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横浜青春プレイバック④ この場所に仲間たちがいた。「学校なんて退屈なだけ! [横浜青春プレイバック]

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横浜=青春プレイバック④ この場所に仲間たちがいた。「学校なんて退屈なだけ!」

横浜駅から横浜線で数駅。そこから徒歩で15分くらいのところにある公園。41年前はここに下宿アパートがあった。木造の二階建て。1階に年老いた母と20歳を超えた息子が住む。管理人さん親子。その奧の部屋と2階が全てアパート。玄関は1つ。そこから上がり各部屋に行く。トレイは共同。風呂はなし。4畳半と6畳の部屋がある。各部屋には小さなキッチンがある。そこに映画学校の同級生たちが住んでいた。

最寄駅は違うが、僕の住むアパートからも徒歩で15分くらい。ここの6畳に住む友人の部屋がたまり場になり、一時は毎日のように飲み会をしていた。始まりは何だったのか?そうだ。学校帰りにクラスメートたちと良く飲みに行っていたのだが、連日それはきつい。皆、貧しい学生。授業も朝から夕方まであり、アルバイトする余裕もない。

そこで誰かの家に行き、近所で柿の種やポテトチップスを買い、ビールや焼酎で宴会!という形を取るようになった。安く済むし、酔っ払えば、そのまま泊まれる。終電を気にする必要もない。その下宿アパートこそが、僕の横浜物語、第1章の舞台。 M荘である。

当時は「メゾン・ド・代々木」とか、そんなお洒落な名前はなかった。高橋さんちの2階なら「高橋荘」山田さんなら「山田荘」。あの手塚治虫をはじめとする漫画家たちが住んでいたのが「ときわ荘」時代は違うが、その習慣が引き継がれていたのだろう。それが1980年。そのM荘を中心に数々の事件が起こり、波乱万丈、荒唐無稽、爆笑必至の青春が繰り広げられた。

そのアパートの住人。僕を含めてほぼ全員が落ちこぼれ。と書くと惨めな話?と思うかもしれないが、そうではない。映画学校の授業は退屈を極めた。日本映画の歴史。外国映画の歴史。シナリオの書き方。等の授業。確かに大事なことではあるが、生徒たちは映画監督を目指している。評論家になりたい訳ではない。過去の名作を見ることは大切だが、それだけではクリエイティブは育たない。

あとで知ることなるが、要はその学校。金儲けが目的。食えない映画人を集めて講師をさせて、大して必要でもないことを教える。高い授業料で講師たちの生活を支える。あるクラスメートが入学式にこんな光景を目撃した。集まった生徒たちを見ていた学長先生、「おー今年も金づるが集まったなあ。この中でものになるのはまあ1人かな?」将来の映画監督を育てようという気はなかったのだ。

そんなこと。かなり後になって聞いたが、役にも立たない授業の連続。僕は不満が募っていた。ただ、学校に行けばクラスメートと映画の話ができる。当時、ヒットしていた映画は「地獄の黙示録」「クレーマークレーマー」「影武者」。夏にはスピルバーグの「1941」「スターウォーズ」の第二弾「帝国の逆襲」角川映画の大作「復活の日」の公開が控えていた。

が、多くのクラスメートはその辺のメジャー作には興味がなく、池袋文芸座で上映される。ルキノビスコンティ監督特集。イングルマル・ベルイマン監督特集に通うなど、高級?映画志向の者が多かった。「お前、ハリウッド映画なんか見ているの? 馬鹿になるよ」というお高く止まった者も多かった。「俺はその辺の映画ファンとは違うんだ」という感じ。だが、彼らは真面目に授業に出ていた。

そんな校風に合わないのか?あるいは単なる怠け者なのか? 授業が退屈というのもあるが、授業に出ない生徒が増えていく。クラスでは「落ちこぼれ」と言われた。先のM荘の住人。約1名をのぞいて全員がそれとなった。そして登校拒否。連日、部屋で宴会。朝まで飲みながら映画の話。授業は出なくても皆、映画好き。それは至福の時間だった。

特に僕は大阪の進学校だったので、喜びが大きかった。高校は「映画なんて見てる奴はバカ!」というところ。「お前は映画ばかり見ているから成績が上がらないんだ」と教師にも言われた。ただ、学校の授業より、映画館で見る外国映画の方が数倍勉強になると思っていた。当然、それは理解されず、クラスで映画の話をすることはなかった。学校帰りに隠れて映画館に行き、一人で映画を見て、家に帰る。誰とも語り合えない。そんな日々が3年間。それがM荘に行くと、同じ思いの仲間が何人もいた。

これまでに見た映画全てについて語り合ったのではないか? ただ、そんな日々もやがて終わる。何ヶ月もすると、語り合うことがなくなる。相変わらず、僕らは学校には行かない。やがて、あの学校を卒業しても映画の仕事を紹介される訳でもないことが分かる。単位を取ったからと監督になることはなかった。卒業して映画監督になった人もいないと聞く。さらに学校に行くことがなくなった。

行く場所がなく、M荘の6畳部屋に集まる。一緒に飯を食う。テレビを見る。誰も何も話さない。僕は何のために横浜に来たのか? 学校も無意味。友達と集まっても話すことがない。その内に夏休みがやって来た。こんなことでいいのか? どうすれば映画の仕事ができるのか? どうすれば映画監督になれるのか? 横浜の空を見上げながら毎日、考えていた。

そんなM荘があったのが、この公園。今は児童公園になっている。41年前。18歳だった僕らは、ここで青春時代を過ごしていた。そんな秋のある日、僕は行動を起こす。このまま大人しくしてられない。それが映画監督への道の第一歩となった。


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