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なぜ、人は親しくなると自分の価値観を押し付けたくなるのか?=芸能人を自分たちの尺度で批判する人たち [編集作業]

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なぜ、人は親しくなると自分の価値観を押し付けたくなるのか?=芸能人を自分たちの尺度で批判する人たち

先に「アーティストが気難しい理由」という記事を書いたが、書きながら思い出すことが多かった。勘違いする人がいると思うので先に記しておくが「アーティストが偉くて、一般は偉くない」というつもりはない。以前にも書いたがアーティストー芸術家、作家、音楽家、俳優、映画監督という部類の人たちは一般的な日常生活を送れない。だからこそ、ある分野で別の能力を発揮する。ある意味で落ちこぼれの敗者復活戦が「芸能」「芸術」分野なのだ。

それを前提にいうが、住む世界が違う。価値観が違う。生き方が違う。だから、いろんな意味で一般の人と相容れることが難しい。なのに誤解される原因はこうだ。「自分たちの世界があって、その上の方にいるのが才能あるアーティスト」と思い込んでしまう。だから彼らも当然、常識があり、価値観が共有できると思ってしまう。

でも、そうではない。別の世界の住人というのが近い。宇宙人や外国人と思った方が分かりやすい。アメリカ人と日本人だと、価値観、習慣、生活スタイルがかなり違う。それと同じだと思ってほしい。どちらが良いではない。違うのだ。互いに相容れない人種というのが近い。

その意味で僕も若いころから、人との付き合いが煩わしく、面倒だと思っていた。大人たちのいうことに納得ができない。同世代でも同じ。別の宗教かと思う違和感があった。だから、本当に気の合う者としか交流しない。といいながら、どういうわけが友達は多かった。今思うと、そこがトラブルの始まりだったのだが。

気が合う人としか交流しなかったが、映画の仕事をすると、そうはいかないことが多い。企業の人間、地元の人。映画人。俳優。取材対象、マスコミ、専門家、活動家、政治家。いろんな人との交流がある。とはいえ人嫌いではないので、誰とでもうまく付き合うことはできた。

が、それがわざわいとなる。いろんな人が「監督はいい人だ」と近寄って来てくれる。嬉しいことだが、人は親しくなると自分の価値観を押し付けてくる。映画監督なんてそもそもがワガママな存在であり、嫌なことをしない輩なのに、「あれをしてほしい」「これをお願いしたい」と映画以外のことを頼んでくる人がいる。さらに一般人の習慣や価値観を強要してくる。

「あなたのために言っているのよ」「もう少し考え方を変えた方がいいわよ」

親切でいうのは分かる。応援してくれているのも分かる。が、多くはその人たちの価値観や習慣を背景にした助言や説教なのだ。そんな世間でいう良識がある人にはなれないから映画の仕事をしている訳で、いまさら納得できない価値観に染まることはできない。が、

「監督はいい人だから、***を直せば、もっと好かれますよ!」

とか言ってくる人もいる。犯罪者に「更生して真人間になれ」というかのように。最初は我慢しているが、次第にストレスが溜まる。Facebookでもそれがあった。毎日のように、あれこれ言ってくる人たち。でも、嫌っているからではなく、応援しているからであることは分かる。

つまり人は親しくなると、自分たちの世界の価値観や習慣を押し付け、それに染めることが大事なことであり、更生?であり、良きことと無意識に感じているのだ。しかし、そんな価値観や習慣が大嫌いで、映画という表現の世界で「違うだろ〜」と訴える仕事をする人間に、それを押し付けているのだ。

拒否する。あるいは彼らの価値観から外れる行動、発言をすると、「失望した」「裏切られた」「許せない」と騒ぎ出す。そもそもが、映画監督なんてするのは「落ちこぼれ」それを芸術家だとか思うから、失望する。はみ出し者を勘違いして褒めておいて、はみ出すと「裏切れた」はないだろう。日本に来たアメリカ人が靴のままで畳に上がったのを見て

「失望した。いい人だと思ったのに!」

と嘆くようなものだ。習慣が違う。価値観が違う。そのことが最近、明確に思える。前回書いた「アーティストは頭おかしい人が多い?」でも、そうだが本当は別の価値観が存在する。同じ日本人だから。という発想で見ていては分からない。

そんな固定概念で人は助言、アドバイス、応援というの名の批判やクレーム。説教、押し付けを始める。だから、その世界で成功した人の多くは一線を引き、隠れて暮らしたり、一般との接点を絶ったりする。直接連絡できない形態を取るのだろう。ま、Facebookなんてやっていると、そうもいかないただ、以前のように、その手の大きなお世話や批判コメントはほとんないのでありがたい。

芸能人だから気取っている。芸術家だから偉い。映画監督だから凄い。なんてことではない。住む世界が違う。別の価値観で生きている。だから、観客は作品を通してそれを知らされた時に感銘を受けたり、感動したりする。そんな作品ができるのは違う価値観で生きているから。にも関わらず、そんな人たちを自分たちの価値観を押し付けたがる人たちがいる。だが、それが世間というものなのだろう。



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アーティストって頭おかしい人が多い?=その理由を考え分かったこと [編集作業]

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アーティストって頭おかしい人が多い?=その理由を考え分かったこと

芸能人が非常識なことをして逮捕されたり、どうなの?という発言をしてネットで騒がれたりすることよくある。芸能人だけでなく芸術家、作家、画家、音楽家、映画監督と、アート関係の人はおかしな人が多い。

「だから芸術家なんじゃない?」

とよくいわれるが、それでは分かりづらいので少し考えてみる。有名な俳優、ミュージシャンは気難しく、ちょっとしたことで怒り出したり、爆発したりすることが多く、関係者は物凄い気遣いをする。コンサート前に粗相があって、アーティストが帰ってしまったら大変なことだ。

作家の先生に原稿依頼に行く時も、編集者は最大限の気配りをするという。ベストセラー作家に連載を引き受けてもらえたら、何十億という収入が社にもたらされる。が、些細な粗相で作家先生が気分を害して、断られたら、その収入が不意になる。編集者が定年まで働いても得られない額の損失だ。

「有名なんでタカビーになってんだな? だから有名人は嫌いだよ」

という人もいるだろう。一部にはそんな人もいる。が、第1線で作品を作り続けている人たち。作家でも、俳優でも、音楽家でも、映画監督でも、そららの人と会うとやはり凄い!と感じる。普通考えてないことまで考えている。それを実現しようとしている。そして世間やマスコミに騙されていない。振り回されていない。真実はどこにあるのか?それを見つけようとしている。

でないと、第1線で活躍し続けることはできない。一発屋で終わってしまう。それらの人と仕事をさせてもらい、あるいは交流を持って感じること。彼らが怒り出すとき、多くは相手側に問題がある。仕事を頼みに来るとき、仕事をするとき、話をするときに、無神経な発言、金のことしか考えていない、世俗にまみれたこと、価値観の押し付けがあるからだ。

当人はそれに気づかない。会社でも、同僚とでも、友人とでも、その手の話をするし、特別なものでもない。なのに、怒られるので、

「芸術家ってよく分からないなあ。何で怒り出したのか?」

と思ってしまう。結果、あの作家は気難しい、面倒くさいとレッテルを貼って終わり。それを聞いた人たちも同じ認識となる。巨匠の域でなく、若手でも、その手の仕事をする人はむずかしい。例え、おいしい仕事でも、相手が先のような態度なら、拒絶するし、怒り出す。

ある脚本家。無名の人だが、ベテラン。こだわる技法が評判。それを知ったある若いPが仕事を依頼した。

「死ぬ気でやってくださいよ。命がけで書いてくださいよ」

そう励ました。ら、脚本家は怒り出した。

「毎回、死ぬ気でやっている! その作品を見て、あんたは依頼に来たのだろう? その相手に『死ぬ気でやれ』だと、そんなことを言わないと、俺が死ぬ気でやらないと思っているのか!

もし、死ぬ気でやれというのなら、この脚本料はなんだ? この額で命かけろというのか? どんな額でも死ぬ気でやっている。でも、死ぬ気でやれというのなら、それなりの額を提示しろ? お前、どういう思いで『死ぬ気でやれ』と言葉にしている。金でないなら、態度で示せ。お前は死ぬ気でやるのか? その覚悟を見せろ」

励ましの意味で言っただけなのに大袈裟な!と思う人もいるだろう。しかし、脚本家は言葉で仕事をする人。一行のセリフを書くにも物凄い時間をかけ、魂を削って書く。それが脚本家だ。そんな職業の人に言葉で「死ぬ気でやれ」というのは無神経だ。師匠が弟子に「死ぬ気でやれ」というのならまだ分かる。

無名でもそれなりに仕事をしているプロに、若いPが「死ぬ気でやれ」ということ自体が失礼だし、無神経だ。これには背景がある。その脚本家は無名だが、実力あるとPは感じていた。が、会社で提案すると反対が多かった。無名だからだ。でも、それを押し切り、起用を決めた。これでもし、いいものが上がらなければ、Pの立場がなくなる。

で、真剣にやってもらわないと困る。で、「死ぬ気でやれ」と言ってしまったのだ。そのPの未熟さがまずある。クリエーターは命令されるのを嫌う。だから会社員にならず自由業を選んでいる。それを若い奴に「死ぬ気でやれ」と言われて気分を害すだろう。

次に、自分の作品を読んでいれば「死ぬ気」で毎回、書いていることは分かるだろう。それが分からないなら、P失格であり、共に仕事をする資格はない。さらに、会社での立場。自己保身のために、いいものを書いてもらわなければならない。その思いが「死ぬ気で」という言葉になっていることを感じた。

「この人は自分の自己保身のために、死ぬ気でやれと言っている。なのに自分は命がけでやるという姿勢が見えない。『俺の立場があるので、死ぬ気でやれ』と言っているだけだ」

そう感じたのだろう。言葉を使う仕事をしている者なら、そのくらいのこと見抜いてしまう。Pは自分の言葉で相手がどう感じるか?も考えず、自分の立場がなくなるという危機感があるので、安易に作家にプレッシャーをかけてしまったのだ。

「先生の作品は毎回、命がけで書いていること感じます。今回もきっと素晴らしいものができると信じています」

といえば、作家は大喜びで仕事を引き受けただろう。それを「死ぬ気でやれ」なんて言ってしまった。ただ、Pは作家の力を認めており、社内の反対を押し切って依頼している。そこは評価できるのだが、その先があまりにも無神経。たぶん、自分のことで精一杯だったのだろうが、それでは気難しいアーティストたちを使うことはできない。

作品作りをしている人たち。その多くは毎回、全力で、命がけで仕事する。そんな人にあえて「死ぬ気で」というのは、「日ごろは死ぬ気でやっていないでしょうが、今回は死ぬ気で」というのと同じでもある。Pの多くはサラリーマンでありクリエーターではない。彼らの気持ちを察するのは苦手だ。編集者でも、スポンサーでも同じ。

ちまたでは「Pですか?凄い」「編集者ですか!」と思われるが、クリエーターたちには通用しない。だから、できるPや編集者はその辺を心得ている。だから、きむずかしい作家や音楽家たちが、その人との仕事は快く引き受け、いいものを作ってくれる。要はサラリーマンの価値観や都合を押し付けると、トラブルということ。

アーティストたちは気難しいのではない。別の価値観で生きている人たち。そこに自分たちの都合や価値観を押し付けることが問題なのだ。それが分からないので「きむずかしい」というレッテルを貼ってしまうのである。


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