「朝日のあたる家」の撮影は6年前の今頃だった「原発映画を作ったら、2度と仕事が来なくなる!」と言われたこと思いだす [編集作業]
原発事故を描いた映画「朝日のあたる家」の撮影は6年前の今頃だった。
「原発映画を作ったら、2度と仕事が来なくなる!」
映画界ではそう言われていた。先輩たちからも何度も止められた。でも、個人的に興味を持ち調べ始めた原発事故。そこで苦しむ福島の人たちのことを知り、原発の危険を知ったことで何かしなければ!と思った。
僕ができること。大したことはできない。知名度もない。金もない。発信もできない。いろいろ考えて、映画で原発事故の悲しみを伝えることならできると思えた。同時に恐怖も感じた、
「どこの誰か分からない奴が圧力をかけてくるかもしれない、殺されるかもしれない。怖い。危険な映画はやめた方がいいか?」
そうも考えたが、そうするなら僕は今後「表現」の仕事はしてはいけないと思えた。表現者失格であり、人間失格。見て見ぬ振りをして「幸せとは何か?」と言う映画を作っても、それは観客には伝わらないだろう。「なぜ、あの時、原発事故の映画を作らなかった。まだ、受けてもいないバッシングや圧力を恐れて諦めるべきではなかった」と一生、後悔すると思えた。
どうしても人は安定を望み、組織は安泰を図る。しかし、「表現」の仕事をするものが「真実」や「歴史」を都合よく改ざん、捏造したり、目の前にある危険や不幸から目を逸らすのは絶対にやってはいけないこと。そう思い映画製作をスタート。山本太郎さんも賛同してくれて出演。多くの人の支援と強力を得て静岡県の湖西市を舞台に映画を完成させた。奇しくもクランクアップが3月11日。
当初、多くの映画館から上映拒否を受け、お蔵入りかとも思われたが、いくつかのマスコミが応援。記事にしてくれて、日本各地の映画館から「だったら、うちでやりましょう!」と言う声がどんどん届き、最終的には25館で公開することができた。いずれの映画館でも大ヒット。東京では5ヶ月ほどロングラン。その年、最大のヒットとなった映画館もある。
言われていた圧力。ゼロと言っていいほどなかった。電力会社からクレームが来ることも、怪しい奴に尾行されることもなく、映画の世界で村八分にされたりすることもなかった。それどころか、その後、2本の劇場用映画を監督。仕事はむしろ順調になる。
つまり「原発映画を監督したら2度と映画は撮れない」と言うのは「そうなるんじゃないの〜」と不安で誰かが言った言葉が一人歩きしていただけで、事実ではなかったのだ。根も葉もない噂。まさに杞憂。それを多くの映画人が真に受けて、避けまくる。勝手に原発映画はヤバイと思い込んでいただけ。
それどころか僕の「朝日のあたる家」が完成する前に、ヒットメーカーである園子温監督も原発事故題材の映画を先に完成させて公開。そして「朝日」の後にも次々に同種の映画が作られた。思ったのは、多くの人が勝手に自粛していたと言うこと。言い方を変えると「忖度」していたのではないか? 原発ムラは巨大。大手企業が中心だ。当然、圧力がかかる。だから、手を出さない方がいい。
人の心理としては分かる。しかし、表現者やマスコミがそれではダメ。自分たちの仕事は何なのか? 広報なのか? 報道なのか? 政府や企業に都合のいい情報を流すことか? 真実を伝えることか? 表現も同じだ。マスコミが報道できないことも芸術の世界では伝えることができる。考えることができる。それが映画であり、音楽であり、漫画であり、小説であり、演劇であり、作品なのだ。
そして「真実」や「歴史」。そして「幸せ」や「不幸」を語ると言うのは、自らが傷つくかも知れない戦い。「圧力があるかもしれないから、やめておこう」と言うのなら「表現」の仕事をするべきではない。
そんなことを考えながら6年前に撮影したこと。思いだす。その「朝日のあたる家」その後はDVDになり、TUTAYAでレンタルもされ、現在はプライムビデオのNETFLIXで配信中。明日、3月1日に終了。チャンスある人は見て欲しい。
昨日はもう、これぞ!「バタバタ」という日だった。 [編集作業]
昨日はもう、これぞ!「バタバタ」という日だった。
電話、メール、ネット、それらを駆使して調べ物。打ち合わせ。相談。予約。10人ほどを相手に何度も連絡を取り合う。同時に編集機と格闘。書き出しをするが、うまく行かず。その最中にも気になる箇所を見つけて直し。
沖縄戦とは別に頼まれていることがあり、そちらも期限が間近なので、対応。それもあれこれあって進まず、今日に持ち越し。パソコンは便利だがセッティングが大変。HDを繋いだり外したり、USBコードも何種類もあり、そのHDをつなぐためのものを探すところからスタート。押し入れからコードばかり入ったボックスを引っ張り出し、片っ端から試す。
昨日の作業。いくつかは片付けたが、いくつかは本日も引き続き作業。3月に入ると楽になるか?と思っていたが、逆。編集は自分のペースで進められるが、仕上げはいろんな人たちと打ち合わせ。共同作業。おまけに今回も多忙で第1線で活躍する人たちが参加してくれている。スケジュール合わせだけでも大変。
気遣いも必要だし、神経が切れそう!やはり、Pを1人入れるべきだったかなあ。でも、それで取材が1回減っていても辛い。次にドキュメンタリーの依頼があったときは、その辺も考えよう。バタバタになると、1人の作業が遅れると全部が遅れてしまう。こんなときにトラブルが起こると大変なことになるので、連絡。日時。場所の伝達も慎重にせねば。
本日はプロデュサー日か!? [編集作業]
本日はプロデュサー日か!?
あれここれ連絡や問い合わせが続き、編集作業ができない。まず、ナレーションを担当してもらう方が決まった。それはいずれご紹介。スタジオも目星をつけて交渉中。MA日も決めなければならない。ナレーターさんの都合、スポンサーの都合、音楽家さんの都合と、いろんな人の都合を合わせねばならない。
それから資料写真。まだほしいのが数枚ある。その問い合わせ。あと、作品内で登場する地図。作ってくださるアーティストさんと打合せ。あと、説明すると時間かかるのでいずれするが、あと3人にメールで頼みごと。諸々、3月に入ってからとは思っていたが、どんどん展開していくので、対応せねばならなくなった。
人はなぜ、知らないことを調べないで、勝手な想像で分かった気になるのか?=そんな人たちが今の政権を支えている? [MyOpinion]
人はなぜ、知らないことを調べないで、勝手な想像で分かった気になるのか?=そんな人たちが今の政権を支えている?
毎回、映像産業以外の会社や団体と仕事すると、思いもかけぬ誤解があり驚く。もちろん、彼らは映像製作を知らないのだから、知らない、分からないは仕方がない。ただ、知らないのに「これはこういうものだな!」とか「あれはこれに違いない!」と独自の想像で、決めつけることが多い。
例えばラーメン屋でラーメンを注文すれば10分15分でテーブルに届く。だが、あれは前の日からスープを仕込んであるから、その時間でできるのであり、1からスープを作る場合は十数時間から数日必要。それを
「遅い! 何でラーメン一つに、こんなに時間がかかる!」
と怒るようなものだ。料理でも、映画でも、小説でも、何かを作るのは時間がかかる。が、その制作現場を知らないと、まさか?何日も、何ヶ月も、何年もかかるとは想像すらできないのだろう。
かなり前だが、ドキュメンタリー製作依頼を受けた時、9割の取材が終わり、残り1割。その段階で一度、粗編集を見せるということになった。そうするとスポンサーはその粗編上映に社長、会長、来賓、専門家、評論家を招くと言い出した!?これは何か勘違いしているのではないか?と聞いてみると、
「一度、関係者に見せてお披露目したいんです」
何でそーなるの? 9割の取材が終わったと言っても編集はしてない。話をして3重に誤解があることが分かった。1つ目は
「9割を取材した。粗編集をする。あと1割を取る。編集をする。それを嵌め込めば完成」
と思ったのだ。まず間違っているのは「粗編集」というのは、文字通り「粗い」「編集」。正規の編集とは違い、素材を順番につないだだけのもの。撮影は作品で見せて行く順番通りには撮らない。だから、順番通りに映像を繋ぐことで、全体像を感じることができる。粗編はそのための初期的な編集。ただ繋いだだけ6時間ほどあった。それを通常の編集、あるいは本編集と思い込んだ。
前回の取材は1ヶ月ほど前。
その段階から撮影した9割のものを全て編集する時間などあるわけがない。編集は数ヶ月かかる。それを1ヶ月しか経っていないのに、9割の編集が終わると思ったららしい。もし、「編集には時間がかかる」ということを知っていれば、「1ヶ月に編集ができている」とは思わないし、「粗編集」の意味を知っていれば「本編集」ではないことが分かる。
でも、スポンサーを両方を知らず。さらに、「粗編集って通常の編集とが違うの?「という疑問も持たず。9割完成だ!と思い込んだのだ。聞いてみると誤解はさらに凄くて、
「9割分の映像には音楽やテロップ。ナレーションも入っていて、残り1割を嵌め込めば完成」
と思ったらしい。ということは残り1割を撮ったら、もう一度、音楽やテロップ。ナレーションを入れる作業をするために、再びスタジオを借りて、作業をすると思ったのか? 一度にやればそれなりの値段だが、あえて2回に分ければ値段は2倍になる。それは無駄というのも。さらに9割しかできていないものに、ナレーションや音楽を入れてどんな意味があるというのか?
聞いてみると、そこまで考えなかったという。
9割撮影して、粗編集すれば、9割完成!と単純に思ったらしい。それで会長、社長、来賓を集めて..試写会。それもおかしい。9割しかできてないものを皆に見せてどうするのか? 映画で言えば、クライマックスの撮影が終わっていないものを社のトップや外部に見せるようなもの。料理なら、まだ食べられない。煮込んでいる途中のものを社長に試食させるのと同じ。
9割で会社の重役、外部の関係者に見せるという発想自体が理解できない。それ以前に大きな勘違いがある。ドキュメンタリーの場合。9割撮影が終わったから、編集という訳にはいかない。
あとの1割で何が撮れるか?
どんな証言が得られるのか?分からない段階で、編集はできない。9割の段階で「この人の証言をクライマックスにしよう」と思っていても、残り1割でそれを超える感動的な証言が得られれば、それをクライマックスにする。
証言内容が重なれば、当初クライマックスに予定していた証言は全面カットということもあり得る。新しい素材が手に入ることで、全体の構成を変えなければならない事態もあり得る。だから、ドキュメンタリーの場合は全ての素材が揃ってから編集をする。
その前にとりあえず撮れた映像を企画時に考えた順番通りに並べてみようというのが「粗編集」なのだが、そこから先に説明した誤解が始まり、重鎮を集めた大々的な試写会まで計画してしまったのだ。
そもそも、ドキュメンタリー制作を理解していないことが問題。プラモデルで、9割を組み立てた。あと1割のパーツが手に入れば、それを組み込んで完成というのはあり得る。劇映画で9割撮影した。そこまでを編集し、残りを撮影してそこに入れ込む。これもまだ分かる。が、ドキュメンタリーとはそういうものではない。先に書いた通り。全ての素材を揃え、吟味して、まず、当初の予定のような構成でいけるか?考える。
当然、撮れなかったものもある。
この時は特に一番メインとなる方のインタビューが撮れなかった。だから、クライマックスを何にするか?どの証言を中心に編集するか?を考え直さなければならなかった。それを9割の段階で考えて編集しても、残り1割の映像次第で編集を1からやり直すこともあり得る。
取材が終わらない段階で9割分を編集するのは危険であり、無駄な時間を費やす可能性が高い。まして、その時は1ヶ月しか時間がなく、9割分の編集をし、音楽をつけて、ナレーションを入れているはずという想像は、制作サイドからして常識を超えたものだ。
なぜ、9割しかできていないものを、スタジオを借りて、音楽家に作曲。ナレーターにナレーションを入れてもらって、MAをする必要があるのか? 9割のお披露目をするのか? その発想が理解できない。何の意味があるのだろう? 業界の友人に話すと
「バカ過ぎて話にならない!
それは映像製作を知らないだけでなく、あまりにも常識がなさすぎる!」
と激怒していた。僕もいろんな業界の人と仕事をするが、そのスポンサーはずば抜けた勘違いがあった。担当者は間に立ち、頑張ってくれたから最後まで行けた。会社が映像製作を知らないのは分かる。が、常識的なことから説明せねばならないことも多く、腹わたが煮え返ることが何度もあった。
でも、そこから感じたこともある。人は自分のいる周りのことしか知らないし、知ろうとしない。勝手な想像で分かって気になる。聞きかじった情報を精査せずに信じてしまうのだ。
沖縄戦を勉強する前、僕自身もある意味で同じだった。全く知らないくせに「沖縄の人々は米軍に酷い目に遭わされた」と思い込んでいた。が、事実を調べると間違いではないが、その背景には日本政府の酷い方針があったこと。そして米軍だけではなく、日本軍にも人々は酷い目にあったことを知った。
基地問題も同じ。アメリカの傲慢さのために未だに基地がなくならず、新基地建設まで行われていると思っていた。が、そこに日本側の大きな思惑があり、実はアメリカより日本の一部の人たちのために基地が存続していることを知った。(これはいずれ詳しく書きます)それも知らず。
「アメリカ酷い」
と思っていた。人は知らないことを調べようともせずに、聞きかじった情報で思い込み。勝手な想像で理解した気になり怒ったり同情したり。そして問題が起こると「知らなかった。分からなかった。なぜ、教えてくれなかった!」というが、自分から調べ勉強しなかったことが原因とは思わない。
それが全ての原因なのだ。スポンサーも映像作品を作るのであれば、それなりの勉強は必要だし、勝手な想像をせず、ことあるごとに確認すべきなのだ。でも、それをしない。だからトラブル。
それは同時に日本人全体に言えること。
選挙前に「自民圧勝、確実」とニュースが流れれば「どうせ俺の1票なんて」と選挙に行かない。あの党に投票するのは毎回、全有権者の2割。たった2割だ。多くの人が勝手な思い込みで棄権することが、今の政府を間接的に支えているのだ。知ることの大切さ。知ろうとしないことの愚かさ。強く感じる。
春まで監禁状態。作業はまだまだ続く! [編集作業]
春まで監禁状態。作業はまだまだ続く!
昨日は外回り?打ち合わせのために東京の街を歩き回る。ここ数ヶ月、1日中編集。編集室に閉じこもるので、歩くことがあまりない。都内を何時間も歩くとヘトヘトになる。おまけに打ち合わせでは、あれこれ喋る。世間話でなく、様々な思いも伝えないと行けない。ギャラの交渉もする。精神的にも疲労困憊となる。
Pを雇えばよかったかなあ?とも思う。そうすれば編集に専念できた。が、そのギャランティで沖縄取材が1回減ることなっただろう。今回の作品のクオリティはスタッフを最小限にして、回数取材をしたことで成り立ったのだから、そこはそれでよかったのだ。
さて、ナレーション原稿もあと一息。編集終了の目標が28日なので。あと2日。どうにか間に合った。とは言え、28日で全て完了ではなく、一応、最後まで編集するという目標。何度も書くがそれで
「お疲れ様でした」「おめでとうございます」「完成ですね」
というコメントがよく来る。「ありがとうございます」というのも変だし、そうではないと説明するのも時間を取られる。1人がコメントすると、次々にその手の書き込みがある。本当に困る。
映像製作。映画製作というのは本当に理解されずらく、そのプロセスを知らない方が多い。特殊な業界なので、こちらが注意せねばならない。こちらはまだ作業が続くのにコメントどころか「編集が終わったとFacebookで読んだので」と頼みごとや何かの会へのお誘いを頂く。それでまた返答の時間が取られる。
悪意がない。頼みごと、お誘いの連絡だ。でも、それに返事する余裕がない。そんな風に誤解にもとずいて誰も悪くないのに時間を取られることがある。だから、詳しく書いておくと、正確には2月は編集に専念。3月に入るとそれ以外の作業が始まるということ。それは下旬まで続く。なので、関係者でない方は、春まで連絡をお待ちいただけると助かる。
「飲み会しましょう!」
という連絡はありがたいが、春以降でご一緒できると嬉しい。よろしくお願いします。
沖縄戦の編集。いよいよ最後の週ー思い出すのはバカなPが編集室に来た時のこと。 [編集作業]
沖縄戦の編集。いよいよ最後の週ー思い出すのはバカなPが編集室に来た時のこと。
作業は28日できっかり終わる訳ではなく、MAの前日まで作業は続ける。目安として28日としただけで、その日に完成というわけではない。できた!と思っても、数日後に見直すと、あーーということもある。毎日、編集していると気づかぬ問題点もある。その世界に入り込んでしまし客観的な視点をなくすこともある。そんな部分は時間が経たないと気づかない。あとで、大直しというのもある。
編集作業はかなり出来てきたので、本日からは各カットをチェック。カットの入れ替えを行う。当初はまず進めることが大事なので、「海」の映像でも、とりあえず見つけた海を入れて置いたりする。が、全体が出来上がってくると、もっと「広い海」がいいかな?とか、「曇り空の海がいいな!」とか、見えてくるので、それを探す。
膨大な映像があるので、そこから「海」一つを探すだけでも30分、1時間ということがある。なので初期段階では「とりあえずの海」にしておく。なのに、昔はPが途中で映像を見たがって、「この海、違うんじゃないの〜?」とか言い出すのでムカつく。
「後で入れ替えるの!」
というと、冷笑して「本当は気づいてなかったんだろ? 俺が言わないと気づかなかったくせに...」という得意顔。だが、それを替えるだけで1時間かけるなら、作業を少しでも進めた方がいい。その方が全体像が早く見えるし、締め切りまでの段取りも分かる。編集をしたことのない人はそれが分からない。今、ある映像が全てだと思い込む。
「まだ、途中ですよ」
といっても、分からない。
「テロップ入れないの? これじゃ分からないだろ?」
とか口を出す。テロップは最後!! そんなことも分からない。分からないのだから、「テロップはどうするんです?」と聞けばいいのに「入れないと分からないだろ?」とこちらが忘れているかのような言い方をするのでまた腹が立つ。
そんな輩を相手に「これはこうなる。後でこうする」と説明するだけでも時間を取られ、ムカつくだけ。結局、その日は集中できず作業中止ということになる。バカに時間を取られただけ。Pが邪魔しに来たようなものだ。その種の連中は「自分が無知。不勉強であることに気づかず。順番を無視して先の作業ができてないというようなことを言いがち。編集段階で
「色がおかしいんだよなあ〜」
とかよく言う奴がいるが、それは最後の最後にカラコレという作業がある。そんなことも知らずに
「この色。鮮明じゃないなあ。安物のカメラ使っだろう? 撮り直したら?」
とか言い出す。説明すると
「先に言ってくれないと分からないじゃないか?」
とくる。こちらは彼がどこまで無知か?は分からない。知らないなら教えてもらうという態度で来い!
と結局、激怒して、数日間は作業が手に着かずということもあった。pというのは無知な奴が多く、編集に関しては特に不勉強なことが多く、問題を起こす。だから、見せない。見せると問題が起こる。そんなことを思い出しながら、カットの入れ替えをする。
たった1つの「海」という映像でも、8回ほど沖縄に行っているので、その時のいつの海というのを記憶で辿る。膨大な量なので、覚えていないものもある。映像を1から見直して探すこともある。そうなると、1時間では見つからない。2時間、3時間見て、最後の1巻にいい海!があったりする。たった5秒ほどの映像を探すだけで、そんな苦労がある。
昔はディゾルブは本編集でしかできなかったが、ノンリニア編集が普及。FINAL CUTを使うようになってからは、編集作業中にできるのでありがたい。そんなディゾルブの直しも現在、行っている。2秒のダブりか、3秒か? 1秒の差で印象が変わる。
それを編集続行中にやると、リズムが崩れる。とりあえずは進めて、細部はあとというのが基本。まあ、Pというのはそんな時に「細部ができてませんね?」と言い出したりするので、殴りたくなる。
あと、これまでは短くすることを頭に置いてやってきた。僕の劇映画はいつも2時間超えだが、ドキュメントは2時間以内にしたいと思った。1度、2時間10分まで縮めたが、これ以上無理?だが、そこからさらに作業して今は2時間内。でも、今度は短くしすぎた感がある。短くても説明不足はダメ。ということで、そこも直していく。
日本は大きな田舎③ 田舎の習慣=悪辣な政権を止められないのも同じ。どうすれば皆で「違う!」と言えることができるのか? [MyOpinion]
日本は大きな田舎③ 田舎の習慣=悪辣な政権を止められないのも同じ。どうすれば皆で「違う!」と言えることができるのか?
次第に見えてくるものがあるので書く。多分、先に書いた記事を田舎で育った友人たちなら
「何を今更、田舎はそういうもんだよ!」
というかもしれない。なので、僕も後輩たちと同じように地方で仕事をする時に戸惑うことがある。ま、彼らほど純粋ではないので、シビアな対応もして、批判され嫌われることもある。そう言えばFacebookでも共通するものがあった。
Facebookは田舎のコミュニティという記事を書いたことがある。都会の1人暮らし。1日誰とも話さないで仕事する人も多い。そんな時、Facebookで「いいね」をもらうと嬉しい。
「ランチ。美味しそうだね」
とコメントが来ると微笑んでしまう。それは田舎暮らしと同じ。都会では誰も声をかけてくれないが、田舎なら近所の人が話しかけてくる。淋しくならない。
だが、近所に住んでいるというだけで、よく知らない大人たちが
「学校は面白いか?」「大学はどこに行くんだ」
とも訊いてくる。大きなお世話だ!と僕なんかは思うが、それが田舎のいいところ。都会では倒れていても知らん顔されることがある。部屋で死んでいても誰も気づかない。けど、田舎暮らしは
「就職は?」「結婚は?」「子供は?」
とプライベートに踏み込まれることが多い。どちらが幸せか?という記事を書いた。「日本は大きな田舎」説のそれらが表裏なのだ。何も言わなくてもあれこれ聞いてくる。でも、問題を起こすと、皆、知らん顔をして、見て見ぬ振り。新しいことはしない。しない方がいい。特別なことをしない。皆と同じ生活する。それが地方でトラブルを起こさずに生活する知恵なのだ。
それまさに日本人。少し前の日本。何かが流行すると皆、それを買いに行く。
ダッコちゃん。コンバースのスニーカー。
ヘブンのTシャツ。セーラーズの衣装。
みんなと同じ! 今のファンションはそれほど横並びではないが、変わったことをすると、クラスではイジメの対象となる。これって村で人と違ったことをして、嫌われるのと同じではないか?
横並び、問題を起こさない。新しいことをしない。皆と同じ。問題を起こしても批判しない。見て見ぬ振りをする。前回までにあげたこと。多くの日本人に当てはまる。原発で事故が起きても、内心危険だと思っていても批判しない。推進派の顔色を伺う。福島で大変な思いをしている人がいても、知らん顔。知らない振りする。沖縄が基地で困っていても、知ろうとしない。触れないようにする。
前回までに挙げた地方での行動が、日本全土に当てはめてもハマることに気づく。政治家が暴走しても、批判しない。知らない振りする。知ろうとしない。ただ、原発でも、政府批判でも、都会ではそれなりの人が行動する。反対しデモする。それは都会生活は周りを気にせずに暮らせるから、いけないものはいけないと言える背景があるからだろう。田舎に行くと、デモといっても20人しか集まらないというのは人口のせいだけではなく、
「批判する」「反対する」
ということを日頃から避けているからだろう。小さな村で、農業をして自給自足できれば、昔々なら、そんな習慣で生きていけただろう。でも、過疎化。経済難。様々な困難が地方を襲っている。地方の時代と長年言われながら、今だに主役は都会だ。それは地方の習慣やルールが時代からズレているからではないか?
日本の政治が停滞(いや、混迷)しているのも田舎のルールでやっているからではないか? 狭い世界では仲良くしないと暮らし辛い。問題が起きても見て見ぬ振り。新しいことをして目立たなうようにしていて、改革や革新はできない。必ず反対する人が出てくる。それを押しやってどう進めていくか?が鍵なのに、過去の習慣やルールから逃れられない。
それが地方の状態、日本の政権ではないか?
政権に関して言えば、今は周りのことを考えずに暴走している。弱いものを踏みにじり、一部のものだけが豊かになる道を進んでいる。にも関わらず、国民の方が田舎の習慣から抜け出せず。悪事を知りながら見て見ぬ振り。知らない振り。批判せず。我慢を続ける。先に書いた頑張る監督を批判し、ギャラを払わないという土建屋のオヤジを誰も批判できないのと同じ構図だ。先の件でも、地元の誰かが
「映画作ってくれたんだから、ギャラ払おうよ」
と言えばいい。それに多くが賛同すればいい。オヤジも考えるはずだ。政権だって同じ。なのに多くが黙ってしまう。それこそが田舎の発想であり、習慣。我々を今も縛っている。では、どうすれば日本人は田舎者から脱皮できるのだろう? そんなこと考えてしまう。
日本は大きな田舎② 別の思い出から検証する=町のプラスより顔を潰さぬこと? [MyOpinion]
日本は大きな田舎② 別の思い出から検証する=町のプラスより顔役の顔を潰さぬことが大事?
日本という国は大きな田舎説で思い出したことがある。田舎説はもともと感じてはいたことだが、そのメカニズムを論理的に説明しづらいものがあり、あれこれ考えたいたが、友人の経験談と映画「セルピコ」を対比することで、それを明確に把握できるような気がした。さらに、もう1歩進めるために、思い出した件がある。
彼は40代。フィルムコミッションの中心メンバー。故郷愛もあり、金銭のためでなく、地元のために頑張っている。ご存知の通り、フィルムコミッションとは映画撮影のお手伝いをするノンプフォフィットの組織。手数料は取らない。エキストラ集め、ロケハン協力等をすることで、映画撮影を誘致。町のPRに繋げようとする団体。現在は日本各地にある。
ただ、多くは自治体の観光課職員が兼任していることが多く、本来の仕事があるために、職員が面倒臭がり、依頼があっても断ったり、他の団体に振ったりして機能していないところも多い。市長のトップダウンでフィルコミはできたものの。やる気ゼロで、せっかくの撮影依頼を不意にしてしまう地域もある。そんな中、C君は地道に実績を作りつつ頑張っていた。
そんな彼と後輩監督が仕事をした。しかし、後輩はため息交じりでこんな話をする。
「最初、C君の印象は良かった。若いし、やる気あるし、頭もいいし、故郷愛もある。評判通りだと思った。それが、撮影準備でトラブルが起こって、地元の方との問題なんだけど...色々あって...」
要約すると、そのトラブルをC君がなんとかすると言ってくれたのだけど、何の報告もない。まだ揉めているのかな?と聞きづらかったと後輩はいう。監督は作品に専念すべきで、あれこれ制作的なことは他に任せることも大事。でも、C君から何ら報告はない。心配で聞いてみたが、はっきりと答えない。どうも、1度、当事者とは話したがそれっきりのようだった。
で、気づいたのはC君は若くてやる気はあるけど、トラブル収集が苦手のようで、問題が起きると、自分で抱え込んでしまい、何もせずに黙ってしまう。聞かれても「まだ、ちょっと」とか報告せず。皆が忘れるのを待つようなところがあった。結局、問題は解決せず。迷惑がかかった当事者は怒ったまま。
でも、C君は若いし、年上のおじさんたちに厳しく言えないところがあるようだった。後輩は分からないではないと思ったが、また似たような問題が起こる。今度はC君。その人を庇う。その原因を追求せず「僕から話します」と言うだけ。
その後、何の報告もして来ない。聞かないとその件に触れない。後輩監督が怒る。「期待していたのに!」この時、後輩はC君がトラブル解決能力が低いのだと思ったらしい。が、今、その話を思い起こしてみると、そして先の「日本人は田舎者」論で考えると、彼も揉めたくなかったのではないか?
だから一度話してダメなら封印。相手を責めたり追求したりしない。自分が抱え込み、皆が忘れるのを待つ。迷惑がかかった方にも何も言わない。だから解決もしない。皆が忘れて何事もなかったように仲良くする。自分が何とかするといい、誰も行動させないことでトラブルを大きくしない。それが彼の方法論なのだ。
後輩は怒っていたが、分かる部分もある。田舎で問題を起こした人を誰も責めないのは、今後も同じ町で付き合っていかねばならないから。C君も同じ発想なのだ。狭い田舎で育ったので、そんな手法を知らず知らずに学んだ。でも、彼が少し違うのは、先の人たちと違って、知らない振りをするのではなく、相手と話す。
相手が納得すれば解決。でなければそのまま封印。それは少し努力していると言える。その町でできる限界なのかもしれない。狭い社会ではそのくらいしか出来ない。年配の実力者に睨まれたり嫌われたりしたくない。封印しても、皆、察してくれて「どうなった?」とは訊かない。そして忘れてくれる。ただ、それでは新しいことはできない。トラブルのたびに封印しては前へ進むことは難しい。
だから地方では新しいことがなかなかできない。そんな中でC君は彼なりに頑張っているということだろう。批判は簡単だが、フィルコミで街を活性化したい気持ちは本当なのだ。でも、田舎ではそんな方法を取らざるを得ないのだ。
地方の友人に聞いた話だが、彼の村には長老が3人いる。皆、仲が悪い。何かをする時、3人の顔を潰してはいけない。村のためになることをするより、3人の顔を潰さないことが大事。なるほど、C君の手法は有効だ。地域社会が閉鎖的になり、都会から遅れていく背景なのだろう。その後、後輩は町の人に言われた。
「C君とうまく行ってないんだって? ダメだよ。仲良くしなきゃ!」
後輩はかなり厳しい進言をしたらしい。でも、それは映画を進めるため、より良い作品にするため。なのに仲良くしていないと解釈されたようだ。
「地元の人から見て、映画ができて町がPRされるより、仲良くやること。皆の顔を立てること。問題を起こす人がいても見て見ぬ振りをすることが大事なんだろう」
そう感じたという。仲良くするーという聞こえはいいが、町のプラスより、揉めない。顔を潰さないということなのだ。
この構図。少し前の自民党と同じだ。国民のためになる政治より、実力者たちの顔を潰さないこと。顔を立てること。会社でも派閥があり、それぞれへの根回しが大事だったりする。会社の利益より、顔を潰さないこと。どちらの世界も結局、誰のための政治であり、ビジネスなのか?と思える。
しかし、政治も会社もそんなことをやってられないほど、ヤバい状況になっている。生き残りを賭けて、エゲツない生存競争をしている。それがいいかどうかは別にして、地方ではそんな今でも、揉めないこと。仲良くやることを大事にし、結局、そこから前に出れない状態が存在するのだ。いろんな面で。そんなことを考えている。
日本は大きな田舎① 田舎者根性がこの国をダメにしてはいないか? [MyOpinion]
後輩監督のB君。僕と同じように地方で映画を撮る事が多い。そんな彼もこんなトラブルに遭った。映画完成後、地元がギャラが払わない。理由は同じ。
「俺たちはボランティアでやったのに、お前だけなんで金をもらう。金のためにやっているのか?」
そう言われたそうだ。事情は同じ。頑張れば頑張るほど「B君はいい人」だと思われた。監督料を要求すると「失望した!」とい言われた。しかし、そう言うのはリーダーの土建屋オヤジだけで、あとのメンバーは「監督はよくやった。ギャラを払うのは当然だ」と思っていたらしい。ただ、誰も、その場でオヤジには言わなかった。B君は言う。
「会議では皆、黙ったまま。僕が1人。オヤジに怒鳴られて、ーお前には失望した!ーと罵倒されて。でも、誰も弁護してくれない。皆、下を向いたまま。その後も声をかけてもくれない」
B君は思い出す。こんな事件もあったそうだ。撮影前の準備で問題が起きた。ある人が無責任でやるべきことをやらなかった。映画は小さなことから大きな事件になることがある。プロジェクト自体が崩壊することだってある。遊びではない。だのに地元の人は誰も注意しない。だから、B君があえてそのメンバーに厳しく言った。すると他のメンバーが彼を庇う。
「可愛そうだ」「彼も一生懸命だ」「そこまで言う必要はない」
おかしい。と、B君は感じた。
「事件を起こしたのは彼だ。その彼を誰も注意せず、注意した自分を批判する。どう言う人たちだ?」
けど、それ以外では皆、頑張っていたし、B君を支持、応援してくれていた。僕も似たような経験もあった。地方出身の友人に意見を聞いた。
「いかにも田舎である話だね。その人たち監督はよくやったと思っている。オヤジの勝手な思い込みだ。そう思っているはず。でも、反論しない。批判もしない。
問題を起こした奴を庇うのも同じ。つまり、ギャラを払わないと言うオヤジ&問題を起こしたメンバー。に対して何も言わない。沈黙。あるいは庇う。つまり田舎というのは問題を起こした奴を庇い、その問題を公にしたものを攻撃するのさ」
おかしいな話だ。いい大人が非常識。でも、友人はいう。
「被害者が事件を公にするからトラブルになる。お前が黙っていれば問題はないって考えるんだ。秩序を乱すな。静寂を破るなってことかな?」
なんじゃそれ!と思うが、地方は狭い世界だ。多くが顔見知り。今後も長く生活せねばならない。トラブルを避け、平穏に過ごそうとする。だから、問題があっても知らん顔する。解決したり、責任を追及すると揉め事になるからだ。恨まれたりする。恨んだりもする。
この先、同じ町で何十年も嫌な思いをして過ごす。その人が黙っていればトラブルは発覚しない。言い出したから揉める。だから、その人が悪いーという感覚。だから、ギャラを払わないというオヤジがいても、反論して、B君を庇って、彼と対立したくない。今後も地域で付き合っていく。問題起こすメンバーがいても、注意しない。それを注意したから地元のトラブルになる。注意しない方がいい。
いい悪いではなく騒ぎを起こした奴が悪い。そして、できるだけ関わらないようにする。知らん顔する。それが地域社会の世渡りルールなのだ。
昔「セルピコ」という刑事映画があった。アル・パチーノ主演。シドニー・ルメットが監督。ニューヨーク市警の腐敗を訴えた刑事セルピコの物語。賄賂漬けになっていた警察署。犯罪を見逃す。マフィアの手先になりショバ代を取りに行く。麻薬の密売。そんな中、1人だけ賄賂を受け取らなかったのが刑事セルピコ。でも、仲間の不正を告発はしない。見て見ぬ振りをしていた。
先の地方の構図と近いものがある。悪いのは分かっている。それに加担はしたくない。でも、注意はしない。改善しようともしない。波風を起こさずにいたい。トラブルや事件を見て見ぬ振り。セルピコは狭い警察署という世界で生きている。余計なことをすると周りが全て敵になる。村八分にされる。だから何もしない。ここも同じ。
しかし、セルピコは決意して、悪事を告発する。それから同僚警官たちから敵対され、命の危険にさらされるという展開なのだが、地域社会でも同じことになるはずだ。B君が映画を撮った町。腐敗している訳ではないが、誰かがトラブルを起こしても、問題を起こしても、見て見ぬ振りをするのは、やはり狭い世界で顔突き合わせてやっていかないとならないからだ。
ただ、気の毒のはB君。熱い男で「この街で死んでもいい!」と思って頑張っていた。「いい人ばかりだし、街も美しい。引退したらこの街で暮らそうとさえ考えた」という。でも、その事件後も、
「B君はあんなに頑張ったんだから、ギャラ払わないなんて酷いよね」
という人はいなかった。誰もが無言だったことがショックだったという。彼は都会育ち。田舎のその種の習慣に馴染みがない。裏切れた気持ちになった。多くのメンバーは彼に感謝していたが、最後まで口にしなかったという。土建屋オヤジと揉めたくなかったかららしい。真面目なB君は
「街は美しいが、市民は信用できない。もう、あの町で映画を撮ることはないです.....」
話はここで終わりではない。僕が興味を持ったのはこの後。この街の人たちの考え方は特別ではない。それは日本全体、日本人全体と共通すると言えるのではないか? 福島で原発事故。多くの人が「気の毒」と思うが、ほとんどは何もしない。何も言わない。沖縄の基地問題。「大変だね」と感じるが、多くが何もしない。知ろうともしない。
もちろん、原発に反対してデモする人たちもいる。沖縄まで座り込みに行く人たちもいる。でも、極々一部。ほとんどは沖縄の実状も知らず。福島の悲劇を知りながら、原発反対と声に出さない。政府に不満を持ちながら、政治家たちが不正をしているのを知りながら、選挙には行かない。知らない振り。解決しよう。原因を探ろうとはしない。
政治家の問題報道より芸能人のスキャンダルを知りたがる。先に紹介した田舎の人々と同じではないか? 狭い地域での話ではなく、日本全体の話だ。ただ、日本も狭い。日本というのは大きな田舎社会なのかもしれない。だから、皆、見て見ぬ振り。事実を告げると「デマ」「偏向報道」と批判する。やはり同じではないか?