宝田さんからのメッセージ [「沖縄狂想曲」]
オイラは「命なんかどうでもいい」と、39歳までラリーをしてました?
娘が産まれて、引退しました
自分の命はどうでも良いですが、娘や息子そして孫の為にはも少し頑張らねば、と思っています?
脳梗塞同級生です
娘が産まれて、引退しました
自分の命はどうでも良いですが、娘や息子そして孫の為にはも少し頑張らねば、と思っています?
脳梗塞同級生です
再起不能にならなかった理由=「希望を伝える映画を作れ!」と神様が言った? −8月14日 [闘病日記]
再起不能にならなかった理由=「希望を伝える映画を作れ!」と神様が言った?
繰り返し思うこと。今回の脳梗塞。もし、脳の中で、血が止まった場所が違っていたら?僕は「歩けない」「手が動かない」「目が見えない」「話せない」と言う障害を負っていたかもしれない。
そうなれば映画監督業は廃業。しかし、貯金もない。年金ももらえない。家族もいない。どうやって生活していけばいいのか?そんな人生をあと10年以上送ること。耐えられなかっただろう。
そう考えると、手が動く、自分の足で歩ける。話すこともできる。ま、右目は半分見えなくなったが、左目は見える。心臓機能も低下しているが、少しずつ回復。監督業を続けることが出来る。こんな嬉しいことはない。
神様なんて信じないけど「もう少し映画を撮れ!多くに希望を届ける作品を作れ」と言われた気がする。辛い時に僕の映画を見て「頑張ろう」「まだ終わりじゃない」と希望を感じる作品。そんな映画を作ることが、僕の使命だと思える。
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映画監督を目指し敵国。あっという間だった33年 −8月14日 [「沖縄狂想曲」]
映画監督を目指し敵国。あっという間だった33年
今回の病気。本当に苦しく辛いものだった(まだ闘病中だけど)が、あれこれ考える余裕が出来た。振り返ると、29歳でアメリカから戻った、映画監督を目指し。
それからの33年。あっという間に過ぎた最初は新宿の居酒屋でアルバイ。レンタルビデオでも働いた。夜はシナリオを書き続け、脚本家デビューが5年目。深夜ドラマを監督したのが7年目。映画監督デビューには15年かかった。もう、40代になってた。遅いデビューだった。
そこから18年。8本の映画を監督。「毎回、遺作!」と全力投球。ついに脳と心臓が壊れたのが今年。もう61歳。「ジジイ予備軍」?でも、気分はまだ10代。未だに「大人は信用できない」と言ってしまう。残り人生20年か?この機会にあれこれ考えてみたい。」
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未だに気分は新人監督?=いや、デビューからもう18年ぜよ! −8月14日 [「沖縄狂想曲」]
未だに気分は新人監督?=いや、デビューからもう18年ぜよ!
このところ、病気以外の話。監督業のこれまで、これからの話等も書いている。そこで気づいたこと。自分の思いと現実、現状が一致していないことがあることだ。
例えば「僕はまだ新人監督だ」と無意識に思っていた。が、デビューから18年。新人とはとても言えない中堅を超え、ベテランに迫る年数である。映画もすでに8本監督した。先輩監督でも、未だに数本という人もいる。
そう考えると「自分で自分を褒めて上げてもいい」とも思える。4作目の「向日葵の丘」以降は全て依頼された作品。なのに、未だに気分は新人。毎回、忙しすぎて気持ちが18年前のままなのか?と考えたりしている。
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