正月も「沖縄戦」の編集作業を続ける! [2019]
「沖縄戦ドキュメンタリー」編集中。学校の授業では教えてくれない沖繩戦の真実を....。 [編集作業]
高倉健を評価するハリウッドの映画人たち。ドキュメンタリー「健さん」を見た。 [映画業界物語]
高倉健を評価するハリウッドの映画人たち。ドキュメンタリー「健さん」を見た。
夜中まで作業したので、そのあとはNetflixで「ストレンジャーシングス」のシーズン2を見ようと思ったが、画面に表示される「お勧め映画」の中に、高倉健のドキュメンタリーがあった。公開時に気になっていたが、知らぬ間に終了。Netflixは全ての作品がタダで観れるので(月額では払っているけど)今夜はこれにした。
著名人を中心に健さんの想い出を語る構成。「単騎、千里を走る」の共演者である中国人俳優が日本で健さん所縁の地を訪ねるのを柱としている。マーティン・スコッセッシとも交流があったことにまず驚く。考えると、「ザ・ヤクザ」の脚本はポール・シュレイダーだ。彼は「タクシードライバー」の脚本も書いている。
スコッセッシは健さんと仕事することを願っていて、「沈黙」にも出演依頼をしたそうだ。実現していれば〜と残念に思う。というのも、健さんが出ている「ブラックレイン」をL Aのチャイニーズシアターで見ている。同映画の日本ロケ時のスタッフルームも訪ねている。映画館では上映終了時に拍手が起きた。健さんを含む日本人俳優陣への賞賛にも思えた。
当時、アメリカではトシロー・ミフネしか知られておらず、日本人として少し寂しい思いをしていた。高倉健だって、アメリカに通用するんじゃないかな?と思えていただけに「ブラックレイン」はうれしい映画だった。そのあとに日本ロケの「ミスターベースボール」が作られ、健さんは再び出演。
だが、それから20年以上、彼はアメリカ映画に出ていない。日本人が出演する企画がないのか?と思ったが、いろいろとオファーはあったこと。そのドキュメンタリーを見て知る。「ベストキッド」のミヤギ役も健さんに依頼があったそうだ。が、これも断った。「MISHIMA」の三島由紀夫役も依頼されていた(これもLAの映画館で見た)
結局、同じケンだが、緒形拳が三島を演じた。きっと、他にもあれこれオファーがあったに違いない。が、皆、断ってしまい「ミスターベースボール」が最後のアメリカ映画出演。とても惜しい気がする。
僕もアメリカ生活が長かっただけに、日本人がハリウッドで戦うことの大変さは感じる。それでも高倉健なら十分に通用するのでは?と思えていただけに、そのドキュメンタリーを見て多くのハリウッド監督や俳優たちが彼を評価していたこと。嬉しく思った。が、やはり作品が少ないので一般のアメリカ人は彼の存在を知らない。
現在では同じケンだが、渡辺謙がアメリカで有名。真田広之も活躍している。真田の師匠である千葉真一もハリウッド進出をし、もう10年以上になるが「キルビル」以降出演作がない。対する弟子の真田は「ラストサムライ」「ウルヴァリン」「ラッシュアワー3」「スピードレーサー」「ジョン・ウィック3」と大活躍。
個性や実力だけで成功する世界ではないこと。あらためて感じる。ハリウッドだけでなく、日本でも同じ。実力があった上に運があり、チャンスが必要。それが映画界なのだろう。
沖縄の悲しみをどうすれば、自分のこととして考えてもらえるのだろう? [編集作業]
沖縄の悲しみをどうすれば、自分のこととして考えてもらえるのだろう?
人はなぜ他人の痛みが理解できないのか? 人の悲しみを体感できないのか? 福島の原発事故で痛感した。と言う僕も最初はテレビ報道を信じて、放射能は出ていない(本当は東京にも降り注いでいた!)大きな被害は出ていない。避難した人もいない。大変なのは震災の方だ。と思い込んでいた。
ところが、後になって何万人ものが避難し、家に帰れない人が多いことを知る。だが、それらが報道されるようになっても、多くの人はこういう。
「福島の人たち、気の毒ね〜」
他人事だ。そもそも福島になぜ?原発が作られたか? 東京の電力を賄うためである。東京に作ると危険なので福島に作った。それが事故。東京都民の代わりに福島県民が被害を被った形だ。
それを「気の毒ね〜」「寄り添いたい」と言う東京の人たち。本来なら、都民がえらい事になっていたのだ。それを知らないのは分かる。だが、原発事故の報道を見ても、多くの日本人は「可哀想ねえ〜」と他人事。最近では「もう、事故は終息して、みんな福島に帰ったって聞いているけど。被害が大したことなくて良かったよね?」と言う人もいるようだ。原発事故は終わっていない。
「セシュウムの半減期は30年だぞ!」
と叫びたくなる。事故からはまだ8年。福島にはまだまだ放射性物質がばら撒かれたまま。そこで多くの人たちが生活している。(福島だけではない。報道されないが、その周辺の町も同じ。東京、埼玉に一部も汚染されている)報道されないことは、よほど興味を持って調べないと分からないが、報道されても「気の毒ね〜」で終わる人が多いのはなぜか?
なぜ、人の悲しみが体感できないのか? ひとつには経験値だ。学生時代、友人が貸した金をなかなか返さなかったことがある。1万円だったが、当時の僕には大金(今でもそうだが)だった。それを別の友人が聞いて
「せこい!1万円くらいでガタガタ言うな。心が狭いね〜」
と言われた。その後、その友人が貸した5千円が戻って来ないことがあったので、「5千円くらい!」と言ってやったら真剣に怒り、
「貸した金返すのは当たり前だろ!」
と言われた。友人は極端なところもあるが、他人の痛みは分からないが、自分の痛みは取り乱して怒る。それが人というものかもしれない。では、そんな人たちに、どうすれば他人の痛みを伝えられるのか? 感じてもらえるのか? 考えた。それが映画作家の仕事なのだ。悲しみを、苦しみを、感じてもらうことで、そこから問題解決を一緒に考えていける。それが分からないからこそ、
「気の毒ね〜」「寄り添いたいね」
と上から目線で、他人事として捉えてしまうのだ。「朝日のあたる家」を作るときに考えた。どうすれば福島の人たちの悲しみが伝わるか? 報道でいくら惨状を伝えても、「気の毒だね〜」としか思わない。いろいろ考えて、やはり「報道」というのは「情報」でしかないこと。それでは他人事で終わる。
対して映画は「体験」だ。恋愛映画では自分が主人公になり恋をする。アクション映画では自分がヒーローになり活躍する。その意味で原発事故もドキュメンタリーではなく、物語=劇映画にすべき!と思い「朝日のあたる家」を作った。まあ、これでもか!という位に友人知人、先輩から反対されたが、そのことは以前に書いたので省略。映画を見て多くの方から
「ようやく福島の人たちの思いが分かりました...」
と言われた。批難した方々から「自分たちの気持ち。伝えることができなかったので、嬉しかったです」と言ってもらえた。そして、今回は沖縄戦だ。沖縄戦だけに留まらず、基地問題、沖縄の問題は福島の原発事故と同じ構図だ。
オスプレイの事故が報道されると、テレビを見ている人は「沖縄の人たち気の毒ね〜」と思う。でも、本土にあった多くの基地を沖縄に押し付けていることを忘れている。原発と同じだ。自分たちのリスクを肩代わりしてもらって「気の毒」はないだろう。でも、やはり人は他人の悲しみを理解し辛い生き物。
そして今回はドラマではなく、ドキュメンタリーで沖縄戦の悲劇を伝えなければならない。「朝日」はドラマなので、何とか悲しみを伝えたが、ドキュメンタリーでどこまで「悲しみ」を表現し、他人事ではなく、自分のこととして感じてもらえるか? 教科書的なドキュメンタリーだと歴史は分かっても、痛みは伝わらない。学校の歴史の授業のような作品では意味がない。
この数年、それを考え続けて来た。悲しい事実を描いたからと、観る者が「悲しい」と感じる訳ではない。何より人は他人の悲しみや苦しみを理解するのが苦手な生き物なのだ。どうすれば、悲しみは伝わるか? どうすれば他人事ではなく、自分の苦しみとして考えてもらえるか? 今回の作品「沖縄戦」はまさにその戦いである。