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戦前、戦後、日本の国策はいずれも破綻? 教育と戦争、どちらも同じ結果? [日本の教育]

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子供時代は記憶力が高く、いろんなことを吸収出来る。本来はこの時代に大人になってから大切なことを学ぶべきなのだが、日本の教育は意味のない、必要のないことばかりを子供たちに詰め込む。

高校時代。そんな疑問を感じた。「この授業に何の意味があるんだ?」「日常生活で使わない連立方程式、微分積分、因数分解...何年学んでも話せない英語....長編小説の一部だけを抜粋して読ませる現代国語...」こんなことが将来、役に立つのか? 

それを教師にぶつけても、誰1人でまともな返答は出来なかった。ある教師はこう言った。「それは大人になるための訓練だ」だったら、記憶力のいい十代の間に将来役に立つことを教えるべきだろ? 社会に出て必要のない計算式や化学式を覚えさせてどうする?

そう指摘すると、その教師は「そんなに勉強が嫌なら、学校を辞めろ!」と怒鳴った。聞いたことに答えていない。16歳の子供の質問に
いい大人、それも「先生」と呼ばれる男性が逆上し取り乱した。「役に立たない」=>「勉強が嫌」になぜ繋がるのか? 論理性がない。勉強が嫌なら言われなくても自分で辞める。なぜ、意味のない授業をするのか? 役に立たないのではないか?と訊いているのだ。

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今、思うと、その教師は20代。16歳の僕から見ると大人だが、大学を出てすぐに教師になり、教科書を解説するだけの仕事をする。世間知らずな兄ちゃんでしかなかったのだ。授業にどんな意味があるか? 将来役に立つか?を深く考えたこともなかったのだろう。親が言うから、教師が言うから勉強しただけ。根源的な意味を考えもしない。それを16歳のガキ(僕です)に突っ込まれた。答えられない!

その教師はこう考えた。「こいつは勉強がしたくないから、能書きを垂れているんだな?」だから「そんなに勉強が嫌なら」と言い出した。が、その推理はおかしい。「勉強が嫌」で教師に伝えるか?嫌なら学校を辞めればいい。難しいことではない。その許可を教師に求める必要もない。

ただ、親はうるさく言うだろう。説得する必要はある。が、教師に理解を求める必要はない。また、勉強が嫌と言うことを教師に伝ええば「努力しろ」「甘えるな」と言われるのは分かっている。黙って勉強をさぼればいいだけだ。つまり、「勉強が嫌だから」という彼の推理は成り立たない。生徒が「勉強が嫌だから」=「意味がない」と言い換えて伝えに来るはずがない。

にもかかわらず、その教師は「そんな勉強が嫌なら」と言う。もう一度書くが「嫌」とは言っていない。「無意味」「将来役に立つとは思わない」と告げただけ。大人なら教師なら、無意味ではないことを説明。将来どんな役に立つか?を説明すればいいのだ。なのに「そんなに勉強が嫌らなら」と感情的になり怒鳴り出す。当時はその背景を明確に理解できなかった。が、今なら分かる。

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その教師もまた、与えられたことを記憶し、公式を覚えるだけの授業を受けてい。疑問を持つこともなく学校に通い、大学を出て教師になった。「子供たちを育てる!」と言う熱い思いでもあれば違っただろうが、「安定した職業」「不況に強い」くらいにしか考えていなかった。そんな学校教育というのは、その時代から国策として推進されていた。

記憶力の高さ、理解力の優秀さのみを測りーそれが成績と言われるー想像力等の考える力を育てずに、その成績で序列を作り、大学という名のレベル分け。優秀なものから上から国家公務員の第1種、大手企業が採用。日本を動かす人材にする。そのための教育システム。経済大国を目指すために優秀な会社員を大量生産するという国策なのだ。ただ、考える力だけは育てない。言われたことをするだけの大人に育てる教育だ。

将来役に立つとか、大人になるための訓練ではない。与えたことを確実こなすだけの優秀なサラリーマンロボットを育成するためのもの。その教師もそのシステムの中で、何も疑わずに勉強をしてきた。だから彼も「考える力」が育ってなかった。「勉強に対して疑問を持つ生徒」は=「勉強が嫌い」という安直な判断しかできない。物事を分析したり、いろんな角度から検証したり、様々な考えをするという作業ができない。そんな学習はしていない。与えられたことしかできない大人として成長している。「与えられたこと」=「勉強はやらなければならない」=>「嫌がる子供は勉強が嫌いなのだ」

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戦時中も同じだった。「戦争はやらなければならない」=>戦争に疑問を持つ=>「非国民。売国奴だ」理由を考えない。背景を想像しない。与えられたことを拒否するのは許されない。同じ発想。つまり、戦後教育も戦前と変わらず。国策は多くの人から「考える力」を奪い、国が求めることを国民自らが推進するシステム。国が強制しなくてもその教育が行き届いた大人たちが、子供たちを無理やりにでも従わせる。はみ出すものは「非国民」と皆で叩く。現在は「落ちこぼれ」と言われる。

ただ、戦時中のそのシステムによって、死ななくてもいい多くの国民が犠牲になった。顕著な例は沖縄戦に数多く見られる。そして戦後の「教育」もすでに破綻。「考える力」を持たない優秀な会社ロボットでは日本を支えることができない。過去を踏襲するだけでは新しい時代を乗り切れないのだ。戦前、戦後、国策はある時期はその成果を挙げるが、やがて破綻し、多くが犠牲になる。当初は勝ち進んだ日本軍も終戦間近は無謀な作戦を繰り返し、多くの兵士を死なせた。沖縄を捨て石にして本土を守ろうとした。それはまさに今の日本と重なるように思える。戦後の国策もすでに崩壊しているのだ。そのために必要なことは何か?考えればすぐに分かる。


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今、子供たちに伝えるべきは何なのか? =騙され続けた戦後70年。日本の教育、本当の目的は? [日本の教育]

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今、子供たちに伝えるべきは何なのか?
=騙され続けた戦後70年。日本の教育、本当の目的は?

(2019年6月 再掲載)

学生時代。NHKの「若い広場」では「受験戦争」とか「学校」とかをテーマに討論する真面目な番組があった。「何のために勉強をするのか?」という話で、ある生徒が言った。

「何だかんだ言っても自分のためじゃないかなあ。勉強は嫌だけど、好きなことばかりやってられないし、自分を鍛えると言うことだと僕は考えています」

一方でアメリカ人は「楽しむ」と言うことを大事にする。「Aer you enjoing?」(楽しんでいるかい?)とよくいう。だが、日本では「楽しむ」と言うことに罪悪感を持つ部分がある。皆が働いているときに、俺だけ遊んでいていいのか?というような。

「遊んでばかりいたらダメだ。勉強(仕事)しなきゃ!」

そんな強迫観念はないだろうか? 僕より若い世代になる程、その意識が少なくなっているとは思うが、「遊ぶこと」「楽しむこと」はいけないことで「努力する」「学ぶ」「頑張る」と言うことが人として大切なこと。と言う意識が日本人には強い気がする。

だからこそ、戦後、お父さんたちは夜遅くまで働いて、日本を経済大国した。優秀な電化製品を次々に開発して、世界マーケットをを独占した。当時は漫画を見てもスポ根ものが盛ん。ひたすら努力と練習を続ける星飛雄馬がいて、ボクシングに青春をかける矢吹丈がいた。そんな漫画を読んで育った僕らの世代は「遊んでいてはいけない」「努力しなきゃ」と言う思いが強いのだろう。

勉強することは努力すること。自分を鍛えることと思い込んでしまったのではないか? 花形満が体を壊してでも鉄バットで大リーグボール1号を打つ練習をしたり(よく分からない方は読み飛ばしてください)星飛雄馬が腕の筋が切れるのを承知で、大リーグボール3号を投げたり(説明大変なので気にしないでください)力石徹が体重を落とすために倉庫に寝泊まりしたり(先と同じです)

そんな努力を「苦しくても頑張る!」と言う解釈にして、大人は遅くまで仕事をし、子供たちは勉強をした。ある先生がよく金八先生を真似て言っていたこと。

「勉強と言う字はー勉めてー強くなるーと書く。それが勉強だ」

「嫌だと思っても、勉めてやるから強くなる」

それは飛雄馬であり、丈であり、力石だ。そこまで子供が考えてはないが、無意識に感じた。そして大人たちは司馬遼太郎の小説の武将や勤皇の志士たちに自分を重ねた。

先の「若い広場」の生徒の発言。今、考えれば、勉強は「自分のため」ではなく、国が経済大国を目指す重要な戦力(優秀なサラリマン)となるための訓練だった。与えられたことを確実にする優秀なサラリマーンになる努力させられていることに気づかず。「自分のため」と思い込んでいたのだろう。

国のため、経済大国を目指すため、それ自体は悪いことではない。が、そのために猫も杓子も動員、国のためではなく、自分のためと思い込んでいる。思い込まされていることが恐ろしい。それは戦時中と同じ構図。だが、良い大学=>一流会社=>安定した生活という流れはもう過去のもの。これからは「与えられことをするだけの会社員」では通用しない。大人は、親は、子供達に何を伝えればいいのか?


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日本の間違った教育が日本人をダメにした=高校時代に教師が言った言葉を考えた? [日本の教育]

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日本の間違った教育が日本人をダメにした=高校時代に教師が言った言葉を考えた?

高校時代に「こんな勉強をしていて何の役に立つんだろう?」と思えた。それから勉強をやめ映画ばかり見ていた。家ではレコードを聴きながら、映画関係の本や雑誌を読んでいた。当然、成績は下がる。担任に呼び出されて注意された。「何でしっかり勉強しない!」そう聞くから答えた。「あんな勉強をしても意味がないと感じるからです。大学まで10年も英語を勉強しても英会話ができない。それって意味あることですか?」担任は一瞬黙った。彼は英語担当だった。が、教科書を読むことしかできない。にも関わらず、その問いには答えずこう言った。

「あのなあ。勉強というのは自分を鍛えるためにするものだ。大人になりちゃんとした社会生活ができるようになるための訓練なんだ」そういうので訊いた。「社会に出ると古典や漢文。因数分解や連立方程式が役に立つんですか?」そういうと怒鳴られた。「いい加減にしろ。お前は勉強するのが嫌だから、屁理屈を言ってるだけだ! ちゃんとした成績を取らないと留年するだけぞ」これ以上言っても無意味と思えて話を止めた。なぜ、担任は質問に答えず、社会に出るための訓練なんて綺麗事を言ったのか?

社会に出て仕事をする今、役に立っているのは学校時代に習った足し算引き算。後、割り算と掛け算くらい。連立方程式や因数分解を必要としたことはない。古文も漢文も使わない。化学も必要ない。英語も高校を出たレベルでは役に立たず、留学して英会話ができるようになった。日本の大学に進学した同級生はさらに4年、英語を学んだが英会話はできない。友人たちに聞いても学校で学んだことで役に立っていることを聞いても、皆答えられなかった。要は担任が言うように「社会に出るためのもの」ではなかったのだ。

何より僕の質問に答えられなかったのは、担任自身が具体的にどう役立つのか?を理解していない。実感していないからであり、一般論、綺麗事でまとめようとしたのだろう。おまけに突っ込んで聞くと怒り出し「勉強をしたくないだけ」と決めつけて話を逸らす。教師というのはその程度の存在なのだと当時は大いに失望した。が、今考えると、彼は20代。大学を出てすぐに教師になった。社会経験も少ない。会社経験もない。顔を合わせるのは生徒と教師。そしてPTAだけ。そんな狭い世界にいて「社会に出てから」を語るのは無理。中には骨のある教師もいたが、ほとんどの教師は子供たちに伝える「何か」を持たず、決められたカリキュラムを教える。それだけだったのだ。

ただ、その後、振り返って見て、ある意味であの担任は正解だったことにも気付いた。「社会に出るための訓練」は正しいのだ。英会話ができない、必要のない古典、漢文。役に立たない連立方程式。年号を覚えるだけの歴史。社会で全く必要がなく子供たちが興味を持てない。そんな科目でも真面目に取り組む。ひたすら暗記する、与えられた方法で公式を解く。これは会社に入ってからとても役に立つこと。つまり、どんな無意味に仕事を与えられてもいやがらずにこなす。上から言われた方法論やルールで仕事をこなす。文句を言わない。従う。あれこれ考えない。そんな会社ロボットになるための訓練だとすると、とても意味のある教育と言える。

つまり「意味がない」「役に立たない」と不満をいう僕のような生徒は会社に入っても、文句ばかり言って働かない。上司に逆らう。問題を起こす。異分子となる。だから、あれこれ言わないで、言われたことを真面目にこなす大人に矯正するのが教育の場なのだ。要は会社が使いやすい人材を大量生産しているのである。そんな人材は政府にとっても便利。何も考えないから誘導しやすい。不正に気づかない。マスコミが報じれば鵜呑みする。会社、社会の支配者たちが扱いやすい国民を育ててきたのだろう。ただ、成果は上がった。言われたことを逆らわずにやる。多くを搾取されても日本人はよく働き、経済大国になった。戦後の焼け野原から日本は立ち直り、金持ちの国になる。その意味であの教育は正解だったのだ。

しかし、時代が変わり、製品を作り売ればいいと言う時代ではなくなった。バブル崩壊、リーマンショック後の低迷。支配者層もまた与えられたことをこなすだけの教育で育った人たち。新しい時代をどう切り開くか?分からない。国民の多くは従うだけの存在。20年の不況。アジアの国に抜かれて行く。僕らの世代はまだ、教育の枠からはみ出して生きる連中がいた。そんな人たちは様々な業界で活躍している。ま、クリエーターが多いのだが。しかし、あとの世代は管理教育がさらに行き届き、多くが与えられないと何もできない大人になってしまった。「夢を諦めるな」と言うと「その夢がないんだよ!」と嘆く。子供時代から自分の意思で何かをすることがなかったのだろう。

先日、教育関係で働く友人と話した。今後、文科省は「考える力を育てること」に教育方針を変えると言う。数年内に実施。しかし、効果が上がるのは早くて10年後? 彼らが会社の中堅になるのはさらに10年?現在の政府を見ていても、何らか日本復活プランを持つ者はいないだろう。コロナ感染を利用して業界からリベートをもらうことしか考えず、感染収束ではなく拡大させてしまう人たちだ。全く期待できない。そんな中、海外で進行中のあの事件。もしかしたら、それが日本を変えるきっかけになるかも知れぬ....。と密かに期待している。

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論理性を問う日本人は嫌われる=その背後に潜むこの国の正体? [日本の教育]

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論理性を問う日本人は嫌われる=その背後に潜むこの国の正体?

50年以上生きてきてやっと気づいたのだが、僕は「合理性」ということにこだわるようだ。合理的でないと許せない。映画という仕事は「芸術」分野であり、高校は「文系コース」だったので、理屈では説明できない感覚や感性が重要なファクターになるべきもの。なのに「論理性」のこだわる。

高校時代も制服について問題を感じた。6月1日から夏服というが、それ以前に猛暑の日がある。でも、あの黒い詰襟の制服を着ていかねばならない。それでなくても教科書やノートが学生鞄に入っていて重い。生徒のほとんどは電車通学。もちろん毎朝満員。その中で制服を着ていると汗だくになる。また、脱いで手に持っても邪魔。猛暑の日には必要のないもの。なのに、学校側は夏服で登校することを認めない。

これは理屈に合わない。論理性がない。暑い日に冬服を着て登校することに何の意味もない。が、教師にいうと「規則だからな」といい。同級生にいうと「決まりだから、シャーないやろ」(大阪の高校でした)という。逆に夏服時期でも寒くてもyシャツで登校せねばならない理不尽なこともある。だが、クラスメイト達は不満を持っていても文句も言わず、耐えていた。

社会に出ても同じ。例えば、家賃の更新料に1ヶ月分の家賃を払うという習慣も変。不動産屋に礼金として、1ヶ月分の家賃と同額を払うのもおかしい。なぜ、1ヶ月分なのか? なぜ、手数料ではないのか? LAのアパートでは不動産屋を通さず、直接アパートと交渉。デポジット(敷金)を払うだけだ。更新料もいらない。手続きだけだ。非常に合理的であり、納得行く。その辺も友人と話したことがあるが、「昔からの習慣だからな」とか「シャーないやんか!」(大阪の友達)と言われ「だったら、アメリカに住めよ」という奴までいた。

どうも日本は合理性、論理性よりルール、習慣を優先して、無意味なことに金や時間、労力を使わなければならないことが多い。高校時代の話に戻るが、おかしな規則がいくつもあった。それを指摘しても、「俺たちにどうすることも出来ない」「嫌なら、学校辞めろ」とまで言われた。なぜ、皆、我慢するのか?自分たちの学校であり、無意味な校則で、そのために余計な出費や労力を使うことを無駄とは思わないのか?

髪の検査があった。耳にかかるとアウト。床屋に行けと言われる。少し前に床屋に行ったばかりでも、耳にかかるとダメ。月に2回床屋に行かねばならない。当時は3500円くらいだったか? 検査があり、アウトだと7000円の出費となる。1ヶ月経ち髪が伸びれば床屋に行くのに、中途半端な時期に検査するから無駄な費用がかかる。でも、それがルールだといい。生徒たちは誰も逆らわない。

校則だけではない。授業そのものが全く無意味だった。10年も勉強するのに英会話ができない。社会に出て全く使わない数学。年号を覚えるだけの歴史。小説の断片だけを読ませる国語。役に立たないことだらけ。「おかしい」というと「それを我慢してやるのが勉強だ。勉めて強くなると書くだろう」と説教をされる。が、無味なことに10代の貴重な時間を費やして何の意味がある?ある時から勉強を辞めた。ひたすら映画を見て、「スクリーン」や「ロードショー」を読んで、ロックのレコードを聴き続けた。それが今、とても役に立っている。

社会に出て気づいた。皆、あれこれ不満を抱えているが、声をあげず耐えている。カラオケでウサを張らし、飲み屋で愚痴を言って我慢する。政権批判をすると「日本から出て行け」といわれる。あー、高校時代と同じだ。矛盾した習慣やルールを受け入れ、我慢している。不満をいうと周りから叩かれる。そうか、高校時代はそんな社会に出るための訓練だったのだ。無意味なことをやらされても、矛盾したことを言われても受け入れ我慢する。

そうして大人になり、立派な日本人になって行く。それがこの国なのではないか?なのに僕は論理性にこだわる。矛盾したことを押し付けられて我慢できない。だからはみ出した。「落ちこぼれ」と言われた。つまり、支配する側に都合のいい社会なのだ。軍隊と同じ。上が命令したら意味など考えずに、言われた通りに動く。そんな社会だ。

そのために庶民が反抗しないように教育している。論理性を持ち、「無意味だ」「理不尽だ」と逆らわないようにしつける。それが日本の教育。論理性を持たず、与えられたことだけをする。そんな大人を育てる。社会に出てから支配層に逆らわないように、理不尽に耐えられる人材を育成している。その意味で僕は不適合者。失格なのだ。なるほどね。と考える冬の日。


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海外で生活する友人。こんなことを言われた。「あなたはどうしたいの?」=戸惑う日本人から見えてくる国の方針? [日本の教育]

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海外にいる友人。こんな話をする。

「日本からこの国へ来たばかりの頃、一番戸惑ったのは『あなたはどうしたいの?』という言葉だった。でも、いつも、みんなと同じことしてれば問題ない国から来たので、自分の意思で選択して自分でずんずん生きていく、というのがとても斬新だった」

僕もアメリカで長く生活したので、よく分かる。ただ、少し違ったのは『あなたはどうしたいの?』と言われることはなかった。やりたいことが明確にあって、自己主張していたから。だから、まわりのアメリカ人たちは心配せず、不信にも思わず、質問をすることがなかったのだ。

でも、友人の言葉で再確認した。「いつもみんなと同じことしてれば問題ない国」に僕らは住んでいる。何も考えなくてもいい。学校に行き、受験勉強をして、少しでもいい大学に入り、安定した会社に就職。しっかり仕事して、結婚して、子供を作り、学校に通わせる。みんなと同じ、そんな人生を送る。あれこれ考えなくても、選択しなくてもいい。それが日本という国。

もちろん、些細な選択はある。大学は何学部にするか?文学部、社会学部?でも、多くは「みんなが文学部というから、僕もそうしよう」というレベル。会社を選ぶ時も「外資系がいいな」「有名企業がいいな」「社名を言って恥ずかしくないところかな」という選択であることが多い。でも、皆と同じ方向に一緒に進めば、問題ない。逆に誰もしない選択をすると大変なことになる。

「大学行かずに芸能界に進みます!」

とかいうと大変。周りが団結して反対する。、親も教師も、クラスメートもこぞって反対する。近所の人や親戚まで説得にくる。つまり、何も考えずに、自己主張せずに、みんなと同じ方向に進まないと大変なのが、日本という国なのだ。しかし、友人が生活する国(アジアではない)では、何をするにつけて自分の意思を示さないといけない。みんなが進む方向なんてない。それぞれが考えて、選択し、それぞれの道を歩むのだ。

何も考えずに、選択できずにいると「あなたはどうしたいの?」と言われてしまう。でも、多くの日本人は「これがやりたい!」ということがない。小学生時代から与えられたことをするだけ。だから、その国で生活すると戸惑ってしまうだ。いや、その国だけではないアメリカでも、ヨーロッパでも同じ。みんなと同じことをしていれば無難に生きられるのは日本くらいではないか?

その日本。僕は昔から生きづらいものを感じていた。高校時代に「映画監督になる」と決めてからは余計だ。みんなと同じ方向に進めば、考える必要もなく、無難に生きていけるが、逆らうとありとあらゆる人たちが反対。止めに来る。いや、邪魔しに来る。「迷惑かけてないでしょう?」と思うが、正義を掲げて粛清しようとする。そう言えば子供の頃から僕はこう言われた。

「ワガママだ」「利己主義だ」「身勝手だ」「協調性がない」

どれも悪いことであり、親や教師からも「そんな性格は直さないと!」と良く言われた。が、今、考えると「皆と同じにしなさい」「自己主張してはいけない」というのと同じ。もっと言えば「夢を捨てろ」「考えるな」「従え」「我慢しろ」「いうことを聞け」というのと変わらない。

つまり、国が決めた教育方針。小学校から大学まで。そこで学び。与えられたことし、会社に入り働け。結婚して子供を育てろ。経済大国ニホンに貢献しろ!ということ。その他の道は許されない。勝手なことをするな。自分だけが良ければいいのか? 一見、正しいと思える言葉で押さえつけ、政府が決めた生き方を強要するのが日本という国なのだ。

はみ出し者が出ないように、「考える」教育はしない。与えられたことをするだけの教育。あれこれ意味を考えない。疑問を感じない。従順な大人に育つ。不満があっても我慢して従う。もし、はみ出す者や自己主張をする者がいれば、周りの人たちがよってたかって修正する。そのメカニズムは日本古来からあるムラ社会ルール。同調圧力だ。

それが戦後の日本。いや、戦前の軍国教育もほぼ同じだった。「兵隊になる」という目的を「会社員になる」に変更しただけ。いずれも国策に都合の良い大人を育てること。僕らはそれが普通。当たり前だと思って成長した。だから、日本人は「あなたはどうしたいの?」と訊かれると戸惑う。僕は最初からはみ出しているので、アメリカでそう訊かれることはなかった。だが、日本での生活はとても苦痛。「ほっといてくれよ!」と子供時代から思っていた。

「あなたはどうしたいの?」と問われれば「映画を作りたい!」だった。同じように若い頃は、皆、いろんな夢を持っている。それを潰すのは教育。

「世の中甘くない」「自分が良ければ良いのか」「身勝手だ」「自己中だ」

そう言って夢を諦めさせ、国の方針に従わせる。僕は超捻くれ者だった。頑固で身勝手だった。だから、貫徹し、今は映画の仕事をしている。才能があるとかではない。多くの若者が挫折していくのは能力がないからではなく、仕組まれた路線から外れることで、同調圧力が働き、みんなで潰しにかかるからだ。そのために日本の大人たちは考える力が弱く、与えられないと何もできない。そしてすぐ誘導されるのだろう。いろんなことを再確認してしまう。



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批判コメントから見える。日本の教育で育たないもの? [日本の教育]

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批判コメントから見える。日本の教育で育たないもの?

このFacebookでアップする記事は全て、ブログにも掲載している。もし、「あの記事。読みたかったのに、だいぶん経つからなあ」という時は、ブログの方を見て欲しい。カテゴリー別に分けているし、検索もできるので見つかるはずだ。

そのブログ。Facebookと違って不特定多数の読者が読んでくれる。ただ、Facebookと違ってコメントは承認制。こちらが承認せねば公開されない。Facebookのようにコメントすれば誰もがそれを読める訳ではない。そのシステムの良いところは無神経な批判や誹謗中傷が公開されずに済むということろ。だが、それでもあれこれ酷いコメントは書き込まれる。

公開されず、他の読者は読まないまでも、僕に対して怒りをぶつけ、批判し、バカにしたい、という人たちが書き込んでくる。まあ、頻繁には来ないのだが、共通するものがあり興味深い。多くの場合。書いた記事に対して、「事実誤認だ」「主張が矛盾している」「失礼極まりない」「お前はバカか」とかいうもの。

内容がおかしい。主張がおかしい。論理性がない。というものが多いのだが、読んでみると、多くは僕の記事を理解せず、誤解していることが多い。書かれてもいないことを「おかしい」と批判する。その文章を読むと、自分が間違っているかもしれない?という思いは微塵もない。

「お前は勉強不足だ」「そんなことも知らないのか?」「言ってることが矛盾するんだよ」

まるで勝ち誇ったかのようなものが多い。自身の読解力が低いことにまるで気づかず「お前が間違っている!」と指摘する。これは映画レビューによくあるのだが「ツッコミどころ満載」と言いながら、伏線を見逃している。演出意図を理解できていないという感想と同じ。これらの人たちの心理を考えてみた。

どうも、自己確認の一環ではないか? 映画監督のブログを見つける。「名前、聞いたことないな。でも、読んでやるよ」「何だコレ?」「何も分かってないな」「言ってることが矛盾している」「バカだな。映画監督なんて所詮、この程度か」「教えてやろう」という心理展開ではないか?

ブログの場合。コメント主が何者か?は分からない。年齢、性別、職業、出身、住居も分からない。ハンドルネームも、その場で思いついただけのものだ。だから、文章力や表現力からその辺を推理するしかないが、そこそこの教育を受けているであろう人でも、思い込みで批判してくる場合がある。読解力だけでなく、考える力が育っていない。

が、そこは本人だけの問題ではなく、日本の教育を受けていたらそこは成長しない。与えられたことを確実にこなす能力を育てるのが日本。考える力を伸ばす授業はない。社会に出て培われるのも考える力ではなく、忖度する力だけ。いろんなことが見えてくる。


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映画レビューに「突っ込みどころ満載!」と評論家気取りのコメント=背景にある悲しいもの。 [日本の教育]

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映画レビューに「突っ込みどころ満載!」と評論家気取りのコメント=背景にある悲しいもの。

いろんなサイトに映画の感想を書くページがあるが、特にyahoo!に書き込む人たちの映画鑑賞眼は低い。別にyahoo!が悪い訳ではなく、その種の人たちが多いということ。どんなコメント? 例えばこんな風なのが多い。

「突っ込みどころ満載。あれ? なんで?ということの連続!」

「展開が唐突! 何なのこの映画。展開に無理ありすぎ〜」

ある。ある。と思うだろう。これらに共通するのは何だろう? そう。ほとんどが上から目線。得意げ。鬼の首を取ったような感じ。簡単に言えば評論家気取り。しかし、その映画を見ると、それほど酷いものでなかったり、力作だったりする。そこには2つの背景がある。彼らの心の闇を考えてみよう。

80年代。僕は映画ファンであり、映画学校に通い、映画好きと毎日議論していた。「ぴあ」には毎週、読者の映画批評が載る。がyahoo!的な感想はあまりなかった。同世代の映画評論家さんはいう。

「本来、映画を見ていて、あれ? 何でこうなるんだろう? と思った時に、僕らは伏線を見逃したかな? 説明があったんじゃないか? と考える。映画というのはプロが作るもの。意味が分からないのは素人である自分が、しっかりと見ていなかったからだろうと考える。

でも、今どきの子は分からないことがあると、この映画は説明不足だ。ご都合主義で展開させてんだな〜と考える。つまり、分からなくなるのは自分の不注意や無知ではなく、映画制作側の、あるいは監督がバカだから分からなくなると解釈するんだよ。

そんな解釈をするのが20代とか30代の人たちが多い。作っているのは50代とかの監督で、プロのスタッフ。映画というのは集団作業。例え監督がバカでも、シナリオや現場でおかしな部分が見つかれば、必ずスタッフが指摘する。誰も気づかずにオーケーなんてまずない。それを20代の映画ファンだけが気づく問題点ってあるかな?

実際にその映画を見ると、ちゃんと伏線が張られていたり、前の場面で説明されていたりする。それを見逃していたので展開が分からなくなったのだろう。にも関わらず『無理あり過ぎ〜』と考えるんだ...」

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なるほど。ただ、なぜ「私にものを見る力がないのではなく、説明不足の相手が悪い!」という解釈をするのか? 考えた。それは今は僕らの子供時代以上に管理教育が進んでいる。やるべきことは教師や親から指示される。宿題をしろ。勉強をしろ。教室では静かにしろ。寄り道をしないで帰れ。それをやらないと厳しく注意される。

言われたことさえしていれば問題はない。つまり、考える必要がない。自分で判断しない。なぜ、この学科を勉強するのか? なぜ、この宿題が出るのか? なぜ、こんな規則があるのか? 考えない。背景を想像しない。疑問を持たない。

駅のホームに立てば「電車が来ます。白線まで下がって下さい」とアナウンスがある。ショッピングセンターでは「エスカレーターから乗り出して顔や手を出さないでください」と館内放送。そんな環境で育った子たち。考える力はない。映画には伏線がある。伏線というのはナレーションで

「この主人公は銃マニアである。部屋にはモデルガンが飾られている。大きな伏線になるので覚えておいてほしい」

なんて説明はない。伏線というのはそれとなく描くもの。だから、見逃しがち。若い子は気づかない。展開がある。伏線が生きる。が、伏線に気づいていないので分からない。「なんで、こうなるの? 何の説明もなかった。この映画おかしい!」となる。

言われないと気づかない。管理教育が行き届いた中で育った結果ではないか? もう一つの悲しい背景がある。人を批判すると、自分が偉くなった気がするものだ。優越感を感じる。次第に上から目線になる。

「俺には分かるんだよ。そんなことじゃダメだろ?」

その誇らしい気持ちを伝えたくて、感想を映画サイトに書き込む。「俺って凄いだろう?」そんな思いを込めて。日頃、誰にも褒められない人たちがいる。彼らは必要とされないダメ自分から逃れ、自分の優秀さを誇るためにコメントする。

だから映画レビューはその手のコメントが多い。が、そのほとんどは勘違い、見る力がない人たち。多くは厳しい管理教育で育った人たちだろう。それが映画レビューに「突っ込みどころ満載!」「唐突な展開!」「捻りがない!」などと、ワンパターンの表現で勘違いなコメントを書き込む人たちの背景だと思える。(2019年の記事より改定)


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