嫌われれモノの人生を知ってこそシナリオが書ける=けど、人は嫌いな人のことを知ろうとしない? [MyOpinion]
嫌われれモノの人生を知ってこそシナリオが書ける=けど、人は嫌いな人のことを知ろうとしない?(再掲載 2019年)
僕は脚本家の仕事もする。自分の監督作は全てオリジナル脚本。原作ものはない。だから、シナリオの題材を常に探している。登場人物の造形のためにも、いろんな人を研究する。偉人伝のようなものよりも、問題ある人、嫌われている人、とんでもない人が勉強になる。
なぜ、あんな風になってしまったのか? さほど賢くもないのに、なぜトップまで上り詰めたのか? どこで一線を超えて危険人物になったのか? なぜ、あそこまで汚い手を使うのか? なぜ、平気で嘘をつけるのか? 等々。だから、その人の背景が知りたい。安倍晋三、小池百合子、ホリエモン、石破茂、トランプ。
が、その人物を嫌いな人は「あんな奴のことなんて知りたくねえよ!」と言う。話をしても「気分悪いから聞きたくない」と言われる。イスラム国の記事を書いた時も同様。「そんな記事アップしないでください!」というコメントまで来た。嫌ならスルーすればいいのに、抗議してくる。どう返事しようと考えていると「友達」から削除された。
「許せない」「酷い」だから記事も読みたくない。記事を書くと「書くな!」といわれる。あるいは「この人たちには賛同できません」とコメントが来る。賛同も何も「イスラム国」の疑問点を解説しているだけ。イスラム国に賛同して欲しいなんて思っていない。読みもしないで「イスラム国嫌い」と言いたいようだ。つまり、触れるだけで、記事にするだけで書いている人間も許せないという感じ。なぜか?
「激しい憎しみに支配されているから...」
自分が被害に遭ったのなら分かる。友人が巻き込まれたのなら理解できる。が、マスコミ報道を鵜呑みにして「許せない!」という憎しみを抱く。冷静さを失う。感情的になる。そして、その人物を詳しく知らないのに憎む。それって戦時中、アメリカ人を知らないのに「米英鬼畜」と言っていたのと同じではないか? アメリカは
「リメンバー・パールハーバー。不意打ちをする汚いジャップをブチ殺せ!」
と国が宣伝。日本人に会ったこともない多くの若者が軍に志願した。戦争は憎しみを利用して、金持ちが儲ける。情報コントロールされた国民が大勢死ぬ。
凶悪な犯行があればマスコミは徹底して犯人の背景、生い立ちを報道。多くが興味を持って見る。そのことで同じ悲劇を繰り返さないようにする。なぜ、それを政治家に対して、敵国に対してはしないのか?「嫌いだ!」「許せない!」を連呼するばかり。嫌いな相手と戦うのなら敵を知ることが大事。
なのになぜ? それは憎しみを利用している人たちが、背後にいるから。それに誘導された人々が憎しみで冷静さを失っているから。そんなことを感じながら、嫌われ者の本を読む。(2019/8)
日本人はなぜテレビを見なくなったのか?=局の怠慢、慢心。没落するのが当然の背景? [MyOpinion]
テレビは長らく大きな力を持って来たが、やはり、その立場にあぐらをかき努力を怠った。その間に時代は変わり、視聴者のニーズも変わる。にも関わらず今も昔と同じスタイルを変えようとしない。終焉を迎えるのも当然のだ。昔はその番組見たさに学校が終わったら飛んで帰る!と言うことがあった。が、仕事でどうしても帰れないと言うこともある。登場したのはビデオデッキ。タイマー録画できる。
これは視聴者側の努力。「その番組が見たい!」と言う強い思いがあった。しかし、テレビ局は安易な番組作りを始める。人気タレントを並べるだけ。似たようなドラマを繰り返し放送する。また、テレビというのは最大公約数的な番組が多い。多くの人が楽しめるもの=視聴率が取れる。が、2000年代に入り趣味嗜好の多様化が進む。
例えばスポーツ。昔は野球だけで皆、喜んだ。それがサッカーがブームになる。プロレスも多様化し、全日本と新日本だけではなくなった。誰もが喜ぶ番組というのがなくなり、小さなサークルがたくさん出来て行った。ドラマでも昔は木村拓哉や中山美穂が出れば視聴率が取れたが、今は誰が出たからと番組を見るということが減っている。
そんな趣味の多様化にテレビというメディは対応出来なくなって行く。それにも関わらず人気俳優に依存するドラマ。人気タレントにお任せのバラエティ。クオリティはどんどん下がって行く。趣味の多様化にも対応できない。多くが見たい!と思うもの自体が存在しなくなる。高視聴率が取れないのも当然。
そのことで細分化に対応できるCATVや衛星放送が登場する。時代劇専門、日本映画専門、スポーツ専門、科学番組専門、どれも昔のテレビのような視聴率は取れない。が、様々な趣味の人たち、小さなグループには支持された。こうして従来の番組から離れて行く。
そして視聴者はタイマー録画するほどの番組がないことに気づく。また、オンタイムで見れない番組を録画して見れること。80年代は便利!と感じたが、次第に面倒になる。新聞で見たい番組を探し、日時をセットする。あとで気づいても、もう見れない。
昔なら「仕方ない」だったが、現代人は忙しい。朝から晩まで安い賃金で働く。土日も仕事ということがある。新聞を読む暇もない。テレビガイドを買うのももったいない。そんな人たちに「番組を見たければ毎日、新聞をチェックして、タイマー録画しな!」というのがテレビ局側の姿勢。しかし、町では買い物したい時に買い物ができる真夜中も営業するスーパーやコンビニがある。銀行のATMだって今は24時間引き出せる。なぜ、テレビだけが視聴者が局の姿勢に合わせて、努力せねばならないのか?
局の怠慢。何を放送しても高視聴率を取っていた頃のスタイルを変えず、努力を怠っているということ。その上、番組レベルも下がっている。そんな時に登場したのがamazonやNETFelixだ。見たい時に、見たい番組が、どこでも見れる。スマホやiPadでもOK。電車の中でも見れる。様々なジャンルの番組がある。テレビでは放送されていない面白いドラマ。現代の日本人事情に対応。金を払っても見たいと思う。
こうして地上波のテレビは無料でも見たくない。録画してまで見ないということになる。シンプルにテレビ局の怠慢、慢心だ。この20年の生活スタイルの変化にも対応せず、番組レベルの向上にも努めず。タレントに頼り、大きな圧力には屈して、視聴者よりスポンサーにばかり顔が向いていたこと。それが不要のメディアにしてしまったのだ。
さらにYouTubeの台頭。「報道ステ」よりユーチューバーNEWSの方が面白い。そして、視聴者は何が事実で何がデマなのか?を考えながら見るようなる。その意味でもテレビはもう見る価値がないと言える。いつの時代も努力しない者は淘汰される。