SSブログ

島守の塔ー研究。なぜ、歴史を忠実に再現せず、島田知事を美化し、偉人にしたのか? [「島守の塔」疑惑]

302003771_7939168026157432_7210029391074917479_n.jpg

島守の塔ー研究。


①あの映画はなぜ、実在の人物を美化して沖縄戦を描いたのか? 
https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-02


②「戦争推進の知事」を脚色して「住民を救った偉人」に?まさに沖縄戦を再現。
https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-14

③映画監督の葛藤=地元の願いを無視? しかし、嘘で美化しないとこの映画は作れなかった? 
https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-19-1


④島守の塔」やはり罪は重い。フィクションを事実の映画化と勘違いさせる宣伝。だが、監督は事実を描いてないことを認識?https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-20

⑤劇映画を実名で描く難しさ=「島守」「F50」「Minamata」自身への戒めも!https://okinawa2017.blog.ss-blog.jp/2022-09-20-1


302581839_7985517641522470_3652643824130495791_n.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

体調悪化から1週間。快方に少しは向かっている。 [2022]

Eyrgm4aVEAAS4wM.jpeg


体調悪化から1週間。快方に少しは向かっている。

が、まだ良くない。この数日は外出せずに、おとなしくしている。FB記事執筆と「乙女たちの沖縄戦」宣伝は続けているが、集中力がなく他のことはできない。そこで体力も尽きる。

連絡せねばならない人もいるが、しばらく待ってほしい。あれこれ問い合わせがないのはありがたい。自宅入院状態だと言うのに「大丈夫ですか?」「病院は行きました?」と言うコメントを書き込む人が毎回いる。

本人は心配しているつもりだろうが、それは病人に返事を要求する連絡だ。「心配」ではなく「親切心」を被った嫌がらせとさえ言える。なぜ、寝込んでいる相手に返事を書く労力を求めるのか?そのことで時間を取らせるのか? それに気づかない人が意外に多い。が、今回はゼロ。助かる。

明後日はトークショー。それまでに復活せねばならない。少し遠い場所なので体力も必要。しかし、台風が新潟方面に戻ってきたとの情報。こちらの空もどんより。風も強い。雨も降り出す。沖縄市の上映は後2日。これで映画館公開は終了。今後はイベント上映。団体、サークルの希望で映画を貸し出し上映会をするあれ。

その話を書くと「ぜひ、うちの街でもやってください!」と言ってくる人がいるが、違う。自分達で会場を借り宣伝をし、映画を借りて上映会をするのだ。なぜか「***してください」「***を作ってください」とかコメントする人も多い。なぜ、人に要求するのか?自分から何か始めよう!と思わないのか? 与えられるのを待っている日本人性を感じる。あ、今度、それで記事を書く。


ブログ用.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

久々の仕事。1ヶ月ぶりの外出? [映画「乙女たちの沖縄戦」]

306516968_8030464590361108_6086167379029909886_n.jpg


久々の仕事。1ヶ月ぶりの外出?

昨日は茨城県で「乙女たちの沖縄戦」イベント上映。そのトークショーに参加。久々の仕事&外出だった。先月末に過労でダウンしてから初めて自宅エリアから出たのではないか? 久々の電車。久々のトーク。どこかで具合が悪くなったら大変。でも、どうにか終了。

かなり回復したとも思えるが、ここで戦いを再開するのは用心。もう少し、おとなしくて養生する。計画はあれこれ考えているが、行動は慎重に。ちょうど、連休。こんな時に外出すると大変。復活は10月を目標にする。シルバー世代になってしまい昔のようにいかないこと、認識せねば!



ブログ用.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

「乙女たちの沖縄戦〜白梅学徒の記録〜」沖縄市〜22日で終了! [映画「乙女たちの沖縄戦」]




9月12日〜沖縄市 ミュージックタウン音市場にて


9/18(日)休映
9/19(月)・9/20(火)10:30
9/21(水)休映
9/22(木)10:30


294323059_7745172148890355_8640451737632891488_n.jpg

298104362_7818125604928342_157473034288143893_n.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

劇映画を実名で描く難しさ=「島守」「F50」「Minamata」自身への戒めも! [映画業界物語]

242447309_6144232708984315_7027890729703767392_n.jpg

劇映画を実名で描く難しさ=「島守」「F50」「Minamata」自身への戒めも!

特定の映画を批判すると「そんなに嫌いなの?」とコメントしてくる人がいる。毎回、馬鹿すぎる!と呆れるが、好きだから褒める。嫌いだから批判すると言うものではない。

今回は自身への戒めでもある。こちらはドキュメンタリーだが、同じ沖縄戦が題材。特にドキュメンタリーにフィクションを持ち込んではいけない。勝手な解釈。未確認の事実を描くのはご法度。細心の注意を払った。それでも「ドキュメンタリー沖縄戦」の時は「***戦を描いていない」「***問題に触れていない」とか、あれこれ批判が来た。1時間45分の上映時間で扱えるものは限られている。自身が興味ある事件がないからと「それでは沖縄戦を描いたことにならない!」と言う輩もいた。

「米軍を美化している」と言う批判もあった。これは先の「島守の塔」で島田知事を美化しているとの批判に近いので詳しく書こう。批判の主は多少、沖縄戦を勉強したことがある人。もしかしたら特定の団体の人かもしれない。ある種の人たちは「日本人は犠牲者だ。俺たちは酷い目にあった!」と言う主張を繰り返す。それによって被害者の立場に自分達を置き、加害者の側面を隠そうとしている。アジアで日本軍が行ったことに目を向けず、沖縄、広島、長崎ばかりに目を向ける。

なのに僕は「沖縄戦」で米軍にも多くの犠牲者が出た話を伝えた。また、住民は米軍より日本軍の方が怖かったと言う話も紹介。それらを曲解。「米軍よりの作品だ!」と思い込み「美化している」と言い出したのだ。「米軍より」すら間違っているが、美化は何なのか? 米兵がおばあちゃんにチョコレートをくれた話を紹介したから? その後の専門家が「それも米軍の作戦」と解説している。

305879004_7959266517480916_1870834809225278941_n.jpg

つまり、その人たちは「日本人は犠牲者だ!」と言う思いがある。その裏には「だから、アジアの人を傷つけない!」「守るための戦争だった」と当時の日本を正当化したいと言う思いがある人たち。そこまで行かなくても、物事の一部だけを見て「おかしい!」「事実ではない」と騒ぐ人たちもいる。その意味で「島守の塔」の問題点を指摘する時も、無神経なないものねだりではなく、嘘を持ち込んだ理由や背景を探り、作り手の意図を理解した上で、問題を考えたかった。(そのために監督の本まで読んだぜ〜)

あの映画の背景はとても大切な教訓となった。主人公の故郷から支援があるからと事実を曲げて偉人にしてしまう。ま、それ以前に知事を「素晴らしい人だ」と思ったところに問題はあるのだが、映画人は事実を描くよりどーしても感動を描こうとしがち。ドキュメンタリー作家ではない。フィクションの世界で仕事をしている。実際、僕が脚本を担当した「乙女」ドラマ編でも似たような意見が出た。

「再現ドラマはフィクションなのだから、自由な発想で作るべきではないか?」

と言うスタッフもいた。通常ならそれでもいいだろう。舞台は沖縄戦でも、主人公を架空の人物にして、戦争反対の思いがある。その葛藤を描く。あり。ただ、実在の人物にそれをさせると歴史の改竄と言われる。それが「島守の塔」だ。島田叡は実在の人物。その人が思っていないこと、やっていないことをやらせて美化。偉人にしてしまった。架空の人物を作り上げ、「住民を救う」と言わせる。その人物と島田がぶつかるならありだ。が、島田の故郷から製作費が出ている。だから彼を偉人にしてしまったのだ。

87458968_3548149801925965_2444608596479049728_o-1.jpg

似たようなことをしている映画はある。「F50」は最悪だった。福一の原発事故。吉田所長は現実の人物。彼が事件以前にしでかしたことが全電源停止に繋がるのに、それを描かずにヒーローとして描く。でも、決して彼は悪人ではない。事故時の活躍は事実。だが、映画はその部分だけを描き、総理(菅直人)が怒り狂う場面ばかりを紹介した。印象操作で客は総理のために収束が遅れたと感じる。こんな風に事実とフィクションを混ぜて、制作側の意図する方向に観客を誘導することができる。(結果、事故を収束させたのは東電の職員。邪魔したのが菅直人という誘導。収束もしてない)

ただ、事実材の人物を登場させて大きな問題のない映画もある。「ワンスアポンアタイム・イン・ハリウッド」だ。スティーブ・マックイーン。ロマンポランスキー監督、ブルースリー、シャロンテート。チャールズ。マンソンが実名で登場。そこにフィクションを持ち込む。これはどうかなあ〜と言う気もしたが、エンタテイメントとして面白くできている。シャロンテート事件。「結末が現実と違うだろ!」と批判する声も聞かない。ただ、ブルースリーの娘からはクレームがついたと言う。「父はあんな嫌な奴じゃない」と。

「Minamataーミナマタ」も実在の写真家ユージーン・スミスを実名で描き、事件の当事者チッソも実名で紹介される。この作品への日本側からの批判があった。「あの場面は事実と違う」「***はおかしい」「社長は賄賂を渡していない」とか様々。さあ、先の2つと違い、この映画は難しい。僕自身はよくやったと思える。もう、多くの日本人が忘れていた水俣病を今一度、伝えたことは大きい。そのためには実名は大事。

ただ、映画で描く場合。全てを事実通りに描くと逆に繋がらない。真田広之さんの役。実在の3人を1人にしている。映画で3人も出て来られると客は覚えきれない。集約している。それを事実ではない!と批判するのはどうなのか? そして、批判する多くは水俣病に関心があり、知識がある人だ。映画により水俣病を多くに知ってもらうことは大事なのに、なぜ批判してしまうのか? ここに悲しい構図がある。

%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202014-10-17%208.29.01.png

僕の「朝日のあたる家」を批判した多くは推進派ではなく、原発に反対し、よく勉強している人たちだった。「内部被曝に触れてない」「プルトニュウムの情報が少ない」「もんじゅの話がない」とか、先の「沖縄戦」と同じであれがない!これがない!この辺は知識の問題ではなく、映画表現を理解できていないことが背景。映画はだいたい2時間。登場人物の整理。簡略化は必要。ドキュメンタリー映画ではない。

その中でどう表現するか?が監督の技量。そんな表現方が理解できないので、重箱の隅をついて批判。あるいは批判することで自分の知識を誇り、映画の不勉強さを指摘したいという意地悪な思いもよく感じる。映画があまり専門的になり過ぎると一般の人は見てくれない。勉強した人たちが満足するようでは一般はチンプンカンプン。ヒットしない。その辺を考えずに批判する人が多い。

だが、一方で制作サイドもしっかり調べずに、「ま、こんなもんでいいだろう〜」と言う人がいる。「金がないから仕方ねだろう」とか、「**した方がドラマティックだしさ〜」と事実を曲げようとするスタッフもいる。そもそも、原作ものだって原型ないほど変えてしまうのが劇映画なのだ。「乙女」のクルーは皆、ドラマの人。だから、僕が厳しく言わねばならない。

「これが劇映画ー白梅の塔ーなら、いいでしょう。でも、ドキュメンタリー、元白梅学徒の方々が証言した後で、あり得ない脚色をした再現ドラマを見せることはできない。証言を踏み躙り、利用したことになる。事実を歴史を伝えるための映画なのだから、そこを踏み外してはいけない。いつもならフィクションとして許されるが、今回は違う!」

シナリオは僕が書いた。現場で勝手に変更したり、付け加えたりしないようにお願いした。監督もスタッフもそれを理解し、超低予算とわずか数日の撮影なのに、いいものを作ってくれた。事実通りにやろうとしても、金がなくて、時間がなくてできない事もある。それはどうすればいいのか?嘘で誤魔化すか?それはダメ。では、事実に近い形で対応。様様な努力をしてくれた。そして、女子学徒は皆、架空の人物にした。取材して聞いた方々の話から、複数を1人にしたり。病院壕には十数人いるはずだが、4人に物語を絞った。

302003771_7939168026157432_7210029391074917479_n-1.jpg

事実通りに描くことが映画ではない。脚色することで伝わる事もある。複雑な構図をシンプルにする。紹介エピソードを絞る。だが、詳しい人が見ると「あれがない!」「それは事実ではない」と批判する。だから、難しい。100%の事実は伝えられない。何より演じるのは俳優であり、歴史上の人物ではない。また、人にはいくつもの面がある。家庭、職場。親として、息子として、夫として、それぞれに顔が違う。その全てを描くと多重人格に見える。そこも映画では考える。

個人的に思う事だが、「Minamata」は実名の必要がある。だが、「島守の塔」は実名ですべきではなかっただろう。そもそも、偉人でない人を故郷が応援するからと偉人にしたのが間違いの始まり。「ワンスアポン」も全面的な賛同はしない。が、僕が沖縄戦の劇映画を作るとき、どうするか?ただただ、リアルに歴史通り作ればいいと言うことではない。感動も恐怖も描かねばならない。これからの課題。


297237901_7793153734092196_8618374516547301287_n.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

「島守の塔」やはり罪は重い。フィクションを事実の映画化と勘違いさせる宣伝。だが、監督は事実を描いてないことを認識? [「島守の塔」疑惑]

302003771_7939168026157432_7210029391074917479_n.jpg


「島守の塔」やはり罪は重い。フィクションを事実の映画化と勘違いさせる宣伝。だが、監督は事実を描いてないことを認識?

知事を偉人にした理由は突き止めたので、一段落と思えていた。が、同じ監督業として「それはいかんぜよ!」と言う思いと、映画業界あるあるで苦しむ監督の気持ちも分かる気もし、あれこれ考えてしまう。Twitterで調べると、こんな感想があったので、茶々を入れてみる。

「私は島田知事も荒井本部長のことも知らなかったし、史実も知らない事ばかりでしたが、まだまだ戦争を知らない世代へ語り継がなければならないことがあるって改めて実感できました」<=映画の2人の行動は事実ではありませんよ。フィクションです。

「沖縄戦で玉砕主義が採られていく中、「命どぅ宝、生き抜け!」と最後まで叫び続けた沖縄県知事と警察部長の感動の実話」<=そんなこと叫んでいません。小声で言っただけです。あと「実話」でもない。

「これまで「島守の塔」の存在をまったく知りませんでした。こんな方がいたんですね。本土の人(やまとんちゅ)にとってこの映画は必見に値すると思います」<=これが歴史だと伝わるのなら必見にしない方が

「頭の良さだけでなく、人徳が高く、行動力のある島田知事のような方に是非戦後日本の復興の最前線で活躍していただきたかった」<=国の指示通りに戦争を推進した人です。

と、天邪鬼なことを書いたが、この映画が事実であると思っている人が多数がおり、島田知事たちが素晴らしい人!であると真に受けている人も多い。しかし、この映画のチラシ。HPの解説を読めばそう思う。

「鉄の暴風と言われた激しい空襲、艦砲射撃、上陸戦の絶望に追い込まれた沖縄戦。その中で「生きろ!」と後世に一筋の命を託した2人の官僚と沖縄の人々の物語を映画化」

「これフィクションです」という記述はない。ただ「事実の映画化」とも書いていない。「人々の物語を映画」とある。だから、嘘は言ってないけど「事実ですよ〜」と思わせる文章。HPにはこうある。

ー映画「島守の塔」は第2次世界大戦末期、長期の地上戦が決行された地沖縄を舞台に、県民の命を必死に守る戦場の知事と1人の警察部長の
それぞれの苦悩や葛藤などの生き様を通して「人間の命の尊さ」を描く映画を企画しました。「命(ぬち)どぅ宝」の言葉が、戦争の記憶をいつまでも風化させず「人間としての命の尊さ」を発信できるものと確信していますー

これも「事実を映画化」とは書いていないが、どう読んでもそう思えてしまう。フィクションとか、島田知事を脚色しと言う記述はない。そんな中、監督のインタビュー。中国新聞の記事を見つけた。

 「フィクションの劇映画として人間を描いた。さまざまな証言やエピソードを基に人物像や物語を作り上げ、何度も脚本を書き直した」と五十嵐監督。

 やはり監督はフィクションと認識している。つまり、このFB記事で何度も指摘した通りに、島田知事のキャラを脚色、偉人として描いたということ。だが、制作サイドは宣伝でそのことを一切説明せず、事実の映画化!と勘違いする解説をし、HPにそれを綴っている。新聞記事は続く。

ー新型コロナウイルス禍で撮影を1年8カ月中断し、昨年11月に再開。復帰50年の節目に間に合った。沖縄では「美化し過ぎている」「史実と違う」という声も受けた。ー

つまり、沖縄からは当然の批判が出た。これに対する監督の答えはなく、記事はこう続いている。

ー「基地のある沖縄は、まだ沖縄戦が終わっていない」と五十嵐監督。「日本人は忘れやすい。語り継ぐ映画を作り続けることに意義がある」と力を込めた。

これはおかしい。「語り継ぐ映画」?嘘を語り継ぐの? 監督は「フィクション」といい「事実ではない」ことを認めながら、この歴史的な事実を「語り継ぐ」と意味不明の発言。島田知事らの描写以外は事実だ。その歴史の部分だけを「語り継ぐ」ということか? でも、それはご都合主義。

いや、責めるのはやめよう。つまり、島田らの故郷からの支援で映画はできた。偉人にするしかない。だが、事実は違う。脚色し偉人にしたのだ。だから監督はフィクションと言う。

しかし、制作サイドは支援者たちのフィクションとはいえない。「同郷の素晴らしい偉人の映画」と説明し支援してもらった。宣伝でフィクションとは絶対に言えない。ただ、これでは「F50」と同じ。原発の事故の事実を改竄。嘘を交えて東電を称賛したあの映画と、

監督はそれを暴露できない。映画の否定になる。自分としては正直にフィクションだとインタビューに答えたのだ。そこに映画人の良心を感じる。ただ、許されないことがあるー沖縄はどうなるのか? 少年兵起用を承認した島田知事。そのために多くの男子が犠牲になった。会議で「住民に鎌や包丁を持たせて米軍に突撃させよう」とも言った人。

その人を偉人として描き、全国にそれをアピール。県民はどうなるのか? 偉人どころか戦争を推進した人。「美化する」どころではない。そのフォローも説明も一切なし。やはりこの映画。罪が重い。同じ沖縄戦を伝える映画作家として、戒めにしたい。

監督インタビュー記事=>https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=123742


306951268_7989538307787070_4397020248846292461_n.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

映画監督の葛藤=地元の願いを無視? しかし、嘘で美化しないとこの映画は作れなかった? [「島守の塔」疑惑]

306951268_7989538307787070_4397020248846292461_n.jpg


映画監督の葛藤=地元の願いを無視? しかし、嘘で美化しないとこの映画は作れなかった?

「島守の塔」問題点をあれこれ書いたが、作り手の気持ちが分かる部分もある。監督のロングインタビュー本を読むと、僕も似たような経験がたくさんあり、共感の連続。歳も3つしか変わらない。毎回、社会性の濃い作品を監督。高く評価された映画も多い。だから、なぜ、そんな人が沖縄戦の歴史を歪めるような作品を作ったか?「F50」や「ゼロ」のような悪質な意図は全くない。だからこそ気になり、その背景を追ったのだ。

先にも書いたが、政府の指示を遂行しただけの知事らたち。「偉人」にした理由は知事たちの故郷で製作費集めをしたことだ。当然、偉人として描かざるを得ない。もう1人の主人公である新井警察部長の故郷でも「我が町に、こんな素晴らしい人がいた!」と言う声が上がり始めていた時だったらしい。そこで「歴史通りに描く!」とは言えない。

だが、一つの疑問。そもそも監督は「こんな素晴らしい知事がいたこと。知っているか?」と聞かれたことで島田知事に興味を持ち調べ始める。その段階で彼は単なる役人であり、10万人を超える命を救った存在でないことは分からなかったのか? 多くの映画監督は思い込みが強い。最初に「この人は素晴らしい!」と思うと、そこから離れられなくなる。調べていても、その視点で歴史を見つめ、マイナス分を切り捨てたのか?

製作が進み、沖縄から「島田知事を偉人にしないで」と言う声が上がる。そのことで悩む言葉が監督インタビューにも出てくる。と言うことは、島田が偉人でないことを理解していたのだ。偉人でない人を偉人にすることに躊躇があった。でなければ沖縄の関係者に「彼は素晴らしい人です。偉人として描くべきです!」と主張すればいい。それをしなかったのは、偉人でないことを把握していたからだ。

そこに監督としての葛藤がある。知事らの故郷から出資。偉人映画にせねばならない。「住民に鎌や包丁を持たせて米軍に突撃されるべきだ」と発言した知事として描く訳には行かない。一方で沖縄からは「偉人にしないで」の声「現実を歪めないいでほしい」との願い。しかし、インタビューに沖縄で支援が集まったと言う話は出て来ない。地元の2社が出資すると言う話は出てくるが、額は大きくないと思える。知事たちの故郷では支援の輪が広がるというエピソード。

つまり、知事たちの本当の姿を描くと、両者の故郷からの支援を失うだろうと感じていたはず。ただ、彼自身も最初は「こんな素晴らしい知事がいた」というところからスタート。その方向で描きたい思いがあったはず。そこで支援がさほど多くない沖縄の意向は反映させず「偉人」として描いたのではないか?

そして監督自身が悩んでいるが「ヤマトンチューである自分に沖縄戦が描けるか?だが、知事たちは自分と同じ本土出身。その視点で描くしかない」と決意している。これは同時に、沖縄の視点はなくてもいい。自分には描けない。だから「偉人にはしないで」の声も反映させる必要はない。と言う自分を説得していたようにも感じる。

映画を作ると、ある人たちは喜ぶが、ある人たちが怒る。映画「ロッキー」の1作目。黒人のチャンピオンを倒したロッキー。観客は総立ちで拍手。だが、立たずにいる不満そうな人たちがいたそうだ。黒人の観客。白人が黒人を倒す物語に思えたのだ。今回の映画でいえば「我が故郷に素晴らしい人物が」と言う故郷の人たちは喜ぶ。だが、沖縄の人たちは?

4人に1人が犠牲になった沖縄戦。その責任は軍や政府にある。島田知事は住民を守ろうとしたのは事実だ。が、映画のようなことして、政府に知れたら即、クビ。だからシンドラーのように隠れて逃したりはしていない。国の指示通りの形で避難を進めただけ。さらに少年兵を戦場に送る許可を出したのも知事だ。

戦争を推進した1人だ。それを「多くの命を救った!」「英雄だ」と描いた映画を沖縄の人たちはどう思うのか? 「嘘だ!」「出鱈目だ!」と言う事になる。だが、その沖縄からは多額の支援はなかっただろう。偉人として描けば映画は撮れる。沖縄の声を受け入れれば映画は潰れる。何より監督自身は「彼は素晴らしい知事」と言う思いからスタートしている。だから、沖縄の声を反映させなかったのだろう。

だが、彼にも後悔があったようだ。インタビューの最後で「沖縄の人たちの約束も果たした」と言っている。え?それはないでしょう。と思うが、詳しくは書かれていない。さらに「島田知事たちの慰霊碑を作ったのも沖縄の人たち。感謝と尊敬があるはずだ」という話になる。これも監督が自身を納得させようとした言葉だろう。地元から「知事は立派でした。この映画は素晴らしい」とは言われていない。そんな記述はインタビューにも出てこない。でも、慰霊碑を作ったのだから尊敬があるはず。だから、偉人として描いても正解だ。そう自身を納得させるための言葉だろう。

では「約束を果たした」はどうだ?約束を反故して「偉人」として知事を描いているのに? 想像した。「彼はいろんな葛藤をしながら知事職を続け死んだ。私はその葛藤を描いた。だから偉人ではない。約束は果たした」と言うことだろう。だが、どう見ても「偉人」。また、偉人だって葛藤する。その後、新聞イタンビューでこう答えている。

「偉人としてではなく、葛藤を描いた」ーやはり、葛藤があれば偉人でないということ。だが、それは詭弁。自分を納得させるレトリックでしかない。約束は果たしていない。そのようなおかしな技法で自身を正当化するのは、沖縄に対して申し訳ない思いが、強い後悔があるからだろう。強い罪悪感があるから、そんな言葉が出たのだ。

しかし、偉人として描けなければ映画自体が潰れた。監督は偉人として描き映画を成立させる方を選んだ。沖縄で製作費を集めて!と考える人もいるだろうが、それはかなり難しい。「政府の言う通りに職務を続けた知事」を映画にしよう!では盛り上がらない。「故郷の偉人を伝える!」と言うから2つの故郷で支援が集まったのだ。監督は誰しもスタートさせた映画は完成させたい。どんなことをしても作りたい。それを止めるのは、生まれ来る我が子を殺すようなもの。

だが、そのことで沖縄の観客がどんな思いをするか?を考えるのを止めている。自分を説得し「約束は果たした!偉人として描いていない!」と納得。インタビューでもそう答える。やはり、強い罪悪感があるのだ。同業者としてその葛藤は理解する。でも、同時に、作った映画が歴史を捻じ曲げ、沖縄の人の思いを踏みつける。沖縄戦を知らない人たちに嘘の歴史を伝える。それは罪。ただ、監督はそのことも分かっているはずだ。


302003771_7939168026157432_7210029391074917479_n.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

「乙女たちの沖縄戦〜白梅学徒の記録〜」たちの沖縄戦」@沖縄市。女優の森田朋依が舞台挨拶! [映画「乙女たちの沖縄戦」]

Fc1VhEbacAITJiZ.jpeg

マスク動画~YT削除事件。そして「島守の塔」歴史捏造映画。同業者の仕事にはなるべく口を出したくないが、この映画は「F50」「新聞記者」と並び、表現者として許されないので、あれこれ言いたくなる。

同時に昨日は「乙女たちの沖縄戦」沖縄市公開中。女優の森田朋依がまた自腹で舞台挨拶に行った。本来なら僕も同行したいところだが、体調最悪の上に、三連休の高い交通費を払う余裕がない。それでなくても「乙女」完成のために3ヶ月無給で作業。当然のことだが2ヶ月近い宣伝期間、ノーギャラで参加。沖縄行きの余裕なし。悔しい。

そして、ただただ、森田の情熱に感心。せめてネットで宣伝と! ベッドの上で、天井を見つめながらiPadで舞台挨拶情報を何度もツイート。Facebook、ブログでも告知。本来なら「制作会社、お前らの仕事やぞ!」と文句を言いたいところだが、すでに宣伝費もゼロ。チラシとポスターもよくできたなあ!というレベル。製作費は文化庁からの支援だ。

「文化庁。もっと金出せよ」という思いもあるが、そのレベルでも感謝せねばならない。通常は映画会社も企業も沖縄戦題材には金を出さない。その程度でも出してもらえたからこそ、どーにか映画ができた。その額で作品を作り上げたスタッフ、キャストの力も大きい。皆の力で作れないはずの映画を作り上げたのだ。

実際、今年公開された沖縄戦の映画。大手新聞社等が出資しているが、歴史を捻じ曲げている。戦争推進した知事を「偉人」として描いていた。まるで「政府は沖縄を捨て石にしたが、こんな素晴らしい知事もいた!」と政府を擁護するかのような内容。沖縄の観客がどう感じるか?考えたのか?結局、企業が関わると沖縄戦の現実が伝えられない。美談にし、嘘の感動を伝える話になる。沖縄戦の悲しみを描こうとしない。

その意味で「乙女」は貴重。その手の脚色はなし、美化もなし。もし、おかしな脚色をするなら受けなかった。今回の企画は依頼。僕はドキュメンタリー編の演出。ドラマ編の脚本を担当した。だが、終戦記念日が近づくと毎年、マスコミは「ひめゆり」しか取り上げない中で、スポットを浴びることがなかった「白梅」を大々的に取り上げられた作品を作れたことは大きい。

ひめゆりの事実は伝えるべきもの。だが、彼女たちだけが特別な訳ではない。多くの女子学徒が同じような地獄に、送り込まれたのだ。その歴史的事実を伝えられたこと。製作費の額ではなく、やり抜かなければならない意味を感じた。

ということで、張り切って宣伝。また無理をしてしまい、本日も体調が悪い。今日はおとなしくしている。

294323059_7745172148890355_8640451737632891488_n.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

「乙女たちの沖縄戦〜白梅学徒の記録〜」@沖縄市 本日9月17日(土) 出演者ー 森田朋依 の舞台挨拶 [映画「乙女たちの沖縄戦」]

307359117_8002447893162778_8196076787343298231_n.jpg


[新月]「乙女たちの沖縄戦ー白梅学徒の記録」@沖縄市 
ミュージックタウン音市場にて(?22日まで)


本日9月17日(土)10:30からの上映後に
出演者の 森田朋依 によります舞台挨拶を行います。



298162388_7818124078261828_8652753829294289839_n.jpg

298105445_7818123994928503_7074599138559464278_n.jpg

298104362_7818125604928342_157473034288143893_n.jpg


294323059_7745172148890355_8640451737632891488_n.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

「戦争推進の知事」を脚色して「住民を救った偉人」に?まさに沖縄戦を再現。 [「島守の塔」疑惑]

302003771_7939168026157432_7210029391074917479_n.jpg


10万人を超える命を住民を救った「偉人」ーと、この映画は描く。まるで日本のシンドラーのような作品だが、かなり現実とは違う。フィクションを加えて映画を作る。劇映画では特別なことではない。が、この作品の場合。沖縄側の立場を考えるべきではなかったか? 考えて行こう。主人公となる島田叡知事(演じるは萩原聖人)、荒井警察部長(演じるは村上淳)。本当はどんな人だったのか? 

沖縄戦研究の第一人者が地元紙で解説している。この映画のテーマとなる部分。核となるのは島田と荒井が「どんなことがあっても県民を守り抜くぞ!」と誓い合う場面。そこから彼らは住民を救うための努力と葛藤が続く。が、これは事実ではない。むしろ、反対の行動をしていることが分かるという。

実際はこう「島田と荒井の住民保護は老人、婦女子に限られており青少年らが疎開を行おうとすれば、戦線離脱であり厳重取り締まりを要するーと警告を発している。また、疎開地では避難民を米軍に投降させないために。塩谷警察署を新たに設置、避難民の戦意高揚と彼らの監視強化を計った」

これは明らかに国の指示に忠実に従っただけ。県民を守るというより。管理し、国に従わせるという行為。偉人の行為とは思えない。専門家はこう結論づける「2人の本質は国体を守ることを前提とした住民保護だった」

映画の中で島田と荒井が雨の中、自ら住民を誘導する場面がある。2人の熱い思いが伝わる。だが、その記録はない。映画の創作。そのことで彼らは体を張って県民を守ろうとしたという思いが観客に印象付けられる。実際にはしていない感動的な行動を創作、彼らを偉人にするための手法である。

また、32軍の沖縄を捨て石にするという作戦。島田たちは知らなかったという場面もあるが、専門家はそれも疑問視。立場的に知らない訳がない。だが、知らないということにしなければ「住民を守る!」という思い、映画のテーマが成り立たない。本当に島田たちが「県民を救う」という強い思いがあれば、国や軍と正面衝突。左遷されるだろう。

そうはなってない。彼らは国の指示に従い行動していたから。だが、それでは物語が成り立たない。そこで映画では知らなかったことにした。「偉人にするための巧妙な脚色がある」と専門家は指摘している。

302581839_7985517641522470_3652643824130495791_n.jpg

別の専門家から、これは直接聞いた話。島田は会議で「住民にも鎌、包丁を持たせて米軍に突撃させたらどうか?」という提案している。記録に残っている。「何があっても住民を守り抜く!」という誓いを立てる知事の言葉とは思えない。そして、その発言は映画では描かれていない。偉人の感動エピソードを創作。戦争推進者の側面は消し去っている。

そして何より、なぜ「生きろ」と知事は叫んだのか? あの軍国主義の時代に? その背景が描かれていない。理由は「現代の作家」が「現代の価値観」で「命の大切さ」を島田に言わせることで彼を偉人にしたかった。小声で職員に「生きろ」と言った現実のエピソードを拡大解釈して、「生きろ!」と叫び続けた人道主義者にした。その方が観客の共感を呼べる。

何より、島田たちの地元では「素晴らしい。我が県の誇りだ!」と喜び映画を応援してもらえる。それが理由。だから「住民を守り抜く」という思いの背景が描かれない。元々、国の指示で動いていた人。そんな背景は存在しないのだ。

架空の人物を作り出し、歴史を見つめるのはあり。だが、実際の人物を脚色し、やってもいないことを描き「偉人」にしてしまうのはどうか?それでも問題がないこともある。が、この映画の問題は制作サイドが島田や荒井の故郷側に立ってしまい、沖縄側に立ち、視点を持とうとしていないと感じる。

地元から「島田は偉人にしないで!」という願いが出ていたが、それにも答えていない。映画を見ていても、沖縄側の視点があまり感じられない。監督自身も「自分はヤマトンチューだ。その立場から描くしかない」という。が、沖縄側に立って考えてないことで、映画が沖縄を踏みつけるものになっていることに気づいていない。

乱暴にいうと「ナチドイツのアイヒマンは偉人だった。本当はユダヤ人を救おうとした!」ーという映画に近い。ユダヤ人の立場からは絶対にあり得ない設定。同じく当時の沖縄、日本軍に翻弄され踏みつけられ、県民の4人に1人が犠牲となった。それなのに実在の国側の人物を脚色、美化して「本当は政府側にも県民を守ろうとした素晴らしい人物がいた!」という映画にしてしまった。

これは沖縄にとって何の諌めにも癒しにもならない。「国側にもいい人がいたなんて、事実じゃないだろ!」「今更、政府の弁護をするな!嘘をアピールするな!」となる。感動よりも怒り。それらを意図した映画ではないが、そんな解釈されても仕方ない。結局、沖縄戦を歪めてヤマトンチューが楽しむ感動ドラマとして作られている。

「島田を偉人にしないで」と沖縄から声が上がっても、無視。なぜ? 島田叡知事を偉人にしたか?それは島田の出身地でも映画の製作費を集めなければならないからのようだ。地元で「戦争推進をした知事」という映画にはできない。「偉人」でなくては支援してもらえない。そんな背景があったと思えている。

もう一人の主人公・新井警察部長の出身地でも映画支援を受けている。地元では「新井は素晴らしい人だった」という声が出始めた頃。「映画にして我が県の偉人をアピールしよう!」という流れがあったようだ。製作サイドとしては「偉人」にするしかない。沖縄からは「島田知事は偉人として描かないで」という声が上がっていたが、それには応えられない。現実を描くと両県からの支援がなくなってしまうから?

だから島田たちの故郷の思い「我が県、出身の偉人物語」にした? 沖縄戦時。本土を守るために、沖縄を見捨てた軍のやり方がダブってしまう。沖縄を犠牲にして本土を守ろうとした日本。同じことを映画でやってしまっていいのか? それを沖縄戦の映画でやっていいのか? そこは大切なところだと思うのだが...。


128770876_4723230964417837_3027575472875011853_o.jpg
nice!(0)  コメント(0)