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ドキュメンタリー沖縄戦」沖縄上映を終えて感じたこと。第三者の意味。 [沖縄の現実]

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ドキュメンタリー沖縄戦」沖縄上映を終えて感じたこと。第三者の意味。

「朝日のあたる家」で原発事故の悲劇を描いた時も考えた。福島に何のゆかりもない僕が福島の悲しみを伝えることができるだろうか? 例えば福島県出身。福島育ち。一時期でも済んだことがある。親友が福島出身。彼女が福島の人。両親の親が福島。何かそんなことが作品を作る上での力となる。単なる同情やジャーナリズムだけで映画を作っても悲しみを伝えることができないのではないか?と思えた。

結果、それは杞憂であり「朝日のあたる家」は全国で大ヒット。福島の方々からも高い評価を頂き、全国でも「福島の人たちの辛さが理解できた」との声をもらった。今回、「ドキュメンタリー沖縄戦」で沖縄を描くことになった時も同様のことを考えた。福島と同様に、故郷でもなく、住んだこともない。友達も恋人も沖縄出身者はいない。だが、別の発想もあった。

原発は福島の関係者が描かなければ伝わらないのか? 沖縄戦は沖縄県人でないとダメなのか? というのも、原発事故を「朝日」で描いた時、福島から避難して来ている人に言われた。

「あの体験をどう伝えたらいいか?分からず、戸惑うばかり、あの辛さを言葉で伝えることができない。周りは腫れ物を触るようで。けど、この映画を見てもらえれば私たちの思いが伝わると思えました」

福島から避難している人たちを応援している人からも言われた。

「テレビや新聞報道で原発事故のことは知っています。でも、被災者の方の気持ちは分からない。どんな悲しみを抱えているのか? どんな心の傷を負ったのか? それが映画をみて分かりました」

そう、当事者は思いを伝えられず、支援者も悲しみの多くを受け止めることができない。それは沖縄戦でも同じであろうと思えたのだ。第三者だから伝えられる。第三者だから効くことができる。当事者の言葉は重いが、それだけでは伝わらないものも感じた。悲しみを伝える第3者の存在。重要な立場であること。今回も感じた。詳しくは次回に。(つづく)



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