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捻くれ者、我慢ができない。同じが嫌。ー日本社会からはみ出す?(下) [思い出物語]

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捻くれ者、我慢ができない。同じが嫌。ー日本社会からはみ出す?(下)

村社会ルールとは、

狭い村でトラブルを起こさずに、みんなと仲良く(表面的でいい)やっていくためのもの。1人だけ勝手なことをしない。周りの人と協調する。耕運機や田植え機がない時代。農家は皆の力を借りなければならなかった。だから、仲良くすることは大事。村八分にされると大変。自分だけ特別なことはしない。目立つこともしない。批判されることを避ける。そのためには皆と同じにする。

そんな村社会の風習が今も日本に

根付いている。ただ、都会では隣近所と付き合わなくても生活ができる。逆にうっとおしい。会ったら挨拶する程度の付き合いが可能。田舎はそうは行かない。よく田舎の近所のおばさんが「学校面白い?」「大学はどこにいくの?」「就職は?」「結婚は?」と声をかけるが、それは内部調査のようなもの。異分子がいないか? おかしなことはしていないか? と無意識に探っているのだ。

問題があればおばさんネットワークであちこちに連絡。事前に抑え込む。触れないようにする。村社会ならでは構図。僕が高校時代に「映画監督を目指す!」というそぶりをしたら、学校、親、親戚が寄ってたかって邪魔をしようとした。それも同じ構図だ。多くの人がしないことをすれば、みんなで潰す。それが日本社会。が、あれこれ言われて従うのが嫌だし、納得できないことをしたくなかった。

多くの子供たちは、日本社会に馴染み、従い、

その一員となっていく。それが大人になることだと考えた。だが、僕はひねくれ者というだけでなく、適応力もなかった。一度「おかしい!」と思うと、目をつぶって従う、我慢するということができない。そう、我慢強さも欠けていた。そう考えると、日本社会では落ちこぼれていくのが当然。ようやく、思う方向に進んで来たが、続きはまた。


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捻くれ者、我慢ができない。同じが嫌。ー日本社会からはみ出す?(上) [思い出物語]

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捻くれ者、我慢ができない。同じが嫌。ー日本社会からはみ出す?(上)

昔から人と同じが嫌だった。

それを世間ではひねくれ者と呼ぶ。1970年〜80年代は流行を追いかけることがカッコいい時代。最先端のファッションを身につけることで注目された。古くはだっこちゃん。パンタロン、ヘブンのTシャツ、コンバースのスニーカー、セーラーズのシャツ。制服は嫌だと言いながら、私服で同じファッションという日本人が多かった。

僕は捻くれ者なので、当時、角川映画も見なかった。あれだけテレビで宣伝されると「絶対に見ない!映画館へ行くもんか!」と思った。が、日頃、映画を見ないクラスメートの多くは映画館に行った。そんな背景から2つのことが見える。日本人は乗せられやすいということ。「今、***がブーム」とかいうと、それを追いかけ、遅れまいとする。

その背景には、「自分がない」「個人の主義主張がない」「志向性がない」だから乗せられやすい。加えて「皆と同じでないと不安」という村社会的な思い。そんなことが背景にあったはずだ。つまり、日本人は今も村社会ルールに縛られ、依存している。村社会ルールとは何か?説明する?

(つづく)


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仕組まれた自由に誰も気づかず、足掻いた高校時代を回想(後編) [思い出物語]

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仕組まれた自由に誰も気づかず、足掻いた高校時代を回想(後編)

「この学校はおかしい。こんな授業は意味がない。教師たちの言うことは変だ」

そう思っていたけど、同級生たちは拒否せず、それに従い、こう言う。

「だったら学校辞めればいいだろ?」

なぜ、教育に間違いや問題点を指摘せず、文句も言わず、ただただ受け入れるのか?「だったら、政治家になって教育を変えろよ」そう言われた。こうも言われた。

「ルールは守らなければならない。嫌なやめればいい....」

「ルールが間違ってんだよ!」

と僕は思ったのだが、これも今考えると彼らは洗脳済み。与えられたことに従い、決して逆らわないロボット・サラリーマン予備軍になっていたのだろう。と言って彼らに不満がない訳ではない。いい成績は取りたい。有名大学に行きたい。一流会社に就職したい。でも、勉強はしたくない。彼女が欲しい。テレビが見たい。でも、我慢して嫌々勉強する。でも、それが大人になること。それが社会に出ると言うことだと考えていた。

けど、それは洗脳教育に屈して、国が定めた教育検定で分けられ、自分の思いや意思とは関係なしに理不尽な指示にも従い働くサラリーマンロボットになることを受け入れたと言うこと。それは大人になることでも、社会に出ることでもない。いろんな道があるのに、国の政策でそう誘導されているだけ。

そう、戦時中に「兵隊になり、お国のために戦うこと」が素晴らしいと思い込まされた国策教育と同じ構図(「ドキュメンタリー沖縄戦」で紹介。沖縄で12月に完成披露上映会!)。今はそのこと理解できるが、当時は「落ちこぼれのダメな奴」とのレッテルを貼られ(戦時中なら非国民)荒れていた。が、実はいろんな道があり、自由な生き方が存在する。それが見えなくなっていた。いや、見えなくする環境が作り上げられていたのだ。続きはまた。


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仕組まれた自由に誰も気づかず、足掻いた高校時代を回想(前編) [思い出物語]

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仕組まれた自由に誰も気づかず、足掻いた高校時代を回想(前編)

先にも書いたが、高校時代は最悪だった。将来、役に立つと思えない授業。そんなことしか教えてくれない学校に1時間もかけて通う。毎日、重い教科書を持っていくのが規則。学校に置きっぱなしにしてはいけないと言われる。なのに、1日で進むのは数ページ。そのために300pの重い教科書を6冊。さらにノート6冊に副読本をカバンにつめて週6日、通学した。「それって罰ゲーム?」みたいな。

初夏で暑くて黒い制服を着て行く。6月まではそれが規則。授業中は隠れて映画雑誌を読む。ノートに落書きをする。窓から外を見ると大阪、天王寺区のビル街が見える。そこで午後3時まで。尾崎豊の歌詞のような生活。

♫「落書きの教科書と、外ばかり見てる俺。超高層ビルの海の中、 届かない夢を見てる...」

僕は当時から捻くれ者で、我慢が嫌い、適応力がなかった。完全に日本の教育から落ちこぼれていた。だが、今、考えると無意味な授業も、重い教科書も、不必要な校則も全て「理不尽を我慢する」という訓練ではなかったのだろうか? 会社員になり、上司から無理な命令を受けても文句言わずに従う。理屈を言わない。そんな練習を高校時代から、いや、小学校からするのが日本の教育なのだろう。

♫「大人たちは心を捨てろ捨てろというが、俺は嫌なのさ
退屈な授業が俺たちの全て、ならばー。
何て、ちっぽけで、何と意味のない、何て無力な15の夜ー」

まさに、そんな感じだった....。

(つづく)


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映画完成後の監督の日常。意外に知られていない。僕の場合はこんな感じ? [映画業界物語]


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映画完成後の監督の日常。意外に知られていない。僕の場合はこんな感じ?

事務作業がもう少しで片付く。大監督となら事務所でスタッフがやってくれる仕事。それほどでない監督なら、映画が完成すればあとはマスコミ取材と舞台挨拶をすればOK。僕は何でこんなことをやっているんだ?と考えていて、そうか、これはプロデュサーの仕事なんだ!と気づく。宣伝材料の制作。解説を書く、あるいは書いてくれる人に頼む。関係者に連絡する。手紙を出す。宣伝プランを立てる。

そうPが宣伝会社と打ち合わせして進めるべきこと。そこで「監督、すみません。パンフレットにメッセージを書いて頂けますか?」とか頼まれて「ああ、いいだろう」と引き受けるのが本来の監督。あとは「次回作は何がいいかなあ。今、人気の小説でも読んでみるか?」と悠々自適なのが本来の監督。いや、それはちょっと大物の監督。

そこそこレベルの監督なら、次の仕事。映画でなくても、生活のための仕事を探して、あるいは頼まれて、それにかかっている。完成した仕事に何ヶ月も費やしたりはしない。まあ、このおかしな状態は低予算映画ということで、出来てしまうもの。

               *

人を雇うには金がかかる。雇わなければ誰かがノーギャラでやるしかない。宣伝会社は金を出して雇うにしても、宣伝費が安ければ、担当するスタッフも少ない。人手が足りない。だから、僕も参加して、宣伝員として動くしかない。その上、沖縄戦に関しては僕が一番詳しい。知らないと解説も書けない。だから、僕が書くのが一番早い。もちろん原稿料はなし。そんなのもらったら、別の宣伝で支障をきたす。宣伝費は信じられないほど僅かだ。

ただ、デザイナーさんは必要。ちゃんとギャラを払ってお願いする。間も無く、第一案ができてくるはず。そうすればあれこれ展開が出来る。1本の映画が完成すると、そんな感じで僕は公開まで忙殺される。なのだが、ようやくその映画が公開されたたとき、その映画に関わったロケ地の人に言われたことがある。

「監督。映画が完成してから何してたんですか? 何ヶ月も? 芸術家は仕事しないで、毎日ダラダラして過ごすと聞きますけど、やはりそうなんですか?」

あんたの町の映画を宣伝するために、ノーギャラで奮闘して来たんだろ!お前こそ、ポスター1枚貼ろうとせず何してた!と怒鳴りそうになったが、あまり怒りがこみ上げて言葉にならなかった。ただ、映画監督業の、特に僕のようなやり方は理解されにくい。が、それをいちいち説明するのもどうかと思う。そんなことを言う地元の人もいるが、多くは映画が完成して喜んでくれる。

そんなこんなで毎日があっと言う間に過ぎていく。近日中にワークショップの会場。下見に行かねば。あ、**さんにも電話だ


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この数日、事務作業が続いている。宣伝準備、ワークショップ。郵便局、原稿書き! [映画業界物語]

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この数日、事務作業が続いている。宣伝準備、ワークショップ。郵便局、原稿書き!

沖縄戦。チラシの原稿。解説書き。封筒の住所書き。お手紙書き。資料を入れて郵便局へ。帰宅してまた事務所作業。サラリーマンではないので、給料は出ない。ほとんどが沖縄時上映会の準備だが、本来、宣伝は宣伝部の仕事。監督は神輿のように担がれる立場になりマスコミのインタビューに答えたりするのだが、僕はその前に神輿を担ぐ方も担当する。

本来、アシスタントとか、秘書という存在がいれば任せるべき仕事なのだが、そんな人たちはいない。雇う余裕がない。毎回、映画を作るのに数千万円を使うのだが、通常の製作会社は20%くらいを抜いて、手数料とする。それで事務所の部屋代、社員の給料、等を払うのだが、僕が映画を作ると、手数料を引かず、全てを作品制作に注いでしまう。だから、低予算でも数段上の作品ができるが、アシストタントや秘書を雇う余裕がなくなり、僕が無給であれこれ作業をすることになる...。

でも、そのことで通常の2倍3倍の宣伝ができる。時々、虚しくなるが、逆に他の監督はなぜ、それをしないのだろう? プロデュサーや製作会社はなぜ、そこまでしないのだろう?と思える。毎日、監督がブログやFacebookで映画情報を発信すれば、宣伝部が公開直前にTwitterアカウントを作ってツイートするより、もっと多くの人に伝えることができるのだ。

僕のFacebook友達はほぼ5千人(とはいえ、カラクリがあるから何分の1が僕の記事を読むのか?)他に3つのブログ土曜のアクセス数を見ると「朝日」1981件。「明日」1821件「沖縄戦」それぞれに912件だ。やはり、沖縄が一番少ない。スタートしたもの遅いので固定読者がまだ多くないということもあるが、「沖縄戦」というと暗い!とか思って読もうとしないのかもしれない。

しかし、事務作業はかなり片付いた。あとは取材時にお世話になった方で、宣伝で協力してもらう人たちにお手紙を出す。すでに数人には出しているが、あと数人。メールをやっていない人が多いので、お手紙だ。そして、2年ぶりのワークショップ。夏から計画していたが、自宅入院生活が長引いたのと、9月に入ってからは事務作業に追われていた。が、次回作が始まったからでは遅いので、今の内に新しい出会いを探しておく。

沖縄上映のパンフとチラシ。ポスターは今月中にあげて、印刷所に入れねばならない。すでにデザイナーさんが作業中。そこに入れる原稿を僕が書いている訳だ。明日はまた資料送付を2件。お手紙送付1件。「やることリスト」を壁に張っているが、ほとんどが棒線で消されているので、残り僅かだ。

あ、予告編の第3弾も作らねば!それと宣伝会社が12月の上映会の日に合わせて、飛行機とホテルを予約してくれているはず。今から取らないと直前だと値段も上がるし、部屋が取れないかもしれないので注意。明日もこんな感じだ。


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Facebookで返事をしたら、さあ大変⑤終 芸能人に勝手に期待して勝手に失望する人たち? [MyOpinion]

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Facebookで返事をしたら、さあ大変⑤終
芸能人に勝手に期待して勝手に失望する人たち?



よく街で芸能人を見つけ、手を振る人がいる。振り返してくれれば「きゃー」と喜ぶが、無視されるとこう思う人もいる。

「偉そうに。もう応援しない!」

でも、なぜ、芸能人は会ったことない人に愛想をしなければならないのか? 見ず知らずの人に応えなければならないのか? もちろん、応える芸能人もいるが、人と接したくないこともある。プライベートを邪魔されない時もある。だが、こう考える人たちも多い。

「あの人なら、手を振り返してくれる。いい人だから!」

映画やドラマを見て受けた役の印象と本人を重ねてしまうのだ。つまり勝手に期待をして、無視されると勝手に失望。「裏切られた」「失望した」と思い込む。そんなことがよくある。名もなき僕のような映画監督に対してでも似たようなことが時々起こる。

Facebookの質問やコメントに答えると「監督はいい人だ!」と期待値が上がる。が、やがて要望が増えていき、一線を越え、トラブルになることが多い。つまり答えなければ問題は起きない。最初から「答えませんよ」と告知すれば、期待されない。裏切られたと思わない。それが分かってきた。悲しい話だが、そんなルールを作った。友人はいう。

「それ以前に無名でも映画監督がFacebookをすること自体が間違ってんだよ!誰だって面白そうだからと寄ってくるよ。いきつけの喫茶店に監督がいる。と分かれば、話してみたい!と思うのが人。一番悪いのはお前だよ」

その通りかもしれない。著名な監督や有名俳優はツイッターをやっても、Facebookはやらない。敷居が低く、気軽にアプローチできるからだ。友達作りにはいいが、一線を越えてしまう人もいる。

僕だけではないサラリマーンの知人でも、何度も「会ってほしい」と言われて困ったことあるという。反論、批判を何度も書き込む人がいるのでFacebookを辞めた友達も多い。

僕は宣伝ツールとしては続ける必要もある。また俳優の卵や映画監督志望者の若い人から「記事を読んで勉強になった」という話を聞くと嬉しい。映画学校では学べないことを学んだといってもらえることもある。

心救われたといってくれる人もいた。宣伝だけでなく、そういう話を聞くと嬉しい。とりあえず、そんなことで続けているので、期待せずに読んで頂けるとありがたい。(了)



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Facebookで返事をしたら、さあ大変④ 「感動作を作る監督はいい人だ」と思われる。本当は違うのに? [MyOpinion]

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Facebookで返事をしたら、さあ大変④
「感動作を作る監督はいい人だ」と思われる。本当は違うのに?

シナリオも書く時。編集の時は電話に出ない。メールにも答えない。他にもある。過労でダウン。自宅入院状態のときだ。公表すればあれこれ問い合わせが来る。

「大丈夫ですか?」「病院は行きましたか?」

と、病人にそんなことを聞いてどうする。寝込んでいるのに返事期待しているのだろうか? だから、伝えない。でも、Facebookが止まると「死んだかもーー!」とまた騒ぎになるので、過去の記事やシェア等をアップ。カモフラージュしておく。

そんなときに連絡が来て「***会に来てください」返事はできない。寝たきりなのに「現在、療養中のため、大変申し訳ないですが..」と友人にも返事できないのに、一度しか会ったことのない人たちに連絡すべきだろうか?

なので全てを含めて、元気でも、病気でも、執筆中でも、編集中でも、知り合いでも、知らない人でも、メッセンジャーやFacebook上では、お返事はしない!という形にさせてもらっている。連絡してくるほとんどの人に悪意はない。それは分かっている。ただ、彼ら彼女らはこう思うのだ。

「感動作を作る人だ。いい人に違いない。私のような者が連絡しても、お返事をくれるはずだ」

本当はいい人ではなく、かなりの変わり者。常識なんてクソ食らえと思っているのに、何人かが連絡をくれる。僕が返事する。

「嬉しい!じゃあ、これも訊いてみよう!」

その内にエスカレート。主演女優さんの恋の噂。ワイドショーで報じているけど本当かな? そんなことまで聞いてくる。僕にとって俳優は仕事仲間。その人のプライベート。知っていても話せない。するとこう言われる。

「そんな人とは思わなかった」「酷い」「いい人だと思ったのに...」

「失望した!」「裏切られた!」

(つづく)

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Facebookで返事をしたら、さあ大変③ 長年の友達のように思われて困惑? [MyOpinion]

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Facebookで返事をしたら、さあ大変③
長年の友達のように思われて困惑?

あまりにイラつくコメントやメッセージが多いので、限界を超え、2度ほどFacebookを休止したことがある。いろいろ考えて、再開したとときに、はっきり告知した。

「交流が目的ではない。質問には答えない」

「友達」激減か?と思いきや拒否反応はなく「友達申請」もどんどん増えて、現在では3773人(今年2019年10月現在は4960人)となっている。皆、事情を理解してくれたのだ。本当にありがたい。実は良識ある人は多くいる。書き込みをしてくる人たちに非常識が多いということ。

ただ、別の問題があった。一度会った方からも、頼みごととか、質問とかが来ることもある。顔も知っている。悪い方ではない。会っているからいいか?というとそうでもない。一度会っているだけに、親しみを感じてくれる。こちらも無視し辛い。返事をすると長年の友人のように思い込む人もいる。

親しみを持ってくれるということなので、ありがたいこと。だが、記事で近況をアップしているのに「また、近況をお知らせください」とか言ってくる。「メールを出しましたが、お返事が来ません」とかいう。僕は友達にだって、近況を伝えるメールなんて出さない。とにかく多忙なのに、その人は手紙時代のような、それも昔からの親しい友人のようなやり取りを求めてくる。悪い人ではないが、応えることはできない。

また、監督業というのはいろんな事情がある。例えば、新作がスタートしても、すぐにはFacebook上で発表できない。

「新作準備につき、お返事出来ません!」

と書くとバレる。業界的にもマズイ。ネタをパクられたり、俳優から売り込みが来る。シナリオに集中したい。そのシナリオを書くときは携帯を止め、メールも見ない、ただ、死んでいると思われてはいけないのでFacebook記事はアップする。そんなときは誰であろうが、メールでも電話でも返答しない。

常識で考えれば失礼なことだが、いつも書いている通りに、シナリオの霊が去ってしまうと書けなくなるからだ。編集のときも同じ。その種の集中する作業。そんなときに、知り合いであっても、メッセージをくれたり、イベントに招待してくれても返事はしない。でも、カタギの人はこう考えることが多い。

「撮影のときだけ手伝わせておいて、あとは知らん顔か? 返事も来ない...」

そんなことで縁を切られたり、恨まれたりもした....。(つづく)


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Facebookで返事をしたら、さあ大変?② 褒めておいて落とす歪んだ人もいる? [MyOpinion]

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Facebookで返事をしたら、さあ大変?② 褒めておいて落とす歪んだ人もいる?


以前、メッセンジャーで、こんな連絡があった。

「映画観せていただきました。感動しました。すばらしかったです。***のシーンは涙が止まりませんでした。どんなふうにして撮影したんでしょうか?」

嬉しくなった。**のシーンは特に力を入れたので、そこを指摘してくれるのは感謝。昔は返事をした。感謝と説明を伝えると、相手はこう言いだす。

「でも、**のシーンは本当に酷い出来ですよね。ご自分でもそう思ってますよね?」

最初から批判が目的。誘いだすために「感動した」と連絡して来たのだ。知能犯。ムカつく!返事をしないとこう言ってくる。

「図星なので返事ができないのですね。あなたは監督としてまだまだ。才能がないことが分かります。そのこと認めますよね」

怒らせて反論させようという魂胆。かなりの知能犯。そんな奴もいた。そんなことを含めて、時間を取られた上に、バカを見ることがある。

記事について、あれこれ批判してくる人もいた。これはどなたでも経験あるだろう。僕の記事に賛成でも反対でもそれは構わない。ただ、議論をしたいわけではない。

批判する人の多くは顔写真もなく基本情報もなし。何者か分からない。年齢も表示していない。覆面をかぶった人に批判されているのと同じ。いい気持ちはしない。悪意のある人、常識のない人、悪気はないが思い込みが激しい人、いずれとも返事したがばかりに勘違いされ、揉めたことがある。こう言ってくた。

「親切で言って上げているのに!」「あんたは何もわかってないね!」「その性格直した方がいいよ!」「失望した!」「裏切られた!」

記事を読んで不満を感じたなら、批判や反論せず、次から記事を読むな!と思えるのだが...。

(つづく)


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