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「キネマの神様」=山田洋次監督の苦悩。俳優の存在感は巨匠でも埋められない。 [映画&ドラマ感想]

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「キネマの神様」=山田洋次監督の苦悩。俳優の存在感は巨匠でも埋められない。

今回も巨匠の名人芸を見せつけられ、ラストは涙した。ではあるが、いくつか指摘したい。そもそも今回の主演は志村けん。それが567で亡くなり沢田研二があとを継いだ。

黒澤明監督の「影武者」のときは勝新太郎が主演だったのに降板。仲代達矢があとを継いだ。どちらの俳優もよくやっているのだけど、そもそもが別の俳優のために書かれた脚本。その落差をどうしても感じてしまう。努力の問題ではない。今回もそれを痛感した。

だからこそ、ラスト近くで沢田が歌う、「東村山三丁目」は悲しいと言うより、残念感が漂う。もちろん、志村さんへの賛歌なのだが、それを劇中ですべきだろうか? ジュリーさんは俳優としても素晴らしい(「太陽を盗んだ男」「ときめきに死す」は本当に凄い)でも、やはりこの役ではないと思えてしまう。そこであの歌を歌うと「私は代役」と言っているよう聞こえてしまう。

できれば「勝手にしやがれ」を歌う方が感じるものがあった。そんなことを思いながら見ていると、あ。そうか...と気づく。山田監督の中ではこの役、志村さんでも、沢田さんでもないと分かる。渥美清さんではないか?と感じる。

孫とシナリオを書く時や嫁や娘に悪態を付くのは、まさに寅さんだ。そんな風に考えていて、それができるのは志村けんか?と山田監督は思ったのだろう。黒澤監督も「影武者」だけでなく、「乱」の主役イメージはそもそも三船敏郎。それをどんな名優でも代わりは効かなかったと思える。

それでも撮らなければならないのが映画監督。他人事ではない。沢田研二に渥美清をダブらせて演出する山田洋二さんの思い。ひしひしと感じた。黒澤は三船との決別。山田は渥美清。その失った大きなものを埋めることは他の俳優ではできないのだ。今回、志村けんならまだしも、沢田研二は渥美ではない。せめて鶴瓶さんなら.....巨匠の苦悩を強く感じた。また、別の側面から後ほど書く。


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