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仕組まれた自由に誰も気づかず、足掻いた高校時代を回想(後編) [思い出物語]

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仕組まれた自由に誰も気づかず、足掻いた高校時代を回想(後編)

「この学校はおかしい。こんな授業は意味がない。教師たちの言うことは変だ」

そう思っていたけど、同級生たちは拒否せず、それに従い、こう言う。

「だったら学校辞めればいいだろ?」

なぜ、教育に間違いや問題点を指摘せず、文句も言わず、ただただ受け入れるのか?「だったら、政治家になって教育を変えろよ」そう言われた。こうも言われた。

「ルールは守らなければならない。嫌なやめればいい....」

「ルールが間違ってんだよ!」

と僕は思ったのだが、これも今考えると彼らは洗脳済み。与えられたことに従い、決して逆らわないロボット・サラリーマン予備軍になっていたのだろう。と言って彼らに不満がない訳ではない。いい成績は取りたい。有名大学に行きたい。一流会社に就職したい。でも、勉強はしたくない。彼女が欲しい。テレビが見たい。でも、我慢して嫌々勉強する。でも、それが大人になること。それが社会に出ると言うことだと考えていた。

けど、それは洗脳教育に屈して、国が定めた教育検定で分けられ、自分の思いや意思とは関係なしに理不尽な指示にも従い働くサラリーマンロボットになることを受け入れたと言うこと。それは大人になることでも、社会に出ることでもない。いろんな道があるのに、国の政策でそう誘導されているだけ。

そう、戦時中に「兵隊になり、お国のために戦うこと」が素晴らしいと思い込まされた国策教育と同じ構図(「ドキュメンタリー沖縄戦」で紹介。沖縄で12月に完成披露上映会!)。今はそのこと理解できるが、当時は「落ちこぼれのダメな奴」とのレッテルを貼られ(戦時中なら非国民)荒れていた。が、実はいろんな道があり、自由な生き方が存在する。それが見えなくなっていた。いや、見えなくする環境が作り上げられていたのだ。続きはまた。


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仕組まれた自由に誰も気づかず、足掻いた高校時代を回想(前編) [思い出物語]

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仕組まれた自由に誰も気づかず、足掻いた高校時代を回想(前編)

先にも書いたが、高校時代は最悪だった。将来、役に立つと思えない授業。そんなことしか教えてくれない学校に1時間もかけて通う。毎日、重い教科書を持っていくのが規則。学校に置きっぱなしにしてはいけないと言われる。なのに、1日で進むのは数ページ。そのために300pの重い教科書を6冊。さらにノート6冊に副読本をカバンにつめて週6日、通学した。「それって罰ゲーム?」みたいな。

初夏で暑くて黒い制服を着て行く。6月まではそれが規則。授業中は隠れて映画雑誌を読む。ノートに落書きをする。窓から外を見ると大阪、天王寺区のビル街が見える。そこで午後3時まで。尾崎豊の歌詞のような生活。

♫「落書きの教科書と、外ばかり見てる俺。超高層ビルの海の中、 届かない夢を見てる...」

僕は当時から捻くれ者で、我慢が嫌い、適応力がなかった。完全に日本の教育から落ちこぼれていた。だが、今、考えると無意味な授業も、重い教科書も、不必要な校則も全て「理不尽を我慢する」という訓練ではなかったのだろうか? 会社員になり、上司から無理な命令を受けても文句言わずに従う。理屈を言わない。そんな練習を高校時代から、いや、小学校からするのが日本の教育なのだろう。

♫「大人たちは心を捨てろ捨てろというが、俺は嫌なのさ
退屈な授業が俺たちの全て、ならばー。
何て、ちっぽけで、何と意味のない、何て無力な15の夜ー」

まさに、そんな感じだった....。

(つづく)


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「猿の軍団」「必殺!」シリーズ、「Gメン75」主題歌をYouTubeで聴くと泣きそうになる? [思い出物語]

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「猿の軍団」「必殺!」シリーズ、「Gメン75」主題歌をYouTubeで聴くと泣きそうになる?

一昨日の台風直撃の日も仕事。テレビニュースを聞きながら、あれこれ書類作り。だが、どれも直接、ギャラをもらえるというものではない。作業は山ほどあるのに、生活に繋がら無いのが厳しい。

この3連休も仕事。昨夜はライターさんと電話で打ち合わせ、終わると午後10時を回っていたので、本日はここまで!と、焼酎を飲みながら、Facebookやブログの確認(結局、仕事している?)その内に、ライターさんが言っていたドラマ「猿の軍団」のことを思い出し、YouTubeで探してみた。

1974年にテレビ放送していた特撮番組。あの「猿の惑星」に影響を受けた子供向けドラマ。当時、裏番組があの「宇宙戦艦ヤマト」でクラスメートは皆、そちらを見ていた。が、ひねくれ者の僕は「猿の軍団」なので、同世代でもそのドラマを知る者は少ない。おまけに僕は主題歌を歌える!あの歌はなかなか心に迫るものがあり、よく覚えていた。

♫「憎しみ合うのはもうやめて、緑の鐘を鳴らすのだ
愛と言う名の武器を取り、人間らしく戦え」

なんだか今の時代にも通じるものがある。が、もう40年前のドラマだ。記憶に間違いはないか?と思って、探したらあった! 歌詞も間違ってなかった。YouTubeは画面の横にオススメの動画リストが出る。

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懐かしいドラマの主題歌がズラリ!「Gメン75」の「面影も!同種のドラマとしては「特捜最前線」の方がずっと好きなんだけど、あの主題歌は大ヒットしたし、なかなかの名曲。で、クリック!

 ♫「いつか来た道、あの街角で〜」

懐かしい。続けて「マイティジャック」音楽はあの冨田勲だ。

♫「青い海に、映える影」「遠い南のサンゴ礁。朝日が波に光る頃〜」

こちらは「Gメン」より古い1960年代だ。さらに「必殺シリーズ」これは中学時代、1974年頃から見ていた。最初に見たのが「必殺必中仕事屋稼業」緒形拳と林隆三が出演したシーズン。中学1年生には少し大人のドラマだったが、「遠山の金さん」「水戸黄門」と違い、敵と正々堂々と戦わず。裏で密かに悪を始末すると言うアンダーグランドな設定に惹かれた。

この主題歌はドーナツ盤で持っていた。続いて中村主水登場の「必殺!仕置屋稼業」さらに「必殺!仕業人」これは主水に加えて、「木枯し紋次郎」の中村敦夫が出演。この辺の主題歌は全部歌える。「必殺!」シリーズは時代劇なのにどの歌も心に染みる。やり切れない悲しみが溢れる。

そんな中で一番好きなのはもっと後の「必殺!商売人」の主題歌「夢ん中」だ。小林旭が歌う。

♫「酒は苦いし、タバコは辛い、紅は溶けるし、寝床は寒い
そんなお前の肩、抱き寄せて、惚れたようだと俺は云う
男も辛いし、女も辛い、男と女はなお辛い、それでいいのさ
会うも、別れも、夢ん中〜」

これは高校生の頃だが、こんな悲しい歌があるのか?と心に刺さった。ま、日頃はローリング・ストーンズを聴いていたんだけど。焼酎を3杯、4杯、5杯、飲みながら懐かしの主題歌集を聴いていると、泣きそうになる。それは歌自体が心に染みるだけでなく、当時を思い出すからだろう。

このドラマを見ていた頃はどこに住んでいた。この頃は退屈な授業で外ばかり見ていたとか、リアルに思い出してしまう。そして30年以上の年月が流れて現代がある。自分はどこに行こうとしているのか?考えずにはいられない。


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「ドキュメンタリー沖縄戦」一番参考になったのは映画「沖縄決戦」だ。 [思い出物語]

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「ドキュメンタリー沖縄戦」一番参考になったのは映画「沖縄決戦」だ。

戦争ドキュメンタリーを製作するに当たって、観光ガイドブックからスタート。まず、一般の人が考える「沖縄」を勉強した。国際通り、美ら海水族館、首里城、ソーキそば、ゴーヤチャンプル、88、オリオンビール、泡盛。どうしても、綺麗な海、おいしい料理。でも、それだけで「沖縄に行こう!」と思わない私はひねくれ者。

次に沖縄戦について書かれた文献を読む、のが基本だと思うが、こちとら映画屋なので映像から入る。沖縄戦を描いた映画。でも、思い浮かばない。真珠湾攻撃なら「トラトラトラ」ノルマンディ上陸作戦なら「史上最大の作戦」「プライベートライアン」では沖縄戦は? ネットで検索。

「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971年)岡本喜八監督 

そんな映画あったの? 戦争映画に興味なかったからなあ。出演は小林正樹、丹波哲郎、仲代達矢。何より岡本喜八で戦争ものがピンと来ない。「ジャズ大名」に「近頃なぜかチャールストン」「ダイナマイトどんどん」の監督だし。が、調べると「肉弾」が岡本喜八監督。あれは戦争を背景とした壮絶な作品だった。

さらに、あの「エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督が何百回も見たという作品。「シンゴジラ」にも影響を与えたそうだ。面白くなって来た。近所のTSUTAYAにはないのでAmazonで購入。早々に観た。

よくぞ撮ったと思える。1971年というと万博の翌年。僕が小学生低学年の頃。もう、高度経済成長の時代。その時期に沖縄戦。岡本喜八監督、凄いなあ。これ1本、見れば沖縄戦が分かるようになっている。

小林桂樹扮する牛島中将は、沖縄に配備された第32軍の司令官。丹波哲郎が長参謀長、仲代達矢が八原高級参謀。この3人の視点から沖縄戦を見つめる。さらに民間人の視点が田中邦衛。床屋で司令官付き。ナレーションが次元大介、、ではなく小林清志。

ずっとあとで気付くことだが、対島丸撃沈事件。集団自決。ひめゆり部隊の悲劇、米軍上陸、特攻隊、首里城の攻防、シュガーローフ、鉄血勤王隊と、沖縄戦のほとんどが盛り込まれている。そこに描かれる凄まじい戦闘。そして犠牲。

あまりに衝撃なので、その後、映画館上映を探して大森キネカでも大スクリーンで観た(よくぞ、上映してくれました!「シンゴジラ」と2本立て)

映画人なもので、歴史教科書を読み、時代の流れを理解するというより、映像で観た方が早い。何より、歴史書を書くのではなく、映像ドキュメンタリーを製作するので、ビジュアルとして把握する必要がある。

そして3年に渡る取材。沖縄戦がいかに理不尽で残虐なものであったか? その「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」は沖縄での試写会は秋に完成披露試写会を行うとのこと。ぜひ!

特報=> https://youtu.be/Wv5MK0fRauI


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映画のことしか知らない。それでは映画監督になれないこと実感した頃?=何かを作るということ。経験値が大事。 [思い出物語]

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映画のことしか知らない。それでは映画監督になれないこと実感した頃?=何かを作るということ。経験値が大事。

「太田さんは常識的なことをあまりにも知りませんね?」

帰国後。ライター業をしていた時に編集者さんに言われた。東京で映画監督を目指してスタート頃だ。確かにそうだ。映画のことしか知らない。若い人は知らないと思うが「巨人の星」の主人公・飛雄馬が「お前は野球のことしか知らない、野球ロボットだ」と言われたのを思い出す。(言ったのはオズマです)それは以前にも感じたことだった。学生映画時代。「学生映画を作る映画」が意外にあった。8ミリフィルムで映画を作る話。作り手自身を描いたものだ。上映会を見に行くと5本中2本がそれということもあった。

理由は簡単。映画好きで学生映画を作っているので、映画のことしか知らないから。物語を作るにはその世界を知らないといけない。「ドクターX」なら病院や医療。「龍馬伝」なら幕末や龍馬。時代や業界を知らないとシナリオを書けない。当時、学生映画をやっていた高校生、大学生は学生生活しか経験しておらず、自分たちのやっている学生映画のことしか経験がなかったからだ。

同じことは僕自身にも言える。編集者さんの指摘はそれに繋がるものだった。当時、僕は30歳。あるのは映画の知識。アメリカ留学の経験だけ。普通の30歳に比べて常識無さ過ぎ。スポーツにも、政治にも、全く興味がなかった。この先、監督になれてもこれでは作品を作れない。

もちろん、脚本家という人もいるので、書いてもらったものを監督することはできる。が、自分でシナリオを書き、自分で演出するのが目標だ。このままではダメだ。漫画家の本宮ひろ志さんの言葉思い出す。

「最初は自身の経験を元に漫画を描く。それで描く力が着いたら、あれこれ調べて描く。それを続ければ別の何かが見えて来て、これまでとは違うものが描けるようになる」

最初の経験を元にしたのが「男一匹ガキ大将」だ。その後が「俺の空 刑事編」時代を築いた人の言葉は説得力がある。僕自身はどうか?考えると学生時代は映画をみて、8ミリ映画を作っていただけだ。先の学生映画のパターン。そんな時、当時人気上昇中だったやしきたかじんの話を聞いた。

彼は歌手。でも、これからは映像を知らないと生きていけない。歌だけではダメと、それから毎日1本、レンタルビデオで映画を借りて見る事にした。やがて店のビデオは全て見尽くして、テレビ放送中のドラマを全てタイマー録画。全部見ていたという。そこで気づいた事。考えたことがテレビの仕事に生きた。大阪で人気沸騰。東京進出を始める。

成功する人は皆、努力している。僕はどうすればいいか? 当時放送中だった。「ニュースステーション」と「筑紫哲也のNEWS23」を毎日録画して見た。政治経済、文化、犯罪、ニュースを見てあれこれ把握しようと考えた。1990年初頭のことだ。

その内にテレビだけではダメだ。新聞も購読。あとはきっかけがあれば徹底して調べる。と言っても今、考えると大学の新聞研究部のレベルだったと思うが、それがスタートだった。学校で教わったことなんて役に立たない。やがて、書道、原発、沖縄戦と出会い、徹底取材は続くことになる。



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横浜20才前。矢沢永吉のレコードと「成り上がり」の思い出 [思い出物語]

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横浜20才前。矢沢永吉のレコードと「成り上がり」の思い出

「ミュージックフェア」になんと矢沢永吉が2週連続でゲスト出演。タイマー録画したものを見た。9月14日で70歳になる矢沢が久々のニューアルバムを出すので、今回は結構テレビに出ている。嵐の番組にも出たらしいが、それは見逃した。NHKのは見た。あれはもうほとんど「矢沢ヒストリー3」だった(知らない人には意味不明?)

矢沢のデビューは僕が中学生の頃。

当時の僕は日本の歌はほとんど聞かず、ビートルズやエルトン・ジョン。それが高校を卒業。横浜にある映画学校に進んだとき、同級生に矢沢の大ファンがいた。当時ベストセラーだった「成り上がり」を借り読み大感動。だって、矢沢はミュージシャンを目指して東京に出ようと、広島から夜行で旅立ち。なぜか横浜で降りて、そこで素人バンドを始めた。

僕は東京の映画学校に行こうと考えていたが、なぜか?横浜の学校にして、その街で学生映画を始めた。ダブるものがある。矢沢のレコードを聞いてみた。「おー日本の歌もいいぜよ!」と感じ、噂のコンサートにも行きたくなった。が、矢沢というと友人たちの拒否反応が強く、当時は暴走族のアイドルのような感じ。コンサートも不良の集会とか言われていた。

が、生で見てみたくて1人で会場へ。凄かった。1曲めから武道館が揺れた。最後はタオルが舞う。アルバム「I am a modl」の時だ。その「E’」「 Raising Sun」「Yazawa」「PM9」は全部聴いている。横浜スタジアム、神奈川県民ホール、横浜市立体育館と、いつも1人でコンサートへ。

その頃、矢沢はアメリカ進出を始めていた。

僕は横浜の映画学校に入学したが、最悪。3ヶ月で登校拒否。何のプラスもないと感じて学生映画をやっていた。が、高校時代からの夢があった。「アメリカの映画学校で勉強したい。ルーカスが学んだLAのUSC映画科に行きたい」と思っていたら、矢沢が先にLAに行ってしまった。

僕がやろうとしていることを矢沢が先にやってしまう。後追いしているように思われると悔しい。が、音楽と映画の違いはあれど、先を走る日本人がいること。励みになる。映画も音楽も日本に閉じこもって日本人だけを相手にやっていてはいけない。そう思っていたが、実践する人はいなかった。そんな中、ジャンルは違うが海外に出て行く矢沢がいた。

僕がUSC映画科に合格した頃。

矢沢のアルバム「FLUSH IN JAPAN」が全米で発売されたと知り、LAのタワーレコードで探した。見つからないので店員に聞くと「Yazawa? I have hard of that」というので、とんでもない勘違いしたものを持ってくると思ったら、本当に矢沢のレコードを持って戻ってきた。マジに全米発売されていたのだ。

そんな話を書き出すと、またまた長くなるので、まとめたい。僕がLA生活を始めたときに日本でリリースされたのが「Yokohama 20才前」だ。18才で大阪の高校を卒業。夜行列車で横浜へ。まさに20才前。そして矢沢の歌には横浜を歌ったものが多い。そんなことを考えながら「ミュージックフェア」を見ていると「ニューグランドホテル」を歌っていた。これもいろいろ思い出がダブる。

18才のときに読んだ「成り上がり」

落ち込んだとき、悩んだときに読み返した。ジャンルは違っても、同じように夢追う人の言葉には励まされる。まあ、僕は矢沢ほどビッグにもなっていないし、有名でもない。が、もしかしたら、今18才の高校生が映画監督になるの夢見て、僕のブログを読んでいるかもしれない。あの時の僕のように、それが何かの助けになれば...と毎日、あれこれ書いている。



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1年前。そして今年。そして来年。「Believe」と「10years」諦めてはいけない。 [思い出物語]

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1年前。そして今年。そして来年。「Believe」と「10years」諦めてはいけない。

1年前の今日は茨城県の土浦にいた。駅から15分ほどのところにあるセントラルシネマという映画館で「明日にかける橋」を3週間ほど上映してくれていた。少し遠いが出かけ「監督です」とは言わず、入場料を払って見た。

そこで自身の監督作「明日にかける橋」を見たあと、駅前でうな丼を食べた。その町の名物らしい。昨年の夏も暑く、かなりバテていたので「たまにはいいか!」と注文。隣の席に品のいい老父婦がいて声をかけられた。

「観光ですか?」

「自分で監督した映画を見に来ました」というのも変なので「ええ、まあ」と答えた。その老夫婦は横浜から観光で来たという。歳をとって夫婦で近場の観光。素敵だ。僕が1人でビールを飲んでいると、夫の方が「僕もビールにしよう」と注文。奥さんに「ほら、車で来なくてよかったでしょう?」と言い、僕の方を向きこう聞いた。

「劇団の方ですか?」

おお、近い! と思ったが、長い髪、Tシャツの上にアロハ。ひと昔前ならヒッピーだ。

「劇団。近い商売です。なぜ分かりました?」

「知り合いに劇団を主宰している人がいて、雰囲気が似ていたので...」

似たような業界だ。それに50代後半にもなって、平日の昼間からこんな格好で、1人ビールを飲むのはカタギではない。と言ってヤクザでもないので、残るは芸能界?という推理もありだ。それ以上会話は続かず。うなぎを食べ終わり「お先に」と店を出た。

それが1年前の今日。今年はお世話になった方の個展に行き。帰りに東京駅で1人ビールを飲み、ソーセージ入りのパンを食べた。電車で最寄り駅まで帰り着き、「今年も、うな丼を食べようか?」とファミレスに入ったが、メニューになかった。角ハイボールとグラスワイン。1人で乾杯。さっきのパンでなぜか満腹。つまみはサラダのみ。amazonミュージックをヘッドフォンで聴きながら飲んだ。

矢沢永吉の古いアルバム。

「バーボン人生」が入ったベスト版の一枚。彼はこの9月で70歳になる。9月14日がバースデー。70歳のロッカー。凄い。僕はいくつまで監督業を続けられるのだろう? ちなみに歌手のBスプリングスティーンも9月生まれ。ついでにレイ・チャールズも、オーティス・レティングも、ロジャー・ウォータースも。さらに長渕剛も9月生まれ。皆、ミュージシャン。それも個性がかなり強い。9月生まれって何かあるのか?

矢沢の歌を口ずさみながら夜道を歩く。次はアニマルズの「朝日のあたる家」。あれ? 渡辺美里の「ムーンライトダンス」と出だしが同じメロディだ! 昔から知っている曲なのに歌うことで気づいた。そこから美里の歌「Beleive」を口ずさむ。1987年のヒット曲。 LA留学から一時帰国した時に何度も聴いた。

人生で1、2を競うほど辛い時期

で、僕は「東京回転編」と物語のように呼んでいる。未来が見えなくて、絶望と格闘していた。話が長くなるので簡単にいうと、シネマスクールでは全米NO1と言われるUSCの映画科に合格はしていたが、そこで勉強しても映画監督に繋がるわけではないことに気づいた。学校で映画は学べない。これからどこに向かって進めばいいのか?途方に暮れていた。その時に日本に一時帰国。答えを探して歩いた。そして励まされたのがその歌。

「夢を夢のままでは終わらせないでいて...」

そのあとの歌詞通りに「いつもの君になれるまで自由に生きることさ!」と東京を放浪してLAに戻った。その時は想像もしなかったが、それからちょうど10年後。(美里の歌にも「10years」というのがあるが、)10年後の1997年に僕は監督デビューする。諦めてはいけないということだ。夢を夢で終わらせることはなかった。

今夜、ふと口ずさんだその歌。歌いながら歌詞を噛みしめると、あの頃の思いがこみ上げ、泣きそうになった。でも、この先の10年はどうだ? 矢沢のように70歳になった時はどうだ? 映画の仕事を続けているのだろうか? そんなことを考える。が、まず来年の今日にこそ、うな丼を食べて、今度はamazonで美里を聴こう。そう考えながら夜空を見上げると、月が優しく輝いていた....。


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