時代の速度に次第に遅れる自分を感じる=映画人としては致命的? [MyOpinion]
時代の速度に次第に遅れる自分を感じる=映画人としては致命的?
10年に1度くらい試される。時代を生き延びられるかどうか?の選択。試験石が投げ込まれる。1980年代後半はCD。そこまで僕らは20年以上に渡ってレコードを聴いていたが、そこにあの小さな円盤型の銀色に輝くコンパクト・ディスクが登場した。
音質もいい、ホコリでプチプチ言わない、小さくても便利。それを新宿の電気屋、ヘッドフォンで視聴した時のショックは凄いものだった。友人たちはすぐさま購入。決して裕福ではなかったが、無理しても買った。
次の試験石はパソコンだ。これはかなり大きく恐竜時代の隕石のようだった。今ほどPCが普及していない初期の頃。1990年。年配の人たちは苦戦した。キーボードが打てない、メールが使えない、マウスって何だ、ネズミか?と、新聞ネタにもなった。
興味深いのは、これまでの時代。年長者が経験豊富で、若手は先輩たちから学び、導かれて一人前になるというが社会だった。村の「長老」というのは老いに長けた人のこと。経験豊富な年寄りが偉かったのだ。
それがパソコンの登場。若手はすぐに覚えるが、年配はなかなか使いこなせない。そのことで長い年月を生き、経験豊富な大人たちが若者からPCの使い方を学ぶという逆転現象が起きたのだ。
「こんなものはなくても仕事はできる!」
と憤るオヤジも多かったが、時代はそれを許さず、10年ほどでPCなしで、どんな仕事もできなくなってしまった。苦戦した当時の50代はすでに引退し、どうにか学んだ40代が今の60代だ。しかし、次々に新しいソフトやシステムが発売され、相変わらず大人たちは振り回されている。僕は映像編集の仕事で90年代後半にPCを始めた。もう30代だったが、あまり苦労せずに使えるようになった。同世代も同様。メールでやり取りするようになる。
それから20年が経ち、amazonプライムが登場する。これは会社での業務は関係ないし、PCほどのカルチャーショックではないが、映画関係、映画ファンには大きな隕石だ。これまで1980年代にスタートしたレンタルビデオ。のちにDVD。それから30年近く続いて来たシステムを根本から覆すものだった。自宅にいながら自分で選んだ映画を見ることができる。1本いくらのものもあるが、多くが固定料金だ。
最近、TSUTAYAがどんどん潰れていると思ったらこれだったのか!と、昨年になって気づいた。もう50代。完全に時代に遅れている。CD、PCの波は超えて来たが、amazonの波を受け止めていなかった。まあ、忙しいのもあったけど、そこから調べると、僕より若い人はamazonもNetflixもやっている。が、同世代ではゼロ! ここに僕らの世代も時代の速度についていけなくなったことを実感した。が、こんな友人もいる。
「もう、流行を追うのはやめたんですよ!」
それは違う。CDやPCは流行ではない。時代の変化だ。馬から車に変わる。電話ができる。テレビができる。そんな技術革新だ。それを拒否して生きることは出来ない。だが、CDの時も「レコードで十分」PCの時も「なくても困らない」という友人がいた。それはこだわりかもしれないが、別の意味では老化なのだと思う。古びた脳が新しいものを受け入れるのを拒否している。
老化は仕方のないもの。だが、僕は映画の仕事をしている。映画は時代の反映。古臭い過去の価値観を振り回しても、観客は感動してくれない。その意味で時代から置き去りになることは作家として失格となる。新しいものを受け入れることで、新しいかちかが見えて来る。そして3つ目がamazonプライムだった。昨年暮れに契約。見始めたが、やはりカルチャーショック。TSUTAYAはもう過去のものだ。さらにamazonミュージック!
詳しいことは以前に紹介した。が、その便利さ、凄さを話しても誰1人それを試そうという友人はいなかった。CD、PCは多くの、いや、ほとんどの友人が飛びついた。が、今回は違う。それが60代間近の50代の現実なのだろう。もちろん、amazonがなくても生活には困らない。が、友人の多くは今もTSUTAYAに通う。CDを買いプレイヤーで聴いている。でも、それが普通の50代だ。
CD発売から数年でプレイヤーを持っていた50代は身の回りにいなかった。だが、ここしばらく時代の速度は上がっているように思える。どこまでついて行けるか? 血を吐くマラソンを続けるのが映画屋の宿命と頑張ってみる。
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