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横浜青春プレイバック⑧番外編 懐かしいもの紹介 グリコのCM [横浜青春プレイバック]



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横浜青春プレイバック⑧番外編 懐かしいもの紹介 グリコのCM

これは1980年か81年か?当時、人気絶頂だったアイドル2人が共演したグリコのCM。トシちゃんファンからクレーム殺到。「聖子、許さんぜよ!」で、シリーズ化はされなかった。多分、この企画は百恵&友和でやって来たCM(演出は大林宣彦監督)のパターンをやりたかったのだろう。

流れるのはトシちゃんの「ハッとしてgood!」だった。このシリーズが中止になった後を継いだのが、キョンキョンと渡辺徹のグリコCM。どれも懐かしいなあ。この時代。僕は映画監督を目指して、映画学校に通っていた。18歳だった!41年前の物語。連載中。



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低予算映画の戦い(下)=いかに節約して「素晴らしい作品」を作るか?発想の転換。 [映画業界物語]

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低予算映画の戦い=いかにして「素晴らしい作品」を作るか?発想の転換。

先に紹介したように、3千万という低予算映画でも、実際に映画に使えるのは2千万弱である。そうしないと製作会社は存続できない。社員や社員の家族が生活が成り立たない。1千万を超える手数料を取ることもやむなし。と思えるが、映画製作ー「より良い映画を作る」という観点から考えると、その1千万あれば、いろんなことができる。クオリティが上がる!と思ってしまう。

僕は監督なので、どうしてもそちら側から見てしまい、ピンハネや中抜きをする会社を許せなかった。予算を下げ自社の利益を上げるためにスタッフを踏みつけるPや社長。撮影が終わってから「赤字が出たので監督料。半分にして欲しい」というPもいた。「それはお前の責任だろ!」と言いたいが、彼らは決して自分のギャラは削らず。絶対に辞めない者にリスクを押し付ける。

監督料なし。約束の額が払われないこともあった。後輩からも、その手の話をよく聞くが、一番よく働いて、一番バカを見るのは監督であることが多い。どの監督も「この映画を撮りたい!」という熱い思いがあるので利用されやすい。僕も似たようなことが何度もあり、映画が完成して残るのは借金の山だけだった。が、耐えているだけでは何も変わらない。そんな環境にいては「より良い映画は作れない」考えた。

昔、読んだ矢沢永吉の本。彼が契約したレコード会社は通常以上にバンドを縛り、ギャラもピンハネ。立場も弱かった。会社により良い歌を作ろうという思いはなく、儲かればなんでもいいという姿勢。最初は単なるロック小僧だった矢沢だが、そんな不満を抱え、あれこれ勉強、権利や立場を取り戻して行く。単にアーティストとして歌うだけでなく、プロデュースも担当。やがて興行を取り仕切るようになる。そのことでより良いアルバムを、ライブをできるようにした。という話を思い出す。

映画を監督してから、あれこれ勉強。制作費の使い道、流れ、儲け、利率。権利。著作権。慣習。あれこれ誤魔化している会社が多いことが分かる。誤魔化しどころか、えげつないところも多い。信頼していた人に裏切られ、騙された。全ての元凶は製作会社だ(彼らに事情があることは前回の記事で紹介した)そしてP。ただ、それらがないと映画は作れない。

それなら僕自身がやればいい。数本の映画であれこれ学んだ。ルーカスやスピルバーグだって監督でありpなのだ。ある作品から、監督、プロデュサー、脚本、編集を全て担当。さらに製作部がすべきロケハン。完成後の宣伝。1人7役をこなすようにした。

だが、ギャラは7人分もらわない。せいぜい2人分だ。そのことで5人分の人件費が節約。さらに製作会社を排除。これで30%(時にはそれ以上)もの手数料を取られずに済む。その分、僕が働けけばいい。節約した額は全て映画製作費につぎ込む。

製作会社の手数料というのは、事務所の家賃(都内の大きな街にに構えると月20万前後かかる)社員の人件費。光熱費。通信費。そして社長が家族を養うための給与等に使われる。でも、製作会社を入れなければ、その種の費用は必要ない。僕は自宅。社員はいない。打ち合わせは喫茶店。家族もいない。安アパートなので多額の収入も必要ない。先の例に従えば、1000万円浮かすことができる。つまり、制作費の全額を映画に注ぐことができる。

さらに、地方ロケ。地元から熱い支援応援を頂く、そのことで宿泊、食事、移動(車やバス)の協力をしてもらう。これも金額に換算すると1千万近くになる。こうして計算すると、通常の映画では例えば予算が3千万でも、2千万の作品(深夜ドラマクラス)しかできないのだが、僕のやり方だと4〜5千万クラスの映画を作れることになる。だから、俳優陣も毎回、豪華。

ただ、儲からない。製作会社ならすぐ倒産。だが、儲けるつもりはない。監督料はもらっているので最低限の生活はできる。贅沢をしようとか、家を買おうとか、外車に乗りたいという思いはない。素敵な映画を作ることが何より大切。これ矢沢的発想(彼の場合は儲かって億万長者になったが、映画界ではそうはいかない)ともう一つ。見習ったのは我が師匠・大林宣彦監督の方法論。

彼はPSCという会社を持っていたが、電話番の人が1人いるだけ。製作会社として監督作の手数料を取っていないかったのではないか? コピーするときも、すでにプリントアウトした用紙の裏を使い、徹底した節約。僕も仕事をさせてもらったことがあるが、巨匠とは思えない質素な事務所。打ち合わせの後に、その部屋のキッチンで料理してスタッフと夕食ということも。とにかく「制作費は映画のために使う!」そんな方針。

僕の場合も金儲けではない。会社を経営、都心に事務所を借りていて、社員もいれば高額の手数料を取る必要があるが、脱都会暮らし。だから3千万で作れば6千万。5千万で作れば1億相当の映画ができる。ただ、予算超過すると僕が借金を背負う。監督料がなくなる。毎回、7人分働くので完成後は過労で数ヶ月はダウン。

医者から毎回「過労死する前に休め!」と言われる。僕のスタイルをマネするバカはいない。なので紹介した。今回の記事もシェアしたり転載しないように。興味本位でしか読まない人には、読んでもらいたくない。映画作りは命がけの戦い。よろしく。


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低予算映画の戦い(上)製作費っていくら?=搾取とピンハネ。低予算作品の苦悩? [映画業界物語]

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映画製作費ってどのくらいかかるの?=搾取とピンハネ。低予算作品の苦悩?

日本映画。大手で製作すると最低1ー2億円。派手なアクションもスペクタルもない。地味な青春映画でもそのくらいはかかる。アクションもの。豪華スター共演。時代劇は数倍の製作費。インディペンデトでは最低3ー5千万円(それ以下も多いが後日、説明)深夜ドラマのようなレベル、ボーイ・ミーツ・ガールのような物語しかできない。当然、有名俳優は出ないし、銃撃戦や爆破シーン等もない。

ちなみにハリウッド映画。メジャー作品の最低制作費は現在10億円ほど。大作は100億円。話題の作品はもっとかかっている。スケールで勝てないのは当然だろう。そんな時代でも、低予算に苦しみながらも日本の映画人は少しでもいいものを作ろうと頑張っている。が、それを阻害するのが多くの場合、製作会社やプロデュサーである。マイナーの場合はかなり厳しい現実がある。

例えば3000万円の映画を小さな制作プロダクションが受けたとしよう。業界の慣習として20%前後の手数料を取る。計算してみる。600万。3千万から引くと2400万。それで映画を製作せねばならないのだが、最低1年はかかる。都心に事務所がある場合。家賃は最低でも15万はする。かける12ヶ月。180万。

電話番に若い女性。若手のPを1人。社長と3人の会社だとする。電話番の給料が1ヶ月15万。Pを20万とする。それぞれに1年の給与は180万と240万。合わせて420万。ボーナスはなし。家賃と合わせると600万。これでもう手数料はなくなる。光熱費や水道代。社長の給与が出ない。そこで慣習である20%を30%にする。900万円だ。

そこから給与と家賃を引くと300万。これが社長の給与とあれこれ。月給は30万弱。映画界で長年生きて来た50過ぎの社長。妻も子供もいる。自宅のマンション代も払う。教育費も必要。これで生活できるのか? また、会社では関係者を集めて忘年会等もする。だから、手数料を40%にする。と映画に使えるのは1800万円になる。つまり、これが実質の製作費になる。

これでは有名俳優を使えないだけでない。アクションも、カーチェイスも、CGもダメ。それこそ深夜ドラマのような地味な物語しか作れない。また、撮影期間も限られてくる。近年の映画は2時間ものを3週間ほどで撮影する。が、それを2週間。1週間に短くする。人件費を抑える。食事代を減らす。宿泊費を下げる。

ただ、スタッフの労働時間は長くなる。3週間かかるものを1週間で撮るにはスタッフは不眠不休で働く必要がある。いいものを作る!ではなく、何とか最後まで撮影する。が目的になる。当然、クオリティを気にしてられない。「面白い!感動した!」以前に撮り切ることが目標となる。それでもスタッフは俳優は、「少しでもいいものを作りたい!」と思う者が多くいる。

そんな情熱に乗っかって(利用して?)多くの製作会社は映画を作っている。悪徳社長!と思えるが、考えてみよう。彼もまた家族を養うためには慣習以上の手数料を取らねばならない。つまり、制作費が2億円なら20%でも4千万。社長も阿漕なことをしなくてもいい。頑強は3千万で映画を作ろう!なんてスポンサーがいること。だが、不況が続く時代。2億も出して失敗したら大変。どんどん制作費が下がって来た。

3千どころか、1千。500万。という信じられないような額で作られた映画まである。200万の映画を見たが、映画学校の実習のような出来。そんなものを1800円取って映画館で見せている。でも、日本の映画人口が減り。2億かけても回収できない。いや、3千でもできない。だから、どんどん下がっていくという背景もある。

では、どうしたらいいのか? それは次回紹介する。考えて欲しいのは、悪徳社長でも最初は「感動する映画を作ろう」と思っていること。それが生活が苦しくなり、リスクが高まり、いかにピンはねして中抜きして、金を残すか?を考えるようになる。次第に映画への情熱をなくし、スタッフの生き血を吸うだけの存在になっていく。これって政治家も同じ。最初は国民のため。それが次第に癒着。生き残りしか考えなくなり。国民を踏みつけるのと同じ構図。そんなことも考えてみて欲しい。




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日本の戦争映画が描かなかったもの=それこそが国民を誘導する国策のメカニズム? [戦争について]

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日本の戦争映画が描かなかったもの=それこそが国民を誘導する国策のメカニズム?

日本の戦争映画。多くはこう訴える。「戦争はいけない! 悲劇を繰り返してはならない」それは間違っていないが、映画を見ていると「多くの日本人が死んだ。この悲劇を繰り返してはいけない」=「だから戦争反対!」と言っているように思える。

その犠牲者の多くはアメリカ軍に殺されたもの。その追求はほとんどされない。「米軍が悪い」より「軍部の暴走」を強調する。悪いのはアメリカではなく、軍部だと言いたいかのようだ。そして「多くの日本人が犠牲になった。そんな戦争を繰り返してはいけない」と伝える。その背景や構図はあまり描かれず、多くの日本映画はそこで、まとまってしまう。

簡単にいうとアメリカへの配慮。悪役にしたくない、クレームをつけられたくないという思いが、敵を描かない戦争を映画にしていたのだ。また、アメリカ軍による虐殺を描いても、憎しみを掻き立てるだけ。あえて描かないということもあるはずだ。その結果、戦場でどこからともなく弾が飛んで来て、日本人が死んで行くという、加害者のいない自然災害のような戦争映画になってしまったのだろう。

そして「多くの日本人が犠牲になった。悲劇を繰り返してはいけない」というのなら、「戦争に勝ち日本人の犠牲が少なければ、戦争を続けてもいい!」という風にも聞こえてしまう。つまり、多くの日本人が死んだから戦争はいけないーとなる。犠牲者の数だけなく、その背景を見つめるべきなのに「多くの人が死んだから」ということに集約してしまい、おかしな主張になってしまったのだ。

最終的には「戦争はいけない」と、責任を「戦争」に押し付けたものが日本映画には多い。「戦争が悪い」と言っても誰もクレームをつけないからだ。そんな風にあちこちに気を配り、忖度したので、戦争の実態や背景が描けなかったのだろう。

ただ、戦後。バブル崩壊辺りまではそれで良かった。日本人の多くが戦争を経験しており「繰り返してはいけない!」と感じていたからだ。それが近年は戦争を知らない世代が主流になり、過去の記録を改竄する人たちが現れた。「日本を守るための戦争だった」と美化する。教科書から醜い事実を消し去ろうとする。戦前の空気が漂って来た。戦後76年。もう一度、戦争を考える時ではないか? 

日本の戦争映画が描いてこなかった背景を見つめる時期だ。これまで国民は軍部の犠牲者という扱いだったが、国民の多くが積極的に戦争を推進している。その背景にあるものは何か?前面の悲劇しか描かれて来なかったが、その背景やカラクリを見つめることで、戦争の正体が見えてくる。それこそが「悲劇を繰り返さない」に繋がる。

「戦争反対」「戦争はいけない」といくら叫んでも、それを推進した力やメカニズムを知らないままだと、同じ手法で何度でも悲劇は繰り返されるのだ。ここしばらく戦争映画をかなり見て、そんなことを感じた。



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沖縄戦を題材とした劇映画が作れない理由=政府が怖いだけではない? [映画業界物語]

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沖縄戦を題材とした劇映画が作れない理由=政府が怖いだけでない別の問題。

戦争映画が今、日本で作りづらい状況という話を前回した。安倍政権以降。戦争できる国にしたい人たちは「戦争の悲惨さを伝える映画」を作ってほしくないからだ。だから、最近の戦争映画は「日本兵は素晴らしかった!」とか「大和は悲劇のヒーローだ!」みたいな作品。

そんな時代。沖縄戦を劇映画で描くのはもっと難しい。「ひめゆりの塔」は何度もリメイクされているが、あれは沖縄戦の一部にしか過ぎない。他にも様々な悲劇があるのに、それらが映画化ドラマ化されない。というのは沖縄戦を描くと日本軍の蛮行。非人道主義に触れなければならないからだ。日本政府は沖縄を捨て石にして、県民がいくら犠牲になろうと、本土決戦を準備する時間を稼ごうとした。そのために県民の4分の1が死んだ。

もう一度戦争をしたい勢力にとって封印したい歴史。そのせいか、この数年は終戦記念日前後のスペシャルドラマで戦争を描く作品が減っている。まして映画で沖縄戦に出資しよう。企画を通そうという映画会社は皆無。「政権に、団体に睨まれないようにしよう」という意識が働いている。また、沖縄戦を劇映画にするには金がかかる。他の戦闘なら御殿場あたりで撮影できるが、沖縄ロケハ大変だ。車では行けない。飛行機代。宿泊費がかなり必要。また、沖縄には火薬を持ち込めない規則がある。戦争につきものの爆破シーンが撮れない。そうなると、その種の場面だけ関東で。あとは沖縄。となると、さらに製作費がかかる。

さらに「沖縄戦を見たい!」という観客も少ない。「永遠の」何とかみたいに嘘ばかりでも泣ける映画が見たいと考える。そもそも、沖縄戦に関心がある人が少ない。映画界にもほぼいない。学校でも沖縄戦は教えない。ニュースでも触れない。NHKの上部だけのドキュメンタリー。それも過去に放送したっきり。だから、映画会社も沖縄戦では儲からないと判断。企画しない。でも、だからこそ、沖縄戦を映画化するべきなのだ。

今の時代。567対応、オリンピック。沖縄戦と同じ構図だ。国民を捨て石にして、政府が自分たちちを守ることしか考えていない。国民がどれだけ犠牲になろうと平気。全く同じ。76年前と変わってないことを痛感する。何が原因か?何がいけなかったのか?歴史から学ぶことができる。沖縄戦は今の時代に見つめ直すべき歴史なのだ。

だが、どこの企業も金を出さない。どの作家も興味を持たない。中にはドキュメンタリー映画を撮り、描いてはいけないところまで描いて、スポンサーに嫌われた監督もいるようだ。結局、DVDもテレビ放送も止められたと聞く。沖縄戦の真実を描くと、そうなるのだろう。しかし、今こそ振り返るべき歴史。「人々が見たい映画」を作るのではなく、「人々が見なければならない映画」を作る。それこそが映画作家の仕事のはず。なのに、それができない現実を見つめるしかない。



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もう日本で反戦映画は作れない!=沖縄戦はもっての他!? [戦争について]

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もう日本で反戦映画は作れない!=沖縄戦はもっての他!?

今の日本映画界。戦争ものを作るなら「日本軍は素晴らしかった!」「勇敢だった!」「彼らが日本を守った!」という方向でないと、どこの企業も金を出さない。

あるいは「戦争はいけませんよ〜」「多くの人が亡くなり悲しいですよね〜」(といいながら誰の責任か?なぜ戦争になったか?は描かない)そんな上っ面だけの作品しか製作されていない。原発事故の映画と同じ状況だ。

大企業が出資したのは「東電職員は命がけで日本を守ったんだよ〜!」という嘘800=加害者を被害者にして賛美する「Fukushima」なんとかという映画だけだ。政府が「右!」というのを「左!」というマスコミや大企業や団体は存在しない。NHKだけではない。

そんな状況の中で塚本晋也監督が作った「野火」。父の遺産を注ぎ込んで製作。彼のような有名な映画監督の作品でさえ戦争ものだと、どの企業も費用を出さなかった。インタビューでこう答えている。

「次第に戦争映画が作れない空気が広がっているのを感じた。早く作らないと作れなくなってしまう」

その空気がもう日本に溢れている。オリンピックがまさにそれ。緊急事態宣言下。感染者がどんどん増えているのに強行。国民の半分以上が反対しているのに、政府は止めようとしない。これが戦争ならどうか? 政府は同じことをするだろう。

その戦争を進めるために何年も前から教科書を書き換え「日本は悪くなかった」と子供たちに教える。沖縄戦の集団自決の記述を削除。悲惨な戦争映画を作らせず、日本賛美の映画ばかりにして「日本軍は素晴らしかった!」「彼らが国を守った!」と刷り込む。

特に沖縄戦を描く映画などあり得ない。「軍が県民を犠牲にして本土を守った」ーなんていう酷い事実を絶対に知らせたくないだろう。すべては来るべき戦争のための準備。オリンピック強行を見ていると、そう思えてしまう。本当に必要なのは悲劇を伝える作品なのだ。が、それを作ろうとする映画会社も企業もない。どうすればいいのか?


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横浜=青春プレイバック⑦番外編 懐かしいもの紹介!ペンギングッズ [横浜青春プレイバック]

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横浜青春プレイバック⑦番外編 懐かしいもの紹介!ペンギングッズ

懐かしいもの発見! 若い人にはこれが何だか分からないかも? 今から38年前。1983年に人気だったペンギンキャラ。そのカセットテープのキャリングケース。聖子ちゃんの歌♫「Don`t kiss me baby~」が聴こえてきそう?

横浜時代。遠出する時は必ずこれとウォークマン持って出発。少し前はiPod。今はamazonミュージックで手軽だけど。昔はこんな感じ。ちなみにこのペンギンはサントリーの缶ビールのCMのキャラクター。聖子ちゃんの歌バックのアニメーション。

この時代。僕は映画監督を目指して映画学校に通っていた。だが、目標を達成するのは、そこから25年後のことだった。そんな時代の思い出。


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横浜=青春プレイバック⑥ ヤクザが経営するレストラン?!怖い噂。 [横浜青春プレイバック]


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横浜=青春プレイバック⑥ ヤクザが経営するレストラン?!怖い噂。

今から41年前。僕は横浜のある街に住んでいた。映画監督を目指して映画学校に通う。が、あまりにも退屈で、数ヶ月で登校拒否。同じ不良生徒?と毎日、宴会をしたり名画座通い。当時はまだシネコンがなく、映画館はロードショー館と、少し遅れて2本立て(3本立て)で上映する名画座があった。

特に名画座はロードショーされた映画を遅れて上映するだけでなく、古い名画の上映もした。まだ、レンタルビデオもない時代。昔の映画はテレビ洋画劇場で見るしかない。なのに都会では名画座でそれらを見ることができた。特に東京には多い。横浜には横浜日劇、大勝館、横浜名画座、紅座があり、よく行った。当時は学生500円の劇場もあり、それで2本立て3本立てだった。退屈な映画学校に通うよりよほど勉強になった。

そんな名画座で映画を見て戻ると、腹が減る。午後9時10時を超えると飲食店はほぼ閉まる。当時はセブンイレブンさえも11時で営業終了。ファミレスもなかった。20歳前だった僕は自分で料理するのも面倒で、外食ばかり。遅い時間の食事は困る。横浜は都会と思われがちだが、僕の住むあたりは観光地でも都会でもなく、普通の田舎街と変わりない。

そんな中で1軒だけ。午前2時まで営業している喫茶店があった。定食メニューもある。生姜焼き定食とか、ハンバーグ定食とか。深夜営業のせいか、少し値段が高く750円くらい。普通の食堂で食べれば600円くらいの時代。でも、深夜に食事できるのはありがたい。

ただ、その店。少し怪しい。店内に入ると何かヤバいものを感じる。ウエートレスのお姉さん。最初は笑顔で感じいいのだが、月日と共に表情が暗くなり、笑顔がなくなる。そしてお腹が大きくなり、やがて店からいなくなる。そしてまた別の若い愛想のいい子がウエートレスが来る。それの繰り返し。ウエイターは常時、愛想が悪い。目つきも悪い。

同級生の友人が近所に住んでいた。彼もよくその店に行っていたのだが、あるとき、こんな話をしてくれた。「どうも、あの店はヤクザが経営しているようなんだ。それで若い子を連れて来る。でも、ヤクザと付き合っているから荒れて来る。組員が妊娠させてしまったら、別の子を連れて来るそうだよ」筋の通る話。だが、妊娠した子はどうなったのだろう? 組員と結婚したのか? それとも故郷に送り返されたのか?

表情が暗くなるのは暴力を振るわれるから?稼いだ金を取り上げられる? 他に何かやばい仕事をさせられていた?その辺は分からないが、その話には非常にリアリティを感じた。もしかしたら、田舎から出て来た女の子を騙して働かせていた? ただ、店でトラブルがあったとか、ぼったくられたということはなかった。

そして、その後も新人で笑顔が眩しいウエートレスのお姉さんも、次第に表情が曇り、いつしかいなくなる。今から41年前の話。その場所に10年前に行ってみた。店がないだけではなく、建物ごと建て替わっていた。その店では事件はなかったが、近所の別の店では大きな騒動になったことがある。そして、僕の友人たちも巻き込まれる大事件に発展する。とても笑える? 別の機会に紹介する。横浜青春プレイバック。お楽しみに。



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横浜=青春プレイバック⑤ 朝一番早いのはパン屋さん。思い出の店 [横浜青春プレイバック]

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横浜=青春プレイバック⑤ 朝一番早いのはパン屋さん。思い出の店

映画学校のクラスメート。たまり場になっていたのが先に紹介したM荘。そこで毎日、朝まで映画の話をした。先に酔い潰れて寝ている奴もいるが、起きている者はこのパン屋に行く。

何と、朝5時から営業している。歌でも♫「朝一番早いのはパン屋のおばさん」というのがあるが、あれば事実だった。この店に行き、出来たてのカレーパンやアンパンを買う。サンドウィッチは少し高いので敬遠。それを店の表で立ったまま食べる。「じゃあ、また、明日な!」と言って別れ、M荘の友人は部屋に戻り、僕は徒歩で15分かけて自分のアパートに戻る。

写真は今年撮影した者だが、41年後の今日もパン屋は存在する。あの当時は木造の建物だったが、立て直し鉄筋のお洒落ものになっていた。あの時のパンの味、もう一度!と何か買いたかったが休業で残念。しかし、この店はあの頃、毎週のように僕らが訪れた後も、営業を続け。今もパンを作り続けている。職人さんは代替わりしたかもしれない。いや、変わったはずだ。

あの時に30代だとしても今は70代。そして僕らは店頭でおばちゃんからパンを買っていたが、あのおばちゃんは元気だろうか? あの当時40代なら今は80代。もう、亡くなっているかもしれない。ただ、僕がこのパン屋に来たのは80年〜81年の2年。その後、少し離れた街に引っ越したので来ることはなかった。そしてLA留学。さらに帰国して東京で30年近く。

その41年間。このパン屋は営業を続け、パンを売り続けて来たと思うとなぜか嬉しくなる。というのも、当時のお店。この界隈で訪ねてみたがほとんどがなくなっていた。20年を超える不況で潰れたものもあるだろう。あるいは後継者がいなくて店を閉めたところも。そんな中で今も営業している店があると嬉しくなる。

20歳前の青春時代を過ごした思い出の店が今も存在すること。本当に嬉しい。41年の年月を噛み締めてしまう。


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横浜青春プレイバック④ この場所に仲間たちがいた。「学校なんて退屈なだけ! [横浜青春プレイバック]

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横浜=青春プレイバック④ この場所に仲間たちがいた。「学校なんて退屈なだけ!」

横浜駅から横浜線で数駅。そこから徒歩で15分くらいのところにある公園。41年前はここに下宿アパートがあった。木造の二階建て。1階に年老いた母と20歳を超えた息子が住む。管理人さん親子。その奧の部屋と2階が全てアパート。玄関は1つ。そこから上がり各部屋に行く。トレイは共同。風呂はなし。4畳半と6畳の部屋がある。各部屋には小さなキッチンがある。そこに映画学校の同級生たちが住んでいた。

最寄駅は違うが、僕の住むアパートからも徒歩で15分くらい。ここの6畳に住む友人の部屋がたまり場になり、一時は毎日のように飲み会をしていた。始まりは何だったのか?そうだ。学校帰りにクラスメートたちと良く飲みに行っていたのだが、連日それはきつい。皆、貧しい学生。授業も朝から夕方まであり、アルバイトする余裕もない。

そこで誰かの家に行き、近所で柿の種やポテトチップスを買い、ビールや焼酎で宴会!という形を取るようになった。安く済むし、酔っ払えば、そのまま泊まれる。終電を気にする必要もない。その下宿アパートこそが、僕の横浜物語、第1章の舞台。 M荘である。

当時は「メゾン・ド・代々木」とか、そんなお洒落な名前はなかった。高橋さんちの2階なら「高橋荘」山田さんなら「山田荘」。あの手塚治虫をはじめとする漫画家たちが住んでいたのが「ときわ荘」時代は違うが、その習慣が引き継がれていたのだろう。それが1980年。そのM荘を中心に数々の事件が起こり、波乱万丈、荒唐無稽、爆笑必至の青春が繰り広げられた。

そのアパートの住人。僕を含めてほぼ全員が落ちこぼれ。と書くと惨めな話?と思うかもしれないが、そうではない。映画学校の授業は退屈を極めた。日本映画の歴史。外国映画の歴史。シナリオの書き方。等の授業。確かに大事なことではあるが、生徒たちは映画監督を目指している。評論家になりたい訳ではない。過去の名作を見ることは大切だが、それだけではクリエイティブは育たない。

あとで知ることなるが、要はその学校。金儲けが目的。食えない映画人を集めて講師をさせて、大して必要でもないことを教える。高い授業料で講師たちの生活を支える。あるクラスメートが入学式にこんな光景を目撃した。集まった生徒たちを見ていた学長先生、「おー今年も金づるが集まったなあ。この中でものになるのはまあ1人かな?」将来の映画監督を育てようという気はなかったのだ。

そんなこと。かなり後になって聞いたが、役にも立たない授業の連続。僕は不満が募っていた。ただ、学校に行けばクラスメートと映画の話ができる。当時、ヒットしていた映画は「地獄の黙示録」「クレーマークレーマー」「影武者」。夏にはスピルバーグの「1941」「スターウォーズ」の第二弾「帝国の逆襲」角川映画の大作「復活の日」の公開が控えていた。

が、多くのクラスメートはその辺のメジャー作には興味がなく、池袋文芸座で上映される。ルキノビスコンティ監督特集。イングルマル・ベルイマン監督特集に通うなど、高級?映画志向の者が多かった。「お前、ハリウッド映画なんか見ているの? 馬鹿になるよ」というお高く止まった者も多かった。「俺はその辺の映画ファンとは違うんだ」という感じ。だが、彼らは真面目に授業に出ていた。

そんな校風に合わないのか?あるいは単なる怠け者なのか? 授業が退屈というのもあるが、授業に出ない生徒が増えていく。クラスでは「落ちこぼれ」と言われた。先のM荘の住人。約1名をのぞいて全員がそれとなった。そして登校拒否。連日、部屋で宴会。朝まで飲みながら映画の話。授業は出なくても皆、映画好き。それは至福の時間だった。

特に僕は大阪の進学校だったので、喜びが大きかった。高校は「映画なんて見てる奴はバカ!」というところ。「お前は映画ばかり見ているから成績が上がらないんだ」と教師にも言われた。ただ、学校の授業より、映画館で見る外国映画の方が数倍勉強になると思っていた。当然、それは理解されず、クラスで映画の話をすることはなかった。学校帰りに隠れて映画館に行き、一人で映画を見て、家に帰る。誰とも語り合えない。そんな日々が3年間。それがM荘に行くと、同じ思いの仲間が何人もいた。

これまでに見た映画全てについて語り合ったのではないか? ただ、そんな日々もやがて終わる。何ヶ月もすると、語り合うことがなくなる。相変わらず、僕らは学校には行かない。やがて、あの学校を卒業しても映画の仕事を紹介される訳でもないことが分かる。単位を取ったからと監督になることはなかった。卒業して映画監督になった人もいないと聞く。さらに学校に行くことがなくなった。

行く場所がなく、M荘の6畳部屋に集まる。一緒に飯を食う。テレビを見る。誰も何も話さない。僕は何のために横浜に来たのか? 学校も無意味。友達と集まっても話すことがない。その内に夏休みがやって来た。こんなことでいいのか? どうすれば映画の仕事ができるのか? どうすれば映画監督になれるのか? 横浜の空を見上げながら毎日、考えていた。

そんなM荘があったのが、この公園。今は児童公園になっている。41年前。18歳だった僕らは、ここで青春時代を過ごしていた。そんな秋のある日、僕は行動を起こす。このまま大人しくしてられない。それが映画監督への道の第一歩となった。


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