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「乙女たちの沖縄戦〜白梅学徒の記録〜」沖縄市〜22日で終了! [映画「乙女たちの沖縄戦」]




9月12日〜沖縄市 ミュージックタウン音市場にて


9/18(日)休映
9/19(月)・9/20(火)10:30
9/21(水)休映
9/22(木)10:30


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劇映画を実名で描く難しさ=「島守」「F50」「Minamata」自身への戒めも! [映画業界物語]

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劇映画を実名で描く難しさ=「島守」「F50」「Minamata」自身への戒めも!

特定の映画を批判すると「そんなに嫌いなの?」とコメントしてくる人がいる。毎回、馬鹿すぎる!と呆れるが、好きだから褒める。嫌いだから批判すると言うものではない。

今回は自身への戒めでもある。こちらはドキュメンタリーだが、同じ沖縄戦が題材。特にドキュメンタリーにフィクションを持ち込んではいけない。勝手な解釈。未確認の事実を描くのはご法度。細心の注意を払った。それでも「ドキュメンタリー沖縄戦」の時は「***戦を描いていない」「***問題に触れていない」とか、あれこれ批判が来た。1時間45分の上映時間で扱えるものは限られている。自身が興味ある事件がないからと「それでは沖縄戦を描いたことにならない!」と言う輩もいた。

「米軍を美化している」と言う批判もあった。これは先の「島守の塔」で島田知事を美化しているとの批判に近いので詳しく書こう。批判の主は多少、沖縄戦を勉強したことがある人。もしかしたら特定の団体の人かもしれない。ある種の人たちは「日本人は犠牲者だ。俺たちは酷い目にあった!」と言う主張を繰り返す。それによって被害者の立場に自分達を置き、加害者の側面を隠そうとしている。アジアで日本軍が行ったことに目を向けず、沖縄、広島、長崎ばかりに目を向ける。

なのに僕は「沖縄戦」で米軍にも多くの犠牲者が出た話を伝えた。また、住民は米軍より日本軍の方が怖かったと言う話も紹介。それらを曲解。「米軍よりの作品だ!」と思い込み「美化している」と言い出したのだ。「米軍より」すら間違っているが、美化は何なのか? 米兵がおばあちゃんにチョコレートをくれた話を紹介したから? その後の専門家が「それも米軍の作戦」と解説している。

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つまり、その人たちは「日本人は犠牲者だ!」と言う思いがある。その裏には「だから、アジアの人を傷つけない!」「守るための戦争だった」と当時の日本を正当化したいと言う思いがある人たち。そこまで行かなくても、物事の一部だけを見て「おかしい!」「事実ではない」と騒ぐ人たちもいる。その意味で「島守の塔」の問題点を指摘する時も、無神経なないものねだりではなく、嘘を持ち込んだ理由や背景を探り、作り手の意図を理解した上で、問題を考えたかった。(そのために監督の本まで読んだぜ〜)

あの映画の背景はとても大切な教訓となった。主人公の故郷から支援があるからと事実を曲げて偉人にしてしまう。ま、それ以前に知事を「素晴らしい人だ」と思ったところに問題はあるのだが、映画人は事実を描くよりどーしても感動を描こうとしがち。ドキュメンタリー作家ではない。フィクションの世界で仕事をしている。実際、僕が脚本を担当した「乙女」ドラマ編でも似たような意見が出た。

「再現ドラマはフィクションなのだから、自由な発想で作るべきではないか?」

と言うスタッフもいた。通常ならそれでもいいだろう。舞台は沖縄戦でも、主人公を架空の人物にして、戦争反対の思いがある。その葛藤を描く。あり。ただ、実在の人物にそれをさせると歴史の改竄と言われる。それが「島守の塔」だ。島田叡は実在の人物。その人が思っていないこと、やっていないことをやらせて美化。偉人にしてしまった。架空の人物を作り上げ、「住民を救う」と言わせる。その人物と島田がぶつかるならありだ。が、島田の故郷から製作費が出ている。だから彼を偉人にしてしまったのだ。

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似たようなことをしている映画はある。「F50」は最悪だった。福一の原発事故。吉田所長は現実の人物。彼が事件以前にしでかしたことが全電源停止に繋がるのに、それを描かずにヒーローとして描く。でも、決して彼は悪人ではない。事故時の活躍は事実。だが、映画はその部分だけを描き、総理(菅直人)が怒り狂う場面ばかりを紹介した。印象操作で客は総理のために収束が遅れたと感じる。こんな風に事実とフィクションを混ぜて、制作側の意図する方向に観客を誘導することができる。(結果、事故を収束させたのは東電の職員。邪魔したのが菅直人という誘導。収束もしてない)

ただ、事実材の人物を登場させて大きな問題のない映画もある。「ワンスアポンアタイム・イン・ハリウッド」だ。スティーブ・マックイーン。ロマンポランスキー監督、ブルースリー、シャロンテート。チャールズ。マンソンが実名で登場。そこにフィクションを持ち込む。これはどうかなあ〜と言う気もしたが、エンタテイメントとして面白くできている。シャロンテート事件。「結末が現実と違うだろ!」と批判する声も聞かない。ただ、ブルースリーの娘からはクレームがついたと言う。「父はあんな嫌な奴じゃない」と。

「Minamataーミナマタ」も実在の写真家ユージーン・スミスを実名で描き、事件の当事者チッソも実名で紹介される。この作品への日本側からの批判があった。「あの場面は事実と違う」「***はおかしい」「社長は賄賂を渡していない」とか様々。さあ、先の2つと違い、この映画は難しい。僕自身はよくやったと思える。もう、多くの日本人が忘れていた水俣病を今一度、伝えたことは大きい。そのためには実名は大事。

ただ、映画で描く場合。全てを事実通りに描くと逆に繋がらない。真田広之さんの役。実在の3人を1人にしている。映画で3人も出て来られると客は覚えきれない。集約している。それを事実ではない!と批判するのはどうなのか? そして、批判する多くは水俣病に関心があり、知識がある人だ。映画により水俣病を多くに知ってもらうことは大事なのに、なぜ批判してしまうのか? ここに悲しい構図がある。

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僕の「朝日のあたる家」を批判した多くは推進派ではなく、原発に反対し、よく勉強している人たちだった。「内部被曝に触れてない」「プルトニュウムの情報が少ない」「もんじゅの話がない」とか、先の「沖縄戦」と同じであれがない!これがない!この辺は知識の問題ではなく、映画表現を理解できていないことが背景。映画はだいたい2時間。登場人物の整理。簡略化は必要。ドキュメンタリー映画ではない。

その中でどう表現するか?が監督の技量。そんな表現方が理解できないので、重箱の隅をついて批判。あるいは批判することで自分の知識を誇り、映画の不勉強さを指摘したいという意地悪な思いもよく感じる。映画があまり専門的になり過ぎると一般の人は見てくれない。勉強した人たちが満足するようでは一般はチンプンカンプン。ヒットしない。その辺を考えずに批判する人が多い。

だが、一方で制作サイドもしっかり調べずに、「ま、こんなもんでいいだろう〜」と言う人がいる。「金がないから仕方ねだろう」とか、「**した方がドラマティックだしさ〜」と事実を曲げようとするスタッフもいる。そもそも、原作ものだって原型ないほど変えてしまうのが劇映画なのだ。「乙女」のクルーは皆、ドラマの人。だから、僕が厳しく言わねばならない。

「これが劇映画ー白梅の塔ーなら、いいでしょう。でも、ドキュメンタリー、元白梅学徒の方々が証言した後で、あり得ない脚色をした再現ドラマを見せることはできない。証言を踏み躙り、利用したことになる。事実を歴史を伝えるための映画なのだから、そこを踏み外してはいけない。いつもならフィクションとして許されるが、今回は違う!」

シナリオは僕が書いた。現場で勝手に変更したり、付け加えたりしないようにお願いした。監督もスタッフもそれを理解し、超低予算とわずか数日の撮影なのに、いいものを作ってくれた。事実通りにやろうとしても、金がなくて、時間がなくてできない事もある。それはどうすればいいのか?嘘で誤魔化すか?それはダメ。では、事実に近い形で対応。様様な努力をしてくれた。そして、女子学徒は皆、架空の人物にした。取材して聞いた方々の話から、複数を1人にしたり。病院壕には十数人いるはずだが、4人に物語を絞った。

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事実通りに描くことが映画ではない。脚色することで伝わる事もある。複雑な構図をシンプルにする。紹介エピソードを絞る。だが、詳しい人が見ると「あれがない!」「それは事実ではない」と批判する。だから、難しい。100%の事実は伝えられない。何より演じるのは俳優であり、歴史上の人物ではない。また、人にはいくつもの面がある。家庭、職場。親として、息子として、夫として、それぞれに顔が違う。その全てを描くと多重人格に見える。そこも映画では考える。

個人的に思う事だが、「Minamata」は実名の必要がある。だが、「島守の塔」は実名ですべきではなかっただろう。そもそも、偉人でない人を故郷が応援するからと偉人にしたのが間違いの始まり。「ワンスアポン」も全面的な賛同はしない。が、僕が沖縄戦の劇映画を作るとき、どうするか?ただただ、リアルに歴史通り作ればいいと言うことではない。感動も恐怖も描かねばならない。これからの課題。


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「島守の塔」やはり罪は重い。フィクションを事実の映画化と勘違いさせる宣伝。だが、監督は事実を描いてないことを認識? [「島守の塔」疑惑]

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「島守の塔」やはり罪は重い。フィクションを事実の映画化と勘違いさせる宣伝。だが、監督は事実を描いてないことを認識?

知事を偉人にした理由は突き止めたので、一段落と思えていた。が、同じ監督業として「それはいかんぜよ!」と言う思いと、映画業界あるあるで苦しむ監督の気持ちも分かる気もし、あれこれ考えてしまう。Twitterで調べると、こんな感想があったので、茶々を入れてみる。

「私は島田知事も荒井本部長のことも知らなかったし、史実も知らない事ばかりでしたが、まだまだ戦争を知らない世代へ語り継がなければならないことがあるって改めて実感できました」<=映画の2人の行動は事実ではありませんよ。フィクションです。

「沖縄戦で玉砕主義が採られていく中、「命どぅ宝、生き抜け!」と最後まで叫び続けた沖縄県知事と警察部長の感動の実話」<=そんなこと叫んでいません。小声で言っただけです。あと「実話」でもない。

「これまで「島守の塔」の存在をまったく知りませんでした。こんな方がいたんですね。本土の人(やまとんちゅ)にとってこの映画は必見に値すると思います」<=これが歴史だと伝わるのなら必見にしない方が

「頭の良さだけでなく、人徳が高く、行動力のある島田知事のような方に是非戦後日本の復興の最前線で活躍していただきたかった」<=国の指示通りに戦争を推進した人です。

と、天邪鬼なことを書いたが、この映画が事実であると思っている人が多数がおり、島田知事たちが素晴らしい人!であると真に受けている人も多い。しかし、この映画のチラシ。HPの解説を読めばそう思う。

「鉄の暴風と言われた激しい空襲、艦砲射撃、上陸戦の絶望に追い込まれた沖縄戦。その中で「生きろ!」と後世に一筋の命を託した2人の官僚と沖縄の人々の物語を映画化」

「これフィクションです」という記述はない。ただ「事実の映画化」とも書いていない。「人々の物語を映画」とある。だから、嘘は言ってないけど「事実ですよ〜」と思わせる文章。HPにはこうある。

ー映画「島守の塔」は第2次世界大戦末期、長期の地上戦が決行された地沖縄を舞台に、県民の命を必死に守る戦場の知事と1人の警察部長の
それぞれの苦悩や葛藤などの生き様を通して「人間の命の尊さ」を描く映画を企画しました。「命(ぬち)どぅ宝」の言葉が、戦争の記憶をいつまでも風化させず「人間としての命の尊さ」を発信できるものと確信していますー

これも「事実を映画化」とは書いていないが、どう読んでもそう思えてしまう。フィクションとか、島田知事を脚色しと言う記述はない。そんな中、監督のインタビュー。中国新聞の記事を見つけた。

 「フィクションの劇映画として人間を描いた。さまざまな証言やエピソードを基に人物像や物語を作り上げ、何度も脚本を書き直した」と五十嵐監督。

 やはり監督はフィクションと認識している。つまり、このFB記事で何度も指摘した通りに、島田知事のキャラを脚色、偉人として描いたということ。だが、制作サイドは宣伝でそのことを一切説明せず、事実の映画化!と勘違いする解説をし、HPにそれを綴っている。新聞記事は続く。

ー新型コロナウイルス禍で撮影を1年8カ月中断し、昨年11月に再開。復帰50年の節目に間に合った。沖縄では「美化し過ぎている」「史実と違う」という声も受けた。ー

つまり、沖縄からは当然の批判が出た。これに対する監督の答えはなく、記事はこう続いている。

ー「基地のある沖縄は、まだ沖縄戦が終わっていない」と五十嵐監督。「日本人は忘れやすい。語り継ぐ映画を作り続けることに意義がある」と力を込めた。

これはおかしい。「語り継ぐ映画」?嘘を語り継ぐの? 監督は「フィクション」といい「事実ではない」ことを認めながら、この歴史的な事実を「語り継ぐ」と意味不明の発言。島田知事らの描写以外は事実だ。その歴史の部分だけを「語り継ぐ」ということか? でも、それはご都合主義。

いや、責めるのはやめよう。つまり、島田らの故郷からの支援で映画はできた。偉人にするしかない。だが、事実は違う。脚色し偉人にしたのだ。だから監督はフィクションと言う。

しかし、制作サイドは支援者たちのフィクションとはいえない。「同郷の素晴らしい偉人の映画」と説明し支援してもらった。宣伝でフィクションとは絶対に言えない。ただ、これでは「F50」と同じ。原発の事故の事実を改竄。嘘を交えて東電を称賛したあの映画と、

監督はそれを暴露できない。映画の否定になる。自分としては正直にフィクションだとインタビューに答えたのだ。そこに映画人の良心を感じる。ただ、許されないことがあるー沖縄はどうなるのか? 少年兵起用を承認した島田知事。そのために多くの男子が犠牲になった。会議で「住民に鎌や包丁を持たせて米軍に突撃させよう」とも言った人。

その人を偉人として描き、全国にそれをアピール。県民はどうなるのか? 偉人どころか戦争を推進した人。「美化する」どころではない。そのフォローも説明も一切なし。やはりこの映画。罪が重い。同じ沖縄戦を伝える映画作家として、戒めにしたい。

監督インタビュー記事=>https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=123742


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