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ジェームズ・キャメロンに学ぶ。映画導入部のなるほどテクニック? [映画業界物語]

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ジェームズ・キャメロンに学ぶ。映画導入部のなるほどテクニック?

「短くせねば!」という思いが強すぎてオープニングの各カットが短すぎる。もちろん、目には見えるが、冒頭はもっとゆったりと見せねばならない。この段階、観客はまだ退屈しておらず「どんな作品かな〜」と興味津々で見てくれる。

あまり急ぐと、作品世界に入ってもらえない。乗り遅れたまま、ラストまでとなると「退屈」ということになる。このパートはいつもの劇映画「明日にかける橋」等でいうと、地元紹介部分だ。「この街である物語が始まります〜」という導入部をいつも見せるが、それに相当する。

「今回は沖縄ですよ〜。こんな場所もあるよ〜。こんな施設もあるぜ〜。沖縄と言ったらここでしょう〜」

と観客を沖縄に連れてくる部分だ。ここで急いで進める意味はない。むしろじっくりと、扉を開いてエスカレーターで二階に連れていくくらいのゆったりさが必要だ。

ハリウッド映画でも、最近はオープニングからドンパチして退屈させないサービスをしがちだが、それをしてしまうと、ドラマ部分に乗ってもらえない。そのテクニックを熟知しているのがJキャメロンだ。実は彼の映画。冒頭30分はほとんど何もおきない。「エイリアン2」以降は船もすぐに沈まないし、エイリアンも出てこない。「アバター」も同様。

そうやってじっくりと、物語設定。キャラクター紹介をする。少しばかり退屈だが、そこを過ぎるとあとは、怒涛の展開。つまり、物語世界に観客を連れ込めばあとは!。だから、クライマックスも興奮、感動となる。

が、冒頭にアクションを見せると、道で喧嘩を見かけたようなもので、足は止めるが、最後まで客観的に見てしまい、感動や興奮が伴わない。キャメロンはそれを熟知している。だから、彼の映画はおもしろい。「007」で感動できないのも同じ背景。物語世界に観客を連れ込み、キャラクターを丁寧に紹介。客が共感すれば、あとは!それがキャメロン流。

ドキュメンタリーも同じだ。まずは現代の沖縄に観客を連れて行く。そこからタイムマシンで太平洋戦争にタイムスリップ!というのが今回の趣向。最初の沖縄を焦って描き過ぎていた。そこでいくつも新しいカットを探し出して追加・3分ほど長めにした。これで1ランクよくなるはずだ。



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監督業はつらいよ。7人分働いて***な収入? 残るは借金ばかり!=それでも多くの人が喜んでくれるのでがんばる。 [映画業界物語]

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監督業はつらいよ。7人分働いて***な収入? 残るは借金ばかり!=それでも多くの人が喜んでくれるのでがんばる。

昨日は久々の外出。国会図書館で調べもの。ここは一昨年「明日にかける橋」で1989年の新聞記事を探すために行って以来。国会議事堂周辺は金曜ということもあり、原発反対デモがあるので、警官たちが柵を並べたり準備をしていた。

そんな中で議員会館の前を通ると立憲民主党議員が道に並んで、何らイベント。その中に何と、特命課の紅林刑事! 今は議員だったよね。「シンゴジラ」にも出演していた。

国会図書館で調べものをしたあと。税理士事務所へ。ギリギリになったが、約束の時間に到着。この3ヶ月ほどずっと編集作業で出歩くことがなく、体力が落ちている。東京の街はかなり歩くのでキツイ。こうして老化していくのだ。

問題なく深刻準備はできたとのこと。今回は編集が大変なのは予期できたので、1月頭に領収書等の整理をして提出してあったので、その後は編集に専念できた。

個人だけなら自分で申告するが、映画を作るとやはりプロの手を借りないと無理。いろんな税率や税法があり、とても個人では把握できない。おまけに映画製作は面倒で、撮影は一昨年なのに、1年では計算されず、2年に渡っての申告となる。理由は映画は製作のあと、翌年には公開。その収入があるから。

それが税法の定義だが、おかしい。映画公開では製作サイドは一切、収入は得られない。それが決まり。にも関わらず、翌年の収入は映画興行の収入として計算され、2年を足して割ったものに課税される。なので、もし、昨年。別の大きな収入があった場合。それは映画の収入でなくても、映画興行の収入と解釈され、前年度の映画費用と合算で税金が適用される。

税法を作る人間がいかに映画製作を理解していないか?が分かる。昔は大手4社、東宝、東映、大映、日活、が製作、興行を行っていたが、今そんな会社はない。東宝でも、製作興行を兼任するのは年の一本くらい。にも関わらず、古い認識で当てはめてくる。お役所の頭の古さ。時代錯誤を感じずにはいられない。何十年遅れているのか?

しかしながら、昨年の収入は少なく。多額の無意味な税金を払うことにはならなかった。が、映画製作での僕の取り分を計算すると、えー!!という額であることも判明。シナリオ、ロケハン、撮影、編集、宣伝、舞台挨拶、と2年に渡って仕事してこれだけの収入?ということが分かった。(その上、借金の額もビックリ!)

7人分働いているのに〜赤字? なのに税金を払わねばならない。制作費は一昨年に使い果たしているので、別の収入から払わねばならない。この事実を知ると、多くの若者が映画監督になるのを辞めてしまうので額は内緒。ブラック企業やフリーターになった方がマシというレベル。

それでも映画は評価され、多くの人が感動。地元も喜んでくれたし、全国公開、都会は皆、一番館。DVDも完売する人気。現在、再プレス中。それだけの展開があったのだから、満足しておく。

いくら高いギャラをもらっても、毒にも薬にもならない退屈な映画を、それも自分が望まない映画しか撮れない監督もいる。それに比べれば僕はハッピー。ただ、税制はおかしい。本日は編集作業に戻る。



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なぜ、人は親しくなると自分の価値観を押し付けたくなるのか?=芸能人を自分たちの尺度で批判する人たち [編集作業]

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なぜ、人は親しくなると自分の価値観を押し付けたくなるのか?=芸能人を自分たちの尺度で批判する人たち

先に「アーティストが気難しい理由」という記事を書いたが、書きながら思い出すことが多かった。勘違いする人がいると思うので先に記しておくが「アーティストが偉くて、一般は偉くない」というつもりはない。以前にも書いたがアーティストー芸術家、作家、音楽家、俳優、映画監督という部類の人たちは一般的な日常生活を送れない。だからこそ、ある分野で別の能力を発揮する。ある意味で落ちこぼれの敗者復活戦が「芸能」「芸術」分野なのだ。

それを前提にいうが、住む世界が違う。価値観が違う。生き方が違う。だから、いろんな意味で一般の人と相容れることが難しい。なのに誤解される原因はこうだ。「自分たちの世界があって、その上の方にいるのが才能あるアーティスト」と思い込んでしまう。だから彼らも当然、常識があり、価値観が共有できると思ってしまう。

でも、そうではない。別の世界の住人というのが近い。宇宙人や外国人と思った方が分かりやすい。アメリカ人と日本人だと、価値観、習慣、生活スタイルがかなり違う。それと同じだと思ってほしい。どちらが良いではない。違うのだ。互いに相容れない人種というのが近い。

その意味で僕も若いころから、人との付き合いが煩わしく、面倒だと思っていた。大人たちのいうことに納得ができない。同世代でも同じ。別の宗教かと思う違和感があった。だから、本当に気の合う者としか交流しない。といいながら、どういうわけが友達は多かった。今思うと、そこがトラブルの始まりだったのだが。

気が合う人としか交流しなかったが、映画の仕事をすると、そうはいかないことが多い。企業の人間、地元の人。映画人。俳優。取材対象、マスコミ、専門家、活動家、政治家。いろんな人との交流がある。とはいえ人嫌いではないので、誰とでもうまく付き合うことはできた。

が、それがわざわいとなる。いろんな人が「監督はいい人だ」と近寄って来てくれる。嬉しいことだが、人は親しくなると自分の価値観を押し付けてくる。映画監督なんてそもそもがワガママな存在であり、嫌なことをしない輩なのに、「あれをしてほしい」「これをお願いしたい」と映画以外のことを頼んでくる人がいる。さらに一般人の習慣や価値観を強要してくる。

「あなたのために言っているのよ」「もう少し考え方を変えた方がいいわよ」

親切でいうのは分かる。応援してくれているのも分かる。が、多くはその人たちの価値観や習慣を背景にした助言や説教なのだ。そんな世間でいう良識がある人にはなれないから映画の仕事をしている訳で、いまさら納得できない価値観に染まることはできない。が、

「監督はいい人だから、***を直せば、もっと好かれますよ!」

とか言ってくる人もいる。犯罪者に「更生して真人間になれ」というかのように。最初は我慢しているが、次第にストレスが溜まる。Facebookでもそれがあった。毎日のように、あれこれ言ってくる人たち。でも、嫌っているからではなく、応援しているからであることは分かる。

つまり人は親しくなると、自分たちの世界の価値観や習慣を押し付け、それに染めることが大事なことであり、更生?であり、良きことと無意識に感じているのだ。しかし、そんな価値観や習慣が大嫌いで、映画という表現の世界で「違うだろ〜」と訴える仕事をする人間に、それを押し付けているのだ。

拒否する。あるいは彼らの価値観から外れる行動、発言をすると、「失望した」「裏切られた」「許せない」と騒ぎ出す。そもそもが、映画監督なんてするのは「落ちこぼれ」それを芸術家だとか思うから、失望する。はみ出し者を勘違いして褒めておいて、はみ出すと「裏切れた」はないだろう。日本に来たアメリカ人が靴のままで畳に上がったのを見て

「失望した。いい人だと思ったのに!」

と嘆くようなものだ。習慣が違う。価値観が違う。そのことが最近、明確に思える。前回書いた「アーティストは頭おかしい人が多い?」でも、そうだが本当は別の価値観が存在する。同じ日本人だから。という発想で見ていては分からない。

そんな固定概念で人は助言、アドバイス、応援というの名の批判やクレーム。説教、押し付けを始める。だから、その世界で成功した人の多くは一線を引き、隠れて暮らしたり、一般との接点を絶ったりする。直接連絡できない形態を取るのだろう。ま、Facebookなんてやっていると、そうもいかないただ、以前のように、その手の大きなお世話や批判コメントはほとんないのでありがたい。

芸能人だから気取っている。芸術家だから偉い。映画監督だから凄い。なんてことではない。住む世界が違う。別の価値観で生きている。だから、観客は作品を通してそれを知らされた時に感銘を受けたり、感動したりする。そんな作品ができるのは違う価値観で生きているから。にも関わらず、そんな人たちを自分たちの価値観を押し付けたがる人たちがいる。だが、それが世間というものなのだろう。



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アーティストって頭おかしい人が多い?=その理由を考え分かったこと [編集作業]

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アーティストって頭おかしい人が多い?=その理由を考え分かったこと

芸能人が非常識なことをして逮捕されたり、どうなの?という発言をしてネットで騒がれたりすることよくある。芸能人だけでなく芸術家、作家、画家、音楽家、映画監督と、アート関係の人はおかしな人が多い。

「だから芸術家なんじゃない?」

とよくいわれるが、それでは分かりづらいので少し考えてみる。有名な俳優、ミュージシャンは気難しく、ちょっとしたことで怒り出したり、爆発したりすることが多く、関係者は物凄い気遣いをする。コンサート前に粗相があって、アーティストが帰ってしまったら大変なことだ。

作家の先生に原稿依頼に行く時も、編集者は最大限の気配りをするという。ベストセラー作家に連載を引き受けてもらえたら、何十億という収入が社にもたらされる。が、些細な粗相で作家先生が気分を害して、断られたら、その収入が不意になる。編集者が定年まで働いても得られない額の損失だ。

「有名なんでタカビーになってんだな? だから有名人は嫌いだよ」

という人もいるだろう。一部にはそんな人もいる。が、第1線で作品を作り続けている人たち。作家でも、俳優でも、音楽家でも、映画監督でも、そららの人と会うとやはり凄い!と感じる。普通考えてないことまで考えている。それを実現しようとしている。そして世間やマスコミに騙されていない。振り回されていない。真実はどこにあるのか?それを見つけようとしている。

でないと、第1線で活躍し続けることはできない。一発屋で終わってしまう。それらの人と仕事をさせてもらい、あるいは交流を持って感じること。彼らが怒り出すとき、多くは相手側に問題がある。仕事を頼みに来るとき、仕事をするとき、話をするときに、無神経な発言、金のことしか考えていない、世俗にまみれたこと、価値観の押し付けがあるからだ。

当人はそれに気づかない。会社でも、同僚とでも、友人とでも、その手の話をするし、特別なものでもない。なのに、怒られるので、

「芸術家ってよく分からないなあ。何で怒り出したのか?」

と思ってしまう。結果、あの作家は気難しい、面倒くさいとレッテルを貼って終わり。それを聞いた人たちも同じ認識となる。巨匠の域でなく、若手でも、その手の仕事をする人はむずかしい。例え、おいしい仕事でも、相手が先のような態度なら、拒絶するし、怒り出す。

ある脚本家。無名の人だが、ベテラン。こだわる技法が評判。それを知ったある若いPが仕事を依頼した。

「死ぬ気でやってくださいよ。命がけで書いてくださいよ」

そう励ました。ら、脚本家は怒り出した。

「毎回、死ぬ気でやっている! その作品を見て、あんたは依頼に来たのだろう? その相手に『死ぬ気でやれ』だと、そんなことを言わないと、俺が死ぬ気でやらないと思っているのか!

もし、死ぬ気でやれというのなら、この脚本料はなんだ? この額で命かけろというのか? どんな額でも死ぬ気でやっている。でも、死ぬ気でやれというのなら、それなりの額を提示しろ? お前、どういう思いで『死ぬ気でやれ』と言葉にしている。金でないなら、態度で示せ。お前は死ぬ気でやるのか? その覚悟を見せろ」

励ましの意味で言っただけなのに大袈裟な!と思う人もいるだろう。しかし、脚本家は言葉で仕事をする人。一行のセリフを書くにも物凄い時間をかけ、魂を削って書く。それが脚本家だ。そんな職業の人に言葉で「死ぬ気でやれ」というのは無神経だ。師匠が弟子に「死ぬ気でやれ」というのならまだ分かる。

無名でもそれなりに仕事をしているプロに、若いPが「死ぬ気でやれ」ということ自体が失礼だし、無神経だ。これには背景がある。その脚本家は無名だが、実力あるとPは感じていた。が、会社で提案すると反対が多かった。無名だからだ。でも、それを押し切り、起用を決めた。これでもし、いいものが上がらなければ、Pの立場がなくなる。

で、真剣にやってもらわないと困る。で、「死ぬ気でやれ」と言ってしまったのだ。そのPの未熟さがまずある。クリエーターは命令されるのを嫌う。だから会社員にならず自由業を選んでいる。それを若い奴に「死ぬ気でやれ」と言われて気分を害すだろう。

次に、自分の作品を読んでいれば「死ぬ気」で毎回、書いていることは分かるだろう。それが分からないなら、P失格であり、共に仕事をする資格はない。さらに、会社での立場。自己保身のために、いいものを書いてもらわなければならない。その思いが「死ぬ気で」という言葉になっていることを感じた。

「この人は自分の自己保身のために、死ぬ気でやれと言っている。なのに自分は命がけでやるという姿勢が見えない。『俺の立場があるので、死ぬ気でやれ』と言っているだけだ」

そう感じたのだろう。言葉を使う仕事をしている者なら、そのくらいのこと見抜いてしまう。Pは自分の言葉で相手がどう感じるか?も考えず、自分の立場がなくなるという危機感があるので、安易に作家にプレッシャーをかけてしまったのだ。

「先生の作品は毎回、命がけで書いていること感じます。今回もきっと素晴らしいものができると信じています」

といえば、作家は大喜びで仕事を引き受けただろう。それを「死ぬ気でやれ」なんて言ってしまった。ただ、Pは作家の力を認めており、社内の反対を押し切って依頼している。そこは評価できるのだが、その先があまりにも無神経。たぶん、自分のことで精一杯だったのだろうが、それでは気難しいアーティストたちを使うことはできない。

作品作りをしている人たち。その多くは毎回、全力で、命がけで仕事する。そんな人にあえて「死ぬ気で」というのは、「日ごろは死ぬ気でやっていないでしょうが、今回は死ぬ気で」というのと同じでもある。Pの多くはサラリーマンでありクリエーターではない。彼らの気持ちを察するのは苦手だ。編集者でも、スポンサーでも同じ。

ちまたでは「Pですか?凄い」「編集者ですか!」と思われるが、クリエーターたちには通用しない。だから、できるPや編集者はその辺を心得ている。だから、きむずかしい作家や音楽家たちが、その人との仕事は快く引き受け、いいものを作ってくれる。要はサラリーマンの価値観や都合を押し付けると、トラブルということ。

アーティストたちは気難しいのではない。別の価値観で生きている人たち。そこに自分たちの都合や価値観を押し付けることが問題なのだ。それが分からないので「きむずかしい」というレッテルを貼ってしまうのである。


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沖縄戦が時代を超えて伝えられていない理由を考える? [沖縄の現実]

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沖縄戦が時代を超えて伝えられていない理由を考える?

沖縄戦のこと。同世代。若い人にも聞いてみたが、「何があったか?」語れる人は誰もいなかった。以前に書いたように、教育、マスコミ、ドラマ、映画がそれをしっかり伝えていないことが背景にあるだろう。マスコミに関しては、先に「友達」が興味深い話をコメントしてくれた。出版関係では沖縄戦の何か新しい事実が分からないと記事にさせてくれないということがあるという。

それはテレビでも同じ。だから、NHKスペシャルもそんな真実が分かった時にしか作られない。今回、このドキュメンタリーを作ると発表した時も言われた。

「沖縄戦のドキュメンタリーは山ほどあるので、それらとは違う、切り口や新しい事実がないと、作る意味ないよね?」

マスコミ的発想ではその通りだ。が、調べてみたが、沖縄戦のドキュメンタリーで今、手に入るものは僅かだ。amazonで調べても、数枚のDVDがあるだけ。それも記録映像のみ。沖縄戦の一部を紹介するNHKの特集番組のDVD化。あと、沖縄で作られたドキュメンタリー。それらを全て見たが、沖縄戦全般を紹介するものはない。

山ほどある!ーと僕も思ったが、山ほどない!僅かしかない!でも、あると思い込んでいた。それと先の「真実がないと」というマスコミ発想。その2つが沖縄戦全般を知る機会を奪っているのだろう。終戦記念日に毎年、戦争ドラマや特集をするのは、あの悲惨な出来事を忘れないように、繰り返さないようにという願いを込めただ。

なら、沖縄戦も同じように、繰り返し、どんな戦争であったか?を伝えることに意味があるはずなのに、それをするマスコミも、映画も、テレビもない。それが何年も続き、多くの人が沖縄戦を知る機会をなくしてしまったのだろう。ここが一つの背景だ。原爆に関しては、「はだしのゲン」という漫画があり、世代を超えて読み継がれてる。学校の図書館に置かれていたりする(逆にそれを撤去しようという動きも近年あったが)

黒澤明が「八月のラプソディ」を作る。矢沢永吉が原爆ドームで新規曲を歌う(Flash in Japanです。1988年頃ですが)、僕の友人監督が今「被爆ピアノ」という広島が舞台の映画を準備している。そんな風に繰り返し、原爆は取り上げられている。が、沖縄はどうか? もちろん、先に挙げた背景だけでなく、その辺を知られたくない人たちもいるだろう。

僕自身。沖縄については「ひめゆりの塔」を見ただけだった。だから、洞穴(壕)に隠れた住民がアメリカ軍に見つかり、火炎放射器で焼き殺されるというイメージが強かった。が、調べてみると、そこにも背景があり、想像もしなかった事実や状況があった。なぜ、それを伝える機会がなかったのか? であれば、今回の「沖縄戦」ドキュメンタリーでそれを詳しくお伝えする。歴史の勉強というだけではない。何度もいう。沖縄戦を知ることは今の日本。将来の日本を知ることに繋がる。



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映画レビューに「突っ込みどころ満載!」と得意げに書き込む人たち。評論家気取りのコメント。=その背景にある悲しいもの。 [MyOpinion]

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映画レビューに「突っ込みどころ満載!」と得意げに書き込む人たち。評論家気取りのコメント。=その背景にある悲しいもの。

先日、amazonプライムで「ほたる」を見て感動したあと。一般の感想はどうだったのか?気になってyahoo!映画レビューを見た。何と!半分近くが酷評。それも意味不明のコメントが多い。要は物語に共感できなかっただろうことを、作り方が悪い、手法が古いと批判しているように思える。

いろんなサイトに映画の感想を書くページがあるが、特にyahoo!に書き込む人たちの映画鑑賞眼は低い。別にyahoo!が悪い訳ではなく、その種の人たちが多いということ。どんなコメント? 例えばこんな風なのが多い。

「突っ込みどころ満載。あれ?おかしいな。なんで?ということの連続!」

「展開が唐突! 何なのこの映画。展開に無理ありすぎ〜」

「物語にひねりがない。これでは子供でも先が読めてしまう。レベル低すぎ!」

ある。ある。と思うだろう。どのサイトを見ても必ずある。これらに共通するのは何だろう? そう。ほとんどが上から目線。得意げ。鬼の首を取ったような感じ。

「この映画ダメだなあ」「この監督は素人かよ」「これでは不合格」

という思いが感じられる。簡単に言えば評論家気取りなのだ。しかし、その映画を見ると、それほど酷いものでなかったり、力作だったりする。??? そこには2つの背景がある。彼らの心の闇を考えてみよう。

80年代。僕は映画ファンであり、映画学校に通い、映画好きと毎日議論していた。「ぴあ」には毎週、読者の映画批評が載る。がyahoo!的な感想はあまりなかった。同世代の映画評論家さんはいう。

「本来、映画を見ていて、あれ? 何でこうなるんだろう? と思った時に、僕らは伏線を見逃したかな? 説明があったんじゃないか? と考える。映画というのはプロが作るもの。意味が分からないのは素人である自分が、しっかりと見ていなかったからだろうと考える。

でも、今どきの子は分からないことがあると、この映画は説明不足だ。ご都合主義で展開させてんだな〜と考える。つまり、分からなくなるのは自分の不注意や無知ではなく、映画制作側の、あるいは監督がバカだから分からなくなると解釈するんだよ」


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その通りだ。しかも、おかしいのがそんな解釈をするのが20代とか30代の人たち。作っているのは50代とかの監督で、プロのスタッフ。映画というのは集団作業。例え監督がバカでも、シナリオや現場でおかしな部分が見つかれば、必ずスタッフが指摘する。誰も気づかずにオーケーなんてまずない。それを20代の映画ファンだけが気づく問題点ってあるかな?

実際にその映画を見ると、ちゃんと伏線が張られていたり、前の場面で説明されていたりする。それを見逃していたので、展開が分からなくなったのだろう。にも関わらず

「おかしい!無理あり過ぎ〜」

とコメント。考えれば自分は若く、素人。プロが作ったものが、そんなバカなミスをするはずがないと思うだろう。僕らの世代はそう考えた。が、今の子たちはそうは思わない。もちろん、映画監督にもバカな奴はいる。

でも、素人の映画ファンよりは多少、勉強し、いろんな経験をしている。そしてベテラン・スタッフも参加している。何十人もの目を通してシナリオはチェックされ、撮影される。それを素人の自分だけが見抜くなんてことがあり得ると思うのか?多分、その子たちはそこまで考えていない。自分が理解できないことに出会った時、単純にこう思う。

「私にものを見る力がないのではなく、説明不足の相手が悪い!」

なぜ、そんな解釈をするのか? 考えてみる。今時の子たちは、僕らの子供時代以上に管理教育が進んでいる。ひたすら与えられたことをするだけの教育。やるべきことは教師や親から指示される。宿題をしろ。勉強をしろ。教室では静かにしろ。寄り道をしないで帰れ。それをやらないと厳しく注意される。

言われたことさえしていれば問題はない。つまり、考える必要がない。自分で判断しない。なぜ、この学科を勉強するのか? なぜ、この宿題が出るのか? なぜ、こんな規則があるのか? 考えない。背景を想像しない。疑問を持たない。駅のホームに立てば、

「電車が来ます。白線まで下がって下さい」

とアナウンスがある。ショッピングセンターでは

「エスカレーターから乗り出して顔や手を出さないでください」

と館内放送。ますます考えない。やってはいけないことはあちこちで言ってくれる。学校や家庭でも指示が出る。考えずに言われたことだけしていればいい。そんな環境で育った子たち。考える力はなく、与えられたことしかできない。映画を見る。伏線がある。伏線というのはナレーションで

「この主人公は銃マニアである。その証拠に部屋の壁にはモデルガンが飾られている。これは大きな伏線になるので、画面で大写しにはならないが、観客の皆さんは覚えておいてほしい」

なんて説明はない。伏線というのはそれとなく描くものだ。だから、見逃しがち。若い子は気づかない。展開がある。伏線が生きる。が、伏線に気づいていないので分からない。

「なんで、こうなるの? 何の説明もなかった。この映画おかしい!」

となるのだ。考える力がない。しっかり言われないと分からない。想像力がない。問題が起こると背景を考えず、安易に相手が悪いと思ってしまう。似た例がある。


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子供が池に落ちた。親は子供を叱るべきなのに、池に柵がなかったことに激怒。自治体を訴えるという話を時々聞く。これも同じ。子供に危険を察知する力が育っていない。それを教えていない。にも関わらず、落ち度は子供ではなく、柵を作らなかった自治体という。

映画の伏線に気づかず展開が分からなくなると、自分に「見る力」がないのではなく、映画が説明不足だと解釈する。いずれも「考える力」が育っていない。

「言われないと分からない。悪いのは自分ではない。注意してくれないから分からない」

管理教育が行き届いた中で育った結果ではないか? もう一つの悲しい背景がある。今の教育では個性はほとんど認められない。学校の教科にないことができても評価されない。そんな中で若い子たちは何をアイデンティに成長するのか? 背が高い。イケメンだ。巨乳だ。家が金持ちだ。最新のゲームを持っている。いろいろあるだろう。

でも、それらは自身の努力で手に入れたものではない。そして成績が悪くて、一流大学に行けなかった人たちには、どこか劣等感が漂う。自分なんて大した存在ではない。どうでもいい人間だ。社会に必要とされていない。そんな思いがどこかにある。

成績は悪かったが、本当は何かできるはずだ。自分にもいいところがあるはず。誰にも負けないものがあるはず。でも、今の時代にそれを見つけるのは大変。そんな人たちが映画を観る。伏線に気づかず、あれ?と思う。展開が唐突だ。或いは物語がストレート過ぎる。そんな時。

「突っ込みどころ満載だなあ。何だこれは。説明不足だし、この監督はバカだよな?」

「考える力」がないので、そんな解釈をする。そして、無意識にこう感じる。

「僕は結構、鋭いんだな。プロの作った映画の欠点を見抜いた。プロってバカなんだな。俺の方が優秀だよ...」

人を批判すると、自分が偉くなった気がするものだ。優越感を感じる。次第に上から目線になる。

「隠しても俺には分かるんだよ。そんなことじゃダメだろ?」

その誇らしい気持ちを伝えたくて、感想を映画サイトに書き込む。「俺って凄いだろう?」そんな思いを込めて。日頃、誰にも褒められない。必要とされないダメ自分から逃れ、自分の優秀さを誇るために。それも楽して、いい気分になれる。

それが理由で映画レビューはその手のコメントが多い。が、そのほとんどは勘違いや見る力がない人たち。多くは厳しい管理教育で育った人たちだろう。それが映画レビューに

「突っ込みどころ満載!」

「唐突な展開!」「捻りがない!」

などと、ワンパターンの表現で勘違いなコメントを書き込む人たちの背景だと思える。


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人はなぜ、本質を忘れて優越感に浸りたがるのか? 大切なのは問題を多くの人に伝えることだ。=「朝日のあたる家」で出会った悲しい原発オタク? [MyOpinion]

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人はなぜ、本質を忘れて優越感に浸りたがるのか? 大切なのは問題を多くの人に伝えることだ。=「朝日のあたる家」で出会った悲しい原発オタク?

沖縄戦。ナレーション原稿書きをスタートする。今回はドキュメンタリーなので、かなりな量のナレーションがある。それが各シーン内で収まる分量か? 内容が伝わるか? その辺を考えながら、書いていく。すでにナレーションが必要な尺をある程度取っているが、それをさらに正確にする。映像が長ければ切る。ナレーションが読み切れなくれば伸ばす。ただ、ナレーションが長過ぎるのも問題だ。その場合はナレーションを直す。

事実を正確に丁寧に伝えることは大事だ。しかし、専門家向けの資料ではない。詳しく説明することで観客が混乱することもある。ドキュメンタリーの場合は専門性よりも、シンプルに事実を伝えることが大事と思える。文献なら前のページに戻って読み直すことができるが、映像の場合はそれが出来ない。情報を詰め込むことはマイナスなのだ。「朝日のあたる家」の時も、年配の親父にこんなことを言われた。

「この映画は初心者向けだね?」

自分は原発に反対しているというそんな観客がいた。そもそも劇映画だ。初心者向けも中級者向けもないのだが、その人はかなり原発問題を勉強しているのだろう。だから

「この程度の情報は知っているよ。もっと専門的なことを盛り込んでくれないと勉強にならない」

といいたかったのだろう。個人の感想としては理解できる。だが、この人が満足する映画になっていたら一般客には???となっただろう。専門的になり過ぎるからだ。これが「漫画で見る原発事故入門」なら「中級編」「上級編」と作ればいい。しかし、「朝日」は原発事故を勉強してもらうための作品ではなく「悲しみ」を伝えることを重視。何よりも劇映画だ。

そのために原発事故の情報は盛り込むが、専門的に勉強して欲しいという作品ではない。もし、そこで興味を持てば自身で勉強すればいいことであり、それを映画に求める必要はない。「朝日」を見れば原発事故によって

「近隣の家族がどんな目に遭うのか?どんな思いをするのか?」

が分かることが一番であり、セシュムやプルトニュウムの専門的な知識やメルトダウンのメカニズムを知ってもらう必要はない。

同じく沖縄戦もまず、悲劇であることを伝えるのが目的であり、そこに学術的な徹底検証を数多く持ち込む必要はない。「朝日」が原発事故に関心のない人たちでも、観れるように作ったように、「沖縄戦」もすでに勉強して知識がある人たちに向けて作るより、強い関心を持っていない人たち見て、あれこれ知ってもらうことが大事と考える。

なぜなら、原発問題も沖縄問題も多くの人が知ろうとしない。詳しく知らないという状況がある。そんな人たちに見てもらい感じてもらい、より関心を持ってもらうことこそが目的なのだ。

すでに勉強していて事情通の人たちに、より深い知識を提供するための作品ではない。どちらの層が多いか?といえば、明らかに前者。そんな人たちに見てもらうことに意味がある。思い出すこと。原発問題でも関心を持ったばかりの人を、詳しい人が批判。

「お前は勉強が足りない!」

そんな話をよく聞いた。要は

「俺は311以前から関心を持っていたのに、お前らは無関心だった。事故が起こってから騒ぎやがって...」

と上から目線。そして「俺は詳しいんだぜ」という自慢。そのために原発問題に興味を持った人がやる気をなくし、原発反対という人を嫌うようになったという話も多い。批判する相手を間違っている。原発反対なら推進する人たちを批判するべきであり、関心を持つ人たちをバカにすることではない。「初心者向け映画」と言った人も

「俺はしっかり勉強しているんだぜ。映画を作った奴は不勉強だ...」

という思いがあっただろう。しかし、そんなことより、いかに多くの人が原発問題に興味を持つか?こそが大切なはず。原発を優越感の材料にしている人たちがいること。要はガンダム・マニアがモビルスーツの名前を数多く知っているのを自慢するのと同じ。

「あんた百式も知らないの? メタスは? 勉強不足だね〜」

みたいなもの。年配の親父がそれと同じでは悲しい。同様に、今回も沖縄戦を熟知した人たちではなく、全く知らない人。興味のないひと。少しだけ関心がある人をメインに、分かりやすく、現実を伝えるのが目的だ。2時間ほどで、沖縄戦とは何か?が分かるようになっている。春の完成を目指す。


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知られざる沖縄の悲しみ。なぜ、伝える作品がなかったのか?=3月末に完成予定。 [編集作業]

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知られざる沖縄の悲しみ。なぜ、伝える作品がなかったのか?=3月末に完成予定。

沖縄戦ドキュメンタリー制作。3月末には完成予定。ここまで来ると作品のカラーやテイストも明確になってきた。こういうと意外だと思われるが「こんな作品になるとは思わなかった」ーというのは、どうしてもドキュメンタリーというと、NHK的なイメージがあり、あんな風にはしたくない!という思いがあった。マイケル・ムーア調ではないし、あの作風を真似るだけでも大変。

「この作品を目指す!」

というものはなかった。「プロジェクトX」は参考にしたが、目指したわけではない。あれこれ葛藤したが、最終的には自分らしいカラーの作品になりそうだ。

「自分で作ってんだから、自分らしくなるよ!」

と思うかもしれない。でも、自分らしさを出すのはとても難しいこと。ゴールデンタイムに放送している連ドラ。12話を3人くらいのディレクターが担当している。が、毎回、同じカラーでテイスト。個人のカラー出てないでしょう? ま、連ドラは毎回違う個性が出ても困るのだけど。ディレクターという人たちが撮るとそうなる。

映画でもシーリーズもの。「007」とか皆、同じテイスト。あれは職人監督を起用するから。期間内に、予算内で、それなりに面白い作品を、トラブルを起こさすに仕上げる。それが職人監督。その監督が撮ると明らかに他とは違うというのは「作家」タイプ。スタンリーキューブリックやデビッド・リーン。作品にも主張があり、メッセージがある。

日本で言えば黒澤明、

大林宣彦、岡本喜八、木下恵介、小津安二郎、溝口健二等、そんなタイプの多くは巨匠と呼ばれる。作品から彼らの個性が溢れる。つまり作品に個性が出るというのは、なかなか大変であり、個性が出せるのは巨匠の域なのだ。

ま、僕はまだまだそこまで行かないが、NHKとは違うドキュメンタリーはできそうだ。しかし、この3年。沖縄戦を勉強して思ったこと。なぜ、戦後70年も経つのに知らなかったのか?ということ。もちろん、勉強していないからだが、同時に、それをなぜ、教育、マスコミ、テレビ、映画、漫画は伝えなかったのか?

授業では太平洋戦争前に3学期は終わる。

テレビでは終戦記念日が近づくと特集を放送するが、ドキュメンタリーは断片的。もちろん1時間番組で沖縄戦の全ては描けない。が、それに挑戦している作品を見つけることはできなかった。また、ドラマや映画でも、パールバーバーや広島は描かれても沖縄戦はかなり少ない。

岡本喜八監督の映画「沖縄決戦」と「ひめゆりの塔」(数本)くらい。テレビでは「さとうきび畑の唄」ーでも、それらも戦場の悲劇は描くが、その背景を説明してはくれない。その背景はすでに史実として確定している。決してスクープではないのに、かなりな衝撃だった。日本軍はそこまでしていたのか? アメリカ軍はそんなこともしていたのか?驚きの連続だった。

今回はその部分まで描くことができた。

この作品を見れば沖縄戦がとりあえず分かる!という構成にしてある。ドキュメンタリーにありがちな退屈な教科書的なものにはなっていない。完成後は東京、関西、沖縄で特別上映が予定されている。あと、できれば全国の映画館でも上映したい。乞うご期待!


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悲しみを表現するにはどうするか?俳優、作家、音楽家、映画監督、それぞれに模索する。才能ではない。努力? [映画業界物語]

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悲しみを表現するにはどうするか?俳優、作家、音楽家、映画監督、それぞれに模索する。才能ではない。努力?

表現者はどの分野でも共通するものがあること。ときどき感じる。作家が文章で悲しみを伝えるにはどうすればいいか?考える。俳優がどうすれば悲しさを表現できるか?思案する。映画監督がどうすれば悲しみを理解してもらえるか? 葛藤する。

表現法が違えど、皆、同じだ。例えば俳優が悲しみを表現するとき、涙を流す。観客は「ああ、悲しいんだろうなあ」と思う。でも、画面で俳優が号泣していても、観客には全然伝わらないことも多い。逆に一緒になって泣いてしまうこともある。その違いこそ、俳優の力量なのだ。

「明日にかける橋」DVDに収録してあるメイキングで、藤田朋子さんが新人の越後はる香さんにアドバイスする場面があるが、葬儀で涙する越後。我慢して我慢して最後に泣く。という助言している。いきなり泣くより、その方が気持ちが伝わるというのだ。実際、映画館でその場面を見ると、藤田さんの指摘通り。越後と一緒に観客は涙していた。

藤田さんが日頃から、悲しみをどう表現すれば観客に伝わるか? 登場人物の気持ちが伝わるか?を考えているのだ。同じ手法でもダメなこともある。状況や設定も関係する。その中でベストな手は?と俳優は常に考えている。実践する。また、同じ手法でもこの俳優ならいいが、あの俳優なら違うということもある。

つまり、自分を知らないといけない。容姿、声質、技量、自分の能力を知る。それには何度も演じることが大事。何度も繰り返すことで、この演技は受けた。でも、この芝居はダメだった。と分かってくる。
その繰り返しで俳優は演技力を養っていく。

その意味では劇団をやっている人は、公演中に10回20回と同じ役を演じる。客の反応を知ることができる。「昨日は受けたのに。今日はダメだった」そうやって問題点は何か?を考える。それが勉強になる。これでいつもいう「才能なんてない」という意味も分かってもらえるだろう。

いきなり舞台に立ち。「素晴らしい!演技だ」と言われることなんてない。先に書いたようなプロセスで、自分の特徴を知り、表現力を磨いてこそ、観客を感動させる俳優に成長するのだ。ときどき「俺はいきなり主役ができる力がある」とか超勘違いしている新人がいるが、演技は楽器を弾くのと同じ。どんな天才でもいきなりピアノは弾けない。演技も同じだ。

監督業も同じ。どんな演出をすれば、その役者の魅力が引き出せるか? どんな編集をすれば観客が退屈せずに見てくれるか? それらも才能ではなく、技術。でも、その技術も、誰が使っても同じ結果が出るとは限らない。基本的な手法はあるが、それを応用し、組み合わせて悲しみや感動を生み出すのが監督業。真似できない表現を見つけ出し、実践することが大事。

それも俳優業と同じ。その昔、若い俳優で松田優作の真似をした芝居をする者がそこそこいたが、誰もブレイクしていない。あれば松田優作だからいいのであって、それを真似てもモノマネでしかない。ただ、最初は真似ることでいい。松田優作も実は原田芳雄のスタイルを真似るところからスタートしたらしい。そこから自分らしさを見つけたのだ。そうやって表現法を探す。どの分野も共通する。


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「監督。編集好きですね〜」という人。???世の中、仕事や趣味を超えたものがある。 [映画業界物語]

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「監督。編集好きですね〜」という人。???世の中、仕事や趣味を超えたものがある。

沖縄戦。かなり短くなり(と言っても当初よりはずっと長い)見やすくなった。各パートを丹念に見ると、証言でも同じことを繰り返していたりする。ただ、そのことで気持ちや当時の思いが伝わることもあるので、簡単に判断してはいけない。

やはり、一般の人はプロではない。レポーターやアナウンサー。記者にように言葉を巧みに使った話はできない。と言って、その部分をナレーターが代わって説明すると、単なる状況説明になってしまい、悲しみや怒りが伝わらない。

その辺を考えながら、追い込み編集をしている。2月もあと2週間ほど。おまけに31日までないので、他の月より3日少ない!これは大きな痛手。それでも昨年の暮れから、Xマスも、大晦日も、三が日も返上で、今年の連休2回も休まず作業して来たので、作品として完成しつつある。以前こんな人がいた。

「監督。編集好きですね〜」

という。よく仕事が好きとか、いう言い方をする人がいるが、好きとか、嫌いとかいうことで物事を判断する人って、どうなの?と思う。多分、好きでするのは「趣味」、嫌々するのが「仕事」という発想があるのだろう。

「単なる仕事なのになんで、そこまでするんだろう?」

と理由が分からない。高いギャラを貰うわけでもないのにと。だから、編集が好きなんだろうなあと想像してしまう。彼の範疇に仕事でそこまでするという価値観がないのだ。では、こう考えてみよう。原発に反対する人が毎週、デモに参加している、その人に

「デモが好きなんだね〜」

とは言わないだろう。原発に対する怒り。子供たちを守りたいという思いの行動だ。僕が毎回、休み返上で編集するのも同じ。地方映画の場合は、その街の人たちに、その街以外の観客に感動を伝えたいという思い、今回は沖縄の悲しみを多くの人に知ってもらいたい!という思いからの行動だ。

2月もあと少し、最後の追い込み開始だ。


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