2月に九州地方で「朝日のあたる家」の上映会が2−3回、予定あり [編集作業]
2月に九州地方で
「朝日のあたる家」の上映会が2−3回、予定されています。
場所、時期はまだ未定ですが、
上映後に私、監督の太田がトークショーをする予定
詳しいことが決まったら、告知させて頂きます。
お楽しみに。
HP=> http://www.asahinoataruie.jp
沖縄戦ドキュメンタリー進行報告 強い味方となる書籍をゲット! [2019]
集中力が失われた理由? ああ、そういえば年始年末も休みなし?! [編集作業]
集中力が失われた理由? ああ、そういえば!
昨日、一昨日と作業が進んでいない。集中できないでいた。クリスマスから休みなしで仕事をしているので、チョっと息抜きをした方がいいのかも?と考えて、久々に映画館にでも行こうと思った。が、駅まで行く元気がないことに気づく!これはかなりだ。
だから集中できないのか?が分かる。そういえば昨日も昼飯の後、横になっただけで寝てしまった。本日も同様。これは体力も落ちているようだ。あまり入れ込んでいると疲れ切っているいることに気づかないことがある。
朝元気で家を出たサラリーマンが会社で倒れて過労死ということなる。意思の力で支えているだけで体はボロボロ。でも、人の思って凄くて、それにも気づかないことがある。
で、ヤバイと思って、その日は休息日。と思いながら、だったら気分転換に申告の準備をしよう? と、近所のバーガーショップへ行き、領収書整理。これなら集中力はいらない?と思ったが、1−2時間で背中が痛くなる。そんなことで、日が暮れたら1人で酒を飲み、早めに寝る。
翌日は元気!と思いきや10代の時のようには行かず、この日も深刻準備。これはいずれやらねばならないこと。でも、集中力が戻らず、編集まで行かない。考えると大晦日も正月も作業。おせち料理も、雑煮も、なし。酒だけは毎日飲んでいるが、毎日、編集機と向かい合っているので精神的に疲労していたのだろう。
まだまだ時間はある。ボクサーの減量も最初から飛ばすと失敗すると聞く。練習も最初から長時間やると挫折しやすい。僕も当初から飛ばしすぎた。ここで疲れが出て風邪でも引いたら大変。無理をしないように無理して、本日は作業を再開する。
どうすれば他人事ではなく、沖縄戦の悲しみを伝えることができるのか? =修学旅行生の発言から感じること [2019]
どうすれば他人事ではなく、沖縄戦の悲しみを伝えることができるのか? =自分のこととして感じることの難しさ?
下見で沖縄に行ったのはもう2年前になってしまう。沖縄は全くの初めて。その上、沖縄戦のことはまるで知らな買った。映画「ひめゆりの塔」(オリジナルの白黒版)を見たことがあるだけ。それどころか沖縄について何も知らないという感じだった。
若い女性ならリゾート地として憧れるので、いろいろ詳しいかもしれないが、僕は「旅行」とか「リゾート」とか全く興味なし! 「行きたいところは?」と訊かれると
「チェルノブイリ!」
というようなタイプ(結局、行けましたが)だから、沖縄と聞いて思い出すのは「安室奈美恵」と「SPEED」それから金城哲夫と上原正三(ウルトラシリーズの素晴らしい脚本家達)くらいだった。
そんな何も知らない状態で現地をあえて訪問、そんな真っ白なところから取材したかったからだ。まず沖縄通の方があちこち案内してくれた。まずは戦跡を訪ねる。そして資料館。祈念館。ほどんどが綺麗な建物で、当時の写真や当時の物が展示されている。大きなパネルに文章で説明。博物館や美術館と同じパターンだ。僕の想像力が足りないのか? 正直にいうとピンと来なかった。
ふーーん。そんなことがあったんだあ〜という感じ。理屈としては大変な戦争であったこと分かる。が、その「悲しみ」や「痛み」が感じられない。病院豪になった場所を案内してもらったときー大きな洞穴でかなり深く、延々と続いているー解説の人が
「修学旅行で来た生徒には、ここで当時を思い、涙する子も時々いますよ」
と教えてくれた。が、ただただ広がる巨大な洞穴。話を聞いても、ここに多くの患者が収容され、死んでいったことを想像するのは難しかった。その修学旅行の生徒達とも、いろんな場所ですれ違った。彼らを見ていると冗談を言いながら、ふさげたり。スマホで記念写真を撮ることに夢中。とても戦争の悲しさを感じているようには思えない。
帰京後、別の仕事をしたとき。若い女性スタッフと話していると「私も修学旅行は沖縄でした!」というので聞いてみた。
「そうですね〜。お墓がいっぱいあった広い場所(平和祈念公園)で隠れんぼをやったのが楽しかった! あと、洞穴で泣いた子もいました!」
先に聞いた話と合致する。さらに聞いた。なぜ、その子は泣いたの?
「暗くて怖いから! 男子に後ろから脅かされたりしたし」
解説を聞いて泣いたのではないという。でも、それが現実だろう。まだ、僕らの世代(昭和30年代生まれ)は戦争の傷跡を知っている。子供の頃、商店街には焼夷軍人が白い服を来てアコーデオンを演奏していた。親から戦時中の話を聞いたし、戦争に行ったおじいさんも近所にはいた。でも、平成生まれの子達にとって戦争を感じる機会はあまりないだろう。
「沖縄は隠れんぼをして、暗い洞穴に連れて行かれたのが思い出!」
という記憶しか残っていないのだろう。と言いながら、僕自身も似たようなも。その上、若い子達より捻くれたオヤジなので始末に悪い。
「こんな整地された広い場所にオブジェのような墓を建てて、どうやって戦争の悲惨さを感じればいいのか? 何か間違っている。観光名所としての意味しか持たないだろう?」
そんなことさえ思っていた。その後、沖縄戦を勉強し、それらの施設を訪れた時。
「あーなるほど、これはあの事件のことを伝えているのか!」
この場所はあの戦いの....と痛感。しかし、多くの人は事前に勉強して沖縄を訪れる訳ではない。学校教育では沖縄戦どころか、太平洋戦争自体を教えることなく三学期を終える。
そうすると、先の修学旅行生や僕のように、ふーーんと思うだけで旅を終えることが多いはず。いくら年表を張り出し、当時の写真を飾り、解説を書き出しても、それは文化祭の展示ようなもので、多くの人は知識として理解するが、「悲しみ」や「苦しみ」がどれだけ伝わるのだろう? そんな手法しかないのか? 他に伝え方はないのか?
批判は簡単である。だったら僕は、今回の作品でどのようにして、沖縄戦の「悲しみ」や「苦しみ」を伝えればいいのか? これは福島の原発事故と同じ構図だろう。テレビや新聞は原発事故の被害を伝える。表面的ではあったが伝えた。それを見て「酷いなあ」「大変だな」と多くの人は思った。が、それは他人事。
「福島の人、可愛そう」
というレベルなのだ。だからこそ、まだ8年しか経っていないのに(セシュムの半減期は30年!)こういう人もいる。
「もう、原発事故は収束したんだよね? 総理大臣も言っていたし。汚染水もコントロールされているし。避難していた人はみんな家に帰ったんだよね?」
そんな人たちが増えている。8年でそれだ。沖縄戦から70年。その当時の悲しみをどうすれば伝えられるのか? 他人事ではなく、自分のこととして感じてもらえるのか?言えることは形だけ戦争を描いてたり、授業のように上部だけ事実を並べるやり方では「悲しみ」は伝わらないということ。
今回のテーマはまさにそこ。それができなければ、単なる教材ビデオにしかならない。作業を続ける。