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なぜ彼らは批判し合ったのか? その根底にあるもの=戦時中を思い出させた都知事選? [社会政治]

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なぜ彼らは批判し合ったのか? その根底にあるもの=戦時中を思い出させた都知事選?

今回の都知事選。最大の敵である小池百合子を批判せずに、ライバル候補者を批判。誹謗中傷する人が多かったのはなぜか? もちろん、自分が支持する候補への応援の一環ではあるが、それなら小池を批判するのが得策。また、ライバルの批判より支持する候補の魅力を訴える方が知らない人たちにはアピールする。

他の候補を中傷した場合。「へーーそんなに酷い奴なのか?」と思い、その候補に投票するのを止める人もいるが、逆に「あんな風に誹謗中傷する人が支持する候補って嫌だなあ〜」と思われマイナスになる場合もある。にも関わらず、ライバル候補への批判や中傷が多かったのは、それらの人たちは冷静さを失い、支持候補への熱い思いよりも、「ライバル候補が許せない」という憎しみを持ってしまったからではないか?

ただ、気にになるのは、その種の発言が多かった人たちが支持したのは、庶民の味方であり、どちらも多くの人に支持される実績ある候補。嫌われる自公の議員たちではない。評価はしても誹謗中傷する背景はあまりない。にも関わらず、汚い言葉で批判する人がいたというのは「憎悪」が背景にあったと思える。では、そんな庶民派の候補たちへの憎悪は、どこから生まれて来たのか?そこを考えたい。

2人候補。ほぼ近い公約だった。違うのは一部の方法論のみ。どちらが勝っても大きく都政が左右されることはないだろう。だとすると、どのようにして「憎悪」は生まれたのか? 思い出すのは「近親憎悪」ー国語辞典で意味を調べた。「親族どうし、または階層や性質などの似た者どうしが、ひどく憎み合うこと」つまり、近い価値観を持つからこそ、小さな違いが気になり、許せなくなるということだ。

冷静に考えれば小さなことなんだから!と思える。なぜか? 別の方向から考えよう。「朝日のあたる家」が公開された時。多くの人が「原発事故の悲劇を見事に伝える!」と賞賛してくれた。が、一部の人たちからは強い批判を受けた。推進派ではない。かなり以前から反原発運動をしている人たちだ。中にはチェルノブイリ事故から運動している人もいる。彼らは映画を見て「知っていることしか描かれていない。これではダメだ!」「内部被曝に触れていない。これでは意味がない!」と強く批判された。

つまり、原発には反対。でも、この映画では不十分と言いたいようだ。それなら「俺たちが金を集めるから、続編を作れ」とか「次はより深い内容のものを期待する」とか言えばいいのに「これではダメだ!」「努力が足りない!」と全否定する人が多かった。映画も彼らも原発は危険と訴える。方向は同じ。なら、映画を上映して、その後に専門家の講演というイベントをするとか。うまく映画を利用すればいいのに、否定し切り捨てて終わり!?原発反対なんでしょう?と思えた。

これも背景に近親憎悪だろう。「原発事故の映画が作られた。素晴らしい。そんな映画を待っていたんだ」見た。初心者向き。専門的な部分に踏み込んでいない。「失望した。あれではダメだ。意味がない。努力が足りないのだ。私は認めない!」と感じたのだろう。彼らの気持ちを理解することはできる。が、これは価値観の押し付けでしかない。

当時、原発事故について住民がどんな思いをしたか? なかなか伝えられなかった。自分から進んでネットや小出先生のラジオ番組で情報を得ないと分からない。でも、全ての国民がそんな努力をしたわけではない。また、報道では伝わらない悲しみがある。それを劇映画で伝えたかった。が、批判した人たちはより深い情報を得たい。別の側面を多くに伝えたいと思った。それが出来ていないから「ダメだ。意味がない」つまり、自分たちの理想と違う。価値観が違うからと全面否定したのだ。

都知事選も似た構図。一般から見たら小さな違いなのだが、自分たちの価値観、理想。「これしかない!」ある候補者に理想が重なる。「この人しかいない。他はダメだ!」逆に、ライバル候補には理想が一部重ならない。「こいつはダメだ。100点じゃない」先の反原発おじさんたちも、都知事選で候補者を応援した人たち。どちらも、悪意なんて欠片もない。熱い理想に燃える人たち。何もせずに文句をいうだけの、選挙にも行かない連中とは違う。

でも、熱いから、理想に燃えるからこそ。小さな違いが許せず。こうでなければならないという価値観を持ってしまい、100点を取らないと全否定という極端な発想に縛られてしまったのではないか? 

これは選挙や原発だけの話ではない。映画ファンの世界でも「映画は***でなければならない。ハリウッド映画なんて映画とは言えない」という高尚なマニアがいる。「スピルバーグなんてクソだ。ベルイマンのような作品を映画と呼ぶんだよ」という友人もいた。彼の価値観でしかないのだが、「でも、俺はルーカスの映画が好き」というと「お前は何も分かってないな。最低だ。2度とうちに来るな!」と縁を切られたこともある。

高校時代を思い出す。僕の周りは親も、教師も、同級生も「成績がいい」=「素晴らしい人」「成績が悪い」=「人として最低」という価値観だった。「成績が全てではない」というと「勉強が嫌だから言い訳するんだ!」と言われた。「落ちこぼれ」と言われた。これが戦時中だと、子供達はこう考えた。「大人になったら立派な兵隊さんになり日本を守る」そんな時代に「戦争なんて無意味だ」というと「非国民!」とのししられた。「戦争に勝つ!」が絶対的な価値観だったのだ。

そんな風に一つの価値観を絶対視することは危険。なのに、平和を願う候補たちを支持しながら、自分の価値観から離れられず、他者を否定、誹謗中傷するのはどういうことだろう? 戦時中の価値観とどう違うのか? 「こうでなければならない!」「我に正義あり」それはもう価値観ではなく、危険な思想だと思える。が、熱くなり真剣になると、それに気づかなくなる。まさに戦中の国民と同じ?と感じてしまう。


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