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Yokohama二十歳前ー1980年、僕は退屈な映画学校にいた...。それから45年。 [My Movie]

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横浜二十歳前ー1980年、僕は退屈な映画学校にいた...。それから45年。

Facebookのタイムライン。矢沢永吉の動画が流れて来たので見ていると、横浜時代が思い出された。あの頃、友人から教えられ、彼のレコードを聴き始めた。18歳で高校を卒業した僕は、横浜にある映画学校に通っていた。とてもとても詰まらない学校で、夏休み前に登校拒否。と言うと今風だが、要は同じように学校に行かない連中のアパートにたむろして毎日、宴会をしていた。

大阪の高校時代は映画の話ができるクラスメートがおらず、進学校だったが少年院に通うような3年間。だが、映画学校は映画好きばかり、会うと映画の話で盛り上がる。クラスで顔を会わせると、そのまま飲みに行き映画の話。深夜まで、結局は友人のアパートに泊めてもらう。朝、起きたら、そのまま映画の話の続き。なんてこともあった。あるいは朝まで映画の議論。夜明けと共にアパートに戻り、夕方まで寝ていたり。

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高校の3年間。映画の話が存分にできる相手がいなかった飢餓感を取り返すかのように話続けた。多分、友人たちも同じ。日本中の映画少年が横浜に集まって来たかのようだった。ただ、真面目に学校に行く生徒は真面目な映画が好き。ベルイマン、フェリーニ、ビスコンティ、と「キネマ旬報」で評論家がベストテンに選ぶような監督の映画が好き。

対してドロップアウト組はスピルバーグ、ルーカス、ランディスと、エンタテイメント派が多かった。そんなこともあり、学校には行かず、ドロップアウト組の下宿アパートに行き、朝まで映画の話をしていた。そんな1人が部屋に矢沢のポスターを貼っていた。

「成り上がり」を借りて読んだ。テープ借りて聴く。自分でLPを買った。矢沢はミュージシャンを目指し、田舎から横浜に出て来てスーパースターを目指した。共感するものがある。僕らも同じ。田舎から横浜に出て来て映画監督を目指す。当時、ラジオでよく流れていたのが、矢沢の「Yes My Love」だった。

僕らはほとんど学校に行かないで、グータラな生活をしていた。何ヶ月もそんなことを続けていると、流石に話すネタがなくなる。ドロップアウト組は完全に登校拒否状態。僕は時々、授業に出ていたが、夏休み前には「こんな学校で勉強していてプラスになるのか?」と疑問に思えて来た。映画の歴史を学んで何なる?評論家の先生の話を聞いて映画が作れるようになるのか?「ここで学んでも無意味?」と感じた。

実習になっても一部の生徒しか監督はできず。あとの生徒は彼のお手伝い。何のために高い授業料を払っているのか? そんな頃、8ミリで映画を作る学生映画が流行っていた。当時は「自主映画」と呼ばれ、その世界からプロになったのが、大森一樹、石井聰互らだった。日本版のスピルバーグ、ルーカスというところ。映画監督といえばおじさん、爺さんと言うイメージの時代。若い監督の活躍は心が躍った。自分たちも同じようになれるかも?と思えた。

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学校に行く生徒たちは「8ミリ映画なんて学生の遊び!」という感覚だったが、僕はとにかく映画が作りたかった。ただ、声をかけてもクラスメートたちはバカにするばかりで誰も参加しない。そこでアパートで毎日酒飲んでばかりいるドロップアウト組に声をかけた。退屈している彼らは「おもしろそー」「やろうぜ!」と手を上げる。それが1980年の10月。そこから僕の映画人生が本格的に始まった。

それからちょうど40年。ここしばらく、いや、この数年、これも違う。2005年からの15年。1本の映画が終わると、編集、仕上げ、宣伝、公開、次がまたスタート。脚本、ロケハン、キャスティング、撮影、編集、仕上げ........振り返る余裕もなかった。それがさっき、矢沢の歌を聴いて横浜時代を思い出した。あの時のドロップアウト組はどうしているのか?

2年目になると、絶望して故郷に帰る者が出て来た。「監督なんて夢のまた夢」と痛感。落ち込んで何も言わなくなる奴もいた。部屋に閉じこもりずっとテレビを見ている奴。ある時、部屋を尋ねるともぬけの殻という者もいた。挨拶もなくいなくなる。あんな悲しいことはなかった。朝まで毎晩語り明かした友が、やがて誰もいなくなった。その後、僕は学生映画の上映会で知り合った大学生たちと8ミリ映画を作り続け、学校は辞めた。その前後にプロの現場で助監督を経験。映像の仕事をチョコチョコするようになる。

仲間の大学生たちも卒業が近づき。映画作りから離れて行く。学生映画ブームも終わりを告げていた。この辺のことは以前にも書いたので簡単に済ますが、また「このままではいけない」と思えて来た。プロの世界で助監督をするのも。学生映画を続けるのも違う。学生映画からプロの監督になった人たちもいたが、僕はその道ではないと感じた。遠回りしよう....。それが後でプラスになる。昔からの憧れであるアメリカに行こうと考え、アルバイトを始めた。

こうして、憧れのルーカスが学んだUSCの映画科を目指して渡米。1985年のことだ。矢沢永吉は翌年「Yokohama 二十歳まえ」というアルバムを発売する。何だか自分のことのような気がした。この続きを書くと物凄い量になるので簡単に続ける。映画科には奇跡的に合格した。が、僕が求めるものはそこにはなかった。6年のLA生活。帰国して新宿でアルバイトしながら、シナリオを書き続けた。

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結局、僕は映画監督を目指して18歳で横浜に行き。それから25年後に「ストロベリーフィールズ」という商業映画で監督としてのスタートラインに立つ。それから15年。ふと気づくと夢を達成していたが、満足感は特にない。ハッピーということもない。毎日が戦い。ただ、矢沢の歌を聴いて、長い長い月日が経ったことを実感する。あの頃の仲間はどーしているのか? あれこれ考えてしまう。真夜中、午前0時。。。


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