかった。

そして、その後も新人で笑顔が眩しいウエートレスのお姉さんも、次第に表情が曇り、いつしかいなくなる。今から41年前の話。その場所に10年前に行ってみた。店がないだけではなく、建物ごと建て替わっていた。その店では事件はなかったが、近所の別の店では大きな騒動になったことがある。そして、僕の友人たちも巻き込まれる大事件に発展する。とても笑える? 別の機会に紹介する。横浜青春プレイバック。お楽しみに。



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横浜=青春プレイバック⑤ 朝一番早いのはパン屋さん。思い出の店 [横浜青春プレイバック]

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横浜=青春プレイバック⑤ 朝一番早いのはパン屋さん。思い出の店

映画学校のクラスメート。たまり場になっていたのが先に紹介したM荘。そこで毎日、朝まで映画の話をした。先に酔い潰れて寝ている奴もいるが、起きている者はこのパン屋に行く。

何と、朝5時から営業している。歌でも♫「朝一番早いのはパン屋のおばさん」というのがあるが、あれば事実だった。この店に行き、出来たてのカレーパンやアンパンを買う。サンドウィッチは少し高いので敬遠。それを店の表で立ったまま食べる。「じゃあ、また、明日な!」と言って別れ、M荘の友人は部屋に戻り、僕は徒歩で15分かけて自分のアパートに戻る。

写真は今年撮影した者だが、41年後の今日もパン屋は存在する。あの当時は木造の建物だったが、立て直し鉄筋のお洒落ものになっていた。あの時のパンの味、もう一度!と何か買いたかったが休業で残念。しかし、この店はあの頃、毎週のように僕らが訪れた後も、営業を続け。今もパンを作り続けている。職人さんは代替わりしたかもしれない。いや、変わったはずだ。

あの時に30代だとしても今は70代。そして僕らは店頭でおばちゃんからパンを買っていたが、あのおばちゃんは元気だろうか? あの当時40代なら今は80代。もう、亡くなっているかもしれない。ただ、僕がこのパン屋に来たのは80年〜81年の2年。その後、少し離れた街に引っ越したので来ることはなかった。そしてLA留学。さらに帰国して東京で30年近く。

その41年間。このパン屋は営業を続け、パンを売り続けて来たと思うとなぜか嬉しくなる。というのも、当時のお店。この界隈で訪ねてみたがほとんどがなくなっていた。20年を超える不況で潰れたものもあるだろう。あるいは後継者がいなくて店を閉めたところも。そんな中で今も営業している店があると嬉しくなる。

20歳前の青春時代を過ごした思い出の店が今も存在すること。本当に嬉しい。41年の年月を噛み締めてしまう。


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横浜青春プレイバック④ この場所に仲間たちがいた。「学校なんて退屈なだけ! [横浜青春プレイバック]

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横浜=青春プレイバック④ この場所に仲間たちがいた。「学校なんて退屈なだけ!」

横浜駅から横浜線で数駅。そこから徒歩で15分くらいのところにある公園。41年前はここに下宿アパートがあった。木造の二階建て。1階に年老いた母と20歳を超えた息子が住む。管理人さん親子。その奧の部屋と2階が全てアパート。玄関は1つ。そこから上がり各部屋に行く。トレイは共同。風呂はなし。4畳半と6畳の部屋がある。各部屋には小さなキッチンがある。そこに映画学校の同級生たちが住んでいた。

最寄駅は違うが、僕の住むアパートからも徒歩で15分くらい。ここの6畳に住む友人の部屋がたまり場になり、一時は毎日のように飲み会をしていた。始まりは何だったのか?そうだ。学校帰りにクラスメートたちと良く飲みに行っていたのだが、連日それはきつい。皆、貧しい学生。授業も朝から夕方まであり、アルバイトする余裕もない。

そこで誰かの家に行き、近所で柿の種やポテトチップスを買い、ビールや焼酎で宴会!という形を取るようになった。安く済むし、酔っ払えば、そのまま泊まれる。終電を気にする必要もない。その下宿アパートこそが、僕の横浜物語、第1章の舞台。 M荘である。

当時は「メゾン・ド・代々木」とか、そんなお洒落な名前はなかった。高橋さんちの2階なら「高橋荘」山田さんなら「山田荘」。あの手塚治虫をはじめとする漫画家たちが住んでいたのが「ときわ荘」時代は違うが、その習慣が引き継がれていたのだろう。それが1980年。そのM荘を中心に数々の事件が起こり、波乱万丈、荒唐無稽、爆笑必至の青春が繰り広げられた。

そのアパートの住人。僕を含めてほぼ全員が落ちこぼれ。と書くと惨めな話?と思うかもしれないが、そうではない。映画学校の授業は退屈を極めた。日本映画の歴史。外国映画の歴史。シナリオの書き方。等の授業。確かに大事なことではあるが、生徒たちは映画監督を目指している。評論家になりたい訳ではない。過去の名作を見ることは大切だが、それだけではクリエイティブは育たない。

あとで知ることなるが、要はその学校。金儲けが目的。食えない映画人を集めて講師をさせて、大して必要でもないことを教える。高い授業料で講師たちの生活を支える。あるクラスメートが入学式にこんな光景を目撃した。集まった生徒たちを見ていた学長先生、「おー今年も金づるが集まったなあ。この中でものになるのはまあ1人かな?」将来の映画監督を育てようという気はなかったのだ。

そんなこと。かなり後になって聞いたが、役にも立たない授業の連続。僕は不満が募っていた。ただ、学校に行けばクラスメートと映画の話ができる。当時、ヒットしていた映画は「地獄の黙示録」「クレーマークレーマー」「影武者」。夏にはスピルバーグの「1941」「スターウォーズ」の第二弾「帝国の逆襲」角川映画の大作「復活の日」の公開が控えていた。

が、多くのクラスメートはその辺のメジャー作には興味がなく、池袋文芸座で上映される。ルキノビスコンティ監督特集。イングルマル・ベルイマン監督特集に通うなど、高級?映画志向の者が多かった。「お前、ハリウッド映画なんか見ているの? 馬鹿になるよ」というお高く止まった者も多かった。「俺はその辺の映画ファンとは違うんだ」という感じ。だが、彼らは真面目に授業に出ていた。

そんな校風に合わないのか?あるいは単なる怠け者なのか? 授業が退屈というのもあるが、授業に出ない生徒が増えていく。クラスでは「落ちこぼれ」と言われた。先のM荘の住人。約1名をのぞいて全員がそれとなった。そして登校拒否。連日、部屋で宴会。朝まで飲みながら映画の話。授業は出なくても皆、映画好き。それは至福の時間だった。

特に僕は大阪の進学校だったので、喜びが大きかった。高校は「映画なんて見てる奴はバカ!」というところ。「お前は映画ばかり見ているから成績が上がらないんだ」と教師にも言われた。ただ、学校の授業より、映画館で見る外国映画の方が数倍勉強になると思っていた。当然、それは理解されず、クラスで映画の話をすることはなかった。学校帰りに隠れて映画館に行き、一人で映画を見て、家に帰る。誰とも語り合えない。そんな日々が3年間。それがM荘に行くと、同じ思いの仲間が何人もいた。

これまでに見た映画全てについて語り合ったのではないか? ただ、そんな日々もやがて終わる。何ヶ月もすると、語り合うことがなくなる。相変わらず、僕らは学校には行かない。やがて、あの学校を卒業しても映画の仕事を紹介される訳でもないことが分かる。単位を取ったからと監督になることはなかった。卒業して映画監督になった人もいないと聞く。さらに学校に行くことがなくなった。

行く場所がなく、M荘の6畳部屋に集まる。一緒に飯を食う。テレビを見る。誰も何も話さない。僕は何のために横浜に来たのか? 学校も無意味。友達と集まっても話すことがない。その内に夏休みがやって来た。こんなことでいいのか? どうすれば映画の仕事ができるのか? どうすれば映画監督になれるのか? 横浜の空を見上げながら毎日、考えていた。

そんなM荘があったのが、この公園。今は児童公園になっている。41年前。18歳だった僕らは、ここで青春時代を過ごしていた。そんな秋のある日、僕は行動を起こす。このまま大人しくしてられない。それが映画監督への道の第一歩となった。


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横浜ー青春プレイバック③ スマホも、PCも、DVDもない時代。風呂もエアコンもなし! [横浜青春プレイバック]

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横浜ー青春プレイバック③ スマホも、PCも、DVDもない時代。風呂もエアコンもなし!

アパートを出て、目の前の階段(2つ前の写真)を降ると国道に出る。歩道橋を渡ると前に大きな建物。これは41年前。僕がこの街に住んでいた頃からある。昔は自動販売機がある左側に大きな入り口があり、中は広い市場になっていた。まあ、スーパーのようなものだが、名前は**市場だった。いろんな店が店舗を借りて出店しているタイプ。

そこには肉屋、魚屋、酒屋とあれこれあって、よくコロッケと食パンを買って帰った。が、その市場も今はない。入り口さえコンクリートで塞がれている。10年前にきた時は、まだ細々と狭くなった市場が営業していたが、今回はなくなっていた。

ちなみに、生活に必要なもの鍋とか包丁は実家から持って来たのだが、唯一忘れたものがあった。爪切りだ。長くなってから気づいた。親元にいると当たり前に使っていたものなので、気が回らなかった。で、この市場で買った。その爪切り。実は今も使っている。何だか不思議な気がする。

この建物の右側を奥に行くと、昔は小さな食堂があった。爺さん婆さんがやっている6畳もない店。ただ、朝の6時から営業して夕方には閉まる。経営者の生活パターンに合わせていたのだろう。当時はコンビニもまだまだ少なく、セブンイレブンも7時から11時までしか営業していなかった。吉野家も近所にはない。自炊もあまりせず外食が多い。いろいろあって朝まで起きていることも多く、朝飯食って寝るということも多かった。

そんな時に便利なのが朝6時から営業のこの食堂。定食で納豆、味噌汁、ご飯、焼き魚というようなもの、400円とかだった。その店の存在がとてもありがたかった。朝5時になり腹減って仕方ないとき「後、1時間の我慢」とか思い耐えたのを思い出す。今なら近所のコンビニに行き、パンでも弁当でも簡単に買えるが、1980年当時はそんな便利はまだなかった。ただ、今の時代。便利にはなったが、別の何かが失われたような気がする。

当時はレンタルビデオもない。DVDもない。ネットもない。携帯もない。部屋に電話がある奴すら、ほとんどなかった。電話どころか風呂もない。エアコンもない。テレビはあったが、持ってない奴が多かった。それでも学校をサボってクラスメートと飲みに行った。朝まで映画の話で盛り上がった。そんな横浜20歳前。仲間たちは誰もが映画監督を目指していた。おかしな奴らばかり。いや、一番おかしいのは、僕だったのかもしれない。青春物語のプロローグ。また、続きを書く。


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横浜の思い出。青春プレイバック② 41年前、ここに住んでいた。 [横浜青春プレイバック]

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横浜の思い出。青春プレイバック② 41年前、ここに住んでいた。

ラブホテルのようなデザインにも見えるこのアパート。何だか地面に沈み込んでいる。この場所は急激に低くなっていて、手前の階段との差がかなり激しい。小さな崖と言っていいくらいだ。この窪地にあった家の2階に41年前に住んでいた。

一階は普通の民家。二階を改造して下宿アパートにしている。僕らの世代以前は下宿と言って民家の二階を学生に貸して、食事付き。と言うことがあったが、1980年代は一階の家に入らず、そのまま裏から二階に上がり部屋に直行できるスタイルが主流だった。4畳半。トイレ共同。風呂なし。小さなキッチンが付いている。家賃は1ヶ月1万円。

その家も10年ほど前に訪ねたときに、すでに建て替わって新しいものになっていた。そして今回、その家も取り壊し、お洒落なアパートになっていた。昔は手前の階段を降りて建物の一階から入るようになっていたが、今は自転車が見える場所から建物に小さな橋が作られ、直接二階へ行けるようになっている。当時は考えもしなかったことだ。

右側の建物の一番奥が僕の住んでいた四畳半があったスペース。そこでは今、どんな人が住んでいるのか? 大学生か? サラリーマンか? 何か夢を持ってこの街にやってきたのか? それとも就職先への通勤の便だけが理由か? この建物がある場所は小高い丘になっていて、坂道が多い。行きはいいが帰りは大変。駅まで歩きで20分。近所にコンビニもない。繁華街も商店街もない。今もない。いろいろ不便が多い。ただ、駅まで行けば横浜も川崎も20分ほどで行ける。会社がそこなら悪くない場所だ。

高台なのに景色は良くない。ご覧の通り、窪地に建っている。駅も遠いし家賃も今だって、そんな高くないはず。きっと若い人が住んでいるのだろう。それが理由でデザインもラブホテルのようなモダンなものにしたと思える。そんな場所に41年前は日本家屋。二階建ての古い家が立っていた。そこに僕は2年間住んだ。横浜には5年いたが、最も濃い時代。その部屋から僕の人生が始まったと言ってもおかしくない。

そんな思い出話。もう少し続ける。


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横浜の思い出。あれから41年。青春の日々が蘇る。 [横浜青春プレイバック]

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今から41年前。毎日のようにこの場所に立った。僕は高校を卒業したばかりの18歳だった。この写真は住んでいた下宿アパートのすぐそば。駅に行く通り道。高台になっているので、横浜の街が眼下に見える。写真では見づらいが中央の上部から少し左にベイブリッジが微かに見える。その向こうは海。夜になると汽笛が聞こえた。でも、あの頃、この橋はまだなかった。

その右側の大きなマンションのような建物。それも以前はなく、横浜の街が一望できた。あの頃「この街で戦い。何を掴むのだろう? 映画監督になる夢を実現できるのだろうか?」と18歳の僕は毎日、この場所で考えた。それから41年後。同じ場所に立っている。当時、生まれた子供でさえ今は40歳だ。僕は目標の映画監督になっていた。が、「夢を実現した!」という満足感はない。

不安定な生活。まだまだ知名度も低い。第一線で活躍している訳でもない。監督になれたことは目標達成ではなく、新しいスタートラインに立っただけ。そこからの戦いの方が、この街で過ごした日々より過酷で凄惨なものだ。監督業を夢見て足掻いたこの街での日々こそが青春であり、素晴らしい思い出となっている。あれから41年。横浜時代の思い出を探し、街を歩いてみた。また、続きを書く。



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