チリ=クーデターの映画2本。日本もアメリカも政府が守るは企業だけ? [社会政治]
チリ=クーデターの映画2本。日本もアメリカも政府が守るは企業だけ?
「ミッシング」「サンチャゴに雨が降る」この2本はどちらも1973年チリのクーデターを描いたもの。歴史の授業では分かり辛いことも、映画で見るとよく分かる。「サンチャゴ」は市民目線。「ミッシング」は在チリのアメリカ人視点。両者で見ることでさらによく分かる。
この軍部クーデターはアメリカCIAが仕掛けたもの。チリ国民に人気があったアジェンデ大統領はアメリカによる搾取を終わらせようとした。チリに多くのアメリカ企業。その収益が失われることを恐れた政府が裏で画策、軍隊を抱き込み起こしたものだ。アメリカお得意の手。ピッグス湾事件も同じ構図。キューバのカストロ政権を倒そうと、亡命キューバ人をCIAが兵隊教育。彼らを使いクーデターを起こそうとした。が、ケネディは反対。アメリカ軍の派遣を止めたので失敗に終わる。
そのケネディ暗殺もチリのクーデターと同じ構図。ベトナム戦争を止められたら軍需産業の儲けが減る。それが背景の一つ。戦争も同じ。企業が儲かる。政府は賄賂をもらう。だから、戦争を始める。日本の消費税も同じ。実は企業の税を安くするためのもので、福祉のためではない。企業が払うべき法人税を代わりに国民に払わせているだけ。
山本太郎や共産党はそれを指摘しているが、テレビではそれをいう人はいない。最近は本当のことは言わないと有名になっている池上彰も「高齢化社会になるので日本では消費税の値上げは必要」と言い、「報道ステ」「NEWS23」のキャスターたちも、ことあるごとに「いつかは上げねばならない」と政府を擁護。マスコミで「消費税」の本当に使われ方を伝えるのはタブーなのだろう。立憲が「消費税5%に値下げ」を掲げられないのも、大企業を敵に回したくないという思いではないか?
話が逸れたが、アメリカでは政府=大企業が組んで、CIAを使い他国の政権をも転覆させ、企業の利益を図る。そのために国民が犠牲になり、個人の尊厳が踏みにじられても構わない。そんな姿勢が見える。「ドキュメンタリー沖縄戦」を製作した時も同様のことを感じた。戦時中の政府も軍も、沖縄を守る、救うという気はなく、本土防衛しか考えていなかった。政府はどの国でも、いつの時代でも、国民ではなく、自身と企業しか守らないのだ。
戦争責任を追求しない日本人?=アメリカ人に指摘されたある日本映画 [戦争について]
戦争責任を追求しない日本人?=アメリカ人に指摘されたある日本映画
広島原爆の投下を描いた今村昌平監督の「黒い雨」がアメリカで公開された時。LAタイムスの批評にこう書かれていた。「原爆による被害ではなく、天災によって人々が苦しめられたかのように描く物語」日本人からすると、その原爆を落とし、多くの人を殺したアメリカ人に指摘されるのはどうか?とも思える。が、そのアメリカ人から見ても「これだけ酷い思いをしたのに、なぜアメリカの責任を追求もせず、批判もしないのか?」ということなのだろう。
そこにはどんな背景があるのか考えた。地方では問題が起こった時、加害者を責めないことがある。今後も狭い地域で一緒に生活をしなければならないからだ。だから、責めない。触れない。被害者側が騒ぎ立てると、その人を叩くことさえある。「お前が大人しくしてれば、問題は起きない。何もなかったことにできる」と言わんばかり。ムラ社会ルールの一貫。僕もその種のケースを何度も見て来た。罪を追求しない。知らなかったことにする。なかったことにする。
「黒い雨」もその種の日本人的なものが反映されてはいないか? 他の日本映画でも同様。アメリカ兵が出て来ないものが多い。どこからか分からないところから銃撃。機銃掃射。日本兵が倒れていく。もちろん敵はアメリカ軍だと分かるが、そこは描かない。「黒い雨」と同様に広島原爆を描いた「ひろしま」はアメリカ側に配慮して上映が中止になった。戦後間もない頃で、政治的なことがあったとは思うが、アメリカ側からの圧力ではなく、映画会社側の配慮だったという。
先に読んだ学徒看護婦の体験談でも、悲劇は描くが戦争を起こした責任と助長したものが何か?は追求されていない。物語や映画だけではない。ミッドウェイ海戦で敗北を喫した日本軍。山本五十六も、南雲中将も責任を取ってない。その後も同じことが続いている。そういえば福島の原発事故でも、東電の3トップは満額の退職金をもらっている。先の黒川検事長も賭けマージャンをしてもあの程度で済んでいる。
なぜ? 日本人は責任追及をしないのか? やはりムラ社会ルールが社会全体に根付いているからではないか? だから、戦争映画でも「アメリカ軍が人道無視の兵器を使った」とか「日本軍が無茶な計画で住民を巻き込んだ」という批判をしない。加害者責任を避け、ひたすら犠牲者や被害者ばかりを描いているようにも思える。だから「戦争はいけない」とはいうが「なぜ、戦争は起きたのか?」「誰に責任はあるのか?」を追求しないのかもしれない。