MAに向かい最後の作業 [編集作業]
お茶生活3年目。 [2019]
地方のプライドとコンプレックス=結局、自分の首を絞めている? [映画業界物語]
地方のプライドとコンプレックス=結局、自分の首を絞めている?
日本人の特性、地方の習慣のことを書いていて、思い出しこと。後輩の映画監督C君の話。彼は故郷愛が強く、その街の魅力を伝える映画を作ろうとした。有名な街でもないので企業は資金を出さない。で、地元で寄付を集めて製作しようと考えた。しかし、地元で顔役と呼ばれるオヤジにこう言われた。
「この街を捨てて出ていった奴がノコノコ帰って来て、金を出してくれなんて調子良過ぎんじゃないか?」
C君は高校卒業後、故郷を出て、東京の大学に行き、卒業後は東京の会社に製作会社に就職。その後、フリーになり映画監督になった。それをオヤジは「故郷を捨てて出ていった」というのだ。その話。ー意味不明と思えたが、C君が解説してくれた。
「そのオヤジさんは街で生まれ育って、地元で就職しています。街を出たことがない。都会ではなく、田んぼや畑ばかり。大学も街にはないので、若者は皆出て行きます。帰ってくる者はほとんどいません。町に残った人たちは故郷愛があるので、それを故郷を捨てて出て行った。というのです」
確かにそんな人もいるだろう。田舎に愛想を尽かして都会に行く。でも、地元に大学もなく、当然、多くの就職先もないのなら故郷愛があっても出て行かざるを得ない。それを「故郷を捨てる」と表現することに引っかかる。その上、C君は故郷愛があるからこそ映画を作ろうとしている。なのに「故郷を捨てた」と批判する。何か、おかしい。
「コンプレックスですよ。オヤジさんは都会で暮らしたこともない。家も貧しくて大学にも行けなかった。そう思うと惨めなので、あいつらは故郷を捨てて出て行った。でも、俺は愛があるから残ったと考える。だから、都会に出て行ったものを感情的に批判するんですよ」
なるほど、おかしな発言はそんなコンプレックスが背景となっていたのだ。しかし、同じ故郷愛がある同士。街の魅力を映画で伝えることで、街を良くしよう、街の魅力を伝えようという動きが大きくなれば地元にとってもプラスのはずだ。
「でも、彼は大学も行っていない。都会生活も経験していない。どこかでバカにされている、と感じています。渋谷で仕事しているというだけで、偉そうによーと言われます。自分が田舎者で、詰まらない存在だと思っている。だから、都会から帰って来た者をー故郷を捨てた奴=裏切り者ーというレッテルを貼り、バカにされないように、そして優位に立とうとするんです」
コンプレックスと無意味なプライド。そんなことでC君の純粋な思い、故郷愛を否定しているのだ。結局、資金はあまり集まらなかったが、地元で応援してくれる人たちもいてC君は映画を完成させた。が、その後、東京の大手映画会社が有名監督がその街で映画を撮影した。その時、オヤジは先頭に立って応援したという。C君はいう。
「地元の人間が戻ってくると故郷を捨てたと批判するけど、有名監督が来ると両手を上げて歓迎する。どちらも映画で街をアピールする。何が違うんですか? 」
その通りだ。要はそのオヤジのコンプレックスが強く、有名な人が好きで、その人を応援することで、コンプレックスを癒し、優越感に浸ろうとしている心理が見える。故郷愛より、自身のコンプレックスに支配され、他者を批判し、詰まらないプライドを守ろうとしている。
その街を愛し、その街の魅力を伝えようとしても、相手が無名なら、無視したり、邪魔したり、バカにしたりする。でも、それが有名人や大手企業だと手のひらを返したように、諂い、率先して応援する。
そして、その種の人は良く騙される。利用される。大手企業を盲目に信じてしまう。会社は自社の利益のために動く、口で綺麗事を言っても、街に対する愛なんてない。むしろ、C君のような存在が故郷をアピールする。
しかし、強いコンプレックスが邪魔をし、有名ブランドに飛びつき、バカを見る。そんな人たちを何人も知っている。愚かさを繰り返し、街の魅力を伝えることができない。そんなオヤジたち。どこの地方にも数多くいる。今、C君はこういう。
「僕は二度と故郷で映画は撮りません。故郷愛を履き違えている人たちとは何もできない。観光地の方が映画製作を応援してくれる。そんな街で今後は頑張ります」
午前中から悪戦苦闘! [編集作業]
午前中から悪戦苦闘!
スタジオから早めに音源を搬入してほしいとの連絡。音楽家さんから2曲できましたという通知。その他、いろんなところから連絡があり、てんてこ舞い。さらにメール出しても届かない人もいて、たまにあるけど、こんな大事な時に何??という感じ。原因分からず。
会って打ち合わせもあるのに、書き出しが終わらない。2時間待って「よし、あとはDVD焼き!」と思ったら、間違いに気づく。最初から書き出しをやり直しだ。会う時間をずらしてもらう。僕がいくら焦っても作業はコンピューターがやるので、時間はかかる。
曲。まず2曲だが、どちらも素晴らしい。今回は低予算ながら、第1線の方々にお願いしている。音楽も、ナレーションも、凄い人達。NHKのドキュメンタリーを超えている。
なのにポスプロ作業は僕が1人でパソコンでやっている。1人3役くらい。あの局なら何人がかりでやるのだろうか?
宣伝PRについて、なぜ、みんな関心を持たないだろう? [映画業界物語]
宣伝PRについて、なぜ、みんな関心を持たないだろう?
業界のこと。一般の方々でもいろんなことを知っている。広告代理店。タレント事務所。視聴率。スポサー。バラエティ番組等でタレントがあれこれ話すことで広まったのだと思える。肖像権のことも知っている人増えている。が、意外に知られていないのは宣伝広告だ。何度も書いたが、驚くほど知らない人が多い。特に地方に行くとそれを感じる。
地方映画を作る際に地元で何度もレクチャーをするのだけど、撮影については皆さん興味を持って勉強してくれる。が、映画完成後の宣伝については、考えたこともない! 存在さえ知らないということが多い。前にも書いたが、テレビを付ければCM。新聞には広告。街を歩けばポスターが溢れている。
なのに、それらがどのように作られ、どのように展開し、どんな効果を持つのか? 興味さえ持たない人が多いことに驚かされる。大手企業は毎年何百億円という宣伝費を使っていることも意外に知られていない。そんな現実とは反対に、地方では宣伝に対して理解がなく、勉強しようという人も少ない。
なぜ、広告の海ともいえる時代に生きているのに、広告に興味を持たないのか? 80年代には糸井重里効果なのか?コピーライターになりたい人が爆発的に増えたことがある。広告代理店といえば、電通というのも知っている人は多いだろう。しかし、「電通ってどんな会社?」と聞くと
「コマーシャルを作っているところでしょう?」
という人が多い。要は宣伝広告に興味があるのではなく、糸井さんみたないカッコいい仕事がしたい。就職するなら大手の電通がいい。みたいな感覚だったのだろう。その時代から30年以上が経つが宣伝広告について、社会には浸透していない気がする。そこに何か理由はあると思うのだけど、僕も偉そうなことは言えず。映画の仕事を始めてから、あれこれ勉強した。
ついにネットの広告収入がテレビのそれを超えたと聞く。時代は動いていく。ネットの方がピンポイントで宣伝できるのが強みだろう。話は前後するが、監督仲間でも宣伝に関しては無頓着な人が多い。監督は映画を作る仕事であり、本来「宣伝」は配給・宣伝が行うものだが、今の時代、そんなことを言ってられない。
なのに、作品が完成すると「次回作は 。。。」なんて言っている。まず、完成作の宣伝だろう?と思うのだが、また、その辺のことも書いてみたい。
タイアップとは何か? 宣伝PRが分からない人たち。せっかくのチャンスなのに〜という話 [映画業界物語]
タイアップとは何か? 宣伝PRが分からない人たち。せっかくのチャンスなのに〜という話
映画を作るとき、よく「タイアップ」という言葉を聞く。一体どんなことをするのだろう? 例えば2時間ドラマ。地方が舞台の作品。必ずホテルや旅館が出てくる。そして、なぜか?主人公である刑事に「怪しい奴を見ました」という人が現れ、ホテル内を隈なく見てまわる。が、結局、怪しい男は見つからない。あるいは主人公の友人が地元を案内してくれる。
これらがタイアップである。多くの場合。スタッフ&キャストはそのホテルに泊まる。そして宿泊費はタダ。食事も無料。なぜ、そうなるか?というと、2時間ドラマはゴールデン・タイムに全国で放送。数パーセントの視聴率でも数百万人が見る。その番組内でホテルの看板が映り、施設が紹介されるのは、全国ネットでCMを打つ以上の効果がある。
CMは15ー30秒。ドラマで紹介されれば数分。それを数百万人が見る。CMをその時間帯に放送すれば1千万円近い費用が必要となる。そう考えれば、宿代も、食事代もタダにしても安いものなのだ。観光地も同じ、宣伝費に換算すれば同額。街を上げて協力しても、かなりお得。まあ、制作サイドとしては、宣伝がモロ分かるベタな出し方は嫌だが、ホテル側のメリットは大きい。
映画でも同じ。全国の映画館で上映。DVDになり、衛星やケーブルでも数年に渡って放映される。出演した俳優がブログやインスタで街や産物を紹介してくれたり、トーク番組やラジで話したりする。それをファンが探して買う。知名度が広がる。これまた数百万、数千万円相当の宣伝効果。
だが、それが分からない人が地方にはときどきいる。ロケ地になることは大きなメリットになるのに、面倒臭がって断ったり、それでいて商売繁盛か?というと、そうでもない。つまりタイアップということが分からない。中には
「うちで撮影したいなら金を払え!」
と要求する人もいる。それは逆。撮影されることが大きなメリットになる。なのに金品を要求、せっかくのPRのチャンスを潰してしまう観光地もある。ある地方映画。地元から寄付を集めて制作した。そんな中でこんな会社があった。
「うちはロケをさせたので、寄付はしない!」
ロケをするということは、その場所、組織にとって大きなメリット。にも関わらず、大きな協力をした気分になり寄付はしないという。高額の寄付をしてでも、「うちで撮ってほしい」という会社や飲食店もあるのに残念だ。あるいは
「うちの商品はすでに有名なので、宣伝の必要はない!」
と映画協力はしないという会社もある。結果、その商品は映画内で紹介されることはなかった。宣伝とは繰り返し、いろんな形でするものであり、一度人気が出たからと、それが長続きするものではない。グリコやロッテのCM。売れないから流すのではない。売れ続けるために流しているのだ。
そんな風に宣伝、広告ということ。地方では理解されないことが多く、地方映画はチャンスなのに、毎回、変な理屈でチャンスを逃す会社や店がある。といって、頭の固い人たちに「どれだけメリットがあるか?」を制作サイドがレクチャーするのも変。こちらは素晴らしい作品を作るのが使命。だから残念に思うことが多い。
いいものを作っても宣伝をしないと人は買わない。素晴らしいお寺があっても、知らないと誰も来ない。大きなチャンスを待ってもまず来ない。小さな機会を逃さず、繋げて、大きなチャンスを掴む。商売でも、映画でも同じであることを感じる。
日本とアメリカ。歴史と背景の違い。そして今の時代に通用すること? [ムラ社会ルール]
日本とアメリカ。歴史と背景の違い。そして今の時代に通用すること?
このところ書いている「ムラ社会ルール」=そもそもは閉ざされた小さな村で、争わず、仲良く暮らすための知恵だったのだろう。交通機関も発達していない江戸時代以前。農業を主として生活していくにはそんな対応が必要だったのだ。問題が起こった時に、それを追求すると必ずトラブルになる。あとあとまで祟る。そんな経験から根付いたものだろう。
対してアメリカ人は自分の国が気に入らず、あるいはいられなくなって、自由の国を目指しやって来た人たちが作ったところ。「邪魔者はぶち殺せ!」と言うような感じで発展して来た。その後は訴訟社会になり、トラブルになれば即、裁判。日本と違い、貧しくても訴訟ができる社会制度がある。
その部分だけ比較してみると、アメリカは理屈なのだ。自分の正しさを主張し、相手の問題を指摘する。裁判にならなくても、議論や論争をする。大学では議論のクラスもあり、2手に分かれて、ある課題について議論したりする。ペーパーと呼ばれる論文は理路整然と物事を考え、自分の意見が正しいことを証明するための訓練である。
対して、日本で「理屈」ではなく「和」が大切にされる。争わず「皆と仲良く」だ。そのせいか?議論するクラスはない。学級会で討論することはあるが、授業では教えない。どうも、日本は争うことを避ける社会であるようだ。そして目立たぬように、あまり個性的にならないように、派手なことをしない風潮。学校は皆と同じ制服。そしてクラスで目立つと、いじめられたりする。人と違うことをする者は皆で粛清してしまう。
夢を語ると「現実は厳しい」と相談してもいないのに、多くの人が説得にやってくる。新しいこと。個性的なことを嫌い、皆で止めるところが社会にある。ここも昔ながらムラ社会ルールが生きている。ただ、そのルールが必要のない場所が、どんどん広がって来た。都会だ。田舎のように周りを気にする必要のない地域。
むしろ誰も気にしてくれない。どんな派手な服を着ようと、どんな生活をしていようと、誰も注意しないし、口出しをしない。衛星都市でも、農耕を仕事とせず、都会の会社に通うための住居に過ぎず。近隣と地方のような密接な繋がりはない。ご近所付き合いはあるが、それをしなくても村八分にはならない。いや、村八分という方法論が都会では機能しない。
映画界で考えてみる。過去にアメリカ作品のスタッフを経験したが、日本とは違うものがあった。非常に機能的。日本の場合は、誰が責任者であるか? 見え辛いものがあり、トラブルが起こっても、多くが責任回避をして逃げ回るが、アメリカのシステムは合理的かつ機能的だ。
何か必要なものを要求しても、対応が早い。対して日本だと、責任の所在が曖昧で、あれこれタライ回しに遭い、結局、話が通らないことがある。日本の場合は正しいかどうか?より、ある人たちの顔を立てるとか、顔を潰さないということが大きい。どうでもいい人のプライドで話が通らないこともある。そこにもムラ社会が残る。
日米の会社については詳しくないが、古い日本の会社と外資系ではいろんなシステムやしきたりが違うのではないか? 映画自体でも、日本映画は曖昧さ。理屈では説明しづらいが、情緒とか、風情というものを大切にする。対するハリウッド映画は勧善懲悪、明快で、分かりやすい、どの国でも楽しめる作品が多い。
もちろん、それぞれに良いところはあるだろう。ただ、考え方として、トラブルを見て見ぬ振りをして平穏を守るーなどなどの日本人が昔から囚われる村ルールは、今の時代もう意味を成していないと思える。
問題が起こる=>原因は何か?=>責任は誰にあるか?=>なぜ、そんなことになったのか?=>これからはどうすればいいか?
という、論理的な考え方でないと、新しい時代を生き延びることができないだろう。
実際、映画業界を目指した友人。俳優を夢見た友達。ミュージシャンを志した同級生。劇団で頑張った後輩。見ていてると、自分が抱える問題に気づかず、実力を磨くより、仲間を大切にする。飛躍するより友達を同じ場所にいることを選ぶ。そのことでチャンスを失い、展開の機会を逃し、実力が伴わず、結局、消えて行った連中が多い。
そこが昔から疑問だった。皆「プロになりたい!」という、「夢を実現したい」という、そのくせ、チャンスより「友達」を大切にしたり、大切な機会を「平穏」を優先して逃したりしている。
これって、もしかしたら、古来から続く村社会ルールに囚われていることでの悲劇ではないか? 僕の時代だけでなく、今の若い連中も同じことで失敗している。それは同時にアジアの国国に抜かれて行く日本の姿でもあるのかもしれない。
都会で夢を追う若者たち。彼らもまた村ルールに縛られていた?=教えられなくても実践してしまう日本人の特性? [ムラ社会ルール]
都会で夢を追う若者たち。彼らもまた村ルールに縛られていた?=教えられなくても実践してしまう日本人の特性?
ムラ社会ルールを考えると、いろんな疑問が解ける。「今更、何言ってんの?」と言われそうだが、同じ地方に長年住み、地元の付き合いがなければなかなか気づかないことかもしれない。
僕がよく書く「思い出」として、学生映画時代に遅刻して来た友人の話がある。撮影の朝に遅れてくる。1時間経過。まだ来ない。「かわいそうだから待とう」という友人。それに同意する友人たち。そのために夕方までに予定を消化できず、取り残しが出るという話だ。
多くがプロを目指す若者たち。なのに遅刻を許し、その日の撮影予定を終えることができなかった。あれも背景にあるのは村ルールなのだと思える。当てはめてみよう。
遅刻してくる友人(問題を起こした責任者)。「待たずに現場に行こう」というと「可哀想だろう。待ってやろうよ!」という別の友人が止める。皆、それに同意。
=>③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩きく」
そう。遅刻した者ではなく、早く現場に行き撮影しようという正論を主張したものが批判される。そして
皆、それに同意。
=>①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」
実際、遅刻して来た友人を誰も責めない。友人は遅れた反省はなく、すぐに輪に溶け込んだ。トラブル=遅刻はなかったことに。
=>②「問題を起こした責任者を追求しない」
遅刻のために撮り残したが出たが、誰も遅刻した友人のせいとは言わない。「太陽が沈んだので仕方がない」とさえ言う。友人が約束の時間に来ていれば予定の撮影は全部できたのだから、彼に責任がある。が、それに触れない。そのために、皆が別の日に同じ場所に来て、取り残しを撮影することになる。交通費を払い、バイトを休み、時間を割く。
全員にとって大きなマイナス。=>⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」
メンバーの多くは将来プロを目指す映画学校の生徒。だが、彼らはそのためのステップである映画作りより、友達を大切にする。当時、僕はプロを目指すと言いながら、「仲良しごっこ」で「映画撮影は楽しいーなあ」と言う趣味レベルの者が多かったのが背景だと考えた。
が、それだけではなく、村社会ルール。つまり、多くの日本人の習慣に縛られているそれも、原因の1つだと思える。島国ニッポンでは、国のためになる、地域のためになる、自分たちのためになることより、平穏で、争わず、トラブルを起こさない(起これば見て見ぬふりをする)問題を起こしても責めないで、トラブルがなかったことにするーことが、最優先とされる。それを20歳前後の映画学校の学生も実践していたと言うことなのだ。
何度も書くが、福島の原発事故に対する国の対応も同じ。福島の重大な被害、危険性を指摘すると「危険を煽るな」「差別するな」「デマだ」と批判される。線量がまだまだ高く危険な地域を知りながらも、知らない振り、見て見ぬ振りする。また、同じ事故が起こるかもしれないのに、事故はなかったかのように振る舞い、触れない。そして東電のトップは何ら責任を取らず、法的な追求もなかった。
=>②「問題を起こした責任者を追求しない」
学生時代の「遅刻事件」での友人たちの対応と国のそれはとても似ている。いや、ほぼ同じ。根本的な解決をせず、トラブルをなかったことにし、触れない、知ろうとしない、知らない振りをする。そのことで映画撮影は時間も費用も無駄にし、完成が遅れるが、誰も触れない。そして彼らもまた責任者を追求しなかった。
単なる偶然とか、たまたま似ていると言うことではないだろう。日本人の習慣、習性、日本人ルールなのだ。「優しさ」「仲間を大切にする」行動と言えるかもしれない。が、多くのマイナスがある。そこに気づかない。あるいは触れない。実際、僕の周りでも遅刻事件はよく問題になったが、多くが同じ対応。ほとんどが、プロになることなく終わった。
「将来は映画の仕事をする!」と夢見て上京してして来た若者たち。彼らは村ルールを守ったつもりはないだろう。むしろ、友情を大切にしたい。友達思い、と言う意識だろう。友達に寂しい思いをさせたくない。みんなで一緒に頑張る。遅刻したくらいで批判しない。そう考えると優しい、いい子たちだ。
が、プロとして時間を守る。予定したスケジュールをこなす。現場で起きた問題が何なのか?を考える。原因を追求し、改善する。そんな姿勢が友人たちからは感じられなかった。分かりやすく言うと「仲良しごっこ」だから、プロにはなれなかった。その背景にあったのが村ルールだと思える。
同じことをあちこちの地方の大人たちもやっている。町のために何かしたい。PRしたい。魅力を伝えたい。でも、周りの顔色を伺い。トラブルを避ける。見て見ぬフリ。責任を追求しない。だから、地方は新しい展開ができないことが多いのだろう。
しかし、まさか、学生映画をやる、20歳前後の若者までが、学校で教えられた訳でもないのに、そんな村ルールに縛られていたこと。ショックだ。そこから抜け出すことが21世紀の課題なのではないか?
(ムラ社会ルール?)
①「トラブルが起こっても、見て見ぬふりをする。何事もなかった顔をする」
②「問題を起こした責任者を追求しない」
③「被害に遭った人が責任者を責めると、みんなで被害者を叩き、トラブルに触れず、無かったことにする」
④「トラブルを避け、問題を起こさないこと。人と違うことをしない。新しいことを受け入れず、協調を大事にする」
⑤「実質的なメリット。街全体のプラスより、個人のメンツや付き合い平穏を大切にする」
沖縄戦の編集作業。最終段階 タイムコード合わせ。30分の1の調整? [編集作業]
沖縄戦の編集作業。最終段階 タイムコード合わせ。30分の1の調整?
編集作業は終わった。音楽と音効もお願いした。ナレーション原稿の書き出しも終わった。地図と新しい素材も入れた。あとはカットカットを細かく確認。1コマだけ切り出した映像が残っていることもある。30分の1秒だが、気になる。
すでに音楽家さん。音効さんにはタイムコード入りの映像をお渡ししている。それと完全完成した編集版を比べると少しズレがある。1秒以下。3コマとかだが、それはマズイ。MAで音と映像にズレが出る。ということで、タイムコード入りに合わせて修正。
あとで入れた映像と仮で入れたものを入れ替える作業をしたのだが、2コマ長かったりということがあったのだ。その箇所を徹底調査。その場所を探し出し、タイムコード入りと同じになるようにカットしたり、伸ばしたりする。
あと、証言で聞き取りにくい部分をテロップで補正する作業がある。これはどこまでやるか?という問題がある。あまりに全部やると海外の映画の日本語字幕のようになり、映像に集中しづらくなる。が、全くないと意味がわかりづらい部分もある。僕は沖縄の言葉は分からないが、証言は聞き取れる。
なぜか「分かりづらい」という関係者もいる。多分、方言ではなく、固有名詞で引っかかるのだろう。「やんばる」とか「南風原(はいばる)」とか「読谷(村)」(よみたんそん)とか、聞きなれない地名が分からないのだと思える。この作業は明日、以降だ。