悲しみを伝える第三者の難しさ①=原発事故を伝えて感じたこと [沖縄の現実]
悲しみを伝える第三者の難しさ=原発事故を伝えて感じたこと
「朝日のあたる家」公開時に福島から避難している方に強く言われた「映画に描かれた家族より、もっと酷い目に遭った方もいるんですよ!」そんなことは分かっている。何より「これが最悪のケース」と映画では謳っていない。原発事故に巻き込まれたある家族の物語でしかない。そこから事故の悲しみを伝える映画だ。にも関わらず「もっと酷い目に遭った人もいる!」という批判はどういう意味か? 困惑した。その方。後からメールをくれた。
「先ほどの失礼しました。映画界ではタブーと言われた原発事故を監督が描いてくれたことは本当に嬉しかった。私たちの悲しみを多くの観客に伝えてくれたこと本当に感謝しています。でも、この映画を観た人がーこれが原発事故なんだーと思われるのも悔しいのです。
映画で描かれた家族以上に苦しみ、悲しんだ人たちもいます。これが全てだと思われるのが耐えられなかったのです。でも、映画で全ては描けません。その一部でも描いてくれたことに感謝しながらも、事故はこの程度だと思う人も出てくるであろうと思うと耐えられなくて、あんなことを言ってしまいました」
そういう意味だったのか.....。難しい問題だ。もし、最悪のケースを描けば推進派から「それが全てであるように描いているが、そこまで酷いケースは僅かしかない。事故の恐怖を煽っている。危険な作品だ」と批判されただろう。そして、また、最悪とは何なのか?という問題もある。人が多く死ねば最悪なのか? 人が死ななければそれでよかったのか? ふるさとを失う。家を失う。仕事を失う。その家族には何の責任もないのに。それもまた最悪だと思える。
天災ならまだ分かる。が、原発事故は天才ではない。十分な安全対策をしていないことでの事故である。問題があるのにそれを隠して推進して来た。そのツケが電力会社ではなく、住民に回されるのも、最悪だと思える。話を戻そう。被災者の多くは映画を評価してくれた。「我々の思いを伝えてくれた」という声が多い。だが、一部には先のような方もいた。
同じことを「ドキュメンタリー沖縄戦」でも体験した。次回、そのことを書く。(つづく)
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