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戦争責任を追求しない日本人?=アメリカ人に指摘されたある日本映画 [戦争について]

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戦争責任を追求しない日本人?=アメリカ人に指摘されたある日本映画

広島原爆の投下を描いた今村昌平監督の「黒い雨」がアメリカで公開された時。LAタイムスの批評にこう書かれていた。「原爆による被害ではなく、天災によって人々が苦しめられたかのように描く物語」日本人からすると、その原爆を落とし、多くの人を殺したアメリカ人に指摘されるのはどうか?とも思える。が、そのアメリカ人から見ても「これだけ酷い思いをしたのに、なぜアメリカの責任を追求もせず、批判もしないのか?」ということなのだろう。

そこにはどんな背景があるのか考えた。地方では問題が起こった時、加害者を責めないことがある。今後も狭い地域で一緒に生活をしなければならないからだ。だから、責めない。触れない。被害者側が騒ぎ立てると、その人を叩くことさえある。「お前が大人しくしてれば、問題は起きない。何もなかったことにできる」と言わんばかり。ムラ社会ルールの一貫。僕もその種のケースを何度も見て来た。罪を追求しない。知らなかったことにする。なかったことにする。

「黒い雨」もその種の日本人的なものが反映されてはいないか? 他の日本映画でも同様。アメリカ兵が出て来ないものが多い。どこからか分からないところから銃撃。機銃掃射。日本兵が倒れていく。もちろん敵はアメリカ軍だと分かるが、そこは描かない。「黒い雨」と同様に広島原爆を描いた「ひろしま」はアメリカ側に配慮して上映が中止になった。戦後間もない頃で、政治的なことがあったとは思うが、アメリカ側からの圧力ではなく、映画会社側の配慮だったという。

先に読んだ学徒看護婦の体験談でも、悲劇は描くが戦争を起こした責任と助長したものが何か?は追求されていない。物語や映画だけではない。ミッドウェイ海戦で敗北を喫した日本軍。山本五十六も、南雲中将も責任を取ってない。その後も同じことが続いている。そういえば福島の原発事故でも、東電の3トップは満額の退職金をもらっている。先の黒川検事長も賭けマージャンをしてもあの程度で済んでいる。

なぜ? 日本人は責任追及をしないのか? やはりムラ社会ルールが社会全体に根付いているからではないか? だから、戦争映画でも「アメリカ軍が人道無視の兵器を使った」とか「日本軍が無茶な計画で住民を巻き込んだ」という批判をしない。加害者責任を避け、ひたすら犠牲者や被害者ばかりを描いているようにも思える。だから「戦争はいけない」とはいうが「なぜ、戦争は起きたのか?」「誰に責任はあるのか?」を追求しないのかもしれない。



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