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カテゴリー分けしたがる日本人=なぜ、自分の目で見て判断しないのか?(再掲載) [MyOpinion]

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ある地方のラジオ番組に出た時、こう聞かれた。「監督はどちらの出身ですか?」「その質問、絶対に盛りませんよ」捻くれ者の僕はそう答えた。でも、DJは聞きたがるので「和歌山県です」と答えた。すると和歌山について質問を始めるのが「よく知りません...」と答えるしかない。そうなんだ。幼い頃に数年住んでいただけで、他の街の方が長い...。「ほら、盛り上がらないでしょう?」というとDJさん困っていた。なんと意地悪なゲストだ〜!

人は生まれた街で育つ、思い出を作ると、彼は思ったのだろう。だから、故郷について訊いた。が、僕は例外。和歌山生まれだが、親の仕事の都合で関西を転々とした。そして、どこの街に住んでも「お前は変わっている!」と言われた。その後、横浜の映画学校に進学。クラスメートに言われた。「関西人は変わっている」

その後、LA留学。こういうアメリカ人がいた。「日本人は変わっているなあ」結局、どこへ行っても変わり者(ただ、アメリカ人はカテゴリー分けする人は少ない。基本、人は皆違うと思っている)それを皆、「関西人だ」「日本人だ」というカテゴリー分けしたがるが、どの街でもどの国でも「変わり者」と言われた。関西人だから日本人だから変わっている訳ではない。そもそもが「変人」なのだ。

なぜ、人はカテゴリー分けしたがるのか?政権を批判したら「左翼」、アニメが好きなら「オタク」、何で分けたがるのか?「ブルーカラー」「ホワイトカラー」「落ちこぼれ」「反日」「アベガー」本当に下らない。昨年の夏、れいわ 新選組が2議席を獲得。話題になった時も、ある雑誌がこんな見出しをつけた

「左派ポピュリズムの台頭」ーはあ?何それ? 何でそんな分け方するの?「山本太郎のれいわ が2議席獲得」でいいだろう?あんたは昆虫学者か!その理由。あることで気づいた。多くの日本人は「考える力」が弱い。分類してあげないと分からない。自分の目で見て、その人を理解し把握することができない。

昔のドラマでいえば「正義の味方」「悪い奴」という分け方。時代劇なら「正義の侍」と「悪代官」ー今の時代、もうそんなドラマは存在しない。なのに現実社会では未だにカテゴリー分けしている。従来の分け方では分類できない人物や事象が次々に出てくるのに、分けたがる。「考える力」を育てる教育をしていないこの国では、そうやって分類してあげないと理解できない人が多いのだろう。

それをレッテル化して悪用する人たちもいる。アニメーションを見ていたら「オタク」。政権を批判したら「左翼」「反日」。少し前は原発に反対すると「プロ市民」とも言われた。戦時中の「非国民」「売国奴」と同じ。レッテルを貼って貶めたいのだ。「一流大学卒」=「賢い」「関西人」=「面白い人」というのも同じ。関西人でも面白くない人もいる。一流卒でもバカがいる。

そんな分類をしている人は「考える力」がない人だということにも気づく。理解力があればカテゴリー分けせずに、自分の目で見て判断できる。それができないために、マスコミや政府に誘導されてやすい。現実を把握できないように思える。今、日本人に一番必要なのはやはり「考える力」なのではないか? ところで最近は「映画監督」という肩書があるので、こう言われる「映画監督って変わってるな」ーはい。それは正解。常識あると出来ない仕事なので!


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沖縄の悲しみをどうすれば、自分のこととして考えてもらえるのだろう?(再掲載 2020年1月) [戦争について]

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人はなぜ他人の痛みが理解できないのか? 人の悲しみを体感できないのか? 福島の原発事故で痛感した。

「福島の人たち、気の毒ね〜寄り添いたいね〜」

他人事だ。そもそも福島になぜ?原発が作られたか? 東京の電力を賄うためである。東京に作ると危険なので福島に作った。それが事故。東京都民の代わりに福島県民が被害を被った形だ。本来なら、都民が大変な目に遭っていたのだ。なのに他人事。。。

「朝日のあたる家」を作るときに考えた。どうすれば福島の人たちの悲しみが伝わるか? 報道でいくら惨状を伝えても「情報」でしかない。それでは他人事で終わる。対して映画は「体験」だ。恋愛映画では自分が主人公になり恋をする。アクション映画では自分がヒーローになり活躍する。

その意味で原発事故もドキュメンタリーではなく、物語=劇映画にすべき!と思い「朝日のあたる家」を作った。まあ、友人知人、先輩から反対されたが、以前に書いたので省略。映画を見て多くの方から言われた。

「ようやく福島の人たちの思いが分かりました」

避難した方々から「自分たちの気持ち。伝えることができなかったので、嬉しかったです」と言ってもらえた。そして、今回は沖縄戦。その沖縄の問題は福島の原発事故と同じ構図だ。オスプレイの事故が報道されると、テレビを見ている人はいう。

「沖縄の人たち気の毒ね〜」

でも、本土にあった多くの基地を沖縄に押し付けていること、忘れている。原発と同じ。自分たちのリスクを肩代わりしてもらって「気の毒」はないだろう。でも、やはり人は他人の悲しみを理解し辛い生き物。

今回はドラマではなく、ドキュメンタリーで沖縄戦の悲劇を伝えなければならない。どこまで「悲しみ」を表現し、他人事ではなく、自分のこととして感じてもらえるか? 教科書的な作品だと歴史は分かっても、痛みは伝わらない。学校の歴史の授業のようでは意味がない。

この数年、それを考え続けて来た。悲しい事実を描いたからと、観る者が「悲しい」と感じる訳ではない。何より人は他人の悲しみや苦しみを理解するのが苦手な生き物なのだ。どうすれば他人事ではなく、自分の苦しみとして考えてもらえるか? 今回の作品「沖縄戦」はまさにその戦いだった。

(2020年1月)




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