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申告準備は間も無く終了。これで編集作業に専念できるのか? [編集作業]

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申告準備は間も無く終了。これで編集作業に専念できるのか?

申告準備も本日で4日目か? 編集も進んでいないのに、こちら時間を取られている。Excelへの打ち込みは終わったので、領収書をスクラップブックに貼り付けていく。広いテーブルが必要なので、近所のカフェへ。ところが、その店のオーナーが遅刻。2時を過ぎないとオープンしないという。領収書の束をデイバックに詰め込んで出かけてきたのに!

結局、いつものバーガーショップで作業。コーヒー1杯で粘る。ようやく貼り付け作業も終わりが見えた。ら、別の袋から新たな領収書が出てきたり!毎度のことだが。そうしたら「朝日のあたる家」九州上映の連絡。監督のトークショーはキャンセルとのこと。というより、正式な依頼はまだだったし。

残念なのか?ラッキーなのか? まあ、今回に限ればラッキーか? 2月の編集追い込みの時に3日も作業が中断するのは痛いと思っていた。上映会は実施される。その段取りの話をして、帰宅。ナレーション原稿書きに戻る。嘉数高地の戦いの途中からだ。その辺の記述を三つの本で、もう一度確認。あまり詳しくなり過ぎず。それでいて重要ポイントは押さえたものにしなければならない。

沖縄戦は多岐に渡る。様々な戦闘や被害がある。その全てを描くことはできない。と言って、どこかの局のように上部だけ描いては意味がない。その配分をどうすべきか? 考えながら作業を続ける。店で長時間作業をしたので背中が痛い。以前は仕事部屋でも同じだったが、椅子を変えてからかなり楽になった。

もともと姿勢が悪いのだろう。そのために長時間仕事をすると背中に激痛が走り、痛みに耐えられなくなると休憩。久しくそんなことはなかったが、店の硬い椅子だったので、痛みが再発してしまった。しかし、まだ日暮れだ。ナレーション原稿を少しでも進めたい。背中の痛みに耐えながら、資料を読む。



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なぜ、その沖縄戦ドキュメンタリー番組からは「悲しみ」が伝わらないのか? [編集作業]

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なぜ、その沖縄戦ドキュメンタリー番組からは「悲しみ」が伝わらないのか?

先日見た某大手テレビ局が作った沖縄戦ドキュメンタリーについて考えている。一言でいうと教科書。その作品を見て沖縄戦の流れは分かるが全く感情に触れるものがない。

「多くの市民が巻き込まれ、犠牲になりました....」

というナレーションを聞き、感じるのは

「へーーそうなんだ」

ということだけ。せいぜい「兵隊だけでなく市民もねえ。酷いなあ〜」という軽い思い。しかし、番組はハイビジョンカメラで現代の沖縄も撮影。体験者の証言もあり。CGによる地形説明。空撮もある。当時の記録映像と、多岐に渡る表現があり、制作費もかなりかかっている。

なのに感じるものゼロ? いや、歴史は分かる。でも、戦争ノンフィクションで大切なのは「あの戦争を繰り返してはいけない」「こんなに酷いことが何度もあったのですよ」というを伝えることではないか? 

もちろん、歴史の学習として事実のみを挙げる=まさに日本の教育=が目的であればいいが、本来、歴史を学ぶというのは、愚かな繰り返しをしないために歴史から過ちや意味を学ぶことだ。それが暗記中心の歴史教育を日本はしている訳だが、その番組もまさに同じ。でも、具体的にはどういうことか? 何が感情に訴えないのか? 伝えている史実は悲惨極まり無いものなのに?

それを数日前から考えている。技術、製作費については、その番組の方が、僕が担当する作品よりあるかに上である。その面だけで考えると、今回の作品はその番組にさえ及ばないことになる。それではダメ。無意味。ビデオで学ぶ歴史を作るつもりはない。テーマは沖縄の悲しみを自分のことのように感じてもらうこと。

「朝日のあたる家」とテーマは同じ。それをドキュメンタリーでやるのだ。考えた。まず、某テレビ局の番組。歴史の時間軸に沿って、各地の戦闘を描いている。それは正攻法であり、問題はない。記録映像もよく探して来た!というものが紹介されている。当時を知る証言者も大手テレビ局だからこそ、探し当てたと思える。

でも、悲しくない。悲惨が伝わって来ない。何だろう? 細かいところを考えてみよう。まず、ナレーション。女性。多分、局アナだろう。上手に原稿を読んでいる。が、映画監督として思うこと。ドラマでもそうだが、その役の気持ちを理解せずに台詞をいう俳優。伝わって来ない。いくら滑舌が良くて、言葉が明快でもダメ。

悲しい現実を語っているのに全く悲しみを感じない。原因はその俳優が役を理解していないこと。その人物が直面する現実、問題、悲しみを理解せずに台詞を読んでいるからだ。メソード演技というのがある。ニューヨークのアクターズ・スタジオで教えている表現法だ。そこで学んだのが

マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロ、ジェームズ・ディーン、etc...

という名優たちである。その演技法のことは以前に記事でも書いたし、演劇を志す人なら皆、知っているはず。もし、知らなければかなり問題だ。ロシアにも同じ方法論があり、それはスータニラフスキーという人が提唱している。それらによると、

「演技は自分の経験の中で最も近い経験を探し、その時の感情を呼び起こし、それを役の気持ちに近づけること」

実際、そのアクターズ・スタジオの校長である人(先代はあのリーストラスバーグ)が日本に来た時にワークショップをして、それを見に行かせてもらったが、指導を受けると見る見る内に俳優たちの演技が良くなっていく。感情の表現はやはり凄い。

それでいうと先の番組のナレーションを担当したアナウンサーは沖縄戦のことも知らず、その悲しみも把握しておらず。それを伝えようという気もないように思えた。上手に原稿を読もう。その1点だけ。まあ、アナウンサーの仕事はそれなのだ。だから、冷静にニュース原稿を読むだけ。聞く方に悲しみなど伝わらない。

最近は報道番組でも特集などは俳優がナレーションをすることが多い。昨年見た「アメリカが最も恐れた男 カメジロー」でも大杉漣さんが担当していた。アナウンサーより俳優の方がより多様な表現ができるのである。悲しみや喜び。悔しさや勇気。様々な感情を表現する仕事だからだ。

NHKのニュースをいくら聞いても頭に入らないし、何も感じないのに対して「ニュースステーション」や「報道ステーション」。久米宏や古舘伊知郎というアナウンサー出身者ではあるが、バラエティ(プロレス中継も)で鍛えた表現力があるので、視聴者に多くを感じさせることができたのだ。通常のニュースだと

「議論の成り行きが注目されております...」

と客観的に冷めて読むところを、久米さんだと

「どうなっちゃうんですかね〜?」

と閉める。これだけでも印象はかなり違う。ドキュメンタリーも同じだろう。

思い出すこと。僕は撮影に入る前にあれこれ宿題を俳優に出す。例えば「明日にかける橋」は1989年が舞台。当時のテレビ映像や歌を俳優たちに体験してもらう。「向日葵の丘」の時は、会話に出てくる映画は全てDV Dで観てもらった。その映画を見ていて「雨に唄えばー良かった〜」と台詞をいうのと、見ないでいうのとは全然違う。

同じく、そのアナウンサーは沖縄戦を勉強せず、その悲劇を伝えようという気持ちもなく、お仕事としてナレーションを読んでいると思える。もし、そんな思いがあったとしても、そんな気持ちを抑えて、いつもの仕事として原稿を読んだ。それでは悲しみは伝わらない。いや、伝えようとしていないのだろう。

あと、製作スタッフにもその種の気持ちは薄かったのではないか? これはアナウンサーほど顕著に出ないが、映画を見ていても、その企画がやりたくて担当した監督と、依頼を受けて嫌々やった監督とでは画面から伝わるものが全然違う。その点も番組から史実しか伝わらない背景になっていると思う。

他にもいくつか理由はあるだろう。そこを考えて、同じようにならない対策と方法論。持たなければ!



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「サイコ」の前日譚を描くドラマ「ベイツモーテル」を見ている=アメリカの連続ドラマのルーツを考える。 [映画&ドラマ感想]

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「サイコ」の前日譚を描くドラマ「ベイツモーテル」を見ている=アメリカの連続ドラマのルーツを考える。

「WD」シーズン9前半も観てしまい、今は「ベイツモーテル」に戻った。名作「サイコ」をベースにしながら、時代設定は現代?という不思議。あと、過去の古い古い名作をベースにするあたり、アメリカのドラマもネタ切れか?(「ウエストワールド」も過去の映画のドラマ化、「HEROES」の新シリーズ、「プリズンブレイク」の新シリーズと、その手のものが多い!)

と思いつつ。最近のアメリカドラマはよく出来ていて、見出すと止まらなくなる。「ベイツモーテル」も一癖も二癖もあるキャラが出てきて(主人公のノーマンが一番まとも!という皮肉=のちに彼は殺人鬼になるのに。でも、そこがテーマかも?)あれこれ怪事件が起きて、どーなるの?どーなるの? で「つづく」。次回も見てしまう。

酸素吸入の女子高生がなかなかのキャラ。ストーリー展開も「えーー」ということがあり、第5話まで見た。現在はシーズン3まであるようで、長期化するドラマはたいてい面白い。そしてこのシリーズの魅力? はヒーローが出てこないことかも?「WD」のリックや「プリズンブレイク」のマイケル。「24」のジャックのようなキャラはいない。皆、怪しい人ばかり。

しかし、思い出すのは70年のアメリカドラマはほとんど1話完結だったこと。「チャーリーズ・エンジェル」「ロックフォードの事件メモ」「スタスキー&ハッチ」「刑事コジャック」「スペース1999」刑事ものが多かったが、皆、60分で完結。長くても前後編。「バイオニック・ジェミー」の「フェンボット」シリーズでは前中後編という大作もあったが、たいていは1話完結。

その当時の日本はというと、山口百恵の「赤い」シリーズを始め、連続ドラマが多かった。NHKの大河ドラマも「朝ドラ」=「朝の連続小説」も続きものだし「どてらい男」なんて、何年にも渡るロングドラマだった。山田太一、倉本聰のドラマも連続もの。向田邦子もそう。日本ドラマの主流派は連続ものだった。なのにアメリカは1話完結。

それが2000年代に入り「24」「プリズンブレイク」の大ヒットあたりから、猫も杓子も連ドラになった。が、もし今、1話完結のドラマがあっても、真剣には見れないだろう。何が違うか?というと、例えば日本の「必殺!」シリーズ。あれは1話完結ではあるが、最終回では毎回、何人かの仕事人が死んで行く。

そこで悲しみや感動ドラマが生まれる。「今回も主水は生き残ったなあ」「秀さんはどこに行くのだろう?」「茜の左源太は死んじゃったんだ...」と感動や悲しみがあり色々考える。が、アメリカの1話完結ものは、それがない。レギュラー陣はまず死なない。「刑事コロンボ」の最終回でカミさんが殺されて、復讐を誓うコロンボ...なんて話はない。

「チャーリーズエンジェル」でサブリナが敵のスパイだった!という展開もない。「刑事コジャック」でスタブロス(主演のテリーサバラスの弟が演じた)が殉職するなんて話もない。そんな展開をさせるには連続ものでなくてはならない。「24」なんて、誰が敵で味方か?分からないからこそ面白いし、「WD」は、「えーーあの人がーー」という人気キャラが死んでしまうから悲しい。

アメリカではそんなことで日本が70年代にやっていたスタイルが今、主流となっている。てことはアメリカがパクった? いえいえ、本家はやはりアメリカです。1960年代に大人気だった「逃亡者」デビッド・ジャンセン主演の。原作は実は「レミゼラブル」。これは基本1話完結だが、主人公が片腕の男を追って旅するという長い物語。

そして1980年代の「ダラスー華麗なる悪の一族」も、基本、連続ものだ。ラリーバグマンが演じたJRの悪どさが人気。彼を撃った犯人は誰か?で全米が盛り上がった。90年代の「ツインピークス」も連続もの。そして、1940年代のクリフハンガー・ムービーこそが、連続ものの原点。それをスピルバーグが再現したのが「レイダース」である。

映画館で上映する映画なのに「果たして主人公の運命やいかに?」で終わる。続きは次週上映というスタイルの映画。それを今のアメリカのドラマは引き継いでいるのである。

実はそのスタイルをテレビに持ち込んだのは「ルーツ」等のミニシリーズではないか?と思う。「ホロコースト」「戦争の嵐」「マネーチェンジャーズ」「プアマン・リッチマン」最近では「パシフィック」

そんな話を始めると、延々と書いてしまうので、今回はここまで。今夜も「ベイツモーテル」を見る。


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