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横浜ー青春プレイバック 41年前。僕は毎日、何をしていたのか?映画学校を登校拒否?! [横浜青春プレイバック]

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横浜ー青春プレイバック 41年前。僕は毎日、何をしていたのか?映画学校を登校拒否?!

高校卒業後ー18歳の夏。秋までは映画学校に真面目に通っていたはずだ。実習にも数日、参加した記憶がある。クラスメートとも飲み会をしたし、部屋に遊びに行ったこともある。が、次第に授業が無意味に思えて、いや、完全に無意味だったので登校拒否。学校には行かなくなった。

先にも書いたように近所のM荘。同じような東京拒否組たちが住む下宿アパートに入り浸り、毎日のように宴会をした。が、1週間毎晩ではない。黄金町の大勝館や横浜名画座に行ったり、自由が丘の武蔵野推理劇場。蒲田のパレス座。池袋は文芸坐。高田馬場パール座等に昔の映画を見に行ったりもしていた。

では、それ以外は何をしていたのか? 僕は昔から日本大好きではなく、批判的な言動の方が多い。なのに極めて日本人的なところがあり、70年代のモーレツ社員のように、休むことを罪悪と思えていた。何もせずに1日ダラダラしているというのは、本当に許せなくて何か、しないでいられなかった。

映画を観に行くもあり。知らない街を訪ねるもあり(旅行ではなくね)、本を読むでもいい。何かプラスになることしたい。1日意味もなしにテレビを見ているは嫌だ。友達と会って酒を飲み、映画を語るもあり。なので、病気でもない限り、1日部屋にいて、何もせずということはほぼなかったはず。では、何をしていたのか?

実は秋からは学生映画をスタートさせる。当時はまだ存在した8ミリフィルムを使って映画を撮る。バンドで言えば、プロを目指してアマチュアバンドをするようなもの。「ぴあ」主催のフィルムコンテンストも会ったし、そこから本当の映画人生が始まるのだが、それは秋。そこまで何をしていたか? 思い出してみた。

特に今年のような夏の暑い日(今は雨で寒いくらいだが)当時、部屋は四畳半。エアコンも扇風機もない。サウナのようになる。学校に行かない日はどこかに出かけたと思う。M荘以外。映画館以外? なかなか、思い出さない。僕の住む下宿アパートの周りは何もなく、住宅街のみ。M荘のある隣街は駅前の商店街がある。先に紹介した「血まみれ事件」の舞台となる商店街だ。

そこに本屋とレコード屋がある。小さいものだが、そこは何かにつけ、よく行った。高校時代から本屋とレコード屋は情報源。ネットもない。新聞も取らない。テレビでニュースも見ない18歳。ま、政治や社会を知りたい訳ではなく、ストーンズの新譜はいつ出るか? スピルバーグの新作はいつ公開か?というような情報を得るためだった。

決して楽な生活ではなかったが、1ヶ月に1枚はレコードを買おうと決めていた。レンタルレコードもない時代。2500円。音楽業界はぼっていた。もっぱら輸入盤。歌詞カードが付いてないだけで、2000円になった。ただ、近所にはその手の店がなく、渋谷にオープンしたばかりのタワーレコード等で買うことにしていた。(昔はハンズの斜め前にあった)

金欠。渋谷行く交通費も厳しい。でも、レコードを1枚というときは、ローリングストーンズの、ロンドンレコード時代のもの。1500円で買えた。厳しい時はそれを1枚。スプリングスティーンの歌詞ではないが、学校の授業ではなく、一枚のレコードからいろんなことを学んだ。というのがあるが、まさにその通りだった。

大阪の高校を卒業した日に見た映画が「さらば青春の光」これは強烈だった。ストーンズと同じイギリスのバンド、ザ・フーの2枚組アルバム「四重人格」を映画化したもので、物凄いショックを受け、翌日、もう一度、映画館に見に行ったほどだ。さらに横浜に来てからも、銀座の名画座で3回目を見た。そのレコードを真夜中によく聴いた。全部聴くと2時間少々。気づくと夜が明けていたりした。

「Can you see the real me can'you cant'you 」と叫ぶ、オープニングの歌。歌詞に強く共感した。そう、高校時代の僕はまさにそうだった。「あんたに本当の俺が見えるかい?見えるのかい!」親にも、教師にも、同級生に対しても、そう思っていた。そんな連中の束縛を受けることなく、生活の全てが自由になった。それが横浜の街。最初は開放感でいっぱいだった。が、次第に自由に恐ろしさを感じていく。

おまけに学校まで拒否してしまった。というのも、その学校を卒業したからと映画監督にはなれない。映画界で働けるかどうかする分からない。ま、入学前から気づいていたが、授業を毎日受けていると、より明確になって行った。登校拒否組の生徒たちも皆、同じ気持ちだっただろう。逆にそれを知りながら毎日、通学する生徒たちの気持ちが分からなかった。どうやって監督を目指すのか?

最初は楽しかった落ちこぼれ組の宴会も、次第に見えない未来への不安を解消するためのものになった。だから、記憶がなくなるまで飲み、商店街で叫び、血を見る者まで出てくる。それから4年後にデビューする尾崎豊の歌みたいに「自由になれた気がした18の夜」だった。今から41年前。横浜二十歳前。



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