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戦争論シリーズを読み終えて=戦争を賛美する作品から見えてくるもの。あえて反対側から考える大切さ? [戦争について]

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「新戦争論」というタイトルではあるが、何だか「世界情勢ー私はこう見る」的な作品になっており、初期とは方向が変わっている。さらにシリーズへの批判、賛同などに対する著者から総括的返答の章もある。第1巻が発売されたのが1998年。それから2015年まで17年に渡って描かれたシリーズ。それを今、読んであれこれ批評するのも違う気はする。小泉政権から安倍政権まで、日本の環境も大きく変わった。が、あえてそれらを俯瞰して考えてみた。

シリーズ第1巻はかなりの反響があり、多くがこの作品に熱狂したという。「日本軍は頑張った!」「特攻隊は素晴らしい!」「日本は悪くない」そんな側面を描いたことで、当時自信をなくしてた日本人たちは励まされプライドを取り戻した。が、同時にネトウヨを大量に生み出すことになる。そして著者は右翼と批判された。それがイラク戦争批判を描くようになると、今度はネトウヨたちから攻撃を受ける。結果、著者のいうところの右からも左からも否定されるようになる。

様々なバッシングもあり「3」では著者がかなり情緒不安定に陥り、意味不明のエピソードも多々あった。が、この「新」ではこれまでと違い加害者としての日本軍を描くなどの展開がある。ただ、漫画と映画。業界は違っても同じ表現の仕事をする者として、それも先輩であり、知名度も高く、僕の何千倍も稼いでいる作家を若輩者があれこれ批評するのは憚られるが、なぜ、このような作品を描いたか?を想像してみた。

先にも書いた通り、著者は幼い頃から体が弱く、相撲大会でも屈辱を経験(本人が作品内でも描いている)。そんな思いが命を捨てる特攻をした日本軍兵士に感動。称賛する作品を描いた。さらに背景には日本では「加害者としての日本人」を描きづらい環境ー「日本人は被害者である」であらねばならないという空気(映画の世界も同様だ)それとは違う側面を著者は探していて、特攻隊に憧れを投影した作品を描いたのだ。

それに感動したのが、のちのネトウヨたち。著者はそれを「本当の意味で作品を理解していない」と批判する。批評家も「戦争賛美」と批判したが、著者が反論する通り日本軍を賛美しても、戦争を肯定してはいない。これも著者のいう通り「読む力のない読者が勝手な解釈をして暴走した」(それがネトウヨ)読む力のない人たちは自分の都合のいいように解釈。そして、イラク戦争を著者が批判すると、あれだけ賛同していた彼への攻撃を始めた。

同時に「戦争を賛美している」と著者を批判していたマスコミがイラク戦争には反対せず、黙ってしまう。それらをまとめて、この巻では反論を描いている。マスコミや読者というのはいかにいい加減でご都合主義であるか? 特に読者というか、ネトウヨや一部の市民は「敵を作り、攻撃し、自分が社会に貢献しているかのような気分になる。安全圏から顔も名前も隠し、自分と意見の異なる者を叩く。要は日頃の不満解消であり、正義中毒。社会に参加しているという意義を感じたいだけの人たちが数多く存在する。

著者も同じような批判を綴っており、その辺は共感する。さらに著者が指摘するのは「人は信じたい情報しか信じない」これもその通り。例えばトランプの件でも、反対派は「彼が差別主義者で、ありもしない不正選挙で騒いでいるだけ」というニュースを見て「やっぱそうだよ!」と納得。支持者はちょっと怪しげなYouTuber情報を聞き「なるほど、そういうカラクリか!反撃あるな〜」と喜ぶ。反対派はメジャーマスコミでない情報を探したりしない。いずれも都合のいいニュースを聞きたい。他はブロックしがちなのだ。

そんな意味で、厳しく言えば、著者自身も作品初期の頃は同じようなところがあり、勇敢な兵士の話は取り上げても、犠牲になったアメリカ人兵士を見ようとしていない。「特攻は美しい」と言いながら、その攻撃で死んだアメリカ兵の家族のことは想像していない。先の著者の言葉通り「人は信じたい情報しか信じない」のだ。著者自身も同じことをしていた。

だからと言って著者を否定するものではない。「日本人は被害者である」と描く方が無難であり、受け止めてもらえる。「それは違うのではないか?』というのが著者の最初の思い。ただ、そこに個人の思いをダブらせたことから、ある種の方向に進んでしまった。が、彼は学者ではなく表現者であり「思い込み」の強さが必要な仕事。それを否定するならばクリエーターでなくなってしまう。自分が知らない生まれる前の時代の人たちに共感したり、同情したりできるのは「想像力」であり「思い込み」の力だ。それ無くして表現はできない。

ただ、「日本人は被害者だ」というだけでないベクトルを模索したにも関わらず結果、戦中と同じ「国のために命を捨てることは尊い」という価値観に行ってしまった。どんな意見も価値観も自由だが、表現として進むべきは、そちらではなかったように思える。それは「戦争」を見つめることではなく、無意識の中で著者は自分の心や過去を癒す作業にしてしまったのではないか?

もちろん、それが作家という人種の一面ではあるのだが、時代を逆行した価値観に向かったのは違うだろう。賛同されなければズレた価値観の作品で終わっていたが、多くの読者が賛同した。自分が日本人であるというだけでプライドを持てる、誇れる。不況時代の喪失感を癒すためにこの作品を読んだのだ。その辺のこと、実は著者も理解しており「啓発本」のからくりとして描いている。つまり、著者は自分の心の推移を把握理解したのだと思える。

作品を描くことは上から下に提供するということではなく、自身との戦い。自分が抱える暗闇や傷との対峙である。まさに著者はそんな格闘を15年ほど続けて来たのだ。また、題材である戦争というものが巨大で一言では語れないバケモノであることも大きい。様々な解釈があり、いろんな意味で利用される。多くの人々は騙され、そこにロマンや愛を感じたりする。が、その背景に大きな誘導があることを見ぬけない。そんな戦争を知る一つの道標として、僕はこの「戦争論」シリーズを読んだ。

ここから真実の歴史を学ぼうと思った訳ではない。むしろ「戦争賛美」(著者は違うというが)であり、ネトウヨのバイブルと言われる作品を読むことで何かが見えてくると思った。それは正解であり「日本人は被害者だ」というだけの作品では分からないものが感じられた。次は僕なりに戦争とは何か?に迫る番だと思える。



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