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今回の病気で感じたこと。=見舞いの対応から見えた日本の教育?=12月15日 [「沖縄狂想曲」]

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サラリーマンの友人たち。大学を卒業後に就職。会うたびに、気が回らなくなって行った。学生時代は鋭い感性があったのに、歳を追って鈍くなる。時代に取り残される。その理由が実感として、よく分かった。

病気の相手に対して、悪気なしに傷つける発言をする人。ほぼ会社員の友人。悪意のないことは分かる。むしろ応援しようとしている。だが、信じられない無神経な発言をしてしまう。

それが病人を傷つけるかも?という配慮が全くない。子供の頃。店屋で嫌な思いをしたこと。思い出す。今考えると、その多くが男性の高齢者。多分、元々は会社員だった人だろう。

批判ではない。サラリーマンの条件は「相手の気持ちや立場を考えないこと」がある。商品を売る。無神経な上司の苦言に耐える。そのためには、相手の話を聞かない。その意味を考えないこと。

だから、当然。自身も無神経で、無責任な発言をするようになる。それを仕事だけでなく、家族や友人にも、そのモードで接してしまう。僕は細かいし、意味にこだわる。納得できない指示は聞けない。

でも、それではサラリーマンは出来ない。機械の部品になり切ることができるか?が大切なのだ。高校時代にそれを感じた。会社員になれば、上司を殴ってクビになったはず。

尾崎豊の歌詞の通り「心を捨てろ捨てろというが、俺は嫌なのさ」でも、そんな人間を製造するのが、日本の教育なのだ。無意味な勉強をさせて、点数を競わせる。大人になって役に勉強ではない。

しかし、その無意味さに疑いを持たず、従い従うことが出来る人間を作るのが、日本の教育なのだ。僕のように文句の多い人間は、やはり脱落するのは当然のことだったのだろう。病気をして、あれこれ答えを見つけた。












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