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低予算ドキュメンタリー映画。監督とプロデュサー、それぞれの仕事を紹介 [映画業界物語]

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低予算ドキュメンタリー映画。監督とプロデュサー、それぞれの仕事を紹介

まず、監督の仕事から紹介する。沖縄戦が題材なら、その勉強。本を読み、DVDを見まくる。その後の取材でさらに題材を理解。それをどう映像で伝えるか?いかにすれば観客にしっかり理解するか?を考え具現化する。内面に深く沈まねばならない作業。

プロデュサーの仕事。まず、取材する相手を探し、アプローチ。手紙や電話で依頼。熱意を伝え協力を求める。会ったこともない人に電話して事情を説明、協力を得るという作業は神経を使う。言葉使いや表現を間違うことで相手の反感を買って断られることもある。知っている人なら、目の前にいる人なら、さまざまん情報があり、アプローチしやすい。が、顔も知らない人を電話で説得するのは大変。一つの特殊技術とさえ言える。

そして製作費の管理。スタッフの手配。飛行機や宿泊の予約。チケット購入。スタッフの部屋割り。レンタカーの予約。現地の位置関係。どの地区のホテルに泊まるのが効率的か? 取材中の食事のタイミング。毎日、貧しい食事ではスタッフの不満が募る。時には無理してもそこそこの食事も入れねばならない。

監督は「静かに深く題材の世界に入り込み考える」INの作業。Pは「熱く相手に訴えかけ説得する。段取りをして取材がスムーズに進むようにする」OUTの仕事。それぞれに別の資質が必要だ。だから、監督とプロデュサーはそれぞれに1人。複数となる。監督は資料を読み込み、その世界に入り込む。Pは取材相手にコンセプトを説明し、了解を得る。同時に作業を進めるので効率的。

僕は監督とPー両方の仕事をする。資質が違う作業なのでかなり苦戦する、特に、監督が資料を調べ頭に入れる作業と、Pが相手に熱い思いをぶつけ承諾をもらう作業。ベクトルが真逆なので、これを同じ時期にやると神経が切れそうになる。演技で言うと正反対の役を同じ舞台で演じるようなもの。ジギル博士とハイド氏状態になってしまう。両方を同時にやるのは、精神的におかしくなる過酷な作業。

先ほどまで資料を読み、その世界に埋没していたのに、本を置いて電話して交渉というのは脳がショートしそうになる。戦場で戦っていた兵士を瞬時に都会に連れ戻して、裁判所で被告を弁護士しろ!というのに近い。感覚がおかしくなる。作業の資があまりに違う。

僕は監督業もP業もそこそこ出来る。でも、瞬時に切り替えは効かない。監督なら監督ー。PならPをしばらく続けられるが、行ったり来たりはできない。まさに「ジギル博士とハイド氏」戻れなくなる。これを実感してもらうのは難しい。「別に普通に出来るんじゃない?」と言われそうだが、それを分かりやすく説明する術はない。気が変になるとしか言えない。

劇映画ならまだいいのが、ドキュメンタリーは本当に大変。なら、Pを雇えばいい?だが、問題はそのために人件費がかなりかかるということ。また、取材対象を探し出し、交渉して、時間や場所を決めて、監督を連れて訪ねる。取材後のケアもする。

そんな優秀でマメなPなんてなかなかいない。テレビ局ならいるが、フリーではなかなかいない。いても、その人を雇うと製作費が30%増しになってしまう。低予算ではキツ過ぎる。作品クオリティが確実に落ちる。

さらにドキュメンタリーの場合はpも、その題材にある程度、精通してなければならない。劇映画なら映画作りが分かっていればできるが、ドキュメンタリーはそれだけではダメ。あるいはその段で徹底して勉強することが必要。でないと取材相手を探し出すことができない。努力家であり情熱がないとできない。

だから、Pを下手な奴に任せると大変なことなる。サボり屋で題材を勉強しないPが見つけて来た証言者では、取材にならないこともある。面倒臭いからと裏金を払って証言させ、偽のテロップで誤魔化そうと言い出したりするかもしれない。NHKーBSではないので、それはできない。

そう考えると僕自身が担当することが無難。劇映画も三作目以降のプロデュースは全部僕自身。他の監督のPをやったこともある。だが、ドキュメンタリーにはなかなか通用しない。脳がシャッフルされてアジャパーとなりそう。もし、これで監督とP、両方のギャラがもらえれば、つまり2人分の額になるのならまだいいが、そこが低予算。この他に5人分くらいの仕事をこなして、0.8人分くらいのギャラだ。

いや、収入より精神的にキツ過ぎる。Pの仕事を全部こなした上に、監督の仕事。事前に資料を読み込み、取材時にインタビューをする。鬼舞辻無惨の最後のように溶けて分解しそうになる。ま、過去の話だが、思い出すだけでも脳が爆発しそうになる。

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何かを知るのは犯罪の解明に似ている? [映画業界物語]

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何かを知るのは犯罪の解明に似ている?

「物事を知る」僕の仕事で例えれば原発について、沖縄戦について、戦争について知るための行動は、犯罪の全容解明に似ている。殺人事件が起きる。それを知るためには「まず被害者が何者か?」を調べる。次に「凶器は何か?」そこから動機が見えてくる。被害者の生活、住居、家族、友人を当たり、恨みを持つ者がいないか?を探る。

容疑者が浮かべば、被害者との接点、関係を調べる。容疑者の仕事、家族、住居、経歴を探る。こうしてなぜ、容疑者が被害者を殺すに至ったか? どのような理由で、どのようにして犯行を行ったか?が分かり、事件の全貌が分かる。

沖縄戦を調べるのも同じだった。ただ、あまりにも膨大なジャンルで困窮した。沖縄戦というのはノルマンディ上陸作戦やマーケット・ガーデン作戦とは違い、1箇所で行われた戦闘ではない。いくつもの戦闘、いくつもの事件、さまざまな悲劇を含めて沖縄戦なのである。

その1つ1つを把握するには数年かかるだろう。そこで出会うことが出来た戦争体験者の方からお話を伺い、その方が関わった戦闘や事件を中心に映画を作った。いくつもの戦闘があったが、主なものを基本、時間経過に合わせて並べ、その中で証言を紹介した。

ただ、一つ一つを深く描くと上映時間が物凄い長さになるので、紹介的な形で戦闘や事件を描いた。全貌を伝えることに重きを置いた。逆に1つの事件に絞って描いたのが「乙女たちの沖縄戦」だ。こちらは野戦病院に看護学徒として派遣された17歳の女子高生たちの物語。今も健在な方による当時の証言を中心に再現ドラマも加えた。

そんな風に、作品を作るためにはどこからどのようにアプローチするか?が大切だ。その前にはあれこれ調べる。が、沖縄戦は巨大な山。ヒマラヤに登るようなもの。どこからどのようにして登るか?を考えた。人はあまりにも膨大な情報を前にすると、思考停止する。何をどうしていいか?分からなくなる。

専門書を読んだが、まるで頭に入らない。歴史の教科書のようだ。事実を並べられても把握できない。そんな時は自分が興味あるところから切り込むしかない。沖縄戦ーなのに基地からスタートした。昔見た「ウルトラセブン」のウルトラ警備隊や「サンダーバード」の基地。子供はみんな大好き秘密基地!ということで米軍基地の本から読み始めた。

あと、いくら本を読んでも実感できない。それは単なる知識にしかならない。あれこれ調べるのをやめて、まず沖縄に行った。インタビューを開始する前に、あちこち訪れた。戦跡だけでなく、観光客が訪れる場所にも行った。地元の料理を食べる。地元のマーケットで買い物する。過去の沖縄を知る前に、今の沖縄を知るところからスタート。

沖縄戦の勉強はそこからだ。3年の間に8回の取材。その後も映画公開や宣伝のために何度も訪れた。さらに「乙女たち沖縄戦」撮影。そこまで来て初めて、都内で本を読んでも理解が進む。仕事はもう終わっているが、今も沖縄戦の勉強は続けている。思い出すこと。日本の教育は教室の中で本を使って歴史を教える。文章とわずかな写真だけで学ばせる。現地にも行かない。体験者の話も聞かない。それでは歴史を知ることはできない。だから日本人は戦争は他人事と思うのだろう。

そして面白いのは歴史を知ると、現在が見えてくること。未来が見えてくること。過去を知る勉強ではないことを痛感した。沖縄戦時と同じことを今の日本政府はしている。ウクライナでも沖縄戦の日本軍司令官と同じことをゼレンスキーは叫んでいる。歴史を知れば彼にスタンディング・オベーションをすることなんてない。いろんなことが見えてくる。


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映画監督業は理解されずらい因果な仕事? [映画業界物語]

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ボクサーは試合の1ヶ月も前からジムに泊まり込み、練習を続けると聞く。自宅にいると家族がいるので、ついつい日常に引き戻されるからだろう。そのことで頭から試合のことが離れる。或いは、あこれ家族に言われたり、電話があったり、友人が訪ねてきたり、そのことで気が散ったりもする。

ジムで24時間練習する訳ではないが、練習しない時間も試合のことを考えるには強い集中力が必要だ。相手選手のことをあれこれ考える。どのように攻めようか?考える。ウエイトや体調のことを考える。どの世界でもそうだが、より考え続けた奴が栄光を掴む。

映画監督も同様。シナリオをもらってから、それを読み込み。どのような映像を撮るか?考え続けることが大事。なのに撮影直前まで別の仕事をやっていたり、友達と飲み歩いていたり、毎日彼女に電話したり、家族と一家団欒をしていては演出を考えられない。ただ、ボクサーが事前にジムに泊まり込むように、監督は撮影所に事前に泊まり込めない。

だから家族がいて、家にいると集中できない監督は、外出して街をブラブラしながら考える。映画を見たり、図書館に行ったり、中にはパチンコをして考える人もいる。が、それを見たカタギの人は「いいな〜映画監督は〜昼間っからブラブラ。パチンコしたり。俺たちは汗水流して働いているのに、気楽な仕事だね〜」と思ったりする。僕もそう言われたことがある。

が、その時期に監督があれこれ考え続けることで、映画の良し悪しが決まる。数千万円から億単位の映画の価値が決まる。とても重要な時間。ある意味で撮影現場での演出より、その期間の方が重要。現場では優秀な技術スタッフがたくさんいて、作品を形にしてくれる。が、撮影前に演出プランを考えるのは1人。それが多くの関係者の命運を左右するので責任重大。ただ、カタギの人には「ブラブラしてる。気楽な商売だ」としか見えないようだ。

また、妻や彼女が映画業界と関わりのない人の場合も似たようなことで揉めると聞く。ま、ブラブラすることが数千万の製作費をドブに捨てるか?歴史に残る名作になるか?を決めるなんて想像できないだろう。だから、彼女から「最近、何で会ってくれないの!」となじられる若い監督。所帯持ちの人は妻から「何もしないなら、子供と遊んであげてよ」と言われ、家から逃げ出さなければならないとのこと。

僕の場合。妻も子供もいないので、その種の悩みはない。が、撮影前だけでなく、シナリオ執筆でそういう状態になる。自分で書くので撮影前にあれこれ考えなくても、決定高が上がった段階でもう演出プランはできている。また、幸いなことに妻や子供もいないので、外でブラブラしなくても集中することはできる。ただ、今の時代。携帯、メール、ライン、メッセンジャーといろんなツールがある。

あれこれ連絡がある。仕事関係だけならいいが、FBの場合は会ったこともない人からコメントや連絡が入る。質問やアドバイスが来る。本来ならその種の期間はFB等を止めればいいのだが、関係者への業務連絡をFBでしている。僕が日常を記事にすることで皆、状況を把握してくれる。

でないと「死んでいるかも?」とか思い電話があったりする。関係者以外でも編集中だと分かれば連絡を控えてくれるが、でないと「飲みに行こうか?」と誘いがあったりする。事情を説明、お断りするだけでも集中力が削がれ、時には数日作業ができなくなる。

「そんなひ弱なことでどうするの!もっと強くなりなさいよ」とカタギのおばさんに言われたことがある。クリエイティブということを理解していない。強いは=無神経にも繋がる。些細なことで悩む繊細さが、創作には強い武器となる。でも、繊細過ぎると壊れてしまうこともあるので難しい。以前は一般の価値観で、あれこれ言ってくる人がよくいた。

なので業界外の飲み会のお誘いはお断り、いや、業界関係でも人がたくさん集まる会は、古い価値観を振り回す先輩のお相手は疲れるので、出来るだけ遠慮していた。それがネットを始めてからは、頼みもしないのに、知らない人たちが、あれこれアドバイス?してくる。ま、価値観の押し売りとも言える。編集や執筆以外の時はいいが、その種の作業の時は本当に苦痛。でも、最近はその辺も理解が進み、無神経なコメントは無くなった。これは本当に感謝だ。

さて、あの作業を早くせねばならない。モードを切り替えるしかないか?「ラインティング・モード」が順調で、資料本もスイスイ読めるのになあ。本来はPの仕事だが、それも兼任。僕がやらねばならない。因果な仕事だ。本日も1日が始まる。



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映画「バス停で朝まで」これが今の日本だ!怒りの映画。ぜひ、観てほしい。 [映画業界物語]

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やっと見れた!

これがいまの日本だ。

これが日本政府だ。

怒りが込み上げる。

その国民の怒りをぶつける渾身の作品。

安倍、菅、この映画を観ろ!

出演してんだからな。

これは令和のー太陽を盗んだ男ーである。

公式HP=>https://yoakemademovie.com


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映画「バス停で朝まで」これが今の日本だ!怒りの映画。ぜひ、観てほしい。 [映画業界物語]

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やっと見れた!

これがいまの日本だ。

これが日本政府だ。

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安倍、菅、この映画を観ろ!

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公式HP=>https://yoakemademovie.com


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映画の予算 [映画業界物語]

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映画を作る前。その作品に必要な製作費の見積りを立てる。ただ、その通りの額は集まらない。スポンサーは見つかったが、かなり低い額。ということもある。その額で制作できる予算をPは組む。テレビ番組の場合。そこで決められた現場費で撮影。赤字が出ても補填されない。それは即ちPが無能という証明になる。人件費は別。編集等のポスプロ費も別。決められた枠で撮影が終われば、ギャラは払われ、編集作業も進められる。

ただ、Pが無能でなくても、天災、疫病、災害はある。撮影が中断。新たな出費が必要となることがある。スポンサーが裕福なら追加予算も出るだろうが、出ないことも多い。新たなスポンサー探しをすることもある。結果、制作中断。制作中止ということある。

ドキュメンタリーの場合はどうか? 

そもそもの製作費が安い。その枠内でやる。が、劇映画以上にリスクが高い。インタビューしたくても、先方の都合と合わない。現地インタビューだとクルーが滞在する間に、訪ねられる数は限られる。「来週ならいいよ!」と言ってくれても、その頃は東京だったり。「じゃあ、来週来ます」となると、また交通費、宿泊費、フリーのスタッフ賃金が上乗せになる。「あと1回来れたら、もっといいもの撮れたのになあ」「この素材じゃ不十分だけど、もう来れないなあ」ということがほとんどだ。

僕の場合。かなり強運で短期間で意味ある取材が多くできることがある。と言って3回の現地取材が2回で終わったということはない。毎回、最後は経費が足りなくなり、監督料を注ぎ込み。終わると借金が残っただけ?ということも過去にある。今回はすでに3分の2の取材を終えており、ダウンしたことで予算を再確認する時間ができた。細かく確認していく。無駄使いは絶対にしない。が、突発的事件もある。

取材があと一息で終わろうとする段階。残り経費いかに抑えて使うか? ポスプロならMAスタジオを最新鋭のところではなく、かなり古いところにして安くするとか? 取材費が残れば、その分をポスプロに持って来れるが、それは出来ないことが多い。逆に編集費を現場に持ってかないとならないこともある。

大手だと、取材現場で経費が残っても、それを会社に返すだけ。「それなら何か現地で美味しいもの食って使っちゃおう!」ということになりがち。ただ、僕の場合は余ればポスプロに回せる。作品本位に進められる。が、たいてい、現場費は残らない。ポスプロ費の何を削減して、何を抑えるか? それを現場費に持つて来ることも考える。


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劇映画を実名で描く難しさ=「島守」「F50」「Minamata」自身への戒めも! [映画業界物語]

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劇映画を実名で描く難しさ=「島守」「F50」「Minamata」自身への戒めも!

特定の映画を批判すると「そんなに嫌いなの?」とコメントしてくる人がいる。毎回、馬鹿すぎる!と呆れるが、好きだから褒める。嫌いだから批判すると言うものではない。

今回は自身への戒めでもある。こちらはドキュメンタリーだが、同じ沖縄戦が題材。特にドキュメンタリーにフィクションを持ち込んではいけない。勝手な解釈。未確認の事実を描くのはご法度。細心の注意を払った。それでも「ドキュメンタリー沖縄戦」の時は「***戦を描いていない」「***問題に触れていない」とか、あれこれ批判が来た。1時間45分の上映時間で扱えるものは限られている。自身が興味ある事件がないからと「それでは沖縄戦を描いたことにならない!」と言う輩もいた。

「米軍を美化している」と言う批判もあった。これは先の「島守の塔」で島田知事を美化しているとの批判に近いので詳しく書こう。批判の主は多少、沖縄戦を勉強したことがある人。もしかしたら特定の団体の人かもしれない。ある種の人たちは「日本人は犠牲者だ。俺たちは酷い目にあった!」と言う主張を繰り返す。それによって被害者の立場に自分達を置き、加害者の側面を隠そうとしている。アジアで日本軍が行ったことに目を向けず、沖縄、広島、長崎ばかりに目を向ける。

なのに僕は「沖縄戦」で米軍にも多くの犠牲者が出た話を伝えた。また、住民は米軍より日本軍の方が怖かったと言う話も紹介。それらを曲解。「米軍よりの作品だ!」と思い込み「美化している」と言い出したのだ。「米軍より」すら間違っているが、美化は何なのか? 米兵がおばあちゃんにチョコレートをくれた話を紹介したから? その後の専門家が「それも米軍の作戦」と解説している。

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つまり、その人たちは「日本人は犠牲者だ!」と言う思いがある。その裏には「だから、アジアの人を傷つけない!」「守るための戦争だった」と当時の日本を正当化したいと言う思いがある人たち。そこまで行かなくても、物事の一部だけを見て「おかしい!」「事実ではない」と騒ぐ人たちもいる。その意味で「島守の塔」の問題点を指摘する時も、無神経なないものねだりではなく、嘘を持ち込んだ理由や背景を探り、作り手の意図を理解した上で、問題を考えたかった。(そのために監督の本まで読んだぜ〜)

あの映画の背景はとても大切な教訓となった。主人公の故郷から支援があるからと事実を曲げて偉人にしてしまう。ま、それ以前に知事を「素晴らしい人だ」と思ったところに問題はあるのだが、映画人は事実を描くよりどーしても感動を描こうとしがち。ドキュメンタリー作家ではない。フィクションの世界で仕事をしている。実際、僕が脚本を担当した「乙女」ドラマ編でも似たような意見が出た。

「再現ドラマはフィクションなのだから、自由な発想で作るべきではないか?」

と言うスタッフもいた。通常ならそれでもいいだろう。舞台は沖縄戦でも、主人公を架空の人物にして、戦争反対の思いがある。その葛藤を描く。あり。ただ、実在の人物にそれをさせると歴史の改竄と言われる。それが「島守の塔」だ。島田叡は実在の人物。その人が思っていないこと、やっていないことをやらせて美化。偉人にしてしまった。架空の人物を作り上げ、「住民を救う」と言わせる。その人物と島田がぶつかるならありだ。が、島田の故郷から製作費が出ている。だから彼を偉人にしてしまったのだ。

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似たようなことをしている映画はある。「F50」は最悪だった。福一の原発事故。吉田所長は現実の人物。彼が事件以前にしでかしたことが全電源停止に繋がるのに、それを描かずにヒーローとして描く。でも、決して彼は悪人ではない。事故時の活躍は事実。だが、映画はその部分だけを描き、総理(菅直人)が怒り狂う場面ばかりを紹介した。印象操作で客は総理のために収束が遅れたと感じる。こんな風に事実とフィクションを混ぜて、制作側の意図する方向に観客を誘導することができる。(結果、事故を収束させたのは東電の職員。邪魔したのが菅直人という誘導。収束もしてない)

ただ、事実材の人物を登場させて大きな問題のない映画もある。「ワンスアポンアタイム・イン・ハリウッド」だ。スティーブ・マックイーン。ロマンポランスキー監督、ブルースリー、シャロンテート。チャールズ。マンソンが実名で登場。そこにフィクションを持ち込む。これはどうかなあ〜と言う気もしたが、エンタテイメントとして面白くできている。シャロンテート事件。「結末が現実と違うだろ!」と批判する声も聞かない。ただ、ブルースリーの娘からはクレームがついたと言う。「父はあんな嫌な奴じゃない」と。

「Minamataーミナマタ」も実在の写真家ユージーン・スミスを実名で描き、事件の当事者チッソも実名で紹介される。この作品への日本側からの批判があった。「あの場面は事実と違う」「***はおかしい」「社長は賄賂を渡していない」とか様々。さあ、先の2つと違い、この映画は難しい。僕自身はよくやったと思える。もう、多くの日本人が忘れていた水俣病を今一度、伝えたことは大きい。そのためには実名は大事。

ただ、映画で描く場合。全てを事実通りに描くと逆に繋がらない。真田広之さんの役。実在の3人を1人にしている。映画で3人も出て来られると客は覚えきれない。集約している。それを事実ではない!と批判するのはどうなのか? そして、批判する多くは水俣病に関心があり、知識がある人だ。映画により水俣病を多くに知ってもらうことは大事なのに、なぜ批判してしまうのか? ここに悲しい構図がある。

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僕の「朝日のあたる家」を批判した多くは推進派ではなく、原発に反対し、よく勉強している人たちだった。「内部被曝に触れてない」「プルトニュウムの情報が少ない」「もんじゅの話がない」とか、先の「沖縄戦」と同じであれがない!これがない!この辺は知識の問題ではなく、映画表現を理解できていないことが背景。映画はだいたい2時間。登場人物の整理。簡略化は必要。ドキュメンタリー映画ではない。

その中でどう表現するか?が監督の技量。そんな表現方が理解できないので、重箱の隅をついて批判。あるいは批判することで自分の知識を誇り、映画の不勉強さを指摘したいという意地悪な思いもよく感じる。映画があまり専門的になり過ぎると一般の人は見てくれない。勉強した人たちが満足するようでは一般はチンプンカンプン。ヒットしない。その辺を考えずに批判する人が多い。

だが、一方で制作サイドもしっかり調べずに、「ま、こんなもんでいいだろう〜」と言う人がいる。「金がないから仕方ねだろう」とか、「**した方がドラマティックだしさ〜」と事実を曲げようとするスタッフもいる。そもそも、原作ものだって原型ないほど変えてしまうのが劇映画なのだ。「乙女」のクルーは皆、ドラマの人。だから、僕が厳しく言わねばならない。

「これが劇映画ー白梅の塔ーなら、いいでしょう。でも、ドキュメンタリー、元白梅学徒の方々が証言した後で、あり得ない脚色をした再現ドラマを見せることはできない。証言を踏み躙り、利用したことになる。事実を歴史を伝えるための映画なのだから、そこを踏み外してはいけない。いつもならフィクションとして許されるが、今回は違う!」

シナリオは僕が書いた。現場で勝手に変更したり、付け加えたりしないようにお願いした。監督もスタッフもそれを理解し、超低予算とわずか数日の撮影なのに、いいものを作ってくれた。事実通りにやろうとしても、金がなくて、時間がなくてできない事もある。それはどうすればいいのか?嘘で誤魔化すか?それはダメ。では、事実に近い形で対応。様様な努力をしてくれた。そして、女子学徒は皆、架空の人物にした。取材して聞いた方々の話から、複数を1人にしたり。病院壕には十数人いるはずだが、4人に物語を絞った。

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事実通りに描くことが映画ではない。脚色することで伝わる事もある。複雑な構図をシンプルにする。紹介エピソードを絞る。だが、詳しい人が見ると「あれがない!」「それは事実ではない」と批判する。だから、難しい。100%の事実は伝えられない。何より演じるのは俳優であり、歴史上の人物ではない。また、人にはいくつもの面がある。家庭、職場。親として、息子として、夫として、それぞれに顔が違う。その全てを描くと多重人格に見える。そこも映画では考える。

個人的に思う事だが、「Minamata」は実名の必要がある。だが、「島守の塔」は実名ですべきではなかっただろう。そもそも、偉人でない人を故郷が応援するからと偉人にしたのが間違いの始まり。「ワンスアポン」も全面的な賛同はしない。が、僕が沖縄戦の劇映画を作るとき、どうするか?ただただ、リアルに歴史通り作ればいいと言うことではない。感動も恐怖も描かねばならない。これからの課題。


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ドキュメンタリー映画は劇映画と違った作り方をする。特に太田組は得意?! [映画業界物語]

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ドキュメンタリー映画は劇映画と違った作り方をする。特に太田組は得意?!

体調というのも本当に少しずつしか回復しないものだ。現在は脱都会生活6年目。新宿、渋谷まではかなり時間がかかる。そこまで行く体力がまだない。あるスタジオにHDDを届けなければならないので、近日中に代々木アタックをせねばならない。

映画製作というのは撮影ばかりではない。その準備、資料探し、読み込み。構成。その辺をしっかりとやった上で撮影する。また、ドキュメンタリーの場合、一気に全てを撮影しないことが多い。ある段階で取材内容を振り返り、当初の構成で行けるか?を振り返ることも必要。

特に僕の場合。テレビ番組のようにガチガチの企画書を作り、取材も始まっていないのに結論を決めるようなことはしない。ドキュメンタリーは生き物。作りながら形を変えて行く。プラモデルではない。むしろ子育てに近い。最初、親が「将来は新聞記者になってほしい!」と思って、その種の教育をしていても、次第に子供自身(作品)が意思を持ち行動を始める。

それを無理やり親の意思を強制しても、親子断絶が起こるだけ(あるいは子供が我慢して歪んで行く)子供が生まれた時の時代背景と、大学を出て就職というときの社会はかなり違う。そこに昔からの親の願いを押し付けるべきではない。時代遅れで、古い価値観を振り回すだけだ。

ドキュメンタリーも同じ。スタート時の時代背景は1年も経たずに変化してしまう。例えば、この春に安倍総理に関する悪行を追う作品を作り始めたとしても、夏には暗殺。それ以上、悪行はできないので、もう追求できない。テーマを別の切り口にせねばならない。清和会を追求する作品だとしても、壺問題でガタガタ。消滅しそうだ。

そんなふうに短い月日で社会情勢は大きく変わる。求められるものも違ってくる。人々の声や風をしっかりと感じ取り、それを作品に反映することが大事なのだ。

「ドキュメンタリー沖縄戦」の時は3年で8回、沖縄に行った。一度の取材で4〜5人にインタビュー。帰京したら、その人について、その事件について勉強。最初は白紙で取材に挑むのだが、帰れば徹底して調べる。最初からしっかり勉強して行くと、先入観を持ってしまう。

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また、情報や知識がないことで、取材相手も初歩から分かりやすく話をしてくれる。これは重要。映画館に来てくれる観客と同じ知識量でインタビューすることで、観客も見やすくなる。インタビュアーがあれこれ知った上で質問しても、その前提が観客には分からない。専門的なドキュメンタリーでは時々、それに陥ってしまうことがある。知識がある観客しか見られなくなる。

しかし、知識がないと作品を仕上げることはできない。ナレーション原稿も書けない。だから毎回、取材後に徹底して勉強。背景を説明する場面を作る。記録映像や現在の風景。地図。それらにナレーションやテロップを入れる。沖縄戦の知識なしにそれら作業はできない。

そして基本は時系列で沖縄戦を紹介しながらも、一部は前後させてある。タランティーノの「パルプフィクション」もそうだが、時間の流れを前後させることで興味を引くという手法。ドキュメンタリーの場合。多くが教科書的であり、作家は「退屈でも大切な歴史だから、我慢してしっかりと見なさい!」と観客に求めがち。だが、なぜ、入場料を払い映画館まで来た人たちに、そんなことを強制するのか?

もし、テレビ放送なら、DVDなら、ケーブルなら、途中で見るのをやめてしまう。大切な歴史というのなら、最後まで見てしまう演出と構成で作ればいい。その努力をせずに「大切な歴史だから」と客に我慢を強要するのは努力不足としか思えない。だが、こちとら劇映画の監督。観客を退屈させるのは罪悪とさえ思っている。ドキュメンタリーであっても最後まで客を惹きつける作品を目指す。

もちろん、改ざんや脚色はご法度。最近、その種の劇映画が続けて制作されているが、過度な改ざんは劇映画でも許されるものではない。それでは大本営発表と同じ。誘導と印象操作でしかない。特に沖縄戦は難しい題材。勝手な思い込みや想像だけで作るべきではない。

ドキュメンタリー映画に戻る。シナリオがあり、撮影した映像をその通りに繋いで行く劇映画とは違う。毎回の取材があるたびに、その素材を吟味して、構成や流れをさらに考えること、大切なのだ。「沖縄戦」の時は、そんな感じで、取材と取材の合間も、資料読み込みと構成を考えていたこと。思い出す。



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独立系のドキュメンタリーが面白い理由=大手テレビがダメな訳? [映画業界物語]

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独立系のドキュメンタリーが面白い理由=大手テレビがダメな訳?

8月の終わり頃から急に涼しくなり、エアコンを1日つけてなくてもいい日が続いている。エアコンはつけたり消したりする方が電力が必要で電気代が高くなるというので、今年はなるべく消さないようにしてみた。果たしてお値段は?秋のお楽しみ?あるいは恐怖となっている。

過労でダウンして1週間が過ぎ、今回は9ヶ月の戦いだったので1ヶ月も寝込むことはなさそう。とは言え、今も近所のスーパーやコンビニに行く程度の体力しかない。以前なら新宿や渋谷に行けるようになるのが回復の目安だったが、最近では大都会に行く必要がない。映画館も、家電量販店も、居酒屋も小さな衛星都市に揃っているからだ。

おまけに居酒屋も滅多に行かない。567を恐れているのではなく、感染以前から外で飲むことが減った。ただ、部屋では毎晩。1人で飲んでいる。過労のせいで缶ビール1本で頭がグルグルするが、1日が終わりビールを飲むと夏を感じることができる。

リハビリ中ではあるが、仕事も少しづつしている。今の予定で行くと来年の2ー3月頃に編集真っ最中ということになる。申告のための準備を今からしておく。また、あれこれ考えるのも大事なこと。作業するばかりが仕事ではない。取材、撮影、シナリオ、編集、という作業をしていると他のことを考える余裕がない。それらのない期間に考える。

まだ、あまり詳しくは書けないが、構成を考えるというのも大事。え? 構成って企画段階で考えるんでしょう?と言われそうだが、そうばかりと言えない。テレビドキュメンタリーは最初に決めた通りに進める。でも、そのことでリサーチと現実が違うことも出てくる。なのにリサーチ通りの結論でまとめ要することがある。地元の人に『:::と証言してほしい」などと用意したコメントを求める。

上層部が承認した案件なので変更できないということなのだ。が、そんな馬鹿な話はない。要は後で上から注意を受けたくない。上は上で、急に変更されて問題になったら責任を取らされる。という、どちらも責任逃れが背景にある。なので取材中に新しいネタと出会う。重要な証言を得ても、企画通りでなければパス。スルーということにもなる。

これらは大きな組織でありがち。慎重に間違うわないで、作品を作ろうとしながらも、その姿勢が「責任を取りたくない」という逃げにつながり、与えられたことを確実にするというだけの番組作りになってしまう。当然、クレームが来るのを恐れる。NHKなど最たるもので、どこからもクレームが来ない番組作りをしている。

NHKでは沖縄戦を扱っても「アメリカ兵に住民が殺された」「日本兵に住民が殺された」という表現を避ける。「戦争によって犠牲者が出た」的な言い方をする。つまりアメリカからも日本からもクレームがつかないようにしている。戦争が悪い!と言っても戦争からクレームは来ない。両国の残酷な行為はできる限り描かない。それが巨大組織NHK的な番組作りである。

しかし、弱小のプロダクションなら上のようなしがらみに縛られる必要はない。スタッフは少なく上司もいない。取材中にいいネタが見つかれば取り入れられる。上から文句は来ない。リサーチと結論が違えば変更すればいい。近年、独立系のドキュメンタリー映画が面白いにはそれが可能だからではないか? テレビと違いあれこれクレームを気にせずに制作できるからだろう。

製作費やギャラは安くても本当に大切なことを伝える作品を作ることができる。組織のルールや上司の顔色を気にする必要がない。だから、面白いものができる。そんなことも考えながら、この段階でまた構成を考え直している。ま、そもそも、最初に決めた通りに行く方がおかしい。そして結果、いつもそれでうまく行く。へへへ。



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ドキュメンタリー制作の難しさと太田組の方法論? [映画業界物語]

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ドキュメンタリー制作の難しさと太田組の方法論?

真夏の撮影。とにかく、その日の予定を最後まで取り上げること。ダウンせずに撮影を続けること。体力の消耗や熱中症に注意して、その日できる最高の撮影をすることに全力を尽くす。

だが、そんな時は長期的展望でものを考えることはできない。せいぜい翌日の撮影を視野に入れる程度。目の前の問題をどうクリアして、予定を消化するか?それで精一杯なのだ。劇映画の場合はスタートすると、3〜4週間ノンストップ。勢いで突っ走るしかない。

対してドキュメンタリーの場合は何度かに分けて取材をすることがある。「ドキュメンタリー沖縄戦」の時は3年で8回。スタッフ体制は最小限であり、かなり厳しい予算だと思えたが、「乙女たちの沖縄戦」は不可能実行指令だったので、今考えるとかなり楽だった。複数に分けて取材となると、前回の問題点を反省することができる。

真夏の沖縄で、その日の反省をするのは難しいが、帰京して涼しい部屋であれこれ考えると、あれこれ見えてくる。ある時、スタッフがかなりバテて脱落者が出るのでは?という時があった。1人なら、そのスタッフの体調が良くなくて暑さでダウン?と思えるが、半数が参っていた。理由の1番は暑さだろう。が、沖縄の暑さは何度も体験している。それだけではない。

問題はレンタカーだった。エアコンがあまり効かない。そのために移動中もスタッフが高温の中。体を十分に冷やすことができずに次の現場に到着。そのために体力を消耗した。

さらに、ホテルが古いのでエアコンが強、中、弱という調整しかできない。弱で寝ると寒くて夜中に目が覚める。消して寝ると暑くて眠れない。そんなことも疲労回復を邪魔する背景となり、スタッフはかなり参ってしまったのだ。

そのホテルも以前に泊まったことがあったが、さほど暑くない季節だったのか?その種の問題は感じず。また、レンタカーのエアコン問題が重ならなければ何とか斬り抜けたかも知れず。トラブルというのはいろんな形で、複合的にやってくるものだと認識する。

対策として次回は早めに予約してまともレンタカーを借りる。宿泊費をケチらず、もう少しまともなホテルに泊まる。でも、そのためには経費と相談。取材対象者とも相談。ルービックキューブの複数面を合わせる努力が必要となる。

次の取材まで1〜2ヶ月あると、他にもいろいろと考える。あるときに苦労したのは申告シーズン。その2月にまさかや!の編集。領収書整理もせねばならない!編集はスタートすると集中力。下手したら春まで戻れない。

そこで領収書整理を先にやった。編集の締め切りがどんどん近づいてくるが、申告手続きも1週間はかかる。そのイライラ。ストレス。そんな時に馬鹿野郎があれこれ連絡して来た。神経が切れそうになり、今度こそ発狂するか?と思えた。一般の人に編集作業がどれだけ神経をすり減らすか?説明しても理解はできない。

その後は申告シーズンから逆算して、作業を行うようにしている。「あーそういえば来月、申告だよなあ」というのがこれまで。考えれば分かるのだが、目の前の問題と対峙していると、そのことで精一杯。経理スタッフがいる訳でもなく、僕自身が全てせねばならない。

なので今は、取材中に領収書の打ち込みをする。これも本来はPが金を管理、監督は旅費や宿泊費。食費を気にせずに取材をするのだが、それを監督である僕が担当した上で、ホテルの部屋ではその日使った費用をエクセルに打ち込む。

Pなら取材中に外で、取材費があといくら残っていて、食費を節約せねばならないなあ〜とか計算する余裕があるが、監督は室内でインタビュー。経費の把握する時間がない。なので仕事が終わり、部屋に戻ってから領収書整理。そのことで経済状態を把握する。

さらに、取材終了後に帰京。すぐに領収書を整理。貼り付けをして、計算間違いはないか?今回の赤字は?次回の取材はいくら削るか?頑張れば、あと何回、取材に行けるか?などの算段をする。

つまり、監督とPと経理の3人分の仕事をしている。取材が複数回だからこそ、帰京してからの作業もできるが? これ全て現地で行うと、完全に監督業が疎かになる。そして現地では必ずトラブルが起きる。

先の暑さ事件。あるいは取材対象者が急に断ってくる。スケジュールを変えてほしいと連絡が来る。スタッフが問題を起こす。やるべきことをやらない。あれこれも文句ばかりいう。

ある時、スポンサーから来たスタッフは映像のプロではなく、一般の人。その手の人は映画作りを何も知らないのに、あれこれ口を出すことが多い。自分の価値観を押し付けて「あーするべきだ」「こーするべきだ」と言いたがる。それが一番邪魔であり、神経を逆撫でされる。

最後には僕も爆発。その人物を太田組出入り禁止にしたが、もっと早くすべきだった。ドキュメンタリー制作を知らない者があれこれ口を出して、マイナスこそあれ、プラスには絶対にならない。

次の取材までにあれこれ反省。よりスタッフが快適に取材してもらえるような体制を考えるのも監督の仕事。本来はPが、より監督に快適に仕事してもらえるように環境づくりをする。それも僕がやる。そのことで人件費削減。

問題点は何か? どうすれば効率が上がるか? でも、あまりスタッフに無茶はさせられない。でも、問題を続けて起こす人には外れてもらわねばならない。「沖縄戦」での経験が生きる。大切なのは、素晴らしい作品を作ることである。



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映画監督という生き方? 「人並みな生活がしたい!」と思ったらアウト? [映画業界物語]

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映画監督という生き方? 「人並みな生活がしたい!」と思ったらアウト?

映画監督というと、多くの人は文化人、芸術家。金持ち。女優にモテる?とか思うようだが、かなり違う。もちろん、巨匠と呼ばれる人は文化人であり、芸術家なのだが、多くの監督は単なる現場仕切りの仕事であったりする。

監督で金持ちはほんの一握り。ほとんどが貧乏人といえる状態。新入社員より年収が低いだろう。ただ、熱い思いを持つ人が多く「俺はこれを描きたい!」ということで自分を支えて映画作りに励んでいる。とは言え、低予算でも1本の映画を撮るだけでも、本当に大変なこと。チャンスを掴むだけで宝くじに当たるようなもの。なのに、終わると残るのは借金だけ!ということが多い。

ある意味で劇団で頑張る俳優のようなもので、テレビにも出れない。食えない。アルバイトの毎日。でも、芝居が好きで続けている!というような感じだ。監督業も映画だけでは食えない。あれこれ他の仕事もする。AVに誘われて、そのまま帰って来ない監督も多い。監督作品は1本だけで、その後の十数年、1本も撮っておらず。それでも「監督!」と呼ばれている人もいる。

いや、1本すら監督していない監督もいる。撮り続けるのも大変。ヒットさせるのはまず無理。そして監督できても、自分が好きな作品なんてまず撮れない。企業映画だと「なんじゃこれー」というシナリオを渡されて撮影。評判が悪いと「あいつはダメだな」と烙印。好きでもない作品を撮ってもいいものは出来ない。

本当に自分が撮りたいものを撮れるのは、奇跡を願うようなもの。企業ではバカが寄ってたかって作品をダメにする。ただ、そんな魑魅魍魎たちに言われた通りの、ありきたりの作品を撮らないと、次の仕事ももらえない。映画が撮りたくて入った世界。監督業を続けるには「撮りたくないもの」を撮らねばならず。自分がやりたいもの!なんて、誰も金を出してくれない。それが監督業の現実だ。

そんな中で僕は「自分が撮りたいものしか撮らない!」と決めた。そんな子供のワガママが通用する世界ではない。が、儲けようとか、また仕事をもらおうとか、まともな生活をしょうとか、人並みな幸せを得たいとか思わなければ、できるものだ。ここまで5本の長編映画。2本の長編ドキュメンタリーを監督した。全部、自分がやりたい作品だ。

依頼された作品もあるが、全て「やりたい!」と思ったもの。ただ、やりたいものをやると、結局、人並みな生活は出来ない。結婚も出来ない。家庭も築けない。老後の貯金もない。いつか野垂れ死する覚悟がいる。貯金も出来ない。来月の家賃が払えない!は何度もある。友人たちには迷惑をかける。女優にモテることもなく、フリーターと変わらない、むしろそれ以下の生活水準。

それでも「撮りたい作品を撮る!」ことは意味を感じる。嫌な作品を撮り経済的に恵まれた生活をするか? 撮りたい作品を撮り貧しい生活をするか?どちらがいいのか? いつ、アパートで孤独死してもいいと思えば、それはそれで楽しい生活だ。そこまで覚悟したら「撮りたいものが撮れる」と僕は考える。

長生きしたいとは思わない。だから、毎回「遺作」。これで死んでもいいと思っている。製作中は何ヶ月も血圧が危険値を超える。医者には「休み取りなさい。でないと本当に過労死するよ!」と毎回言われる。完成すると毎回、倒れ、数ヶ月間寝込む。だが、それで死ねなければ「もう1本撮れ!」と映画の神様が言っているのだ。そしてまた次の戦い。だが、60代になり戦いも辛くなる。終わりが来るまで、その繰り返しだ。



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映画の題材を勉強せずに、撮影してしてしまう監督たち? [映画業界物語]

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映画の題材を勉強せずに、撮影してしてしまう監督たち?


「議員さん。選挙で落ちればタダの人」という言い方をするが、「映画監督、映画撮れなきゃ、プー太郎」と言われそうな気もする。議員なら元の仕事に戻るとか、他にも仕事ができそうだが、映画監督なんて映画作る以外に何もできない。そのくせ、いざ映画を監督する日のための準備もせねばならない。その日まで別の仕事をして待とう!ではダメだ。

大工さんなら仕事がなくて休んでいても、依頼が来ればまた大工道具を持って仕事に行けばいい。職人さんなら皆、それで大丈夫。でも、監督業は作る作品の題材を徹底して勉強せねばならない。まあ、全く戦争の取材をせずに、戦争を背景とした映画を作る監督もいるけど、そういうのって本当に許せないし、観客を感動させる作品にはならない。

だが、その題材を勉強するのは本当に大変。時間もお金もかかる。監督には依頼を受けてから1週間くらいで、ちょこちょこと題材と同じ漫画を読んで、「はい。勉強しました〜」という人もいるが、そんなで映画撮ってしまうなんてあり得ない。僕が「青い青い空」を監督する前には書道を4年勉強した。「朝日のあたる家」では原発の取材を3年した。「ドキュメンタリー沖縄戦」では戦争。これは3年したが、今も続けている。各分野ともに、何年勉強しても十分ということはない。

特に戦争は沖縄戦が題材でも、それだけではなく太平洋戦争。ヨーロッパ戦線。ナチスドイツ。大本営。戦後の日本も勉強せねば見えて来ない。関係者に話を聞き、専門家の教えを乞い、本や資料を読み漁る。監督がその分野を徹底して把握してこそ、映画として形にできるのだ。だから、「青い青い空」の後は書家の先生方の会で1時間の講演、「朝日の」後は原発についての講演会に呼ばれた。

少なくても、その分野について講演会ができるくらいの知識と情報を持たなければ、それを題材に映画を作る資格は得られないと考える。その辺を実践する監督が最近は少なく、聞きかじっただけの知識で全く取材もせずに「記者」ものを作ったり、戦争の話を避けて戦争体験者の物語を作っている若手がいる。だったら、別の題材でやれ!と言いたくなる。

ただ、そこまで調べて勉強しても、映画が中止になることがある。そこまでかかった費用も時間も全て無駄になる。多くの監督はそれを恐れて、できる限り労力を使わずに済ませようとするのだ。依頼がなくても「いつか、その題材で撮るぞ!」と思っていても、製作費が集まらず、形にならないことも多い。生活に追われて、資料を買い、取材をする経費も出ないので、依頼が来てから本格的に勉強しようと思い、年月が過ぎて行く。

それでは例え依頼が来ても、そこから勉強したのでは間に合わない。結果、不十分な知識で監督することになる。だから、僕は依頼がなくても自分が興味があれば調べる。原発についても、そもそもは映画を作るために勉強した訳ではない。

テレビがしっかりと伝えない事故の真相を知りたくて取材を始めた。結果、映画にしたが、その間の取材費等は製作費が超低予算だったので、もらっていない。「青い青い空」の書道の資料代は、製作会社が理不尽にも支払いを拒否。そんな目に遭うこともあるのも、監督たちが題材の勉強をできる限りしないで済ませる一因。

だが、それでは作品が軽くなる。力がなくなる。説得力を持たない。感動を呼びおこせない。事実と知識の積み重ねばリアリティを産み、観客の心を揺さぶる。そのために題材を勉強し、把握することこそが映画監督の仕事だと思う。ま、いろいろ大変なのだけどね。



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映画監督の仕事とは何か?今の時代は「真実を伝えること」だ! [映画業界物語]

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映画監督の仕事とは何か?今の時代は「真実を伝えること」だ!

高校時代。日本映画は本当に詰まらなかった。名作と言われる文学小説の映画化。アイドルを主演させただけの青春もの。退屈の極み。見るのは金と時間の無駄だと思えた。対してアメリカ映画はエンタテイメント。2時間の間、ハラハラドキドキ。最後は感動して泣ける。「明日からもがんばろう!」と思えた。将来、映画監督になれたら、そんな映画を作ろうと誓った。

それから45年後、映画監督としての仕事を始めた。ずいぶん遠回りしたが、劇場用映画を撮るようになる。もちろんエンタテイメントだったが、作品のテーマは「子供たちに伝える大切なこと」になった。高校時代に、映画からは学んだ大切なことを子供たちに伝え、当時の僕のように悩み迷い、大人や社会に押さえつけられる子たちを元気付ける物語を作ろうと思った。

が、すぐに気づく。「大人がバカだから子供たちが苦しむ」テーマが少し変わった。「親子に伝える大切なこと」になる。親にも大切なことを伝えないと子供がいつまでも苦労するのだ。その後も、同じ路線で映画を作ったが、「向日葵の丘」あたりから「幸せって何だろう?」と言う問いかけが強くなる。幸せの形が見えないから、親子が間違った方向に進んでしまうのだ。金持ちになること、有名になること何かではない、幸せとは何かを追求し始めた。

そして、近年。さらに具体的なものが見えて来た。「真実を伝えること」だ。政府や企業が嘘を流し、国民を誘導するから幸せになれない。だから、映画で嘘を見抜き、真実を伝えることをが大切だと思えて来た。すでに3作目の「朝日のあたる家」から実践していたことだが、それに気づいた。「親子に伝える大切なこと」その先にあったのは世間に騙されず、真実を見抜く力を育てることだと思えた。

「日本の原発は安全です」と言いながら大爆発。原発推進は電力不足のためではなく、既得権益者たちが莫大な利益を得られるから。「直ちに危険はありません」と言い、東京にも放射能が降り注ぐのを伝えない官邸とマスコミ。本当のことを伝え、国民を真剣に救おうと言う政治家たちを貶め、批判するテレビ新聞。567、枠てん、オリンピックも同じ構図だ。多くが政府や企業のフェイクを信じ、誘導されている。

感染を抑えるより利権の大きいオリンピックを強行。それも私たちの税金。それを感染対策や医療に使えばいいのに、都知事は「自宅を入院施設として使ってほしい」それは遺棄と同じ。なのに多くの国民はテレビで五輪見て「元気もらった」「励まされた」と喜ぶ。奴隷としか言いようのない状態。自分たちがどんな状態なのか?を知り、思考停止状態から抜け出すことが大事。それが親子に伝えるべき大切なことではないか?

オリンピックの裏側や567の真相を暴く物語でなくてもいい。沖縄戦を劇映画にして伝えるだけでも伝えられる。すでにドキュメンタリーは製作したが、日本政府と軍部が沖縄県民を見捨て、捨て石にしたがのが沖縄戦である。その間に本土決戦の準備をした。「県民を守る必要はない。時間を稼ぎ、米軍の体力を奪え」それが大本営からの命令だったのだ。同じことが今、日本全土で起きている。

学校では教えない、NHK特集でも伝えないない、その手の映画を大手は絶対に作らない。でも、それを知れば多くの日本人は気づくだろう。「今も同じ!」と。そんなふうに大切なことを伝えるのが、今の時代、映画監督の仕事ではないか?もちろん、映画を作るときは徹底取材し勉強する。原作ものを1冊読んで分かった気で作ってはいけない。その異意味では原発と沖縄戦はかなり勉強した。講演会をしても2時間は喋れる! 

ただ、567禍で映画撮影は厳しい。現場で費用を出してくれるところもないだろう。だからせめてFacebookやブログを通じて伝えたい。本来はマスコミの仕事だが、彼らはもうフェイクを流す側の住人。個人だと間違うこともあるかもしれないが、伝えるべきことはたくさんあるはずだ。




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低予算映画の戦い(下)=いかに節約して「素晴らしい作品」を作るか?発想の転換。 [映画業界物語]

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低予算映画の戦い=いかにして「素晴らしい作品」を作るか?発想の転換。

先に紹介したように、3千万という低予算映画でも、実際に映画に使えるのは2千万弱である。そうしないと製作会社は存続できない。社員や社員の家族が生活が成り立たない。1千万を超える手数料を取ることもやむなし。と思えるが、映画製作ー「より良い映画を作る」という観点から考えると、その1千万あれば、いろんなことができる。クオリティが上がる!と思ってしまう。

僕は監督なので、どうしてもそちら側から見てしまい、ピンハネや中抜きをする会社を許せなかった。予算を下げ自社の利益を上げるためにスタッフを踏みつけるPや社長。撮影が終わってから「赤字が出たので監督料。半分にして欲しい」というPもいた。「それはお前の責任だろ!」と言いたいが、彼らは決して自分のギャラは削らず。絶対に辞めない者にリスクを押し付ける。

監督料なし。約束の額が払われないこともあった。後輩からも、その手の話をよく聞くが、一番よく働いて、一番バカを見るのは監督であることが多い。どの監督も「この映画を撮りたい!」という熱い思いがあるので利用されやすい。僕も似たようなことが何度もあり、映画が完成して残るのは借金の山だけだった。が、耐えているだけでは何も変わらない。そんな環境にいては「より良い映画は作れない」考えた。

昔、読んだ矢沢永吉の本。彼が契約したレコード会社は通常以上にバンドを縛り、ギャラもピンハネ。立場も弱かった。会社により良い歌を作ろうという思いはなく、儲かればなんでもいいという姿勢。最初は単なるロック小僧だった矢沢だが、そんな不満を抱え、あれこれ勉強、権利や立場を取り戻して行く。単にアーティストとして歌うだけでなく、プロデュースも担当。やがて興行を取り仕切るようになる。そのことでより良いアルバムを、ライブをできるようにした。という話を思い出す。

映画を監督してから、あれこれ勉強。制作費の使い道、流れ、儲け、利率。権利。著作権。慣習。あれこれ誤魔化している会社が多いことが分かる。誤魔化しどころか、えげつないところも多い。信頼していた人に裏切られ、騙された。全ての元凶は製作会社だ(彼らに事情があることは前回の記事で紹介した)そしてP。ただ、それらがないと映画は作れない。

それなら僕自身がやればいい。数本の映画であれこれ学んだ。ルーカスやスピルバーグだって監督でありpなのだ。ある作品から、監督、プロデュサー、脚本、編集を全て担当。さらに製作部がすべきロケハン。完成後の宣伝。1人7役をこなすようにした。

だが、ギャラは7人分もらわない。せいぜい2人分だ。そのことで5人分の人件費が節約。さらに製作会社を排除。これで30%(時にはそれ以上)もの手数料を取られずに済む。その分、僕が働けけばいい。節約した額は全て映画製作費につぎ込む。

製作会社の手数料というのは、事務所の家賃(都内の大きな街にに構えると月20万前後かかる)社員の人件費。光熱費。通信費。そして社長が家族を養うための給与等に使われる。でも、製作会社を入れなければ、その種の費用は必要ない。僕は自宅。社員はいない。打ち合わせは喫茶店。家族もいない。安アパートなので多額の収入も必要ない。先の例に従えば、1000万円浮かすことができる。つまり、制作費の全額を映画に注ぐことができる。

さらに、地方ロケ。地元から熱い支援応援を頂く、そのことで宿泊、食事、移動(車やバス)の協力をしてもらう。これも金額に換算すると1千万近くになる。こうして計算すると、通常の映画では例えば予算が3千万でも、2千万の作品(深夜ドラマクラス)しかできないのだが、僕のやり方だと4〜5千万クラスの映画を作れることになる。だから、俳優陣も毎回、豪華。

ただ、儲からない。製作会社ならすぐ倒産。だが、儲けるつもりはない。監督料はもらっているので最低限の生活はできる。贅沢をしようとか、家を買おうとか、外車に乗りたいという思いはない。素敵な映画を作ることが何より大切。これ矢沢的発想(彼の場合は儲かって億万長者になったが、映画界ではそうはいかない)ともう一つ。見習ったのは我が師匠・大林宣彦監督の方法論。

彼はPSCという会社を持っていたが、電話番の人が1人いるだけ。製作会社として監督作の手数料を取っていないかったのではないか? コピーするときも、すでにプリントアウトした用紙の裏を使い、徹底した節約。僕も仕事をさせてもらったことがあるが、巨匠とは思えない質素な事務所。打ち合わせの後に、その部屋のキッチンで料理してスタッフと夕食ということも。とにかく「制作費は映画のために使う!」そんな方針。

僕の場合も金儲けではない。会社を経営、都心に事務所を借りていて、社員もいれば高額の手数料を取る必要があるが、脱都会暮らし。だから3千万で作れば6千万。5千万で作れば1億相当の映画ができる。ただ、予算超過すると僕が借金を背負う。監督料がなくなる。毎回、7人分働くので完成後は過労で数ヶ月はダウン。

医者から毎回「過労死する前に休め!」と言われる。僕のスタイルをマネするバカはいない。なので紹介した。今回の記事もシェアしたり転載しないように。興味本位でしか読まない人には、読んでもらいたくない。映画作りは命がけの戦い。よろしく。


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低予算映画の戦い(上)製作費っていくら?=搾取とピンハネ。低予算作品の苦悩? [映画業界物語]

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映画製作費ってどのくらいかかるの?=搾取とピンハネ。低予算作品の苦悩?

日本映画。大手で製作すると最低1ー2億円。派手なアクションもスペクタルもない。地味な青春映画でもそのくらいはかかる。アクションもの。豪華スター共演。時代劇は数倍の製作費。インディペンデトでは最低3ー5千万円(それ以下も多いが後日、説明)深夜ドラマのようなレベル、ボーイ・ミーツ・ガールのような物語しかできない。当然、有名俳優は出ないし、銃撃戦や爆破シーン等もない。

ちなみにハリウッド映画。メジャー作品の最低制作費は現在10億円ほど。大作は100億円。話題の作品はもっとかかっている。スケールで勝てないのは当然だろう。そんな時代でも、低予算に苦しみながらも日本の映画人は少しでもいいものを作ろうと頑張っている。が、それを阻害するのが多くの場合、製作会社やプロデュサーである。マイナーの場合はかなり厳しい現実がある。

例えば3000万円の映画を小さな制作プロダクションが受けたとしよう。業界の慣習として20%前後の手数料を取る。計算してみる。600万。3千万から引くと2400万。それで映画を製作せねばならないのだが、最低1年はかかる。都心に事務所がある場合。家賃は最低でも15万はする。かける12ヶ月。180万。

電話番に若い女性。若手のPを1人。社長と3人の会社だとする。電話番の給料が1ヶ月15万。Pを20万とする。それぞれに1年の給与は180万と240万。合わせて420万。ボーナスはなし。家賃と合わせると600万。これでもう手数料はなくなる。光熱費や水道代。社長の給与が出ない。そこで慣習である20%を30%にする。900万円だ。

そこから給与と家賃を引くと300万。これが社長の給与とあれこれ。月給は30万弱。映画界で長年生きて来た50過ぎの社長。妻も子供もいる。自宅のマンション代も払う。教育費も必要。これで生活できるのか? また、会社では関係者を集めて忘年会等もする。だから、手数料を40%にする。と映画に使えるのは1800万円になる。つまり、これが実質の製作費になる。

これでは有名俳優を使えないだけでない。アクションも、カーチェイスも、CGもダメ。それこそ深夜ドラマのような地味な物語しか作れない。また、撮影期間も限られてくる。近年の映画は2時間ものを3週間ほどで撮影する。が、それを2週間。1週間に短くする。人件費を抑える。食事代を減らす。宿泊費を下げる。

ただ、スタッフの労働時間は長くなる。3週間かかるものを1週間で撮るにはスタッフは不眠不休で働く必要がある。いいものを作る!ではなく、何とか最後まで撮影する。が目的になる。当然、クオリティを気にしてられない。「面白い!感動した!」以前に撮り切ることが目標となる。それでもスタッフは俳優は、「少しでもいいものを作りたい!」と思う者が多くいる。

そんな情熱に乗っかって(利用して?)多くの製作会社は映画を作っている。悪徳社長!と思えるが、考えてみよう。彼もまた家族を養うためには慣習以上の手数料を取らねばならない。つまり、制作費が2億円なら20%でも4千万。社長も阿漕なことをしなくてもいい。頑強は3千万で映画を作ろう!なんてスポンサーがいること。だが、不況が続く時代。2億も出して失敗したら大変。どんどん制作費が下がって来た。

3千どころか、1千。500万。という信じられないような額で作られた映画まである。200万の映画を見たが、映画学校の実習のような出来。そんなものを1800円取って映画館で見せている。でも、日本の映画人口が減り。2億かけても回収できない。いや、3千でもできない。だから、どんどん下がっていくという背景もある。

では、どうしたらいいのか? それは次回紹介する。考えて欲しいのは、悪徳社長でも最初は「感動する映画を作ろう」と思っていること。それが生活が苦しくなり、リスクが高まり、いかにピンはねして中抜きして、金を残すか?を考えるようになる。次第に映画への情熱をなくし、スタッフの生き血を吸うだけの存在になっていく。これって政治家も同じ。最初は国民のため。それが次第に癒着。生き残りしか考えなくなり。国民を踏みつけるのと同じ構図。そんなことも考えてみて欲しい。




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沖縄戦を題材とした劇映画が作れない理由=政府が怖いだけではない? [映画業界物語]

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沖縄戦を題材とした劇映画が作れない理由=政府が怖いだけでない別の問題。

戦争映画が今、日本で作りづらい状況という話を前回した。安倍政権以降。戦争できる国にしたい人たちは「戦争の悲惨さを伝える映画」を作ってほしくないからだ。だから、最近の戦争映画は「日本兵は素晴らしかった!」とか「大和は悲劇のヒーローだ!」みたいな作品。

そんな時代。沖縄戦を劇映画で描くのはもっと難しい。「ひめゆりの塔」は何度もリメイクされているが、あれは沖縄戦の一部にしか過ぎない。他にも様々な悲劇があるのに、それらが映画化ドラマ化されない。というのは沖縄戦を描くと日本軍の蛮行。非人道主義に触れなければならないからだ。日本政府は沖縄を捨て石にして、県民がいくら犠牲になろうと、本土決戦を準備する時間を稼ごうとした。そのために県民の4分の1が死んだ。

もう一度戦争をしたい勢力にとって封印したい歴史。そのせいか、この数年は終戦記念日前後のスペシャルドラマで戦争を描く作品が減っている。まして映画で沖縄戦に出資しよう。企画を通そうという映画会社は皆無。「政権に、団体に睨まれないようにしよう」という意識が働いている。また、沖縄戦を劇映画にするには金がかかる。他の戦闘なら御殿場あたりで撮影できるが、沖縄ロケハ大変だ。車では行けない。飛行機代。宿泊費がかなり必要。また、沖縄には火薬を持ち込めない規則がある。戦争につきものの爆破シーンが撮れない。そうなると、その種の場面だけ関東で。あとは沖縄。となると、さらに製作費がかかる。

さらに「沖縄戦を見たい!」という観客も少ない。「永遠の」何とかみたいに嘘ばかりでも泣ける映画が見たいと考える。そもそも、沖縄戦に関心がある人が少ない。映画界にもほぼいない。学校でも沖縄戦は教えない。ニュースでも触れない。NHKの上部だけのドキュメンタリー。それも過去に放送したっきり。だから、映画会社も沖縄戦では儲からないと判断。企画しない。でも、だからこそ、沖縄戦を映画化するべきなのだ。

今の時代。567対応、オリンピック。沖縄戦と同じ構図だ。国民を捨て石にして、政府が自分たちちを守ることしか考えていない。国民がどれだけ犠牲になろうと平気。全く同じ。76年前と変わってないことを痛感する。何が原因か?何がいけなかったのか?歴史から学ぶことができる。沖縄戦は今の時代に見つめ直すべき歴史なのだ。

だが、どこの企業も金を出さない。どの作家も興味を持たない。中にはドキュメンタリー映画を撮り、描いてはいけないところまで描いて、スポンサーに嫌われた監督もいるようだ。結局、DVDもテレビ放送も止められたと聞く。沖縄戦の真実を描くと、そうなるのだろう。しかし、今こそ振り返るべき歴史。「人々が見たい映画」を作るのではなく、「人々が見なければならない映画」を作る。それこそが映画作家の仕事のはず。なのに、それができない現実を見つめるしかない。



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「コロナで映画界は壊滅状態ですよ」と言う業界の友人。 [映画業界物語]

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「コロナで映画界は壊滅状態ですよ」と言う業界の友人。

まさにその通りだ。まず、撮影ができない。アクション映画も、恋愛映画も濃厚接触が必要。毎日、検温、感染予防。セット、ロケ地の消毒。そのために対策チームまで設置。その人員のギャラを払わねばならない。

大きなロケバスで移動ができない。小さな車に分かれて乗る。そのためにレンタカー代もかかる。地方ロケ。地元に嫌がられる。「東京から何十人も来られたら感染が広がる!」と恐れられる。宿も拒否されがち。エキストラも集まらない。それでもテレビは無理してやっているが、先の宣言で撮影中止になったところも多い。

多くの映画が撮影延期、中止。スタッフ、キャストの仕事がなくなる。補償はなく、貯金を削って生活する人多数。映画館にも人が来ない。一度も感染が出ていないのに緊急事態宣言で、書き入れ時に休業要請。莫大な収入を失っている。多額の宣伝費が無駄になる。公開延期も同様。映画は*月公開と決まったら、そこに合わせて半年以上前から宣伝を開始。延期すればそれが無意味。そこからまた宣伝せねばならない。そのためにまた多額の経費がかかる。

そんなことがもう1年以上も続いている。やがて潰れる映画館も出てくるだろう。独立系のミニシアターは特に厳しい。それらが潰れると大手しか残らず、隠れた名画やマイナーな名作を見るチャンスがなくなる。公開もできなくなる。安易に作った大手の映画だけが上映される。ミニシアターこそが思いある人たちが奮闘。地域に芸術文化を伝える仕事をしている。そんな彼らが不必要な自粛を迫られ苦しんでいる。音楽や演劇も同じ。

収束時期が見えないのも辛い。今年で収束!とか分かれば、苦しくても、それまで撮影を延期すればいい。来年1月に撮影ができるように、今から準備できる。が、準備しても、1月にはまだコロナが蔓延しているかもしれない。と、その準備がまた無意味。費用も無駄になる。そう考えると中止にした方が被害が少ないことにもなる。僕の予想だと、この秋にも収束が始まると踏んでいたが、逆に感染が増えている。

その理由の1番はオリンピックだ。「五輪やるなら、もう大丈夫だろ!」と緊急事態宣言にも慣れた国民が動き出した。「マスクしているから問題ない!」と街に繰り出す。こうして、過去最高の感染者が何日も続くことなった。小池や菅が利権を優先したため。「安全安心」なんかじゃないのに。結局、彼らがやっているのは、収束させるより感染拡大を願い。日本の経済をズタズタにすることなのだろう。

コロナ禍で依頼もない。そのために多くの映画人が収入の道を閉されている。特に監督や脚本家はアルバイトもできない。同世代はもういい歳なので、居酒屋のバイトも出来ない。いや、その居酒屋が自粛要請で閉めている。飲食業はまだ協力金がもらえるが、映画人には何もない。物凄く手続きが面倒な芸術給付金もあったが、額も知れており1回切りだった。Netflixの支援金は申請殺到。開始数時間で終了。それも監督と脚本家は対象外。

都知事の言う「自宅を病室として使う」は1人暮らしの映画人を死に追いやるかもしれない。コロナ感染での死亡ではなく、餓死と言うこともあり得る。僕も他人事ではない。そんな中で強行しているオリンピック。「苦しかったけど、頑張ってよかったです〜」と金メダルを見せる選手。特別な待遇を受け保護される彼らに拍手を送る気にならない。多くの日本人は今も苦しい。金メダルを噛みちぎってやりたくなる。


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製作費のない日本映画。何を作るべきなのか?=テレビでは放送できないもの! [映画業界物語]

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製作費のない日本映画。何を作るべきなのか?=テレビでは放送できないもの!

大手映画社の発想はこうだ。「ベストセラーを映画すれば当たる。100万部売れた本なら3割来れば30万人。十分ペイする」これは大昔からの発想。以前はベストセラー小説だったが、今は大ヒットしたコミックが多い。他には人気タレント主演。ジャニーズの***を主役で考える。人気歌手の***を主演に口説く。最近、注目の女性アイドル***の初主演映画。これも古くからのパターンだが、こちらはかなり厳しくなった。

裕次郎、勝新時代から、たのきんトリオまではそれで行けた。が、それ以降はダメ。90年代に大人気だった広末涼子の主演映画も惨敗。俳優だけを目当てに映画館へ行く時代は80年代で終わったのだ。ハリウッドでは俳優人気に頼らず高額の製作費をかけて、大スペクタクル映画を作り客を集め出した。が、日本はそれだけの予算がない。最近では香港、中国、韓国映画の方が豪華絢爛。そんな時代でも人気コミックの映画化。青春ラブコメディとかしか出来ないのが悔しい。

最近、話題作を次々に発表しているNetflix。何が地上波のドラマと違うのか? 今人気の「全裸監督」を見ても一目瞭然。まず、製作費が違う。が、それは置いておこう。あのドラマ。地上波で出来ないSEX、暴力がバンバン出てくる。今のテレビでは絶対に出来ない。これは大きい。これは映画でも同じ。その辺のセンセーショナルな描写は映画でも出来る。が、これは昔から出来る。大事なのは地上波のテレビで見れないものが見れること。

Netflixでも、まだ出来ない題材がある。地上波では絶対に無理。セリフにすることすら出来ない。原発事故だ。違法ではない。原子力ムラや政府の顔色を伺うから作れない。映画界でもタブーだった。が、原発事故があり、映画作家たちはそれを題材にし始めた。僕もその1人。「朝日のあたる家」で原発事故を描いた。これは絶対にテレビでは描けない。今も放映することはできないだろう。だから大ヒットした。大手企業だと事故を起こした東電を英雄にして、原発関係者を美化するような「Fikushima」なんとかいう映画しかできない。

そんなタブーに切り込む題材なら、映画界は新しい展開ができるかもしれない。政界のタブーに挑むという触れ込みだけで、何ら政治の闇を描いていない作品まで。大ヒットして有名な賞まで取った。映画自体は古いドラマの焼き直し。でも、観客はやはりタブーを見たいことは分かった。昨年、公開された僕の作品「ドキュメンタリー沖縄戦」も、テレビでは絶対にできない。NHKのように上部だけ描くしかできない。集団自決を正面から見つめるのはテレビでは無理。あれこれ、いろんな人たちの顔色を見てしまうとダメ。

だから、こちらもテレビ放映とかDVD化ができない。でも、大ヒットしたので今年も映画館で公開された。そこにも観客が望むものが見えてくる。もはや人気漫画の映画化。アイドルの主演映画ではないのだろう。テレビで見れないもの。マスコミが伝えないもの。そんなものを題材にすれば観客は興味を持つ。この1年ほど、ドキュメンタリー映画が熱い。「君はなぜ総理になれないか?」「はりぼて」「ちむぐりさ」「れいわ一揆」まさに、それを描いているからだ。


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メジャーで感動映画が作れない理由=マイナー作品でどう戦うべきなのか? [映画業界物語]

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メジャーで感動映画が作れない理由=マイナー作品でどう戦うべきなのか?

映画監督デビューから16年。信頼するスタッフさんから、こんなことを言われることがある。

「通常、低予算の映画はエログロ、SEX、ドラッグを扱い、家族で見れないものが多い。監督のマイナーな趣味全開とか多くの人が興味を持たないマニアックな作品。対して太田監督の映画はエンタテイメントだし、毎回感動し泣ける。全国のTOHOシネマズで拡大ロードショーしてもいい映画。なのに、こちらも毎回低予算。メジャー企業から資金は出ない。本当にもったいない。どこかがドン!と製作費を出せば大ヒット映画ができるのになあ」

嬉しい話だ。確かにメジャーから億単位の費用は出ない。一つには僕が著名な映画監督でないというのがある。だから、人気漫画の映画化!という話になっても僕の名前は上がらない。ただ、メジャーから声がかかったことがある。なのに、僕はその提案を断った。大手芸能プロのアイドルがメインの青春映画。スポーツもの。多くのメジャー企業が出資する。映画会社も大手だ。「青い青い空」で書道部の話をやったので、それを知る人が声をかけてくれた。

ただ、その芸能プロはあれこれ口を出すので有名。社長が気に入られないと「このシーンは撮り直せ!」みたいなことを言ってくる。その種の映画を担当した友人がいるが、もう地獄のような現場だったと聞く。

俳優は全て会社が選ぶ。原作はベストセラー。シナリオは別の人。スタッフもその会社でよくやる人たち。監督は撮影現場に行ってカット割りをするだけ。それもよくあるパターンを求められる。奇発なものはダメ。変更のアイディアを出してもPが却下。自由にできることは何もない。編集は別の人。とても監督とはいえない。そして関係者の誰にも作品に対する愛はない。

ただ、ギャラは良かった「だから我慢した」と言われた。その種の映画は高額の宣伝費をかけて公開。そこそこヒットする。が、評価する人は少ない。彼を知る業界人は「学生映画撮ってた頃は面白いもの作っていたのに、最近は全然ダメだなあ」という。皆、ガチガチに固められた現場のことを知らずにそういうらしい。彼だけではない。大手の映画はほとんどがそうだ。先のアイドルたちの出演する映画もそのパターンと思えた。

依頼者は僕を高く評価してくれているが、その種の現場をよく知る人ではない。こう答えた。「多分、撮影初日に社長と衝突して終わると思います。いや、準備段階でそうなるでしょう。だから、その手の映画は真面目で我慢づよくて、個性を出そうとしない。温厚な性格の監督にした方がいいと思います」そう、その手の映画は先のガチガチ現場に加えて、P、タレント事務所、スポンサー(製作委員会方式の時は10社以上)があれこれ要望や希望を出してくる。

「この場面はこうした方がいい」「主人公の部屋に自社の食品***を置いて欲しい」「食べるシーンも欲しい」「この友人役は我が社の***にやらせたい」「この港は**で撮って欲しい。社長の持つヨットがある」てな感じ。ど素人たちがあれこれ言いたい放題。A社が言ったこととBプロの要望は被る。それを調整するのが監督の仕事。結局、間をとってよくあるパターンに。個性のない。平凡な物語になる。多くが納得するのはそういうものしかない。

友人はいう「クリエイティブなんて微塵もない。俺は調整係じゃないんだ!」これがもし、監督に知名度があれば、三池崇史監督ならアクション。三谷幸喜監督ならコメディ。岩井俊二監督ならラブストーリー。会社は信頼してまかしてくれる。が、無名だとそうは行かない。特に先のアイドル映画だとガチガチしかあり得ない。だから、お断りした。が、それを聞いたあるスタッフさんに怒られた。

「監督。それを我慢して映画を作り、ヒットしたら、今度は自分が好きな作品を作ればいいじゃないですか? 断ったらダメですよ!」

気持ちはありがたい。でも、大人しく我慢して、思い入れのない物語を監督するくらいならサラリーマンになれていた。「これを作りたい!」と思うから頑張れる。その手の作品を何本も監督した友人のケースも、我慢して完成させても、また同じようなガチガチ現場の依頼しかない。

大宣伝するからヒットするが、誰の記憶にも残らない。結局、同じような人気原作の仕事しか来なくなり、歳とって扱いにくくなると、若手に話が行ってしまう。自分が撮りたい作品に繋がらない。

だから僕は低予算で好きなようにやる。シナリオは自分でオリジナルを書き、キャストも自分で決める。現場では自分のスタイル。編集も自ら。スタッフは信頼できるいつも仲間。「この作品を撮りたい!」という思いがあるからこそ、いいものが出来る。大ヒットはしないが、劇場では毎回、多くの観客が涙する。

そのスタッフさんの気持ちはとても嬉しい。が、大手のやり方ではいいものは作れない。テレビでよく見る俳優がたくさん出ている。人気原作の映画化。面白い作品はあるだろうか? だが、その手の映画には多くの出資が集まる。対して僕には来ない。

この状況を打破するには、メジャーからの依頼を受けてガチガチの現場で耐えて監督することではなく。低予算でも本当に作りたい作品を作り、それを大ヒットさせることだと思える。

が、それには多額の宣伝費が必要。低予算映画の宣伝費はしれている。チラシ、ポスター、舞台挨拶で終わりだ。どんな感動的な作品でも、多くの人に知ってもらわないと見てもらえない。いいものを作るだけではダメ。では、どうすればいい? ここ数年の課題である。


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【映画作りは才能ではない。料理と同じ。年月をかけて学んだ技術が感動を呼ぶ】  [映画業界物語]

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【映画作りは才能ではない。料理と同じ。年月をかけて学んだ技術が感動を呼ぶ】 

映画の専門学校で授業をすることがたまにある。生徒に聞くと「将来は脚本家になりたい」「映画監督になりたい」という。でも、彼らは学校で与えられる課題でシナリオを書く以外に、自分なりにシナリオを書いたり、自主映画を作ったりはしていない。学校を卒業しても、脚本家や映画監督になれない。その種の就職を学校は世話してくれない。なのに皆、焦ることもせず、まじめに学校に通い、授業を受けている。

もし、これが調理師になりたい。美容師になりたい。というのなら分かる。その後、レストランや美容院で働き、腕を磨けばいい。ある意味で映画作りも同じだが、ある意味で違う。

生徒たちが足掻こうとしない理由。映画というのは「才能があればいい物語が作れる」「才能があれば、素晴らしい演出ができる」と考えているのだろう。何度もいうが「才能」なんて存在しない。それは努力しない人が、もの凄い努力をした人の仕事を見て、とても真似ができないと感じたときに「才能があるからできる」という理解の仕方をするだけのこと。

シナリオも、演出も、「料理を作る」「髪を切る」というのと同じ技術。だから、何もせずに上達することはない。なのに「俺がシナリオを書けばいいものが書ける。演出のチャンスがあれば、素晴らしい作品ができる」と考える生徒が多い。僕がよく知る映画学校はそんな生徒ばかりだった。

が、ほとんどが監督にも脚本家にもなっていない。反対に世に出られた人たちは皆、何本も何本も映画を作り、学校から指示されなくてもシナリオを書いていた。技術を磨き、自分なりのスタイルや手法を探し続けた。この辺も調理師や美容師と同じ。ただ、料理を作ることはできるが、その人しか出せない味を出す。その人しかできない髪型を作る。そこで大きな差がつく。

シナリオも同様。何本も書かないとうまくならない。なのに「書く、書く」といって大学の4年間、結局1本もシナリオを書かなかった友人がいる。それから20年後。ある製作会社で再会したが、そこの社長に「お前、とにかくシナリオ書いて早くデビューしろ!」と言われていた。書かないとうまくならない。才能があるから書けるというものではない。

ある若い女の子はフリーターを続けながら、脚本家になるのが夢だと語る。あるとき、原稿用紙を広げた。「んーーまだ書けないなあ〜」と引き出しに戻したという。この子も同じ。シナリオは突然に書けるようになるものではない。キッチンに立ち。何もしないのに料理ができるようにはならない。技術を学び。磨かないとシナリオは書けない。

僕はギャラがもらえるシナリオが書けるまでに5年かかった。留学から帰ってアルバイトをしながら、シナリオを書き続けた。そのときの話は以前に書いたが、最初はSFもの。ミステリー。やがて青春ものを勧められ。大嫌いなジャンルだったが、意外に好評。結局、監督デビューしてからは泣ける青春ものばかり撮っている。

ある人はいう。「お前は才能があったんだよ」ー違う。実はシナリオは高校時代から書いていた。映画学校でも書かされたが、それ以外でも書いていた。バイトする時間も惜しくて、サラ金で生活を立てながら書いたこともある。その内に自分の得意なジャンルが見つかり。得意技が分かり。「読んだだけで泣けた」と言われるシナリオが書けるようになった。

ま、未だに戦いだが、才能ではなく。何本も何本も書いたことで身についた技術だ。映画も、料理も、髪のカットも、お弁当作りも、イラストを描くのも同じ。俳優業やミュージシャンも同じ。何事も才能ではない。年月をかけて技術やセンスを磨くこと。そして自分の得意技を探す事が大切なのだ。



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