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「半沢直樹」「シグナル」「鬼滅の刃」の共通点とは?=大ヒット作には必ず現代が反映されている! [MyOpinion]



「半沢直樹」「シグナル」「鬼滅の刃」の共通点とは?=大ヒット作には必ず現代が反映されている!

今更ながらだが「半沢直樹」そして「シグナル」さらに「鬼滅の刃」を見た。どれも大ヒット作品。全て僕は知らずにいた。こうして歳を取ると感性のアンテナが錆びつき、時代の流れを掴めなくなるのだ。

遅まきながら、それらを見る。とてもよく出来ており、涙と感動の名作となっている。そして共通点がある。以前にも書いたが「理不尽」「貧乏人は消えろ」「権力の力」が描かれている。「半沢」と「シグナル」は金と権力を握る者が理不尽な振る舞い、そのために貧乏人が踏みつけられるという背景がある。「鬼滅」ではその金と権力を「鬼」に象徴している。

そして主人公はいずれもスーパーマンではない。超能力もなく、権力もない。実は天下の副将軍だった!てなこともない。庶民。それも辛い過去がある。半沢は銀行の理不尽で父親が自殺。シグナルの主人公は兄が自殺。「鬼滅」は家族が皆殺しになっている。そして、3人ともに普通の人。プロフィイルを勉強したとか、鼻が効くとかいう程度。これら設定が非常に観客の共感を呼ぶのだ。

多くの庶民は踏みつけられている。不況真っ只中の消費税増税。総理が支援者を税金を使う花見会に招待。総理夫人の友達には億単位の土地を格安で提供。補償は不十分。高級公務員は轢き逃げしても逮捕されない。コロナ禍で営業自粛要請。満員電車はOKで映画館は自粛。理不尽のつるべ打ちが続いている。そんな国民がこれらドラマの理不尽を見て、思いがダブらない訳がない。

ただ、今ほどではないにしても、昔から理不尽はある。だから、時代劇が人気だった。先の副将軍、北町奉行、天下御免の向こう傷、親方日の丸の人たちが貧しい庶民を助ける物語。そこでストレス発散。しかし、そんな時代劇は姿を消した。親方日の丸はもう信用ならないと感じ始めたのだろう。時代劇は所詮、フィクション。現実とは違うと虚しさを感じた。だから、庶民が主人公で理不尽と戦う「半沢」や「シグナル」に強く共感する。時代劇だが「鬼滅」の平凡な少年を応援したくなった。

そして、戦い方も違う。過去の時代劇は「遠山の金さん」「水戸黄門」「桃太郎侍」「暴れん坊将軍」も基本、権力を振りかざして悪を退治する。後は、刀で滅多ぎり? しかし、現代では通用しない。それではおとぎ話。カタルシスは生まれない。そこで「半沢」は論理だった手法で悪行を暴く。「シグナル」は証拠を掴み、逃げ切ろうすると権力者を追い詰める。そして「鬼滅」を含め、3作とも主人公1人ではどうにもならない。仲間の助けで敵を追い詰める。この仲間の存在が大きい。

それを含め3つの要素。仲間、家族、諦めない。これらが3作のキーワードなのだ。そこに観客は大いに共感し、励まされ、カタルシスを得る。だから、見ていて「行けーー!半沢」「大山刑事。その犯人を捕まえてくれ!」とテレビを見ながら叫びそうになる。そして現実では追い詰められない悪を葬る。「よっしゃ!」と熱い思いが込み上げる。大ヒットするドラマには必ず現代の反映がある。そこに現実が映し出されている。


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常に疑え、自分が正しいと思うな。時代を生き延びる条件はそれだ。 [MyOpinion]

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ここしばらく、コメント欄を見ていると、誘導されている人、印象操作に引っかかてる人。狭い視野で分かった気になっている人。結構いることに気づく。

マスクのこと。戦争のこと。アメリカのこと。もっと疑った方がいい。いい大人が整合性も論理性もないコメント。読んでいて辛い。一見、広い視野で意見を書いてるように見えるが、中身ゼロもよくある。ただ、厳しく言えないのは、日本人のほとんどは「考える力」を育む教育を受けていない。与えられたことしかできない。だから、意見を言ってるつもりで、ニュースキャスターの受け売りをしているだけの人も多い。レベル低いのが当然かも?

僕も偉そうなことは言えない。勉強を始めたのは原発事故から。そして沖縄戦でさらに学んだ。両方とも背景は同じ。そんな機会があって、いろんな人から情報ももらうので、かなり謎が解けた。ラッキーなだけかも?だから、そのことをかなり記事にして来た。その手の話題に興味を持つ人が友達申請をくれたと思っていた。が、そうでもないようだ。特に年配の男性のレベルが低い。「####は分かってないな!」とか上から目線で特定の人を批判しているが、「分かってないのは、あんたやでー」上から目線の人ほど分かってないことが多い。

まず、自分の意見を疑え、正しいのは自分でなく、相手かもしれないと考えること。ま、「お前もな」と言われそうだが、その通りだ。目の前の現実を疑え、背景を考えろ。誘導されてはいけない。時代を超えるためには、それが必要だ。


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人と違うことをすると、止めに来る大人たち=ムラ社会ルール。日本がダメになった背景!? [再掲載] [MyOpinion]

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 [再掲載]

「将来、映画監督になる!」

高校時代。そう言ったら多くの大人たちに反対された。親、教師、親戚、先輩たちが「子供みたいなことを言うな!」「現実を見ろ!」と意見し、止めようとした。何ら迷惑がかかる訳でもないのに? 大人たちはあれこれ言って邪魔をした。

そんな背景には意外なことに「優しさ」がある。「この子は現実を知らない。世の中をなめている。将来、後悔し嫌な思いをしないように止めねば」との思い。同時に新しい何かをしようとすると拒否感、不安感を持ってしまい、今の安定や日常を守りたいという無意識が働き。それを阻止し、潰そうとする心理も生まれる。それが「村社会」ルールの背景になる。人と違うことをする。新しいことを始めると排除。「優しさ」からスタートした「お節介」は、村社会の安定を維持するためのメカニズムなのだ。アメリカ留学中にも、同じ発言をした。

「将来は映画監督になりたい!」

反応は日本とは180度違った。アメリカ人たちは「凄い!」「いいぞ!」「がんばれ!」「応援する!」「ハリウッドの友人を紹介するよ!」誰もが前向き。忠告したり、説教する人は1人もいなかった。

なのに日本はなぜ? 考えた。日本の多くは狭い村。その中で誰かが勝手なことを始めると、いろんな弊害が出る。秩序が乱れ、安定が壊れる。だから始める前に止める。真似たり、あとに続いたりする人も出て来る。子供たちにも悪影響がある。だから潰しておく。長い年月で出来上がった田舎特有のメカニズムではないか? だが、奇妙なのは個人としては「村の調和のため」とは思わず「本人のためだ!」と思い説教し、止めようとする。

江戸時代頃から続く村社会。その習慣。それが今も日本人の中で生きているだろう。さらに学校教育。同じ制服を着て、同じ髪型。同じ学科を勉強して、同じように良い成績を求める。そんな学校生活のあとは、サラリーマン生活。同じようなスーツを着て。似たような髪型で、スタンドプレーはしない。目立ってはいけないという社会生活の中で、新しいことをしてはいけないという意識が育つ。

結果、彼らは前例のないことをする者がいると、その行動を止め、潰し、排除。誰が指示しなくても、自発的に新しいことをする人を淘汰する。それがムラ社会ルール。学ばなくても村社会で育つと、それをマスターしている。それが日本人。そのことで個人的には「間違っている、違う」と思っても多くが一致団結。みんなで突き進み、戦争を始めたり、経済大国となったりした。だが、激動の時代になるとアジアの国々に追い抜かれた。新しいことをすると潰される環境では新しい時代に乗れない。それが今、日本をダメにしている背景に思える。


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日本人は本当に愚かなのか?=背景にあるのは江戸時代と同じ統治手法? [MyOpinion]

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日本人は本当に愚かなのか?=背景にあるのは江戸時代と同じ統治手法?

日本人は愚かだ!ーとよく聞く。昨年は東京都知事にミドリのおばさんを選んでしまう。直接選挙法ではないが、総理はあの人だ。あれだけ問題起こして、あの人まだ議員しているの?という輩も多い。それは彼ら彼女らの選挙区で投票する人が数多くいるから。多くが政治家を批判をするが、そんなダメ議員を選んだのは国民。だから「日本人は愚か」ということになるのだろう。

でも、そこで終わってはいけない。「なぜ、日本人は愚かなのか?」を考えてみよう。日本人はバカなのか? そんなことはない。一時は世界1の経済大国になったし、電気製品、自動車は優秀なものを作っていた。文盲率もアメリカに比べてもずっと低い。勤勉。長時間働く。バスや電車が来る時間も正確。アメリカは時間通りに来ないことが多い。いろんな国の人と話したが、その辺は世界的に凄いレベルだ。

そう考えると「日本人は愚か」とは思えない。むしろ「優秀」だ。そんな優秀な国民がなぜ、ミドリのおばさんや、あの総理を選んでしまうのだろう。自分たちのためにはならない。むしろ国民を搾取、利用する人たち。それを選んでしまうのはやはり「愚か」と思える。では、具体的にどこが愚かなのか?分析する。

日本人は勤勉だし、器用。よく学びよく働く。背景にあるのは学校教育だろう。その教育というのは「与えられたことを確実にこなす」人間を育てること。あれこれ記憶する力。教えたことを再現する能力。つまり、優秀な会社員を育成するためのもの。どんな仕事であろうと、その工程を理解、把握し、与えられた作業をミスしないでこなすための練習が学校教育なのだ。

しかし、そこに抜け落ちているもの。自分で「考える力」を育てる教育だ。与えられたことをする、指示されたことを遂行するのでなく、自分で状況を判断し、問題を把握し、選択、決断、行動する力は教育で育てない。なぜなら、そんな力が育つと会社に逆うこともあり得る。命令が間違っていれば、不利益をもたらすものなら、従わず、反発する。だが、会社側は間違った指示でも疑わずに、反発せずに従って欲しい。

だから、学校では、そのような力を育てないようにしているのだ。要は会社ロボットを育てるということ。指示されたことを疑わない。拒否しない。素直に従う。上からの命令を守る大人にするため。言われないことはしない。勝手な行動は取らない。学校ではそんな従順なロボットになる教育をしている。

上からの命令。会社トップ。政府。マスコミからの指示を素直に受け入れ、従う。反感を持っても「小池百合子、当確」とかマスコミが報じると「どうせ、そうだろうな」と投票しない。「問題あるけど、現役だしな」と投票してしまう。深く考えようとしない。他の候補を調べない。テレビによく出ている小池だけしか知らない。だから、あんなのが当選。

つまり、日本人は労働者や技術者としては有能なのだが、自分で考える力が弱い。教育によって育てられていない。そのため自分で状況把握ができない。物事の本質が見抜けない。だからマスコミに誘導される。これって江戸時代と同じ手法。

農民には読み書きを教えず、情報や知識を得られないようにして、ひたすら米を作らせたのと同じだ。そのバージョンアップ版。当時、一部の侍が多くの農民を支配したように、今は考える力を奪うことで、一部の政治家、企業トップが国民を支配しやすくしている(その誘導役がマスコミ=国民の味方の振りをしながら誘導する)戦争をする時も、似たような手を使うしね。そういうことではないかな?



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多くは便所の落書きレベル? 鋭い人はコメントして来ない! [MyOpinion]

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本当に残念なことだが、Facebookで論理性を持ってコメントする人は少なく、多くは便所の落書きレベル。自身の不満を政治家にぶつけているだけ。多少、理性的に書いているように見えても、根拠のない思い込みであったり。一読に値するコメントはなかなかない。

ただ、コメント欄ではなく、いろんな人の記事を見るとマスコミ顔負けの情報と分析を伝える人も多い。とても素人とは思えない人がいる。彼ら彼女らはほとんど他人のページにコメントしない。あれこれコメントしてくる人たちの多くは、自分で情報を集めず、聞き齧った情報を鵜呑みにして、正確に分析することもなく、論理性を持たない烏合の衆になのだろう。

誰かの主張や意見に文句をつける。否定する。でも、的確な反論はできない。議論ではなく、イチャモンつけているだけ。要は欲求不満の解消をするために他人に絡んでいるだけなのだ。そんなケースがほとんど。それらの人たちのコメント。読むだけで疲れる。

しかし、Facebookは承認制ではなく、それらコメントを他の友達も読む。それら根拠のないコメントに対して議論を始める。全く無意味。こちらは精神科の医師、複数に訊いて書いた記事に対しても「あいつは単なる嫌な奴なんだよ! 病気じゃねえよ」と医学的な知識もないであろう人が思い込みだけで批判してくる。憎しみのあまり、客観性を失っている。

そんな人たちと関わっても無意味。血圧が上がるだけ。お願いだから、放っておいて。書きたいことは自分のFacebookで!と思ってしまう。ただ、そんな人たちを見ていて、マスコミが簡単に誘導。政府にコロッと騙される日本人。その構図が実感できるのはメリット。まあ、そもそも、休止していたのに311で記事あげないと!とアップしたら、翌日に「F50」がテレビ放送されて、黙ってられなくなり、間違いを指摘した記事を挙げたら大好評。その流れで今日まで来てしまった。そのことは反省。

ただ、そのことで幾らかの人たちがあの映画のフェイクを知ってくれたのなら意味もあるはず。ただ、そこから派生した総理問題。その実態を理解していない人があまりにも多い。それも掴んだ真相を告げるべきか?と考えたが、理解できない人が多く、特に精神障害の問題はマスコミも蓋をする。多くが知らずにいる。そこに医学の世界では常識である事実であっても、無知な人たちはそれを受け入れることができず、反発してしまう。つまり、多くが理解できる情報は喜び、自分たちの許容範囲からはみだすと、論理性を持たずに拒否するという構図がある。

その辺をマスコミや政府は利用して、多くの人を誘導する。まさにその問題に直面する。聞き齧ったマスコミ情報を信じ切り、自身で裏付けをしない。あれこれ別のメディアから情報を集めない。それが多くの日本人だと思える。現在のコロナ感染で小池百合子知事を批判する声が多い。オリンピック強行に関しても批判ばかり。

しかし、小池を選挙で選んだのは都民なのだ。給付金を配ると公約した山本太郎を落としたのも都民だ。それが「金は配らず、自粛しろとは何だ」と怒る商店。あんたは誰に投票したの? そして多くの都民が小池を選んだのだから、あんたにも責任あるのだよ。文句言うなら、あの時に山本太郎応援運動をするべきだったのだ。

ま、でも、Facebookをやることで、そんなことを考えるきっかけにはなる。それはメリット。ただ、血圧が上がる。何も調べずに思い込みで主張する人とは関わりたくない。こちとら心理カウンセラーではないのだ。できれば再び休止できるようにしたい。宣言するとまた、あれこれ質問が来るので、FB友達に気づかれずに休止する方法を考えている。





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Facebookは田舎生活。ブログは都会の暮らし。その違いとは? [MyOpinion]

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 Facebookを休止したのに「f50」記事が大反響で、「いいね」100「シェア」100と言うのが何度も出るほど。ここで「休止」というのも気が引けて「F50」の過去記事を再掲載。さらに、関連する原発記事等もアップした。いずれも好評。すると、昨年の今頃アップした「糸井イズム」記事が「1年前の記事」で出てきたので再掲載。これも凄い反響。「f50」放送から今日で10日経つ。「いいね」が少なくなったら、休止再開にしようと思っていたのに、なかなか踏み切れない。

 一時は原発記事の反応が悪く、完全に皆、忘れて放射能よりコロナで大騒ぎしていた。やはりあれから10年ということで問題を再認識した人が多かったのだろう。ただ、Facebook記事。新作は上げてない。全て過去のもの。多少、加筆訂正はしているがオリジナルではない。新作に力を入れていたら、時間が取られ、休止して時間を作った意味がない。ただ、頭の痛いコメントは激減した。その理由を考えるに、記事のみで生活の報告をしなくなったこと。

 健康。食事。日々の生活を記事にしていない。要はそれらを読者が知ることで共感したり、応援したい!と思ってくれるのだろう。だから、あここれ言いたくなる。何かアドバイスしたくなる。それは本来ありがたいことなのだが、医学的知識もなく、こちらの体調も把握せず、僕の記事もしっかりと読まずにあれこれ提案したり、質問したりしてくる。ほぼ全部のコメントが的外れ。

「過労」と何度も書いているのに「運動不足では?」とか、「食生活がよくないですよ」とか、完全にハズレのコメント。あるいは「寝込んでいる」と書いているのに「病院に行きましたか?」「添加物のせいではないですか?」と答えを要求する質問をしてくる。「親切」と本人は思っているが、実際は田舎のおばちゃんのように他人のプライバシーへの好奇心でしかない。

 その種の偽りの「親切」を拒否すると、「親切で言っているのに!」と怒り出す人もいて始末に悪い。その種の人たちと付き合うのはうんざり。「コメント、アドバイスはいりません」と告知しても止まらない。メッセンジャーでアドバイスしてくる人までいる。もう、Facebookをやめようとか?と思い、体調がよくなるまで休止にした。それから5日ほどで311、そして「F50」で記事アップとなったのだが、ここしばらく大きなお世話はない。約1名。アホとしか思えないコメントがあったが、無視。つまり、生活のことを書くので大きなお世話が始まるのだろう。

 食べ物。健康。体調。そのようなことを書くと親近感を覚え、「監督、頑張っているなあ〜何か応援したい」と医学的知識もないのに、記事をろくに読んでもいないのに、思いつきのアドバイス。そして負担をかけることも想像しないで、あれこれ質問してくる。要はプライベートを一切書かなければいいのだ。ただ、Facebookを読んでくれている本当の友達。「元気でやっているのか?」「今はどうしているのか?」という人たちへの近況報告の意味もあったので、それが伝えられなくなる。まあ、そんなこともあり、こちらのブログで近況は書いているのだが、

 ブログがいいのは、読者と書き手の距離が遠いこと。Facebookは意図的に両者を近づける設定にしている。そのことでプライベートを書かせて、f社が情報収集するのが目的だろう。コメントを多くの人が読むことができる。すぐに返事ができる。相手にコメントしたことが通知される。そのことで距離感が近くなり、あれこれ考えずにコメントする人も多い。それがブログの場合はコメントを公開せずに保留できる。そして書き手側がそれに返事する設定がない。やればできるが、面倒な設定。それがあるので交流がしにくい。そこが利点なのだ。コメント欄で読者同士が議論することもない。

 言い換えればFacebookは田舎の暮らし。他人が無神経にプライベートに踏み込んでくる。ブログは都会の生活。人と人とに距離ができる。その意味でも僕の場合はブログの方が向いているのだろう。ただ、記事に対するダイレクトな反応はFacebookの方が分かる。ブログは単にアクセス数で知るだけ、何万件もの反響があってもコメントは本当に少ない。その意味で近年、Facebookをメインにしたが、弊害もあれこれ痛感した。そんな訳で、しばらくはこちらであれこれ書いていく。

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職場や家庭で不満がある人。ネットが吐口になっている? [MyOpinion]

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 以前にネトウヨや正義中毒の人たちの分析を記事にした。なぜ、彼らは頼みもしないのに寄ってきて、あれこれ誹謗中傷をするのか? 批判、反論をしてくるのか? そんな彼らの背景にあるのは、不満の蓄積。満足できない環境にいるということ。職場で認められない。やりがいのある仕事をしていない。十分な収入がない。生活に余裕がない。どちらでもいい存在だと思われている。友達が少ない。必要とされていない。代えが効く仕事。そんな中で自分の存在を確認できない苛立ち、寂しさ、無力さを痛感。自己確認ができないでいる。昔なら、そんな人は飲み屋で愚痴を言う。カラオケで憂さ晴らし。公衆便所に嫌いな奴の悪口を書く。

 ところが現在はネットの時代。それに飛びついた。名前や顔を隠し、住所や職場も伝えずに、安全な場所から誰かを攻撃できる。政治家でも、タレントでも、有名人でも、日頃から怒りを感じる相手をTwitterやコメント欄に批判を書き込む。それらは単なる誹謗中傷にしか過ぎないのだが、本人は「社会的制裁!」「正論」「天誅」のように感じている。政治家に対しては、良い政治を行っていないことへの批判。タレントには、非常識な発言、行動をしたことへの注意。罰。「悪口ではない。俺は正しい意見を申し述べているのだ」何か社会貢献をしている気分でいる。

 要は「正義中毒」だ。「私はネットを通して不正を批判している。社会のために頑張っている」と言う勘違い。単に不平不満を言っているだけなのだが、そのことで充実感を持ってしまう。ドーパミンが出て気持ちいい。それが中毒になる。言い換えれば、欲求不満の解消。惨めな状況にいる自分から逃れるための反動なのだ。

 Facebook上でもそんな連中はいた。何を理由に偉そうに反論してくるのか? と思えたが、同じ種の人たち。だが、多くがまともに議論もできない。感情的になる。自分の趣味志向を押し付けるだけ。彼らに対応する時間がもったいない。その種の人は皆ブロック。やがて、いなくなった。が、別の種の人たちが出てきた。

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 彼らは誹謗中傷、批判はしない。何かプライベートなことを記事に書くと、あれこれコメントしてくる。例えばランチの写真をあげると「野菜が足りませんよ」「その食品は防腐剤が多いです」「自然食が一番です」「インスタントはやめましょう」なぜか、大きなお世話?親切?そんな書き込みがたくさん来る。「体調不良で寝込んでいます」と書くと、先にも書いたが、「病院へは行きましたか?」「野菜が不足していますよ」「外食はやめましょう」とこちらも、会ったこともない人たちがあれこれ質問、アドバイスがコメントされる。

 どれも基本、悪意はない。親切だとも言える。が、その記事だけ読んで勝手な推測、思い込み、勘違いで書き込みをしている。前後の記事を読めば「過労でダウン」と書いているのに、それを読まず「原因はなんですか?」「病院に行くべきです」とかコメントする。過労は病院では治らないこともすでに記事にしている。もし、本当に心配しているなら、その人の記事をいくつか読んだ上で原因を推測してコメントする。本当に心配なら病人に質問をして返事をさせるようなことはしないだろう。

 彼らは「心配」「親切」のつもりでいるが、要は「好奇心」体調不良の原因を聞き出せば、自分が持っている知識や経験が役立つかもしれない。そのことで感謝されたい。「私のアドバイスが役に立った。よかった!」と喜びたい。そんな思いが無意識にあると思える。つまり、人は自分が役に立つ存在だと感じたい。人様に必要とされていると思いたい。親切でいい人だと確認したいのだ。

 人が持つ「良心」の部分。だが、現代社会ではそれを感じることは少ない。都会暮らしでは近所付き合いはあまりない。妻のいない男性。夫のいない女性。不仲の夫婦。子供がいない夫婦。職場で与えられたことだけをする仕事。職場で認められていない人。嫌われている人。誰かに何かして感謝されない人たち。そんな人たちがFacebookで見つけた困っている人にコメントする。「誰かの役に立ちたい。自分は役に立つ存在だと証明したい」そんな思いが、コメントをさせる。だが、相手のことを深く考えてはいない。「私は親切だ」と確認したいだけ。なので相手の状態をあれこれ考えず、記事の内容から安易な想像して「野菜を食べましょう」とかコメントをしてしまう。

 もう、分かっただろう。ネトウヨと同様。安全な場所から努力せずに、あれこれ口出しをして自己確認に繋げているだけなのだ。ネトウヨは「批判」することで社会貢献をしていると思い込む。こちらの人たちはあれこれアドバイスすることで「私は親切な人だ」と思い込む。どちらも、日頃の満たされない思いを癒すための行動。どちらも自己満足。だから、安全地帯にいて、あこれ口を出すだけ。楽して「俺は凄い」「私はいい人」と思いたいだけなのだ。

 ネトウヨもろくに記事を読まず、理解もせずに「こいつは左翼だ。叩いていい!あの先生を批判する奴は許さん」と攻撃するが、**先生や***党は建前。要は批判する相手が欲しいだけ。相手の病状を心配する。アドバイスする。だが、そもそも医学の知識はない。何もアドバイスすることはできない。それでもあれこれ聞き、提案するのも、「私って親切!」と感じたいからだ。それら願望を満たすのにネットというのはとてもお手軽! そして、その種の人たちが多いのは、いかに日常で、職場で満たされていない人が多いか? その吐口をネットでしているのだと感じる。


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Facebookは村社会と同じ構図!? [MyOpinion]

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 Facebookはほぼ毎日、更新していたが、現在は休止している。突然に休止すると「死んだんじゃない?」と思われるといけないので、休止理由を説明をアップした。それを延々と残しておくと、そのコメント欄に「原因は何ですか?」「お大事にしてください」「復帰をお待ちしています」「入院ですか?」といろんな書き込みが来る。それを見て入院したと思い込む人も出てくるので、半日公開してアカウントごとログアウトした。そうすればコメントできなくなる。

 それから数日後、「アカウントが見つからない」とメッセンジャーに連絡が何件も来た。休止告知を見ていない人たちからだ。皆、心配している。自分がブロックされたのではないか?と思っている人もいる。なので1人1人に説明。結局、休止しても対応せねばならない。ブログは1ヶ月休んでも、そんな連絡は来ないがFacebookはあれこれ言ってくる。

 いかにFacebookというのは「緊密な関係性」を構築させられてしまうメディアか?を実感する。現実に会ったこともない人を「友達」と感じてしまう。なのに多くが偽名、年齢なし、職業記載なし。顔写真はアニメ。規定されていることを守っていない人も多い。分かるの男女どちらか?ということだけ。

 つまり、覆面をかぶって「友達」付き合いしているようなもの。それなのに、あれこれ心配したり、大きなお世話だったりする。ただ、同時に何でそこまでという応援をしてくれる人もいる。面倒臭い部分もあるが、助けられることもある。

 それは何か?と考えると「田舎暮らし」と同じ状況だろう。親しくもないのに、近所にいるのでよく顔を合わせる。挨拶をする。会話する。そこで面倒なのは、あれこれ聞いてくること。子供時代なら大人たちは「高校はどこに行くの?』「大学は?」「就職は?」と質問してくる。何で近所に住んでいるだけのあんたにプライベートなことを話さなえればならない。と思える。

 ただ、家の中で倒れていた。病気で動きない。そんなことも近所の人が知れば、救急車を呼んだりしてくれることもある。が、それは日頃から「あの家、今日はるすね〜。どこへ行ったのかしら?』と私生活にまであこれ関心を示しているから、動きがないとすぐに知れてしまうということなのだ。

 都会なら隣の住人が死んでも数ヶ月も気づかないということがある。それ以前に隣に誰が住んでいるか?分からないことが多い。近所との交流もない。死んだり倒れたりしても誰も気づかない。ただ、あれこれ私生活に踏み込んで来る人もいない。

「都会の人は冷たい」というが、「田舎の人はお節介」とも言える訳で、どちらがいいか?は人それぞれ。ただ、Facebookというのは「田舎生活」に近い物だと思える。あれこれ誹謗中傷してくる人は簡単にブロックできるが、親切、いや、大きなお世話の人を防御するのが難しい。

 そんなこともあるので、体調不良で、お相手することで余計に悪くなりそうなので、休止した。現在、宣伝活動もないので、その分の時間を他に使う。春に向かってこれまでと違う生活スタイルを築きたい。


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応援してくれる人たちと、線を引かねばならないこと [MyOpinion]

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 Facebookであろうが、Twitterでも、ブログでも、あれこれ批判してくる人はいる。それはよく分かっているが、応援してくれる人たちが悩みの種になることもある。「体調が悪い」と書くと、あれこれ心配コメントが来る。ありがたいことだが、こんな質問をしてくる人がいる。「病院には行きましたか?」体調が悪い。寝込んでいると書いているのに、なぜ、返事を求める質問をするのか? ベッドから起き上がってパソコンに向かい「病院に行って、薬をもらいました。ご心配、ありがとうございます」という返事を期待しているのか? 会ったこともない人がなぜ、そんな労力を相手に求めるのか?

 「野菜を食べた方がいいです」「原因は添加物ではないですか」というのもある。しかし、原因は過労。前から何度も書いている。それを読んでいない。で、一つ前に「添加物」の記事を書いたのだけ見て「そうだ。添加物が入ったものばかり食べているんだ!」と考えた。が、その記事は「添加物が入ったものは、なるべく食べないようにしている」という内容。その記事すら読んでいない。野菜もサラダを連日食べているという記事も書いている。どこから野菜不足と判断したのか?

 「外食を控えた方がいいですよ」とのコメントもあった。なぜ、外食が多いと判断したのか? 「**定食」というランチの時の写真を時々上げるが、全ての食事を写真にして掲載している訳ではない。なのに上がった写真だけ見て「外食が多い!原因はこれだ!」と思い込む。安易に判断し、あれこれアドバイスしてくる。ここしばらくの記事を読んで、原因を推理した上での提案というのなら分かるが、一つの記事から連想したことだけで、アドバイス。当然、的外れとなる。

 でも、その手の人の気持ちは「親切」「心配」だ。いつも興味深い記事をアップする監督が体調悪くて寝込んでいる。「何か?応援できないか? アドバイスできないか?」という思いでコメントをくれたはず。本来、ありがたいはずのものだが、それらは見当違いであり、ため息をつく結果。さらに、こちらの返事を要望するようなコメント。なぜ、体調不良の相手にそんなことを求めるのか? いくら「心配している」と分かっていても、そんなコメントをもらっても嬉しくない。イライラが増すだけ。血圧が上がり体調が悪化した。

 言い換えると、火事で自宅が燃えているに「原因はきっと放火ですよ!」「早く水をかけた方がいい」と言いに行くようなものだ。何の役にも立たない。言う必要がない。相手が喜ぶはずがない。同様に医者でもない、医学的な知識もない人が、会ったこともない相手に、体調不良なのに、見当外れな原因を上げてアドバイスする。相談もされていない。現実社会での友達でもない。そんな人たちが何人もいる。だが、多くはそうしたものなのだろう。

 「心配している」と本人は思っている。「親切」のつもりだろうが、そうはなっていない。「悪意」はない。「好意」だ。が、ろくに情報も得ようとせず、無神経な推理で、あれこれ相手の労力を求めるだけの行為。大きなお世話となってしまう。「役に立てれば」という純粋な想いはあるが、それが形になっていない。つまり、本当に「役立ちたい」と思えば、それなりの労力を使うが、それをしない。「心配している」という自分を感じて「私は優しい人だから」という自己満足に陥っていはしないか?

 あるいは「考える力」がない。だから、「役立ちたい」と思っても、的外れなことしか言えず、相手を翻弄するだけに終わる。こちらの方が多いかもしれない。状況判断。的確な指摘。必要な提案ができない。高度な作業ではない。だが、それができない。本人の努力もあるが、そんな考える力を養う教育を日本では行わない。言われたことをするだけ。だから、「悪意」のない親切な人の行動も、結果、そんな無意味な大きなお世話になることが多いのだろう。

 気持ちは嬉しいが、それなら何もコメントせず、あれこれ言われない方が助かる。どうしてもコメントするなら「お大事に」というだけで十分。素人が原因の追及やアドバイスをする必要はない。繰り返すが悪意のない本来、親切な人たち。だが、彼らと対応すると体調が余計に悪くなる。「心配」という名の大きなお世話にどう対応すべきか? 「コメントはいらない」と伝えても、また、別の人たちがコメントしてくる。対処法は一つ。直接接することができないようにするしかない。悲しい話だ。

 多分、多くの芸能人が人気が上がるにつれて、ファンから遠ざかるのと似たような構図だろう。僕は芸能人ではないが、応援してくれる人は多い。批判する人は前からいるので分かるが、応援してくれる人たちとの距離を置くことも考えねばならないこと。痛感する。因果な商売ということか?




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ネットでは議論できない=反論コメントの多くは欲求不満の人たち? [MyOpinion]

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ネットでは議論できない=反論コメントの多くは欲求不満の人たち?

「反論は要らない、議論はしない」と時々、告知させてもらっている。なのに、こんなコメントが来る。「反論があってこそ気づかないことに気づき、議論をしてこそ知識や視野が広まるものですよ」その指摘は基本正しい。が、ほとんど機能しないのが現実。

Facebookはもう9年くらい続けている。が、その中で「なるほど!」という反論を頂いたことはない。(知らない情報を教えてもらうことはある。が、それは反論ではない)反論のほとんどは罵詈雑言。誹謗中傷。根拠のない批判。要はイチャモンである。そして議論をしても、途中から人格攻撃になる。上から目線でバカにする。感情的になって終わり。がほとんど。(これはネット上でなく、日常の中でも起きがち)

なぜ、議論や反論が「気づかないことに気づき」「知識が広まる」にならないのか?感情論や誹謗中傷にしかならないのか? 答えは簡単だ。日本人は教育の中でディベートを学ぶ機会がないのだ。アメリカでは子供の頃からその種のクラスがあるが、日本はそんなカリキュラムがない。その上に、中学時代あたりから意見を言ってはいけない空気を学校で感じるようになる。余計なことを言って批判されたくない。教師から注意されたくない。それを優先するようになる。

なのにSNSの普及で、議論や反論の場ができてしまった。ボクシングを知らない者をいきなりリングに上げてもルールも知らず、戦い方も分からない。ただ、無意味な殴り合いになるのと同じ。反論に関しても同様。コメント欄に書き込まれるものの多くは反論ではなく、ストレス解消なのだ。彼らの多くは本名も顔写真も出さず、年齢も職業も隠して、安全地帯から攻撃しやすい記事や人物を探す。

政府批判をしていれば「左翼」「パヨク」「半日」というレッテルを貼り攻撃。あるいはトランプのことを書いている人があれば「陰謀論者」と決めつけて上から目線でからかう。「だって、テレビで言ってないだろう?バカじゃないの?」というマジョリティ側に立つことで自分に正義がかると思い込む。自分の知らないことを延々と書かれていると、「偉そうに、それ本当に正しいのかよ!」という単なるコンプレックスだけで、批判する。

「***とは限らないだろ?」「わかってないね〜」「ここにもバカがいたよ〜」「だったら証拠出せよ」と意見や情報もなく、中身のないイチャモン。その人が強いコンプレックスを抱いているのが原因。自分は知識なく社会のことを知らない。だから、あれこれいう人の記事を見て「お前の意見なんて意味ない!」と否定することで自己を守りたくなる。そんな無意識の反発が攻撃に繋がる。

物凄く長く、あれこれ知識を振り回した反論も来るが、「俺はお前より知識がある。勉強してんだよ。お前はまだまだだ」と自己顕示欲をアピールしたいタイプ。この種の人は知識はあるが、周りの人が自慢たっぷりの話を聞くのを嫌がり、聞いてくれる人がいない。その不満を誰かのコメント欄で晴らすのだ。俺はこんなに博学なんだ!と。

多くの反論は以上のどれかに当てはまる。いずれもストレス解消、八つ当たり、自己顕示欲と、本人の不満、怒りの反映でしかない。それをFacebookやTwitterにぶつけている。本来、その手の人はカウンセラーに話を聞いてもらうべき。それを見ず知らずの他人を利用して解消しようとする。そして「俺の勝ちだ!!」「バカが多いね〜」と優越感で心の傷を癒す。

その種の人たちの相手をするのは本当に疲れる。時間がもったいない。そもそも意見を交換する。議論をするというのは、よく知った相手か、相手の背景が分かる人とでないと成り立たない。「戦争論」を読んだだけのネトウヨと戦争について議論しても答えは見えている。反論をされても、バックグランドが分からない人だと、事実を言っているのか?勝手な想像か?判断できない。つまり、ディベート教育も受けていない日本人同志がネット上で議論するのはやはり無理。その上、欲求不満のはけ口になっている。

先の「反論があってこそ気づかないことに気づき、議論をしてこそ知識や視野が広まるものですよ」という指摘が正しくないことが分かる。特にネット上でその正論は成立しないことが多い。だから、議論はしない。反論もいらない。欲求不満の解消に付き合うのは避けたい。



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時々、おかしなコメントする人がいる=状況把力の貧しい人。意外に多い? [MyOpinion]

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何年も前だが、こんなコメントが来た。「最近、外で取材した記事が少ないですよ。楽をせず、ちゃんと外へ出て取材した記事を挙げてください」中年、女性の方。しかし、僕を何者だと思っているのか?ジャーナリストではない。なぜ、会ったこともない女性が「外へ出て取材した記事を挙げてください」と指示するのか? 

もし、ジャーナリストだとしても、ここはFacebook。会費をもらってみるメルマガとか、ニュースサイトではない。そのアカウントの1つに外で取材して記事を書けと要請する意味が分からない。大いなる勘違いをしている。確かに以前は原発関連の記事を何度も挙げた。官邸前のデモ取材もした。その人はそれら記事を読んでいた。その後、政権についての問題を書く。それを見て「外に出て取材していない」「サボっている」「楽している!」と感じたのだろう。

しかし、僕は記者でもない。その人は編集長でもない、僕の雇用主でもない。つまり、勝手に僕がジャーナリストだと思い込み、自分が会費を払って記事を読んでいる訳もないのに、「努力不足だ」と思い指示してきたのだ。この人。他のアカウントにもそんなコメントをするのか? Yahooニュースにもそんなクレームをつけるのか?Facebookは個人の日記のようなもの。そこにあれこれ指示すること自体がおかしい。

「状況把握力」が貧しいのだろう。自分がどんな立場なのか?相手との関係性はどうか? どんな状況下に自分はいるのか? その辺を把握する力が乏しい。その種の人は往々にして、自分の立場以上の要求を他人にしがち。他人にあれこれ言える関係でないことが分からず、指図してしまう。facebookで文句あるなら「友達」やめればいい。

これと同じなのが「分かってねえなあ。あれは***だよ」と自分と意見が違うと批判してくる人。違うのが嫌なら、文句を言わずに、やはり「友達削除」すればいい。この種の人も「状況把握力」が貧しいと言える。最近もその種のコメントが来た。「私は情報が少ないで、もっと詳しく書いてもらわないと分かりません」ーやはり、ジャーナリストと勘違いしているようだ。それをいうなら、まずフェイク・ニュース連発のマスコミにクレームするべき。

そしてなぜ、人に頼るのか? 指示するのか? 自分で情報を探し、考えればいい。僕だって基本はいろんなニュースを探して、比較し、何が嘘で何が本当か?を考え、歴史を振り返り、その組織や団体の特性を思い出し、検証、推理している。同じことは誰にでもできる。いろんな情報をくれる専門家もいるが、だからと言って、その人のために、詳しく書く義務はない。さらにその記事は過去に詳しく書いたもののまとめ、過去記事を探せばいいのだ。ネット検索すれば、メジャーなマスコミでも報じていること。

自身で調べようとせず、他人に努力を指示、会費を払うメルマガでもないのに、あれこれ要求。例え孤島で暮らしていてもネットがあればかなりの情報は得られる。「私は情報が少ない」自体が勘違い。そして何より、会ったこともない人に、あれこれ要求するのは問題。ただ、その種の人は多い。自分の立場を把握せず、他人にあれこれ指示。その背景は何なのか?一度、分析したい。


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親しくなるとトラブルが起こる!=勘違いさせるこちらにも責任がある? [MyOpinion]

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Facebookで、いきなり誹謗中傷のコメントをしてくる人なら、即「友達」削除する。躊躇はいらない。だが、最初の頃は記事を毎日読んでくれ、応援もしてくれ。舞台挨拶にも来てくれた。差し入れもくれた。そんな方がある時期からおかしくなったらどうだろう?

上から目線であれこれ批判を始めたり、説教をするようになった場合。どう対応するか? 親しい人なら「お前、誰やねん!」「ほっとていてくれ!」で相手は理解する。それ以前に現実の友人なら、僕はあれこれ言われるのが好きでないことを知っているだろう。が、数回会ったことがあるだけの人が仕事や私生活について、あれこれメッセンジャーで伝えて来た場合は難しい。

例えば「コメントに返事をくれない」「謝罪がない」「自分が行けない日にイベントがあった」「最近、努力が足りないぞ」等だ。今までも何回かやりとりしていたのに、急に返事をしないのも気が引ける。と言って、なぜ「大きなお世話であるか?」を説明するのは時間も労力も取られる。仕事に影響。忙しい時なら余裕がない。そう言うことが何度かあった。

当時でも僕のFB友達は3000人を超えており、多くの人がコメントしてくれていた。その人のコメントを読みそびれることもあるし、返事ができないで時間が経つこともあった。メッセンジャーで長々と不満を綴る。別に恋とか愛の話ではく、応援しているのに失礼だ。礼くらいするべきだと言うもの。だが、自分が行けない日にイベントされて悲しいとか。熱狂的なファンと解釈するべきか?その人、通常は問題ないが、ちょっと精神的に不安定なところがあったようだ。

もう、何年も前の話だが、その時は長い文章で謝罪し、1人1人にお礼を伝えることはできない状態と詳しく伝えたが、「反省が足りない」との返事。応援いただくことで迷惑をかけるなら...と友達削除させてもらうと伝えた。そうしないと、何かあるたびに長い文章で、あれこれ不満を訴えられても困る。何よりその人のためにイベント日を決めたり、変えたりはできない。

タレントだとその種のことはよくある。熱狂的なファンがいて、自宅に押し掛けたり、ポストから手紙を盗んだり、チケットが買えなくて誹謗中傷を始めたり。でも、僕はタレントではないし、たかだか映画屋。それでも、ごくたまに一線を超えてしまう人がいる。ただ、その人が「おかしい」で終わりにするべきではないだろう。

そもそも、思い込みが激しい人は存在する。FBで「友達承認」するだけで「わーー友達になった!」と思う人もいる。いきなりタメ口でコメントする。質問に答えただけでも、親しくなったと思い込む。そしてプライベートなことまで聞いてくる。会ったこともない人に、ネット上で答える必要のないこと。それが非常識であると気づかない。が、そんな人たちもいる。また、ネットを介することで勘違いしがち。キーボーを叩けば答えが出るー感覚で質問する人もいる。

そんな人たちに返事をすること自体が、誤解を生み、勘違いさせてしまうのだろう。親しくなったと思い、「友達なんだから、返事をするのが当然」「なのに返事なし。失礼な!」と先方ではこちらが非常識と思っていることがある。「私はいっぱい応援したのに、金払えと言ったわけでもない。連絡したら返事するくらい当然だ。謝罪もできないのか? まてよ.....利用されたんだ。騙されたんだ....許せない.....」そう考えたのだろう。その頃から、FB上では親しくしない。質問に答えない。と、こちらから一線を引くことにした。

僕が映画屋なので、面白がって寄ってくる人もいるのかもしれないが、同じような経験をされた方もいるだろう。特に女性は男性友達から似たようなアプローチをされることがあるはず。だから、距離を取る。親しくならない。こちらが考えねばならない。


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タレントの死を茶化して笑うファンの心理=想像力の欠如を考える [MyOpinion]

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タレントの死を茶化して笑うファンの心理=想像力の欠如を考える

以前に漫画家さんの飲み会に呼んでもらったことがある。ファンも参加できる会。日頃は作品を通じてしか交流できない作家さんと直接会い、話ができる。ファンにとって貴重な機会だ。僕はお世話になっている漫画家さんに声をかけてもらい参加した。

ファンたちは作品の感想を伝えたり、日頃から感じていた質問をしたり、盛り上がっていた。酒が進み、緊張していたファンたちもリラックス。聞きづらい質問なんかも始める。が、漫画家さんたちは笑顔で答えていた。そんな中、1人のファンが「そういえば漫画家の***さんが、オッちんじゃいましたね〜!」と笑顔で言った。ギャグ漫画の作家が数日前に亡くなったのだ。

それを聞いた漫画家の1人が大きな声で怒鳴りつけた。「何をバカなことをいう!人の死をそんな風に言うな!」そう言うと黙ってしまった。ファンは理由が分からず、でも、怒られたことにはショックを受けているようだ。別の漫画家さんが説明する。

「**先生は滅多なことでは怒らない。こんなことは特別だ。分かるか? 亡くなった**先生とは昔からの友達だったんだ。あなたにとってはギャグ漫画の作家で、死んだことさえ笑いに感じるかもしれない。でも、僕らの仲間だった人だ。その人が死んだんだ。それをバカにしたように言うのは違うだろう?」

そのファンはようやく理解したようだった。本当にその通りなのだが、そこに業界とファンとの境がある。昔、ビートたけしがバイク事故で大きな怪我をしたことがある。その時、多くのファンが「たけし、死に損ないやがった!」と笑った。事故さえも笑いとして捉えてしまう。その漫画ファンも同じようにギャグ漫画の人なので、死んだことも笑いに捉えたのだ。漫画家さんたち。世間がそんなであることは分かる。だが、それを本人たちを前にして死んだことを茶化すのは非常識。冒涜だ。それをファンが分かってなかったのだ。

似たようなことは映画界でもある。ある俳優がワイドショーで酷い批判をされた時、人は「あの俳優。バカだよね〜」とか「芸能界、ホサれればいいよ」とか友達と気楽に話す。が、僕はそんな彼ら彼女らと仕事をする、仲間である。会社で言えば同僚だ。その人たちを僕の目の前で笑い話にしたり、バカにしたりする人がいる。悪意はない。いつものことだ。が、僕が彼らをよく知っていること。心を痛めていることに気づかない。一般の人にとって芸能人のスキャンダルは世間話の一つ。

そんな時、どうするべきか?考える。先の漫画家さんのように怒鳴りつけるべきか? 丁寧に説明すべきか? それとも関わらないようにするべきか? 以前に書いた問題あるFB友達と同様。悪気なく人を傷つける。悪気がなければいいと言うことでもなく、距離感が麻痺している。その背景にあるのは、想像力の欠如だろう。交通事故の被災者に対して事故をギャグにすべきではない。自衛隊の関係者に「違憲だ」と批判するべきではない。いつも悩み苦しんでいることを、その人にぶつけるべきではない。想像力の欠如だ。それが分からぬ人が多い。



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嫌われれモノの人生を知ってこそシナリオが書ける=けど、人は嫌いな人のことを知ろうとしない? [MyOpinion]

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嫌われれモノの人生を知ってこそシナリオが書ける=けど、人は嫌いな人のことを知ろうとしない?(再掲載 2019年)

僕は脚本家の仕事もする。自分の監督作は全てオリジナル脚本。原作ものはない。だから、シナリオの題材を常に探している。登場人物の造形のためにも、いろんな人を研究する。偉人伝のようなものよりも、問題ある人、嫌われている人、とんでもない人が勉強になる。

なぜ、あんな風になってしまったのか? さほど賢くもないのに、なぜトップまで上り詰めたのか? どこで一線を超えて危険人物になったのか? なぜ、あそこまで汚い手を使うのか? なぜ、平気で嘘をつけるのか? 等々。だから、その人の背景が知りたい。安倍晋三、小池百合子、ホリエモン、石破茂、トランプ。

が、その人物を嫌いな人は「あんな奴のことなんて知りたくねえよ!」と言う。話をしても「気分悪いから聞きたくない」と言われる。イスラム国の記事を書いた時も同様。「そんな記事アップしないでください!」というコメントまで来た。嫌ならスルーすればいいのに、抗議してくる。どう返事しようと考えていると「友達」から削除された。

「許せない」「酷い」だから記事も読みたくない。記事を書くと「書くな!」といわれる。あるいは「この人たちには賛同できません」とコメントが来る。賛同も何も「イスラム国」の疑問点を解説しているだけ。イスラム国に賛同して欲しいなんて思っていない。読みもしないで「イスラム国嫌い」と言いたいようだ。つまり、触れるだけで、記事にするだけで書いている人間も許せないという感じ。なぜか?

「激しい憎しみに支配されているから...」

自分が被害に遭ったのなら分かる。友人が巻き込まれたのなら理解できる。が、マスコミ報道を鵜呑みにして「許せない!」という憎しみを抱く。冷静さを失う。感情的になる。そして、その人物を詳しく知らないのに憎む。それって戦時中、アメリカ人を知らないのに「米英鬼畜」と言っていたのと同じではないか? アメリカは

「リメンバー・パールハーバー。不意打ちをする汚いジャップをブチ殺せ!」

と国が宣伝。日本人に会ったこともない多くの若者が軍に志願した。戦争は憎しみを利用して、金持ちが儲ける。情報コントロールされた国民が大勢死ぬ。

凶悪な犯行があればマスコミは徹底して犯人の背景、生い立ちを報道。多くが興味を持って見る。そのことで同じ悲劇を繰り返さないようにする。なぜ、それを政治家に対して、敵国に対してはしないのか?「嫌いだ!」「許せない!」を連呼するばかり。嫌いな相手と戦うのなら敵を知ることが大事。

なのになぜ? それは憎しみを利用している人たちが、背後にいるから。それに誘導された人々が憎しみで冷静さを失っているから。そんなことを感じながら、嫌われ者の本を読む。(2019/8)



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日本人はなぜテレビを見なくなったのか?=局の怠慢、慢心。没落するのが当然の背景? [MyOpinion]

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テレビは長らく大きな力を持って来たが、やはり、その立場にあぐらをかき努力を怠った。その間に時代は変わり、視聴者のニーズも変わる。にも関わらず今も昔と同じスタイルを変えようとしない。終焉を迎えるのも当然のだ。昔はその番組見たさに学校が終わったら飛んで帰る!と言うことがあった。が、仕事でどうしても帰れないと言うこともある。登場したのはビデオデッキ。タイマー録画できる。

これは視聴者側の努力。「その番組が見たい!」と言う強い思いがあった。しかし、テレビ局は安易な番組作りを始める。人気タレントを並べるだけ。似たようなドラマを繰り返し放送する。また、テレビというのは最大公約数的な番組が多い。多くの人が楽しめるもの=視聴率が取れる。が、2000年代に入り趣味嗜好の多様化が進む。

例えばスポーツ。昔は野球だけで皆、喜んだ。それがサッカーがブームになる。プロレスも多様化し、全日本と新日本だけではなくなった。誰もが喜ぶ番組というのがなくなり、小さなサークルがたくさん出来て行った。ドラマでも昔は木村拓哉や中山美穂が出れば視聴率が取れたが、今は誰が出たからと番組を見るということが減っている。

そんな趣味の多様化にテレビというメディは対応出来なくなって行く。それにも関わらず人気俳優に依存するドラマ。人気タレントにお任せのバラエティ。クオリティはどんどん下がって行く。趣味の多様化にも対応できない。多くが見たい!と思うもの自体が存在しなくなる。高視聴率が取れないのも当然。

そのことで細分化に対応できるCATVや衛星放送が登場する。時代劇専門、日本映画専門、スポーツ専門、科学番組専門、どれも昔のテレビのような視聴率は取れない。が、様々な趣味の人たち、小さなグループには支持された。こうして従来の番組から離れて行く。

そして視聴者はタイマー録画するほどの番組がないことに気づく。また、オンタイムで見れない番組を録画して見れること。80年代は便利!と感じたが、次第に面倒になる。新聞で見たい番組を探し、日時をセットする。あとで気づいても、もう見れない。

昔なら「仕方ない」だったが、現代人は忙しい。朝から晩まで安い賃金で働く。土日も仕事ということがある。新聞を読む暇もない。テレビガイドを買うのももったいない。そんな人たちに「番組を見たければ毎日、新聞をチェックして、タイマー録画しな!」というのがテレビ局側の姿勢。しかし、町では買い物したい時に買い物ができる真夜中も営業するスーパーやコンビニがある。銀行のATMだって今は24時間引き出せる。なぜ、テレビだけが視聴者が局の姿勢に合わせて、努力せねばならないのか?

局の怠慢。何を放送しても高視聴率を取っていた頃のスタイルを変えず、努力を怠っているということ。その上、番組レベルも下がっている。そんな時に登場したのがamazonやNETFelixだ。見たい時に、見たい番組が、どこでも見れる。スマホやiPadでもOK。電車の中でも見れる。様々なジャンルの番組がある。テレビでは放送されていない面白いドラマ。現代の日本人事情に対応。金を払っても見たいと思う。

こうして地上波のテレビは無料でも見たくない。録画してまで見ないということになる。シンプルにテレビ局の怠慢、慢心だ。この20年の生活スタイルの変化にも対応せず、番組レベルの向上にも努めず。タレントに頼り、大きな圧力には屈して、視聴者よりスポンサーにばかり顔が向いていたこと。それが不要のメディアにしてしまったのだ。

さらにYouTubeの台頭。「報道ステ」よりユーチューバーNEWSの方が面白い。そして、視聴者は何が事実で何がデマなのか?を考えながら見るようなる。その意味でもテレビはもう見る価値がないと言える。いつの時代も努力しない者は淘汰される。


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原発事故直後を思い出す日々。大切なことはマスコミを鵜呑みにせず、自分で考え答えを探すこと! [MyOpinion]

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原発事故直後を思い出す日々。大切なことはマスコミを鵜呑みにせず、自分で考え答えを探すこと!

「朝日のあたる家」を作る前。原発事故の情報を追い、分析、記事にした。当時、政府は「放射能は漏れていない」「メルトダウンには至っていない」「直ちに健康被害はない」と繰り返した。マスコミも多くはそれに準じる報道。Twitterでは多くの人がテレビが伝えない情報を発信。その時期からすでに放射能漏れを発信する人もいたが、多くがそれらを攻撃。「デマを流すな」「不安を煽るな」「福島を差別するな」「プロ市民」「放射脳」とバッシングが続いた。

僕はそこまで突き止めていなかったが、事故の疑問点を記事にすると批判コメントが続いた。「お前、おかしいんじゃない?」「テレビは大丈夫って言ってるでしょう?」「頭、大丈夫?」「病院に行けよ」批判以前に、人格否定、病気扱いを受けた。友人と話をしても一歩引く感じ。「もともと変な奴とは思っていたけど、本当におかしくなったか?」と感じているようだ。まるで「世界の終わりが来る!」「宇宙人が攻めて来るぞ」と言っている人扱い。

ただ、原発事故はそれに近いものがあった。少なくとも東京全滅という可能性もあった。リアリティを持てる人は多くないだろう。が、実際に多くの人が関西や九州に避難している。一番に逃げたのが東電の家族。多くの大使館には帰国命令。爆発後は福島の人たちが数多く避難したが、それを中継するテレビは皆無。新聞で写真報道もない。それどころか皆が避難する方向に放射能は流れており、文科省が所有するスピーディが把握していたにも関わらず、避難者には伝えられなかった。

事故直後の政府、マスコミは事実を隠すことに奔走。多くの都民は放射能が降り注いだことも知らず、いつもの生活を送っていた。僕も当初はそんな1人。情報番組で「この爆発には放射能は含まれておりません」と言い切る御用学者の言葉を聞き「そうなのかなあ」と思うだけだった。1ヶ月ほどして調べ始めた。新聞、雑誌、ネット。テレビでは報じていないことがあれこれ書かれていた。特にネットでは踏み込んだ情報が数多くあった。

小さな情報をつなぎ合わせて行くと、どうやらあの爆発で放射能が飛び散ったであろうと思えて来た。が、この段階で友人に話しても「よく分からない」と言われ、その先を考えようともしない。Facebookで記事にすると批判の連続。なぜ、人はテレビで報じないことをデマだと思い込むのか? 自分で調べようとしないのか?

デマかもしれない。でも、調べないと分からない。自分で調べないと分からない。なのに、多くは「私は一般人でジャーナリストではないから調べようがない!」と思い込んでいる。幸い僕は脚本家でもあり、あれこれ事件を調べて物語を作る。記者でなくても、ある程度のことは調べれば分かることを知っていた。

もう一つには「原発事故」と言う本当に国が滅ぶほどの事件になる可能性がある。チェルノブイリを日本人も知っている。「あんな事故であって欲しくない」と言う恐怖心が働き、マスコミの「放射能は漏れていません」と言う報道を信じたくなる。もう、一方ではチェルノブイリは外国であり、リアリティがない。平和な日本でそんな事故が起こるわけない!と言う感覚麻痺状態の人たちも多く、東京全滅という可能性を想像することができなかった。

「人は真実を知りたいのではなく、自分が見たいニュースを見る」と言われる。それを実践、「放射能は漏れていない」と言うフェイクニュースを多くが信じた。そんな人たちから見ると、原発事故の真相を告げる人たちは見たくない現実だ。「消し去りたい」と言う願望。嘘をつくなと言う怒りが批判、否定に繋がったのだろう。

日本は戦後、大きな事件もなく平穏な生活を送って来た。不況で大変だが、多くはどうにか生活できる。「それを根底から揺るがす事件なんて起こるはずがない」と感じている。「戦争法案」が強行採決されても「日本は戦争に参加したりしない」と思い込んでいるので、一部の人しかアクションを起こさなかった。自衛隊が戦争参加なんて想像できない。

大統領選以降の展開はまさに、原発事故時の再現。時代が大きく変わるかもしれないのに、相変わらずそれに気づかない人。あるいは、大きな変化を認めたくない人が数多くいるのだろう。多分、太平洋戦争時も同様で大本営発表の通り「日本は絶対に負けない」と思い込んでいる人たちが多数。「勝てる訳ない」と現実を感じていた人は少数であり、発言すると「非国民」「売国奴」とバッシングされた。日本人は75年経っても変わっていない。

原発事故は幸い東京全滅には至らなかったが、あのときの福島を吹く風が南に向いていたら、それは現実のことになっていた(実際は西に吹き、多くの放射能は海に向かった)奇跡としか言いようのない現実を多くが知らない。「結局、大丈夫だったジャン!」で完結した人も多い。ただ、事故でマスコミは信用できないことに気づいた人も数多くいる。その経験は重要。

マスコミを疑う。政府を疑う。そこで事実を見極める。問題がなければOK。それが僕のスタンスでもある。だから、事件があると興味を持ち、あれこれ調べ、仮説を立て、真相を推理する。間違えば別の仮説をてる。整合性があればそれが真実に近いことが多い。地下鉄サリン事件も、女子高生コンクリート詰め殺人事件もそんな風に推理した。原発事故からはブログ等で記事にした。都知事選、衆議院選挙、戦争法案、安倍政権。疑問点や背景を探った。トランプは5年前からウォッチしている。ジャーナリストではないので真相を伝えるのが目的ではない。分析を記録するためだ。

すると必ず、あれこれ批判をするおかしな奴が寄って来る。マスコミと違う意見を書くと誹謗中傷、精神病扱い「マスコミ教の信者か?」と思える。大事なのは、情報を「疑う」こと。それができない人たちは、時代を進む烈車から降りるしかないだろう。そして僕の仕事はマスコミ情報を鵜呑みにし、無難な嘘を拡散することではなく、現実を見つめ「何が大切か?」を考え伝えること。そのためにまず、全てを疑うことから始める。


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カテゴリー分けしたがる日本人=なぜ、自分の目で見て判断しないのか?(再掲載) [MyOpinion]

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ある地方のラジオ番組に出た時、こう聞かれた。「監督はどちらの出身ですか?」「その質問、絶対に盛りませんよ」捻くれ者の僕はそう答えた。でも、DJは聞きたがるので「和歌山県です」と答えた。すると和歌山について質問を始めるのが「よく知りません...」と答えるしかない。そうなんだ。幼い頃に数年住んでいただけで、他の街の方が長い...。「ほら、盛り上がらないでしょう?」というとDJさん困っていた。なんと意地悪なゲストだ〜!

人は生まれた街で育つ、思い出を作ると、彼は思ったのだろう。だから、故郷について訊いた。が、僕は例外。和歌山生まれだが、親の仕事の都合で関西を転々とした。そして、どこの街に住んでも「お前は変わっている!」と言われた。その後、横浜の映画学校に進学。クラスメートに言われた。「関西人は変わっている」

その後、LA留学。こういうアメリカ人がいた。「日本人は変わっているなあ」結局、どこへ行っても変わり者(ただ、アメリカ人はカテゴリー分けする人は少ない。基本、人は皆違うと思っている)それを皆、「関西人だ」「日本人だ」というカテゴリー分けしたがるが、どの街でもどの国でも「変わり者」と言われた。関西人だから日本人だから変わっている訳ではない。そもそもが「変人」なのだ。

なぜ、人はカテゴリー分けしたがるのか?政権を批判したら「左翼」、アニメが好きなら「オタク」、何で分けたがるのか?「ブルーカラー」「ホワイトカラー」「落ちこぼれ」「反日」「アベガー」本当に下らない。昨年の夏、れいわ 新選組が2議席を獲得。話題になった時も、ある雑誌がこんな見出しをつけた

「左派ポピュリズムの台頭」ーはあ?何それ? 何でそんな分け方するの?「山本太郎のれいわ が2議席獲得」でいいだろう?あんたは昆虫学者か!その理由。あることで気づいた。多くの日本人は「考える力」が弱い。分類してあげないと分からない。自分の目で見て、その人を理解し把握することができない。

昔のドラマでいえば「正義の味方」「悪い奴」という分け方。時代劇なら「正義の侍」と「悪代官」ー今の時代、もうそんなドラマは存在しない。なのに現実社会では未だにカテゴリー分けしている。従来の分け方では分類できない人物や事象が次々に出てくるのに、分けたがる。「考える力」を育てる教育をしていないこの国では、そうやって分類してあげないと理解できない人が多いのだろう。

それをレッテル化して悪用する人たちもいる。アニメーションを見ていたら「オタク」。政権を批判したら「左翼」「反日」。少し前は原発に反対すると「プロ市民」とも言われた。戦時中の「非国民」「売国奴」と同じ。レッテルを貼って貶めたいのだ。「一流大学卒」=「賢い」「関西人」=「面白い人」というのも同じ。関西人でも面白くない人もいる。一流卒でもバカがいる。

そんな分類をしている人は「考える力」がない人だということにも気づく。理解力があればカテゴリー分けせずに、自分の目で見て判断できる。それができないために、マスコミや政府に誘導されてやすい。現実を把握できないように思える。今、日本人に一番必要なのはやはり「考える力」なのではないか? ところで最近は「映画監督」という肩書があるので、こう言われる「映画監督って変わってるな」ーはい。それは正解。常識あると出来ない仕事なので!


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カテゴリー分けしたがる日本人=なぜ、自分の目で見て判断しないのか? [MyOpinion]

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カテゴリー分けしたがる日本人=なぜ、自分の目で見て判断しないのか?

ある地方のラジオ番組に出た時、こう聞かれた。「監督はどちらの出身ですか?」「その質問、絶対に盛りませんよ」捻くれ者の僕はそう答えた。でも、DJは聞きたがるので「和歌山県です」と答えた。すると和歌山について質問を始めるのが「よく知りません...」と答えるしかない。そうなんだ。幼い頃に数年住んでいただけで、他の街の方が長い...。「ほら、盛り上がらないでしょう?」というとDJさん困っていた。なんと意地悪なゲストだ〜!

人は生まれた街で育つ、思い出を作ると、彼は思ったのだろう。だから、故郷について訊いた。が、僕は例外。和歌山生まれだが、親の仕事の都合で関西を転々とした。そして、どこの街に住んでも「お前は変わっている!」と言われた。その後、横浜の映画学校に進学。クラスメートに言われた。「関西人は変わっている」

その後、LA留学。こういうアメリカ人がいた。「日本人は変わっているなあ」結局、どこへ行っても変わり者(ただ、アメリカ人はカテゴリー分けする人は少ない。人は皆、違うと思っている)それを皆、「関西人だ」「日本人だ」というカテゴリー分けしたがるが、どの街でもどの国でも「変わり者」と言われた。関西人だから日本人だから変わっている訳ではない。そもそもが「変人」なのだ。

なぜ、人はカテゴリー分けしたがるのか?政権を批判したら「左翼」、アニメが好きなら「オタク」、何で分けたがるのか?「ブルーカラー」「ホワイトカラー」「落ちこぼれ」「反日」「アベガー」本当に下らない。昨年の夏、れいわ 新選組が2議席を獲得。話題になった時も、ある雑誌がこんな見出しをつけた

「左派ポピュリズムの台頭」ーはあ?何それ? 何でそんな分け方するの?「山本太郎のれいわ が2議席獲得」でいいだろう?あんたは昆虫学者か!その理由。あることで気づいた。多くの日本人は「考える力」が弱い。分類してあげないと分からない。自分の目で見て、その人を理解し把握することができない。

昔のドラマでいえば「正義の味方」「悪い奴」という分け方。時代劇なら「正義の侍」と「悪代官」ー今の時代、もうそんなドラマは存在しない。なのに現実社会では未だにカテゴリー分けしている。従来の分け方では分類できない人物や事象が次々に出てくるのに、分けたがる。「考える力」を育てる教育をしていないこの国では、そうやって分類してあげないと理解できない人が多いのだろう。

それをレッテル化して悪用する人たちもいる。アニメーションを見ていたら「オタク」。政権を批判したら「左翼」「反日」。少し前は原発に反対すると「プロ市民」とも言われた。戦時中の「非国民」「売国奴」と同じ。レッテルを貼って貶めたいのだ。「一流大学卒」=「賢い」「関西人」=「面白い人」というのも同じ。関西人でも面白くない人もいる。一流卒でもバカがいる。

そんな分類をしている人は「見る力」がない人だということにも気づく。理解力があればカテゴリー分けせずに、自分の目で見て判断できる。それができない人は誘導されてやすいことが多い。今、日本人に一番必要なのはやはり「考える力」なのではないか? ところで最近は「映画監督」という肩書があるので、こう言われる「映画監督って変わってるな」ーはい。それは正解。常識あると出来ない仕事なので!



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映画監督がfacebookを続けると、こんなことになる?! [MyOpinion]

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映画製作のレポートを毎回書き続けている。それをfacebookやブログで発信。宣伝の一環。多くの映画が完成してから、そのしゅの発信を始めるが、僕は製作スタートの段階から記事にしている。完成してからでは情報が広まる前に、映画館公開が終わってしまうことが多いからだ。

だから、スタート時から。そうすれば1年以上も発信出来るので、公開される頃には多くの人が映画を認知してくれている。もちろん、facebookの友達は5000人。その全員が僕の記事を読んでいる訳ではない。ブログは毎日1000件前後のアクセスがあるが、100 0人が読んでいる訳ではない。それでも何もしないと誰もその映画の存在に気付いてくれないので、ネット宣伝は意味あるものだと思える。

困ることもある。どの段階でレポートを始めるか? 通常、僕は「製作発表」前後から記事にする。それ以前に発表すると、いろいろまずことになる可能性があるからだ。例えば「出演させてください!」と言う連絡が結構来る。が、ネットからの依頼では出演してもらう訳にはいかない。問い合わせも来る。その対応に時間を取られ、本来の準備が出来なくなる。

また「朝日のあたる家」のように原発事故というセンセーショナルな題材の場合。製作スタート告知すると、あれこれ批判が来ることが予想された。「デマ映画」「福島を差別するな」「原発を商売で使うな」とか、内容を知らない人たちが勝手な想像をして批判してくる。

当時はまだ原発事故に対する正確な情報を知らない人が多く。「放射能は漏れていない」「メルトダウンはしていない」「事故は大したことなかった」とか思っている人もいて「不安を煽るな!」とかいう批判もされた。「原発映画を作ると2度と商業映画を監督できない」と言われた時代。親しい友人、先輩たちから「やめた方がいい」「青春モノの監督で行った方がいい」と説教されたり、怒られもした。

つまり、ネットで発表することで批判や誹謗中傷が出てくる可能性がある。余程確実な段階で告知しないと、あれこれ問題が持ち上がる。批判を聞いてスタッフが「辞める」と言い出したり、俳優が出演を辞退と言うこともある。何も知らない連中まであれこれ言ってくる。そのことで企画自体が潰れたり、時間や労力が必要以上にかかることがある。

だから、深く静かに潜航して、ここだ!という時に発表することが大事。ただ、それまでの期間。何も記事を書かないと「監督、新作用意しているのか?」とバレることもあるので、別の記事を書かねばならない。映画の準備もある。カモフラージュ記事も書かねばならない。facebookをやっているがために、そんな苦労も必要になる。

逆に新作準備ではなく、単に疲労困憊でダウンしている時。「監督。最近、記事書かなないのは新作の準備かな?」とか思われたり...。期待してくれるのは嬉しいが、事実ではないことを楽しみにさせるのは申し訳ない。誤解を生まないようせねばならない。そんな風にfacebookやブログを続けていると、思わぬ苦労が出てくる。



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監督作品の制作レポート。15年間ほぼ毎日書き続けていることに気づく? [MyOpinion]

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監督作品の制作レポート。15年間ほぼ毎日書き続けていることに気づく?

映画監督業。作品が公開される時にあれこれ宣伝する。が、巨匠であれば「***監督の最新作が公開!」とマスコミも取り上げてくれるのでいいが、知名度の低い僕のような者だと、そうは行かない。映画の宣伝費も何億円もかけられるわけでない。友人で監督作が公開になるとfacebookやツィッターで宣伝する人がいるが、なかなか情報は拡散しない。公開が終わる頃に、ようやく広まると言うこともある。

そこで僕は日頃からブログやfacebookをすることで、映画公開以前から情報発信をしている。自作の企画が決まったら即、告知。シナリオ、準備、ロケハン、キャスティング、撮影、編集、と完成までをほぼ毎日レポートする。忙しい時は面倒だが、そうすればかなり早い段階から作品を知ってもらうことができる。また、その映画の題材に興味はなくても、製作過程を毎日読んでもらうことで「どんな映画になったのか?」と興味が出て、映画館に来てくれる人たちもいる。

facebookやブログは無料で発信できる。これを使わない手はないと思うのだが、利用する人が意外に少ない。Twitterですら毎日発信の同業者は少ない。ま、面倒臭いからねえ。でも、それで十分とは思えず。映画制作がない時期でもあれこれ記事を書く。僕の場合は最近見た映画、最近考えていること、話題の事件、社会情勢について、感じていることを書く。これが意外に好評で、facebookではどんどん「友達」が増えて、何度も上限の5000人になった。

その度に更新していない人を探して削除。新しい申請の承認をする。それがまた手間がかかり、忙しい時には時間を取られて大変なのだ。多分、facebook社は「友達」をなるべく削除させない方針があり、手続きを面倒にしている気がする。その理由を推理したのだが....おっと、今回はその話ではない。ブログでも同じ記事をあげる。1日に1000件前後のアクセスがある。

そんな形で僕のデビュー作「ストロベリーフィールズ」から先日、公開が終了した「ドキュメンタリー沖縄戦」まで監督作6本。計算してみると15年間。全作ブログやfacebookで進行レポートを連載している。「継続は力なり」と言うが、本当にそうだ。しかし、よく書くなあ?と自分でも今更感じる。ただ、記事を書くのは手間がかかるとかだけではない問題もある。その辺は次回に。


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