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思い出の朝食@名古屋ーサウナ [思い出物語]

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思い出の朝食@名古屋ーサウナ

これ朝食です。名古屋にいくとよく泊まるサウナの朝バイキング。貧乏性なので、並んでいるものは全て1品ずつ取ってしまう。自宅にいる時の朝はパンとコーヒーだけなのに。外に出ると「食べて、今日も頑張るぞ!」と思うので食べれてしまう。

このサウナは思い出の場所でもある。今から16年前。僕の初監督作「ストロベリーフィールズ」名古屋公開の時、押しかけ舞台挨拶をした。呼ばれていないのに押しかけた。前日入りして、このサウナに泊まった。その時に疲れたサラリーマンたちを見て、思いついた物語がある。それが後に「明日にかける橋」になる。いろんな意味で思い出の場所なのだ。

ただ、このサウナも1年ほど前から朝食を中止。近所のカフェのモーニングのサービス券を配っている。ちょっと寂しい。このパワフルな朝食が名古屋の1日を支えたのに....なので、もう思い出の朝食。



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「あのおじさん。変!」=でも、誰も分かってくれなかった?子供時代。 [思い出物語]

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「あのおじさん。変!」=でも、誰も分かってくれなかった?子供時代。

子供の頃。正月に訪ねてくる親戚のおじさん。皆は「いい大学出ているし、頭のいい人」と一目置いていたが、何か引っかかるものがあった。が、親戚一同誰も僕の指摘に耳を貸さなかった。十年後、彼は大きなトラブルを起こし、まわりに迷惑をかけまくり親戚中から総スカンを食う。皆「あんな人だと思わなかった!」と怒り心頭。だから言ったのに。

ある映画製作前。地元実行委員会に新しいメンバーが加わった。見るからに「出来る!」という感じ。いろんな企業にパイプもあり、誰もが参加を歓迎した。この時も引っかかるものがあった。が、誰も僕の言葉に耳を貸さなかった。あれこれ調べると彼が働く会社に彼がいう部署はなく、映画を利用して限りなく詐欺師に近いことをしていた。僕の指摘だけでは誰も理解しなかったが、鋭いメンバーの1人が気付いてくれ、最後には彼を追放した。その後も他でも偽りの肩書きで入り込み、同じような事件を起こしている。あとあと何度もそんな話を聞いた。

初期段階では気づかなかったが、途中で気付いたこともある。ただ、未だにその人がトラブルの元凶であったことに多くは気付いていない。スタッフだけは、彼が問題だと理解したが、その原因がある病気にあったことは分かっていない。説明しても「はあ?」と言われる。子供時代から推理小説が好きだったせいか?その種の問題点を早い時期に気付き、調べてしまう。第六感とかではない。実はその種の人は発言に問題あるのだ。

その種の人の発言は整合性、論理性がないことが多い。嘘をつくと、どこかで辻褄が合わなくなる。突っ込まれるとまた嘘をつく。さらに糊塗する。何か企んでいる。あるいは、自分にできないことをやろうとしている。自身を大きく見せようとする。トラブルに発展しやすい。今、日本を見ていて、「あれ? どうして?」ということが多い。「まあいいや!」と思わずに考えていくと、何が起ころうとしているか?見えてくる。そんなことを最近はブログに綴っている。



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以前、住んでいた懐かしい街を訪れた。 [思い出物語]



 以前、住んでいた懐かしい街を訪れた。

 と言っても都内なので、行こうと思えばいつでもいける。

 すでに何度も行っている。が、今回少し違ったこと

 以前は、住んでいた頃に記憶が直結。今の生活の方が別の物語に思えた。

 が、今回は完全に過去の記憶の街。

 明らかに以前に住んでいた場所なのだ。

 多分、以前は街を歩くことで、建物や店を見て、当時の細かい記憶や空気まで思い出した。

 が、何年もたった今、そこまでの記憶が蘇らないので、過去と認識してしまうような気がする。

 つい、この間と思えた時代。

 それがもう10年以上前のことだったりする。長い年月を生きて来たということなのだろう。


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LA生活最後のアパート。アメリカ暮らしは楽しい! [思い出物語]

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LA生活最後のアパート。アメリカ暮らしは楽しい!

ここは豪華版だった。先に住んでいた小さなアパートと大差ない家賃で超豪華。写真の白い屋上が見える建物全てがアパート。茶色以外だ。ここは2階に入り口があり、まずマネージャーがいるフロントがある。そこを抜けて進むと右側にラウンジ。まるでホテル。ビリヤードができる。小さなパーティもOK。その奥にはサウナとジム。住人は誰でもタダで使える。

それらを右に見ながら進み、ドアを開けて中庭へ。そこにプール。写真のブルーのもの。小さく見えるが、15メートルほどある。夜は泳げないが、日中はいつでも使える。プールを右に見ながら、進み右に入ると廊下。その横にコインランドリー。廊下を進むと右側は僕の部屋。100畳ほどのリビング&ダイニング。ベッドルームが1つ。バストイレ。2人で生活するのに十分。タンス、テーブル、ガスレンジ、コンロ、ソフア、ヒーター全部ある。電気代は部屋代に込。これで当時、8万円ほどだったと思う。1人4万円だ。

ここに後輩に日本人と住んだ。1989年9月の帰国まで。この時期になると、もうアパートの契約も英語でできた。生活には困らない。そうそう、パーキングもついている。追加料金はなし。LAは冬もそんなに寒くないし、梅雨もない。車があるので日本食が食べたくなったら、リトル東京まで15分ほど。日本の番組ビデオをレンタルできる店もある。紀伊國屋もあるので本も手に入る。

が、僕が嬉しいのは車があることで、少し遠いユニバーサルシティのシネコン。(シネフレックスオデオン)にも気軽に行けること。ハリウッドは10分で行けるが、駐車場代がいるのと、この時代は少し危険だった。ユニバーサルシティ(スタジオがあるとこ)まで行けば、安全。後、ビバリーセンターやセンチュリーシティのシネコンも行ける。

コンサートも贅沢。小さなライブハウスでレイチャールズやチャックベリーが出演していた。スプリングスティーン、マドンナ、マイケルジャクソン、U2、The Who、ピンクフロイド、ローリングストーンズと、全てLAで見ることができた。ビーチボーイズ、ドゥビーブラザース、デビッドボウイ、デボラハリー、JLフッカー、さらには坂本龍一、渡辺貞夫、まで。

その辺の多くを見たのがこのアパート時代。当時、物価は東京より安いし、車でどこでも行ける。フリーウェイも料金いらない。映画もコンサートもある。日本にいるより絶対に楽しい! そんなLA生活。ま、大学はかなり期待外れではあったが、そのことは以前に書いた。そんな時代、日本はバブル契機となり、経済大国へ。逆にアメリカ産業は不振が続いてジャパン・バッシング。僕も人生の選択をせねばならない時期が来ていた。そんな最後に住んだのがこのメンドクラーク・アパートメントだった。ここは本当に懐かしい。



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LA生活3箇所目。ハリウッドに近い小さなアパート。 [思い出物語]

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USCの英語コース。あまりに授業料が高いので安いプライベートスクールに転向。あのアパートもようやく契約期間が切れて、こちらに移る。(写真、真ん中の白い建物)ここはあるところで知り合った日系2世のおじさんがマネージャーをやってるところ。英語力のない僕も手続きができた。おまけに住人は全員日本人。おまけに1人部屋。久々の1人生活。

アメリカでは家賃を安く済ますために、ルームメイトを見つけて部屋をシェアするのが主流。日本の大学生でそれをする人はほとんどいない。アメリカ流が好きな僕も、そこだけは馴染めず、久々の1人生活は嬉しかった。そもそもがわがままで寝たい時に寝て、やりたいことがあれば朝まで起きている。同居人も迷惑だ。

このアパート。バージル・アパートメントは、6畳くらいのスペースにクローゼット。バストイレ。そしてキッチン。日本の1Kに近いが、家具は全て揃っている。コンロも冷蔵庫もある。そこは日本と違って便利。ヒーターもある。ないのはテレビだけだ。ただ、写真でも分かるが、右横に大きなハイウェイが走る。ハリウッド・フリーウェイ。夜中でも車が多く、うるさい。煤塵が飛んでくるのが小さな悩みだった。

この時代。僕はまだ車がない。先の2つのアパートはスーパーが遠かった。学生は皆、車でスーパーに行き、大量の食糧を買ってくる。が、僕はそれができず、大学の帰りに少しずつ買う日本式で生活。が、このアパートから酒屋、いや、リカーショツプまで3分。ミニスーパーまで4分。歩いて行ける。毎日の買い物でも平気。

そのスーパーも日系人が経営。日本の食品も多い。インスタントラーメンから、おでんの具。日本のドレッシング。醤油。日本酒。なんでも来い。リトル東京に行かなくても揃う。とはいえ、僕は日本にいた時からサンドウィッチにハンバーガー。実は日本食がなくてもあまり困らない。が、LA生活をしていかに日本食が健康的か?も痛感する。

このエリアも決して安全ではないが、なぜか、日本のものが多い。車の修理工場も経営が日本人。ハンバーガスタンドも日系人がやってる。一時は近所に日本人向けのビデオレンタルまであった。目の前の通りを直進。グリフィルパーク手前には寿司屋もある。大学までは車で20分くらい。だが、この時期はプライベートの英語学校だ。ウイルシャーBL沿のダウンタウン近く。バスで通った。

結局、1986年5月から1年以上住んだはずだ。その翌年。1987年1月に奇跡が起こる。憧れのUSC映画科に合格。あのジョージルーカスやジョンミリアスの後輩となる。同期での合格は3人だけ。他にも映画科志望の日本人が身の回りにいたが、合格は僕だけだった。大学側。何か勘違いをしてはいないか? そう思ったが、入学することにする。

その時期には安物の日本車を買い、大学まで車で通学。まさにアメリカンな生活をすることになる。英語力はイマイチだったが、USCは私立なので、トイフルの成績がよくなくても英語コースを取ることで本科を学ぶことができた。こうして長年夢見た映画科の学生になったのだが、また、すぐに大きな壁が立ち塞がる。



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LA留学で2番目に住んだアパート。 [思い出物語]

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LA留学で2番目に住んだアパート。

大学が所有するドミトリーは安く住めるが、その手続きは春にはせねばならず。僕が渡米したのは夏。秋が来て部屋を出ねばならないと知り慌てた。大学エリアのアパートはセミスター制で、1〜2学期ごとに手続きが必要。日本風に2年契約とか思っていたので愕然。そこから調べたが大学のアパートは満員。と言って個人で部屋を探すだけの英語力がなく、途方にくれた。

あれこれあったが、ようやくルームメイトを見つけて入居したのが、写真(白い方)のプライベートアパート。大学までは近くて5分だが、かなり古い建物。あれこれ問題あり。なのに契約は2学期間。他に変われない。その上、ルームメイトが最低の奴で、胃潰瘍になりかけた。さらに、この辺も治安が悪く、建物正面にある入り口は金網の高いフェンスがあり、まずそこの鍵を開けて、路地を直進。外付けの階段を上がった2階正面が部屋。扉の鍵を開けて中に入る。

ただ、アカデミー賞の会場・シュライン・オードトリアムやオリンピックのメモリアルスタジオも近く。コンサートがあると、部屋まで歌が聞こえた。が、英語力は伸びず、ルームメイトはバカで、最悪の日々。1985年9月〜4月の8ヶ月。グーグルマップで建物を見つけても懐かしさより、苛立ちが蘇る。本当のLA物語はこの後始まる。


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LA留学時ー最初に住んだ大学のドミトリー。 [思い出物語]

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Google マップは凄い。アメリカの建物さえ画像で見ることができる。で、留学時代に住んでいたアパートを探してみた。写真ー上側の白いビルは1985年5月に初めて住んだ場所。USC(南カルフォルニア大学)のドミトリー。4人部屋のアパート。トイレ、風呂共同。2ベッドルーム。キャンパスまで15分ほど。

正面入口を入るとポストがあり、その横にエレベーター。それで3階へ。廊下を直進した右側が部屋。アメリカ人2人、香港1人。そして僕だ。2ベッドルーム。それぞれにアメリカ人はすでに入居、残りの部屋がアジア組になった。僕よりあとで入居したのが香港から来たピーター君。中森明菜のファンですぐに仲良くなった。

ここからLA生活がスタート。まずは英語コースで勉強。ただ、この地域は危険で夜歩くのは危険。ここに4ヶ月ほど暮した。最初は憧れのアメリカ生活だったが、数ヶ月で様々な困難が始まる。


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映画監督を目指していた若き日のこと?ーどうすれば映画会社にシナリオを読んでもらえるか? [思い出物語]

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映画監督を目指していた若き日のこと?ーどうすれば映画会社にシナリオを読んでもらえるか?

1973年から放送されたドラマ「どてらい男」amazonを通して、あるサイトで配信されている。これがめちゃめちゃ面白い。見ていて元気なる。高校時代に見ていた。先日までの展開。主人公・山下猛造が大阪の問屋に就職。初めての営業で散々な目に遭う。そして「立売堀の将軍さん」と言われる伝説の営業マンに言われる。「こうてくれ!(買ってくれ)と言うて、こうてくれる店なんてない。どーしたら品物をこうてくれるか?考えてみ?」ー思い出したことがある。

アメリカ留学を終えて帰国。映画監督を目指して行動を開始した頃。どうすれば監督になれるか考えた。そこで有名監督たちはいかにして監督になったか?調べた。日本の場合は助監督を10年務めて監督。でも、それは黄金期の話で、1980年代以降はそのパターンは激減。変わって学生映画出身の監督が抜擢されることが続いた。が、それも5年ほどで下火。その後は、別の業界で成功した人が監督したりと言うことが続いた。やはり、監督業は何か作品がないと、認められないようだ。

僕も学生映画をやっていたが、その頃の仲間は皆、夢破れて東京にはおらず、8ミリ機材がもう手に入らない時代。と言ってビデオでやるにはまだまだ機材が高価であり、難しい。仲間も、機材もない。金もない。どうすれば監督になれるか? 映画会社は「監督募集」なんてしない。「デューダ」や「とらばーゆ」にも募集はでない。考えた。実は高校時代に日本の映画事情だけでなく、アメリカの事情も調べていた。スピルバーグやルーカス。コッポラがどのようにして監督になったか?そんな中で印象的だったのがこれ。

USCで映画を勉強したロバート・ゼメキスとボブゲイル(両方とも先輩だ)はコメディの脚本を書き、スピルバーグに送った。それが気に入られて映画化。「1941」である。そこでチャンスを掴んだ2人はスピルバーグの製作であの「バックトウザフューチャー」を作る事になる。シルベスタースタローンは売れない俳優だった。その時代にボクシングの試合を見て閃き、脚本を書いた。ユナイトに売り込む。「俺が主演でこれがやりたい!」それが「ロッキー」だった。

映画を作るのは金がかかる。でも、脚本は原稿用紙とペンがあれば書ける(当時、まだワープロさえ普及していない時代)アルバイトをしながら夜、シナリオを書いた。朝まで書いた。1年がかりで1本。それを営業しよう。どこに営業すべきか? 当時はまだ制作会社なんて知らない。大きいところから当たろうと、東宝、東映、角川、松竹に順に連絡することに。「シナリオを読んでほしい。会社を訪ねたい。時間をいただけないか?」しかし、答えはこうだ。「そのようなことはしていない」「そんな暇な奴はいないんだよ!」

もう、全社に連絡し終わる前にショックで打ちひしがれて塞ぎ込んだ。ハリウッドは先にも紹介したような対応もあるのに、日本は門前払い。いや、電話の段階でアウト。どーすればいいんだ.......。と言うことがあった。「どてらい男」の主人公・猛造は将軍さんの助言で考えた。「どうしたら、品物をこうて売れるんやろ? ワシにできるプラスaって何やろ?」当時の僕も同じだった。「どうすればシナリオを読んでくれるのか?」この後、猛造は奇想天外な手を考え、行動を始める。失敗しながら、ついに注文を取り付ける!

このドラマは実在の会社・山善の創設者をモデルにしている。事実を踏まえた物語。だから、説得力がある。おまけに僕も似たような経験をしている。だから、余計に共感する。しかし、まあ、僕も、思い出すと、よくあんな八方塞がりの状態から、本当に映画監督になれたなあと思える。当時、誰もが「無理」「不可能」「お前、才能あるのか?」「いつまで夢見てるんだ!」「現実を見ろ!」「就職しろ!」と言われて続けた。が、今では6本の劇場映画を監督。

周りの人たちがあれこれ言って、頑張る若者を潰してしまう日本の環境があるだろう。きっと、いろんな世界で可能性がある若者がいるはずなのに、大人たちが潰してしまう。漫画や作家の世界はまだ新人賞等の窓口があり、若手を探す気があるが、映画界は超閉鎖的。それに挑戦したのが、帰国した29歳の時だった。だから「どてらい男」他人事ではない。え? で、どうやって脚本を売り込んだのかって? 長い話になるのでまた別の機会にしよう。今晩も「どてらい」見なければ。



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「どてらい男」見ていて思い出した、監督を目指していた若き日のこと? [思い出物語]

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1973年から放送されたドラマ「どてらい男」amazonを通して、あるサイトで配信されている。これがめちゃめちゃ面白い。見ていて元気なる。高校時代に見ていた。先日までの展開。主人公・山下猛造が大阪の問屋に就職。初めての営業で散々な目に遭う。そして「立売堀の将軍さん」と言われる伝説の営業マンに言われる。「こうてくれ!(買ってくれ)と言うて、こうてくれる店なんてない。どーしたら品物をこうてくれるか?考えてみ?」ー思い出したことがある。

アメリカ留学を終えて帰国。映画監督を目指して行動を開始した頃。どうすれば監督になれるか考えた。そこで有名監督たちはいかにして監督になったか?調べた。日本の場合は助監督を10年務めて監督。でも、それは黄金期の話で、1980年代以降はそのパターンは激減。変わって学生映画出身の監督が抜擢されることが続いた。が、それも5年ほどで下火。その後は、別の業界で成功した人が監督したりと言うことが続いた。やはり、監督業は何か作品がないと、認められないようだ。

僕も学生映画をやっていたが、その頃の仲間は皆、夢破れて東京にはおらず、8ミリ機材がもう手に入らない時代。と言ってビデオでやるにはまだまだ機材が高価であり、難しい。仲間も、機材もない。金もない。どうすれば監督になれるか? 映画会社は「監督募集」なんてしない。「デューダ」や「とらばーゆ」にも募集はでない。考えた。実は高校時代に日本の映画事情だけでなく、アメリカの事情も調べていた。スピルバーグやルーカス。コッポラがどのようにして監督になったか?そんな中で印象的だったのがこれ。

USCで映画を勉強したロバート・ゼメキスとボブゲイル(両方とも先輩だ)はコメディの脚本を書き、スピルバーグに送った。それが気に入られて映画化。「1941」である。そこでチャンスを掴んだ2人はスピルバーグの製作であの「バックトウザフューチャー」を作る事になる。シルベスタースタローンは売れない俳優だった。その時代にボクシングの試合を見て閃き、脚本を書いた。ユナイトに売り込む。「俺が主演でこれがやりたい!」それが「ロッキー」だった。

映画を作るのは金がかかる。でも、脚本は原稿用紙とペンがあれば書ける(当時、まだワープロさえ普及していない時代)アルバイトをしながら夜、シナリオを書いた。朝まで書いた。1年がかりで1本。それを営業しよう。どこに営業すべきか? 当時はまだ制作会社なんて知らない。大きいところから当たろうと、東宝、東映、角川、松竹に順に連絡することに。「シナリオを読んでほしい。会社を訪ねたい。時間をいただけないか?」しかし、答えはこうだ。「そのようなことはしていない」「そんな暇な奴はいないんだよ!」

もう、全社に連絡し終わる前にショックで打ちひしがれて塞ぎ込んだ。ハリウッドは先にも紹介したような対応もあるのに、日本は門前払い。いや、電話の段階でアウト。どーすればいいんだ.......。と言うことがあった。「どてらい男」の主人公・猛造は将軍さんの助言で考えた。「どうしたら、品物をこうて売れるんやろ? ワシにできるプラスaって何やろ?」当時の僕も同じだった。「どうすればシナリオを読んでくれるのか?」この後、猛造は奇想天外な手を考え、行動を始める。失敗しながら、ついに注文を取り付ける!

このドラマは実在の会社・山善の創設者をモデルにしている。事実を踏まえた物語。だから、説得力がある。おまけに僕も似たような経験をしている。だから、余計に共感する。しかし、まあ、僕も、思い出すと、よくあんな八方塞がりの状態から、本当に映画監督になれたなあと思える。当時、誰もが「無理」「不可能」「お前、才能あるのか?」「いつまで夢見てるんだ!」「現実を見ろ!」「就職しろ!」と言われて続けた。が、今では6本の劇場映画を監督。

猛造もそうだが、周りの人たちがあれこれ言って、頑張る若者を潰してしまう日本の環境があるだろう。きっと、いろんな世界で可能性がある若者がいるはずなのに、大人たちが潰してしまう。漫画や作家の世界はまだ新人賞等の窓口があり、若手を探す気があるが、映画界は超閉鎖的。それに挑戦したのが、帰国した29歳の時だった。だから「どてらい男」他人事ではない。え? で、どうやって脚本を売り込んだのかって? 長い話になるのでまた別の機会にしよう。今晩も「どてらい」見なければ。


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想い出の街ー横浜。名画座通いの18歳。40年前の物語。 [思い出物語]

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想い出の街。横浜。名画座通いの18歳。40年前の物語。

横浜は僕の人生がスタートした街だ。大阪の高校を卒業後。横浜暮しを始めた。映画学校に通いながら、映画監督を夢見て足掻いていた。1980年ー18歳だった。それからちょうど40年。僕が監督した6本目の映画、今、その横浜で上映されている。昨日は映画館で舞台挨拶。毎回、特別な思いがある。

舞台挨拶は2回。間が5時間ほどある。懐かしい伊勢佐木町ー日の出町ー黄金町を歩いてみた。18歳の頃。この辺でよく映画を観た。住んでいた四畳半一間、トイレ共同、風呂なしの下宿アパートからも電車で15分くらい。名画座もたくさんあって、2本立て500円とかだった。

暗闇でスクリーンを見つめながら、「僕もいつか、こんな映画を監督するぞ!」と思っていた。それから40年。本当にいろいろな事があった。何度も谷底に落ちるような人生だった。結局、映画監督デビューまでに25年かかった。が、そのスタート地点の街・横浜で今、自分の映画が上映されている。劇場近所のハンバーガーショップでコーヒーを飲む。当時よく流れていた歌をamazon musicで呼び出して聴いてみた。

サザン、南佳孝、矢沢永吉。あの頃の空気を思い出す。あの頃の風を感じる。街はかなり変わってしまったけど、窓外を見ると、18歳の僕が名画座に急ぐ姿、見えたような気がした...。

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なぜ、人は些細なことで争い、相手を踏みつけてしまうのか?(後編)=故郷愛が強く、他人を許せない兄ちゃんの葛藤。 [思い出物語]

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なぜ、人は些細なことで争い、相手を踏みつけてしまうのか?(後編)=故郷愛が強く、他人を許せない兄ちゃんの葛藤。

映画監督である友人が地方で故郷映画を作った時、こんなことがあった。最初は熱烈応援してくれた地元の兄ちゃん。些細なことから「だったら協力できないな!」と言い出した。その街を舞台にした映画を作ることは、全国に故郷をアピールする絶好の機会。多くの人が支持、支援してくれている。

その兄ちゃんは地元メンバーの1人。強い故郷愛があるので、当初はあれこれ協力。それが、ある頃からスタッフ批判を始めた。「愛が感じられない...」「思いがない...」という。監督にも文句を言い出した。他の地元メンバーは

「スタッフの人はよくやってる。そもそも他県の人に、地元愛がないと批判するのも変!」

と困惑顔。結局、兄ちゃんはメンバーから外れた。そして、町の飲み屋で仲間を集めて「あいつらは俺たちを利用して映画作りをしている!」と演説。ネットでも毎日中傷ツイート。アンチになってしまった。同調し一緒になって批判する地元の人も出て来た。

しかし、友人のチームはいつも、スタッフ&キャストに街を好きになってもらうところからスタートする。町の歴史を学び、地元食材のおいしさを知り、事前に何度も訪れて町の魅力を確認。通常の映画ではしない努力をする。それでも「町に対する愛がない」と批判。映画を踏みつける発言を続けた。彼は少々、思い込みが強いタイプであり、注意するとエスカレートするので、地元メンバーは静観。

もし、そのことで制作サイドが「だったら、もう止めよう」と撮影を中止したらどうするのか?あるいはやる気をなくして、詰まらない作品になったら? 町の多くが映画を楽しみにしている。地元を全国にアピールする機会。それを潰してしまうかもしれない...。その話を聞き、先の反原発オジさんを思い出した。原発反対なのに同じ思いを持つ若者を批判、踏みつける。比較してみよう。

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「原発は無くすべきだ」

と思いながら、オジさんたちは同じ思いの若者を「努力が足りない」と批判する。心の中では

「俺も頑張って来た。賞賛されて当然だ。なのにマスコミは若い奴らばかりチヤホヤする!」

そう感じる。友人が出会った兄ちゃんは「俺は故郷愛がある」と言いながら、その故郷の魅力を理解するための努力を続けるスタッフを「愛がない」と踏みつけにする。その心中は?監督である友人が解説してくれた。

「彼は最初、スタッフの奮闘を喜んでくれました。県外の人がここまでしてくれる!でも、何度も会っている内に、僕らを身内と思うようになった。冗談を言い合う。一緒に酒を飲む。外部の人と頭では理解しているけど、街を愛する思いを持つ者同士と...。だったら、もっと頑張らないとダメだろう...と考えるようになった。

もし、僕らが町を好きになろうという努力をしなければ、所詮は外部の人と期待しなかったでしょう。でも、努力したことで、思いは同じ!と思い込み、もっともっと!まだ足りない!となった。でも、スタッフにはそこまで出来ない。許せない。騙された。こいつらは最初から愛なんて、なかったんだと彼は考えた.....。

それを耳にしたスタッフは、ーそこまで言われてもねえ。町への想いなんて消えたよ。仕事してさっさと帰ろうーと言い出す...それに、作り手は溢れる愛があるのはむしろ危険。少し冷めていないと、その町の魅力を冷静に見つめ、地元の人が気づかない良さを伝えることはできないんです...」

悲しい話だ。幸い、僕が撮影した街ではそんな事件はなく、多くの人の協力で毎回、素敵な作品を作ることができている。それだけに、友人の話。あまりにも辛い。故郷愛が強い人が一番故郷を貶めていること。それに本人が気づいていない。悲しいとしか言えない。

(了)


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何年も会っていない友人に電話。1980年代の懐かしい話をした。 [思い出物語]

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何年も会っていない友人に電話。1980年代の懐かしい話をした。

友人たちはあれこれ忙しく、早朝から深夜まで働いている。もう、何年も会っていない奴もいる。それが今、コロナ感染で遅くまで外で飲んだりしていないはず。場合によっては自粛して家にいる。そう考えて電話してみた。こんなことでもなければ長電話することもない。

学生映画をやっていた頃の友人を捕まえた。1980年代前半。今から、40年も前。僕らは8ミリフィルムで映画を作ってプロを目指した。その時代を過ごした友人と話す。四谷3丁目にあった8ミリ喫茶シャンブル。恵比寿のシネマプラザ・スペース50。名画座の思い出は黄金町、日の出町。新宿東宝で黒澤明特集のオールナイト。懐かしい話に花が咲いた。

が、今、それらの場所はもうない。新宿東宝も今は建て直しシネコンだ。黄金町の横浜日劇はなくなり、前にあった横浜名画座はジャック&ベティとなった。建物だけではない。当時、一緒に学生映画を作っていた仲間もほとんど連絡は取れない。夢破れて実家に戻った者がほとんど。監督志望、俳優志望、歌手志望、作家志望。いろんな友人がいた。

ただ、夢破れたことが不幸で、夢をつかんだ者が勝利者ではない。夢破れることで、それは単なる憧れであり、自分が本当にやるべきことに気づいたり。理解してくれる女性と出会い、子宝に恵まれ幸せな家庭を築いた友人もいる。夢が叶い、その世界で活躍することだけが幸せではない。そこからまた新たな戦いが始まり、血を吐きながら走り続けなけれならないのだ。

金持ちになったが、孤独な人がいる。貧しいが自分がやりたい仕事ができている人もいる。何が幸せなのか? 何が不幸なのか? 夢を追いながら足掻いていた若い頃が一番幸せだったのかもしれない。そんな話を電話で2時間ほど。コロナで自粛でもないと、こんな時間も持つこともなかっただろう。

昨年、同世代の友人が3人死んだ。もう一度、会いたかったと思うがあとの祭り。同じ後悔を繰り返さないために、今という機会を生かしたい。



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20年の人生を振り返る機会。HDDの中への旅? [思い出物語]

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20年の人生を振り返る機会。HDDの中への旅?

ここ数日、HDDのデータ整理をしている。4TBもあるとディスク内で迷子になるデータも多い。日頃は忙しいので、とりあえずデータを放り込んで置くのだが、いざというときどのフォルダーに入れたか?分からない。文章は検索で探せるが写真はタイトルをつけないと検索してもダメ。ということで、時間のある今の内に整理。

パソコンを使い始めた1995年くらいからデータがある。主に映画関係。シナリオ、資料、ロケハン、撮影時のスチール、スナップ、宣伝、公開、舞台挨拶、地方公開と、1本の映画だけで千枚以上の写真を撮っている。また、i phoneを使うようになってからは日常の写真が増える。その日食べた物。映画館の看板、チラシ、建物、雲、高層ビルとブログ用にあれこれ気づいたら撮影している。

おまけに一度、パソコンのハードディスクが壊れ、バックアップを取っていない写真が行方不明「iPhoto」に入れたものは復活できないまま。バックアップ分を年代別に分けて写真を整理。毎日のように通った食堂のランチ。長引く不況で店は潰れた。そのランチをもう一度、食べて見たいと思ったり。

ロケハンで泊まった時の民宿の朝ごはん。俳優さんと撮った記念写真。ロケにエキストラとして来てくれた友人。中には数年前に亡くなった人たちもいる。あるは遠い町の写真。夏の入道雲。雪の風景。LAや韓国のもの。振り返ると、いろんな街を訪れた。長編映画は6本監督し、何度も過労で倒れ、毎回、医者に「休まないと死ぬよ」と言われた。

アメリカ留学から帰国。映画監督を目指した年月。監督デビューしてからの年月。あっと言う間だと思えていたが、やはり30年というのは長い。その内の20年分くらいの写真があるのだが、見返すことなんてほとんどなかった。コロナ騒動がなければ、過労で倒れて、「はい、それまでよ〜」と死んで。HDDも燃えないゴミで出されてそのままジャンクになり終わっていただろう。

いろんな意味でターニングポイントなのだ。日本という国。世界。そして僕自身も大きな曲がり角。そして最後の曲がり角からもしれない。80歳まで生きたとして、あと20年。映画を作る体力があるのは10年か? いや、黒澤監督も大林監督も80代まで映画を作り続けた。僕はもっと若くしてのたれ死ぬかもしれないが、その最後の充電が今なのだ....。

想い出を見つめ、自分が歩んできた道の意味。その意義をもう一度考える機会。若い人に何を伝えるべきなのか? 同世代に何を見せるべきなのか? 残された年月で自分がすべきことは何か?そのことを自身に問う時間なのだろう。(写真は1995年頃の僕の本棚)



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1993年4月。27年前。僕は何をしていたのか? [思い出物語]

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1993年4月。27年前。僕は何をしていたのか?

HDDのデータ整理をしていたら、1993年4月のカレンダーを写した写真が出てきた。27年前の同じ4月。僕は何をしていたのか? 3月28日から4月4日まで「COLD」と書いている。これは風邪で寝込んでいるということ。5日は「TOEI 1p」とある。これはあの東映。その東映ビデオという会社に営業で行った日。22日にも行っている。

W印はシナリオを書いていた日。この頃はアルバイトをしながらオリジナルシナリオを書き、映画会社に持ち込んでいた。4月は17個のW。つまり17日間はシナリオ執筆。頑張っていたなあ。この2年後の1995年に脚本家としてデビュー。ギャラがもらえるようになる。

25日に「OZAKI 1Year 」これは尾崎豊が死去して1年という意味。そうか、この前年に尾崎は死んだんだ。17日「まーだだよ」これは黒澤明監督の遺作となった映画「まーだだよ」を見たという意味。確か新宿ピカデリーで見た。

「E」の印は英語の家庭教師、毎週水曜日の夜にしていた。高校生の男の子を教えていたのだが、当時17歳くらい。彼も今は41歳?観月ありさファンの子だったが、どうしているのだろう?結婚して1児の父という年齢だ。

10日に映画「マルコムX」を見ている。これは歌舞伎町の新宿アカデミーかグランドだった? 同じ日にビデオ雑誌の原稿料が入るという印も。安いギャラだが、連載ページを持っていた。しかし、27年後に「復活の日」のようにウイルスが日本を襲うなんて想像もしなかったなあ。


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20年の人生を振り返る機会。HDDの中への旅? [思い出物語]

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20年の人生を振り返る機会。HDDの中への旅?

ここ数日、HDDのデータ整理をしている。4TBもあるとディスク内で迷子になるデータも多い。日頃は忙しいので、とりあえずデータを放り込んで置くのだが、いざというときどのフォルダーに入れたか?分からない。文章は検索で探せるが写真はタイトルをつけないと検索してもダメ。ということで、時間のある今の内に整理。

パソコンを使い始めた1995年くらいからデータがある。主に映画関係。シナリオ、資料、ロケハン、撮影時のスチール、スナップ、宣伝、公開、舞台挨拶、地方公開と、1本の映画だけで千枚以上の写真を撮っている。また、i phoneを使うようになってからは日常の写真が増える。その日食べた物。映画館の看板、チラシ、建物、雲、高層ビルとブログ用にあれこれ気づいたら撮影している。

おまけに一度、パソコンのハードディスクが壊れ、バックアップを取っていない写真が行方不明「iPhoto」に入れたものは復活できないまま。それでもバックアップから探し出し、年代別に分けて写真を整理。毎日のように通った食堂のランチ。長引く不況で店は潰れた。そのランチをもう一度、食べて見たいと思ったり。

ロケハンで泊まった時の民宿の朝ごはん。俳優さんと撮った記念写真。ロケにエキストラとして来てくれた友人。中には数年前に亡くなった人たちもいる。あるは遠い町の写真。夏の入道雲。雪の風景。LAや韓国のもの。振り返ると、いろんな街を訪れた。長編映画は6本監督し、何度も過労で倒れ、毎回、医者に「休まないと死ぬよ」と言われた。

アメリカ留学から帰国。映画監督を目指した年月。監督デビューしてからの年月。あっと言う間だと思えていたが、やはり30年というのは長い。その内の20年分くらいの写真があるのだが、見返すことなんてほとんどなかった。コロナ騒動がなければ、過労で倒れて、「はい、それまでよ〜」と死んで。HDDも燃えないゴミで出されてそのままジャンクになり終わっていただろう。

いろんな意味でターニングポイントなのだ。日本という国。世界。そして僕自身も大きな曲がり角。そして最後の曲がり角からもしれない。80歳まで生きたとして、あと20年。映画を作る体力があるのは10年か? いや、黒澤監督も大林監督も80代まで映画を作り続けた。僕はもっと若くしてのたれ死ぬかもしれないが、その最後の充電が今なのだ....。

想い出を見つめ、自分が歩んできた道の意味。その意義をもう一度考える機会。若い人に何を伝えるべきなのか? 同世代に何を見せるべきなのか? 残された年月で自分がすべきことは何か?そのことを自身に問う時間なのだろう。(写真は1995年頃の僕の本棚)



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想い出が走馬灯のように....20年分の写真を整理していて思い出したこと。 [思い出物語]

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想い出が走馬灯のように....20年分の写真を整理していて思い出したこと。

時間があるのでHD Dを整理している。4T Bあるディスクにいろんなデータを入れている。20年分ほど。余裕ある時期は整理してタイトルをつけて保存するが、映画製作中の時はとにかく何でも放り込んだ。「2005年」というホルダーにも、写真、書類、資料、スキャンしたもの、あれこれ入っている。

2作目の監督作品「青い青い空」(2010年)までは、そこそこ整理していたが、それ以降はもうグチャグチャ。その辺を含め全ての整理を始めた。「ストロベリーフィールズ」撮影時のスナップが欲しいというときには、それをすぐに取り出せるようにしたい。文章は検索できるが、写真は番号なので検索しても出て来ない。これまでもそれで苦戦。1枚の写真を探すのに半日がかりということもあった。

写真の整理を始めると、あーーこれ!とか懐かしい!ということの連続。この20年。戦いの連続だったので、振り返るということがほとんんどなかった。それぞれの写真を見て、悔しかったこと。嬉しかったこと。裏切られたこと、失望したこと。も思い出す、今からでも殴り込みに行きたくなる事件もいくつもあった。

時代を遡り、映画監督でデビュー以前の写真も見つける。アルバイトしながらシナリオを書いていた頃。「お前、才能あるのか? 諦めが肝心だよ」と業界の人に言われたとき。家賃すら払えなくなったとき、何も言わないのに友人が金の入った封筒を出して「出世払いでいいよ」と言ってくれたこと。いろいろ思い出す。多くの人に踏みつけられ、否定されたが、何人もの友人に助けられ、支援されたことも思い出す。

思い出が走馬灯のように蘇る。死ぬ前はこんな感じなのだろうか? だが、今はコロナ戦争を生き抜き、新たな監督作を作らねばならない。今は過去を振り返り、自分を見つめ、充電する時期。幸せって何だろう?どこにあるだろう?その答えを探したい。


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レコードはベスト版を1枚だけ買うか?通常盤を発売順に聴いていくか?=高校時代に悩んだこと [思い出物語]

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レコードはベスト版を1枚だけ買うか?通常盤を発売順に聴いていくか?=高校時代に悩んだこと

高校時代。ビートルズ以外の歌も聴きだした。が、当時、レコードは2500円。かなり高価。1ヶ月に1枚買えるかどうか? 映画も見に行かねばならないし。10代の家計は大変。特に迷ったのはラジオで聞いて、いいなあ!と思った歌。レコードで聴きたいと思った時、そのアーティストのベスト版を買うか、通常のアルバムを買うか?迷った。

もし、その歌だけが良ければベスト版で十分。他の歌は大したことないかもしれない。が、他にもいい歌がたくさんあれば、そのアーティストのアルバムを順に聞いて、ヒストリーや進展を見つめたい。ビートルズも、赤盤、青盤で聴くより、デビューアルバムから、順に聞いていき、「let it be」までたどり着きたい。そのことで様々なことが理解できる。

でも、1曲しかいい歌がないアーティストもいる。それならベスト版。あるいはシングルでもOKだ。そんなことで高校時代は悩んだ。結局、Rストーンズは何枚ものアルバムを書い、ボニータイラーはベストを買った。ビリージェエルもアルバム。ドアーズもアルバム。ま、今の高校生は月800円ほどでAmazon musicを使えば、アルバムもベストも聴き放題で、そんなことで悩んだりはしないだろう。

それが今、映画の仕事をしていて、沖縄戦のドキュメンタリーを撮るとなると、沖縄戦だけ勉強すればいいのに、太平洋戦争や日中戦争も知りたくなる。そのことで歴史の流れがよりよく把握できる。これってレコードと同じじゃん?! どうにも10代からそんな性格だったようだ。学校の勉強は嫌だったが、そんなことで興味持ったことはあれこれ知りたくなる。

そんな性格が幸いしてライター業をし、脚本家になり、映画監督業をしている。あれこれ調べることが生きる仕事。その意味で合っているのかも?

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学生時代に見たロックコンサート。映画の仕事をする上でとても役に立っている? [思い出物語]

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学生時代に見たロックコンサート。映画の仕事をする上でとても役に立っている?

映画監督業をやっていて思うことだが、若い頃からやっていたこと。親や教師から「そんなことばかりやってないで、勉強しなさい」と言われた「そんなこと」が今、とても役に立っている。学生時代に映画を見ていたのはもちろん。新旧名作、話題作は見ていないと映画界では話もできない。日本、アメリカ、ヨーロッパ、趣味に偏らず見ていないと世間話もできない。

それは当然であり、それだけでは足りない。僕の場合、役に立っているのは音楽。特にロック。中学時代のビートルズ、高校時代のローリングストーンズに始まり、横浜時代はBスプリングスティーン、LA時代はもう、あれこれ聴いた。コンサートもかなり行った。

スプリングスティーンの4時間半の

「ボーンインザUSA」ツアーから、エルトン・ジョン、スティング、ジョンリーフッカー、BBキング、ピンク・フロイド、マドンナ、マイケル・ジャクソン、レイチャールズ、チャック・ベリーと、それらをアメリカで観れたことは大きい。

そんなせいか、僕はよく自分の監督作を歌に例える。「朝日のあたる家」はアニマルズの歌からタイトルをもらったが、物語はスプリングスティーンの「マイホームタウン」だ。原発事故の映画を作ると決めた時、どんなスタイルがいいか?を考えて、あの歌詞を思い出した。まさに原発事故の街から去る家族のことを歌ったようで、あのラストシーンが生まれた。

「青い青い空」は「ハングリーハート」

だし、「向日葵の丘」は「ザ・リバー」だ。皆、スプリングスティーンだが、そこからスタートしている。歌だけではない。映画の構成はコンサートを模している。ストーンズのコンサートのクライマックスは「ブラウンシュガー」「サティスファクション」アンコールで「JJF」という構成。そのつるべ打ちを映画に取り入れたり。言葉では説明しづらいが。

現在、ヒット中の「ジョーカー」の監督はシナリオを読み「これはタクシードライバーだ」と感じて作ったはず。映画監督が映画からインスパイヤーされるのは当然だが、こちとら歌から来ているところがスペシャル。

そんな風に若い頃の経験があれこれ役に立っている。「あの頃、真面目に勉強しなくてよかった!」という感じだ。数学や化学をいくら教科書で勉強しても、映画作りには役立たない。いや、本当の数学や化学なら意味もあるだろうが、教科書のあれは「優秀なサラリーマンを選別するために触媒」にしか過ぎず、役に立つというものではない。検査液のようなものだ。

結局、授業で教わったことではなく、

親や教師に言われてやったことでないことが生きている。これ、映画の仕事でなくても、他でも同じような気がするのだが、続きはいずれまた。


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捻くれ者、我慢ができない。同じが嫌。ー日本社会からはみ出す?(下) [思い出物語]

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捻くれ者、我慢ができない。同じが嫌。ー日本社会からはみ出す?(下)

村社会ルールとは、

狭い村でトラブルを起こさずに、みんなと仲良く(表面的でいい)やっていくためのもの。1人だけ勝手なことをしない。周りの人と協調する。耕運機や田植え機がない時代。農家は皆の力を借りなければならなかった。だから、仲良くすることは大事。村八分にされると大変。自分だけ特別なことはしない。目立つこともしない。批判されることを避ける。そのためには皆と同じにする。

そんな村社会の風習が今も日本に

根付いている。ただ、都会では隣近所と付き合わなくても生活ができる。逆にうっとおしい。会ったら挨拶する程度の付き合いが可能。田舎はそうは行かない。よく田舎の近所のおばさんが「学校面白い?」「大学はどこにいくの?」「就職は?」「結婚は?」と声をかけるが、それは内部調査のようなもの。異分子がいないか? おかしなことはしていないか? と無意識に探っているのだ。

問題があればおばさんネットワークであちこちに連絡。事前に抑え込む。触れないようにする。村社会ならでは構図。僕が高校時代に「映画監督を目指す!」というそぶりをしたら、学校、親、親戚が寄ってたかって邪魔をしようとした。それも同じ構図だ。多くの人がしないことをすれば、みんなで潰す。それが日本社会。が、あれこれ言われて従うのが嫌だし、納得できないことをしたくなかった。

多くの子供たちは、日本社会に馴染み、従い、

その一員となっていく。それが大人になることだと考えた。だが、僕はひねくれ者というだけでなく、適応力もなかった。一度「おかしい!」と思うと、目をつぶって従う、我慢するということができない。そう、我慢強さも欠けていた。そう考えると、日本社会では落ちこぼれていくのが当然。ようやく、思う方向に進んで来たが、続きはまた。


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捻くれ者、我慢ができない。同じが嫌。ー日本社会からはみ出す?(上) [思い出物語]

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捻くれ者、我慢ができない。同じが嫌。ー日本社会からはみ出す?(上)

昔から人と同じが嫌だった。

それを世間ではひねくれ者と呼ぶ。1970年〜80年代は流行を追いかけることがカッコいい時代。最先端のファッションを身につけることで注目された。古くはだっこちゃん。パンタロン、ヘブンのTシャツ、コンバースのスニーカー、セーラーズのシャツ。制服は嫌だと言いながら、私服で同じファッションという日本人が多かった。

僕は捻くれ者なので、当時、角川映画も見なかった。あれだけテレビで宣伝されると「絶対に見ない!映画館へ行くもんか!」と思った。が、日頃、映画を見ないクラスメートの多くは映画館に行った。そんな背景から2つのことが見える。日本人は乗せられやすいということ。「今、***がブーム」とかいうと、それを追いかけ、遅れまいとする。

その背景には、「自分がない」「個人の主義主張がない」「志向性がない」だから乗せられやすい。加えて「皆と同じでないと不安」という村社会的な思い。そんなことが背景にあったはずだ。つまり、日本人は今も村社会ルールに縛られ、依存している。村社会ルールとは何か?説明する?

(つづく)


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