SSブログ

日本の戦争映画。「日本人は被害者だ」と訴えるものが多い。その構図を考える? [戦争について]

123098345_4580525448688390_6854264691012804926_n.jpg

80年代以降の日本の戦争映画の多くが描いていること。「多くの日本人が傷つき死んで行った。戦争はいけない」大切なことだ。ただ、言い換えると「日本人は被害者だ」というようにも聞こえる。だとすると加害者はアメリカか?なのに日本映画で加害者であるアメリ人を批判、責任追及する作品はほとんどない。多くの映画は日本人の悲しみ、被害は描くが、アメリカ人「酷い」という見せ方はしない。

「黒い雨」という原爆投下の映画があるが、LAで公開されたとき地元新聞に「まるで自然災害で広島県民が被害を受けたような描き方をしており、アメリカに対する怒りや批判がまるで存在しない」という批評をされた。原爆を落としたアメリカに言わるのもどうか?と思うが、その映画はまさに、そんな映画だった。同じく原爆投下を描いた映画「ひろしま」は戦後すぐに作られたこともあり、配給会社がGHQを気にしていくつシーンをカットすることを要求。製作側が拒否したために一般の映画館では公開されなかった。

その種の忖度が今も続いているので、加害者アメリカに対する批判、責任追求ができないのではないか? ただ、アメリカ人だけが悪いか?というとそうでもない。日本人もまた加害者なのだ。真珠湾、沖縄では多くのアメリカ人が死んでいる。また、日本軍は中国大陸でも多くの人を殺している。そんな加害者としての日本を描く映画。過去にはあるが、80年代以降はほとんどない。その理由を考えてみる。映画は歴史を伝えるだけではなく、娯楽であり、ビジネスでもある。「日本人が加害者だ」という映画を見たい人は多くないので、その手の作品が作られなくなったことがあるだろう。

そのために「日本人は被害者だ」という被害意識だけを描き、観客の涙を誘う物語が増え、加害者である側面を描かない。加害者アメリカの責任も差し障りがあるので、追及しない映画が80年代以降は多く作られたのだろう。悪いのは「アメリカ」ではなく「戦争」なのだという物語になる。ただ、考えるべきことがある。戦争というのはアメリカが悪い、日本が悪いだけではない。両方が加害者であり、両者が被害者なのだ。それが戦争だ。ならば「戦争がいけない」で終わるべきではなく、誰が戦争を起こしたか?を考えることが必要なのではないか?アメリカ、日本の両国にそんな人たちがいたはず。その責任こそを追求すべきではないか?

しかし、多くの日本映画はその辺が曖昧、「軍部の暴走」という形で済ませてしまう。それも山本五十六を主人公にして「本当は戦争をしたくなかったんだ」という思いで描いてしまう。軍の誰と誰が、なぜ?戦争を推進したのか?は描こうとしてしない。この構図。実はミッドウェイ海戦の結末と似ている。あの作戦は山本五十六と南雲中将が中心に立てられた。そして敗北。多くの空母が失われ、そのために日本軍は負けに向かっていく。が、中心の2人は何ら罪を負うことなく、山本はその後も任務を続け、南雲は兵学校の校長に転任している。

現在の桜を見る会の追求でも、安倍は逮捕されず、秘書が起訴されただけで幕引きをしようとしている。同じことを映画でもやっているように思える。「戦争が悪かった」「戦争はいけない」それはそうだ。が、その戦争を誰がスタートさせたのか? なぜ、国民はそれに賛同していったのか? もし、「戦争はいけない」というなら、そこを確認しないと、また同じことが起きるかもしれない。そこをなぜ日本映画は描かないのか? 本当に責任ある者を追求せずに、許してしまう日本人の習慣が、そこに反映されてはいるのではないだろうか?


スクリーンショット 2020-08-11 16.55.35.png
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:映画