沖縄戦の資料本。涙しながら読んだ。心に突き刺さるとはどう言うことなのだろう? [沖縄の現実]
沖縄戦の資料本。涙しながら読んだ。心に突き刺さるとはどう言うことなのだろう?
昨年、「4回泣ける」と言うのがキャッチフレーズの映画があった。友人が見てきて、こういった。
「一度も泣けなかった〜。監督の「明日」の方がたくさん泣けたよ」
嬉しい話だが、観客を泣かせると言うのは本当に難しい。よく映画を見ていて、悲しい場面なのに全然泣けない。伝わって来ないと言う経験をしたことはないか? この数年、沖縄戦の本を読んでいるが、なかなか涙する...と言うものはない。想像力が足りないと言う側面もあるだろうが、書き手にも問題がある。
戦争体験をした方の手記。悲しみが綴られている。が、それが伝わって来ない。なぜか? 一つには筆者の周りで犠牲になった方々の記述。誰が誰か分からないことが多い。ご本人は家族だったり、友人だったりするので、よく知っているが、どんな人だったか? その人の背景や特徴が詳しく描かれていない。
例えば、こんな経験はないか? 旅客機事故があった。死んだ人の名前がニュースで読み上げられる。視聴者は
「可愛そうにねえ〜」
と思っても涙しない。知らない人だからだ。その中に自分がよく知る人の名前があれば、驚き、悲しみ、号泣するだろう。何が違うのか? その人の日常を知っている。子供の頃を見ている。一緒にご飯を食べた。旅行にも行った。そんな共通体験があるから、悲しいと思える。
それがない人に悲しみはさほど抱かない。それが人の感情。つまり、先の戦争体験者の手記は、筆者がよく知っている人たちなので、その辺を割愛している。戦争中に死んだこと。犠牲になったことをひたすら書いている。それも十人も二十人もの登場人物となると、読者は誰が誰か分からなくなる。映画や漫画なら視覚で説明できるが、文章で多くの人を描き分けるのはプロの作家でもかなり大変。
それを文章を書くことを仕事としない人が綴っているので、余計に分からない。ご本人は大きな悲しみを抱え、そんな戦争を繰り返してはいけないと手記を残したのだが、その悲しみが伝わって来ない。何より描かれた人たちのことを読者が把握できないのだ。
悲しみを伝えるには「技術」も必要。でも、技術だけでもダメなことも感じている。沖縄戦のドキュメンタリー。先日も書いたが、大手テレビ局が作った番組。金も時間もかかっている。なのに悲しみが伝わらない。ナレーターは
「多くの沖縄の人たちが、戦争に巻き込まれて行くのです」
と悲しそう説明する。が、全然、悲しくない。映画でも、悲しいはずなのに泣けないー先に説明したタイプの作品が多い。それは何か? 多くはディレクターや監督が、その題材に興味がない。悲しみを感じていない。
「ここまでやれば泣くだろう?」
と言う思いで作っていることがある。大手テレビ局の番組Dは明らかに悲しみを伝えようとは思っていない。本人も悲しみを感じてはいないだろう。史実を伝えると言う「仕事」をしているだけなのだ。
そんな中、今、読んでいる「沖縄県史 沖縄戦」ーある章を読んでいて涙が溢れた。その本は教育委員会が発行しているもので、どちらかと言うとお堅い資料本。教科書とか辞典に近いと思っていた。が、読んでいて涙した。
著書が「怒り」と「悲しみ」を感じながら、執筆しているからだと思えた。泣かそうとは思っていない。しかし、戦争への怒り、日本軍への疑問、犠牲になった人たちへの思い、
「同じ悲劇を繰り返してはいけない...」
と言う強い思いを持って書かれているのだろう。映画でも、小説でも、漫画でも、音楽でも、演技でも同じだ。技術も大事だが、思いが人の心を打つ。そんなことを思い返している。
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